第210話 マット運動
体育の授業でいち早く誰もいない更衣室でジャージに着替えると、時雨は体育館に移動する。
「お早い着替えだねぇ」
遅れて加奈がジャージ姿で現れると、何が言いたいのか察しは付いている。
「別に誰にも迷惑掛けてないし……問題ないよ」
「香は普通に女子達と仲良く着替えているんだし、例の女神様も問題ないって言ってるんだから、今度はじっくり着替えようよぉ」
甘い誘惑を仕掛ける加奈だが、時雨はそっぽを向いて聞き流す。
「加奈はからかうのが目的なのは分かっているし、女神様が問題なくても騎士として……」
「それは耳にタコができるぐらい聞いたわよ。まったく、時雨もそうだけど女騎士だった紅葉先輩も騎士と名の付く者はどうしてこう頑固者が多いのかしらねぇ」
元々、騎士は頑固でないと務まらない職業だと時雨は思う。
相手に合わせて妥協したりすれば、掲げている正義が歪んでしまう。
自由奔放な加奈の性格に騎士の理を説いたところで寝耳に水なのは結果が見えている。
加奈は呆れて肩を竦ませると、楽しそうな会話をしながら香や女子生徒達がジャージに着替えて現れる。
「時雨ちゃんは着替え早いね。変な気遣いしなくても、僕と一緒に着替えようよぉ」
今度は香にせがまれると、時雨の胸中を見抜かれた挙句に騎士道精神を変な気遣いとバッサリ切り捨てる。
「香に掛かったら騎士の名も台無しね。可愛い幼馴染もこう言ってるんだし、観念しなさいな」
「そうそう、加奈もたまには良い事言うね」
「たまにはってあんた……」
二人に圧されると、時雨もたじたじになって参ってしまう。
しばらくして中年の体育教師が首から笛をぶら下げてジャージ姿で現れると、女子生徒達は整列して授業が始まる。
「今日の体育って、たしかマット運動と跳び箱なんだよね。どっちも地味であまり気乗りがしないな」
「気乗りしないで適当にやってたら、怪我するよ」
加奈の愚痴りたい気持ちは理解できる。
授業の一環だし、こればかりはどうしようもない。
簡単な準備運動をこなして、体育教師から二人一組になるよう指示される。
「時雨ちゃん、一緒に組もう」
香はいの一番で時雨を相方に選ぶと、快く承諾する。
全員、二人一組が出来上がると敷かれたマットの上で交代に前転、後転を始める。
時雨は実を丸めて前転、後転を成功させると次は香の番だ。
「うう……前転は何とかできるけど、後転は難しいな」
「両足をもう少し曲げて、おへそを見るようにやってごらん」
時雨は補助しながら香の後転を見守るが、なかなか成功しない。
ゆっくり身体を支えて香の後転を手伝うと、今度はバランスを崩した反動で香は時雨を前のめりなって押し倒してしまう。
幸いマット上でお互い怪我等はなかったが、香の体重が時雨に圧し掛かったままだ。
「怪我がなくて良かった。香ちゃん……その、身動き取れないから離れてもらってもいいかな?」
「ふふっ、どうしよっかなぁ。このまま僕と二人っきりのマット運動を続けてもいいんだよ」
香は意地悪な笑みを浮かべると、倒れ込んだまま動こうとしない。
小柄な時雨の体格で一回り大きな香の身体をどうにかできる筈もない。
「こら、授業中にふざけたら駄目だよ」
「嫌がっている割には時雨ちゃんの身体は喜んでいるように見えるよ。ほら、こんな風にすればどうかな?」
香は身体を巧みに動かして上手い具合に覆い被さると、耳元で吐息を吹き掛ける。
時雨は思わず身体をビクンと反応させてしまうと、完全に手玉にされて遊ばれている。
「時雨ちゃん、凄く可愛いよ。もっと可愛い姿を僕に見せてよ」
妙なスイッチが入ってしまう香に抵抗できない時雨。
(このままだと……)
危機感だけが迫って来ると、時雨に夢中な香は背後から近付く気配を察知できなかった。
「笹山! 鏑木! お前等、何やってるんだ」
怒声と共に二人の名前が辺り一面響き渡ると、体育教師が鬼の形相でこちらを見ている。
加奈や他の女子生徒達は時雨達の異変に気付いてマット運動を中断して遠目から眺めていたのだが、それが体育教師の目に留まって今に至る。
香は観念して立ち上がると、子供っぽい言い訳を並べて弁解するが、当然の如く却下される。結局時雨も巻き添えを食う形で怒られると、二人は反省文を後ほど提出するように言い渡されてしまった。




