第246話 アルバイト
今日は大学のサークルで家を留守にしている柚子がいないおかげで、家の中は静まり返っていた。
「終わりました。それで一つ伺ってもいいですか?」
「予定より早いな。用件は答案を見ながら聞いてやる」
時雨は筆を止めると、キャスティルの課題を全て終わらせる。
熱心に数日間指導してくれたおかげで、苦手だった科目は克服できた。
キャスティルが時雨の答案にチェックを入れて行くと、時雨は改まって床に正座する。
「実は夏休みに香ちゃんと海へ行きたいと思っています。水着も用意してバカンスを楽しみたいところですが、肝心の旅費やその他諸々の経費がどうしても足りなくて……」
「嫌だ」
時雨が話している途中でキャスティルはきっぱり拒否を示す。
握っていた赤ペンを時雨に向けると、その理由を簡潔に述べる。
「一部の例外を除いて金銭の授受は禁止されている。勘違いして欲しくないが、お前達に勉強を教えているのはあくまでサービスの延長線だ」
「いえ、お金を女神様から恵んでもらうとかではありません。アルバイトを紹介してもらえないでしょうか」
「アルバイトだと?」
怪訝そうな顔でキャスティルは時雨を窺う。
夏休みに香と海へ行く約束をして水着まで用意したが、肝心のお金が絶望的に足りない。
お小遣いだけでやり繰りするには限界があるし、短期のアルバイトを考えていたその矢先に香が副担任の片桐と二人っきりの現場を見つけてしまった。
幸いにもそれは時雨の勘違いで事無きを得たが、このままでは二人揃って海どころの話ではない。
「夏休みまで、たしかあと二か月ぐらいだったな。行楽シーズンはどこも宿泊先は混み合うし予約しておかないとすぐに埋まってしまう。もう少し早い段階で計画を立てておけよ」
赤ペンで答案を採点しながらキャスティルが呆れた口調で呟く。
最悪の場合、去年香や加奈と市民プールで夏の楽しい思い出を作ったあの場所にもう一度お世話になるかもしれない。
「アルバイトねぇ……オッサン捕まえて財布の紐を緩めてもらうしかないんじゃないか?」
「合法的なアルバイトで何卒お願いします」
キャスティルは面倒臭そうにあしらうと、時雨は頭を下げて紹介をお願いする。
「そんな都合の良い高収入のアルバイトはねえよ。どうしても海へ行きたいなら両親に頭下げて旅費を出してもらえ」
キャスティルの言い分はごもっともで時雨が無理を言っているのは重々承知だ。
無言のまま頭を下げ続けていると、赤ペンを机に置いたキャスティルは溜息を漏らして時雨の頭を乱雑に撫で始める。
それが一分ぐらい続くと、整っていた髪型も乱れてしまう。
「きっかけは作ってやったよ。後はお前の好きにしろ」
キャスティルはそう言って撫でていた手を放すと、赤ペンを握って採点作業に戻る。
(きっかけを作った?)
時雨は訳が分からず乱れた髪の毛を整えようとすると、スマホに着信が入る。
相手は柚子だ。
『もしもし』
『ああ、時雨。突然で悪いんだけど、バイトやらない?』
『えっ……』
それは本当に突然であった。
柚子の誘いに戸惑いながらキャスティルに視線を移すが、彼女はそれ以上何も言わずに沈黙を貫く。
時雨の頭を撫でた効果なのだろうか。
柚子はそのまま詳しくアルバイトの内容を伝え始めた。




