第212話 闘牛
更衣室で早く着替えようと足早に向かうが、香と加奈に阻まれて更衣室には女子生徒達が既に集まってしまっていた。
「ふふっ、さあ天国の扉を早く潜りたまえ」
加奈は更衣室の扉を開けると、時雨のためにエスコートを買って出る。
「時雨ちゃん、潜りたまえ」
「ちょっと待った!? まだ心の準備ができてないよ」
香も加奈に倣って時雨の背中を愉快に押す。
顔を赤面させて更衣室の中に入ると、下着姿の女子生徒が目に飛び込んで目のやり場に困ってしまう。視線を床に向けて俯く形で自分のロッカーに向かうと、正面に誰かが進路を立ち塞いで妨害する。
「時雨ちゃん、まるで闘牛の牛みたいだよ。僕がマタドールになってあげようかなぁ」
「な……何してるの?」
正面の香がもぞもぞ動き出すと、上着のジャージが床に脱ぎ捨てられる。
よく見ると、持ち主である笹山の名前が刺繍してある。
「こ……こら! ジャージが汚れるじゃない」
時雨は慌てて香の上着のジャージを回収すると、適当に叩いて俯いた状態で香に手渡そうとする。
「こっちこっち。時雨ちゃん、僕はそっちじゃないよ」
香は手拍子して時雨を誘導しようとする。
手っ取り早く姿勢を正して前を覗きたいところだが、時雨の掲げた騎士道がそれを許さないでいる。
その異様な光景に他の女子生徒達も思わず注視してしまうと、新手の求婚プレイを見せつけられてお熱いなと勘違いさせてしまう。
「香ちゃん!? 下着姿でウロウロしちゃ駄目だよ」
時雨としては一刻も早くこの状態から解放されたいし、香に服を着させたい一心だ。
しばらく香に踊らされるがまま更衣室を彷徨っていると、頭を働かせて立ち位置と間取りを把握して裏をかいて香を奥の壁際まで追い込んだ。
「さあ、もう行き止まりだよ。観念して早くこれを受け取って制服に着替えて……」
「さすが時雨ちゃんだね。僕の完敗だよ」
香は自らの敗北を認めて時雨から上着のジャージを受け取る。
長く苦しい攻勢に耐え忍んだ時雨は一安心すると、早く制服に着替えて次の授業の準備をしたいところだ。
器用に俯いた状態で移動するのも慣れて、自身のロッカーがある場所までやって来ると異変に気付く。
「時雨、そんな格好で何やってるの?」
聞き覚えのある声が時雨のすぐ隣から聞こえた。
それと同時に更衣室の扉から同級生ではない女子生徒達の声が聞こえ始める。
「えっ!? 何で凛先輩がここにいるのですか?」
「それはこっちの台詞よ。次は体育の授業だから着替えに来たのよ」
どうやら、香と追いかけっこをしている間に加奈を含めた同級生達はとっくに更衣室を去って行ったようだ。
さすがに周囲の同級生達まで気を配る事ができなかった。
「すみません!? すぐに着替えて退散します」
「ふふっ、別に急がなくてもいいわよ。良い機会だから、ゆっくり着替えながら談笑するのも悪くないわ」
凛は時雨を咎める様子もなく、むしろ一緒にいる事を望む。
(うう……穴があったら入りたい気持ちだよ)
変な勘違いをされるのも困るし、時雨は一心不乱になって着替えを済ませて行く。
「失礼しました!」
制服に着替え終えた時雨はさっさと更衣室の扉を潜って教室に向かう。
「時雨ちゃん、一緒に教室へ戻ろうよぉ。あっ、凛先輩こんなところで奇遇ですね」
「こんにちは。香ちゃんは相変わらず元気ね」
「えへへ、ありがとうございます」
挨拶もそこそこ交わして香も制服に着替え終えて更衣室の扉を潜る。
「こら! 廊下は走らない」
「紅葉先輩、勘弁して下さい」
香は勢いよく紅葉とすれ違うと、謝りの言葉を叫びながら時雨を追いかける。
「あの二人は賑やかで楽しそうだわ」
「それに関しては同意だが、風紀委員の立場からしたら困ったものだよ」
凛が更衣室から出て来ると、嵐のように過ぎ去った時雨達を可笑しそうに笑って見送る。
紅葉も頭を掻いて始末に負えない二人の姿に悩まされると、凛に釣られて笑みがこぼれる。
「さあ、私達も着替えないと授業に遅れちゃうわ。風紀委員の紅葉が遅刻なんて洒落にならないでしょう?」
「そうだな。生徒達に示しがつかんな」
凛と紅葉も更衣室の中へ入ると、凛は慌てていた時雨やマイペースな香の顔を思い出しながらニヤニヤが収まらなかった。




