無能と無能
目が醒める。
重い体を引き摺る様にゆっくり起こした。
闇の中の様に視界は暗い。
『起きたか。』
掠れた低い声だ。非常に聞き取りづらい声色だったが、特徴的な声は忘れる事が出来ない。
はっきり問いを思い出せる。
『強くなりたいか。』
意識がおちる瞬間に確かに聞こえた本気の問い。精神的にも肉体的にも限界を迎えたあの瞬間に投げかけられた試す様な言葉。
期待なんて希望なんてなくていい、只欲しい言葉があって、頭の中でだけで考えていた言葉が口から勝手に零れ落ちる。
『…俺でも…強くなれますか…。』
『なれる。』
即答だった。
その言葉に偽りや侮蔑はなく、途轍もなくはっきりとした口調で力強く返される。
俺の凍り付いた心の芯をじわじわと熱くする。
いつのまにか、開けていただけの眼球の焦点が初めてフードの人に合う。
暗闇の中、唯一の窓から月明かりが照らす場所に黒フードの人は立っていた。
身体の線が細く、背も低い。
呼吸器系が悪いのか只の呼吸音はくぐもった音を立てている。
ガスマスクから、空気が漏れる様な音だった。
月明かりの光がようやく光彩を通して景色に色をつける。
見渡してみると自分の部屋である事が確認出来た。
胸のあたりをかなり深く裂かれたはずなのに体に力を入れても痛まない。
横を見るとクランマが上半身を俺の体の上に埋めて寝息を立てている。
『許可は取った。死ぬ覚悟が出来たら、城門前に来い。』
フードの人はそういうと踵を返して部屋から出ていく。
寝ているクランマを起こさない様にベットの上から這い出る。
裂かれた服を脱ぎ捨てゴミ箱に入れる。
露出した自分の胸板の辺りをみても傷跡はなかった。
身支度を整えて冒険鞄の中に必要最低限の物を詰め込んでいく。
死ぬ覚悟。それくらい無いと俺ではギフト持ちに追いつく事など出来無いだろう。
部屋を出て中庭にいく。模擬剣を手に取る。
前世の記憶が脳裏をよぎるたびに剣を振ったのを思い出す。きっとこの無意味だと無理だと無価値だ言ってくる心の闇を払ってくれる。そう信じて。
自主的な意欲のまま、積み重ねてきたものは親のせいという、言い訳も出来ない。
運動は勉強よりも好きだったから、異世界なら、精神的なアドバンテージがあれば、それなりの結果が出せると信じていた。
自分を肯定する。ポジティブな気持ちを拾い集めてることを理解しながら、虚しい気持ちを押し込める。
ヒステリックな母の怒りも、溜息ばかりの父もいないんだ。俺が決めたこと、聖剣を取りたいそのために剣を振ろうと。
わからない可能性に希望をかけて、見ないふりをする事が、苦手だから。
一振りごとにカルティアラの見下した顔が脳裏をよぎる。
怒りのままに剣をふるって返り討ちにされたさっきの無様な自分の姿が剣を振り上げるたびに浮かび上がる。
握りをどれだけ強くしようと、晴れてくれない。 消えてくれない。
才能がない。
それはよく前世で父親に言われた言葉だった。
剣を振ろう。
模擬剣を触れるようになってから、欠かしたことは無かった。手の豆は初めのうち、出来ては潰れ、剣を握る事すらままならない時も歯を食いしばって握りしめた。でもそのうち痛みを忘れて振っていた。
楽しかったのだ。一つのことに没頭出来る。やらされずにやる事が。
腰を少し落とし身体の軸を地面から垂直に伸ばす。息を吸って全身を使い剣をふる。この動作が形になるのに1年間は必要だった。
カルティアラは初めて握った剣で俺の9年間を容易く超えて行った。
重心移動による歩法も、一度見ただけで自分のものにされた。
聖剣さえあれば俺にだってきっと…。
剣が地面に跳ねる音で我に返る。
無駄と無駄じゃないの葛藤が何度も何度も絡みつく。
いつのまにか取り落とした模擬剣に視線を落とす。
逃げてしまえば楽なんだ。
腕が鉛の様に重く、とり直そうか迷った。
この模擬剣を手にとり、また練習をするのなら剣の道を続けられる。もし、拾わなければ剣の道を諦めてどうなるかわからない聖剣の裁定の日を前世の時と同じ様に不安にかられながら待つ。
5年間もこの気持ちで…
無理だ。無理なら、また…
首でも吊るか。
『っっっっ。』
そんなのは嫌だとたしかに心は叫び出す。
諦めてたまるかと身体中の血が沸き立つ。
17歳のままの落ち溢れの自分自身のまま何も変わっていない。まだ何も変えられてない。
たしかに模擬剣を拾いあげる。
死んでも進もう。
模擬剣を元の位置に戻して簡易的な麻袋を肩にかけて城門へと向かった。
ーーーーーーーーーー
『来たか…。』
王宮の周りは夜になると静か過ぎて不気味なくらい音がよく通る。
掠れた声も聞き取れる。
王宮を抜け城門前に来ると、フードの人は門に寄りかかっていた身体を離す。
地面に置いてある大量な何かが入った重そうな麻袋の紐を持ち上げ左肩に掛ける。
『ランガからの餞別だ。慣らしておけ。』
渡されたのは本物の剣だった。模擬剣の倍ほど重く。研がれた剣は月明かりの光に照らされ薄紫色に発光していた。
『ユニーク級の武器だ。何お前の身体に最適な形に姿を変える。』
『ユニーク級…。』
レジェンド級の聖剣などを除けば最高方の武器。ランガさんの気持ちが伝わってくるようだった。
俺の無能を知っていながら、確かに彼は剣技を丁寧に教えてくれていた。
少しだけ王城を振り返り、剣を腰の皮鞘に納め、歩き出し門を出る。
街並みが広がっていく。 城下町に降りていった事も何度かあったが、剣の鍛錬に夢中であまりおぼえていなかった。
閉じた露店や、明かりが灯る宿。盛況な飲食店やギルドハウスなど、所狭しと軒が並んでいる。
やがて賑わいだ密集地を過ぎ。閑静とした住宅街へと差し代わった。
家々の窓から明かりが漏れていた。
やがて畑などの道を抜け、見張櫓が2棟見えてきた。
『お前は魔物と戦ったことはあるか?』
フードの人は掠れた声で歩きながら話しだす。
『一度も、ただ知識は詰め込んであります。湿地帯の魔物なら、初見でも対応出来ると…。』
『そうか。』
掠れた声は無感情に俺の言葉を遮る。
話しかけられたので、出来るだけ今の自分の現状を報告しようと思ったのだが、そんなことは気にも留めていないようだった。
見張櫓を過ぎると草原地帯が広がっていて、草原を囲う様に森林地帯が広がっており、森林地帯の中央部が湿地帯となっている。
とにかく無言で歩いた。草原地帯を当たり前の様に超え、森林へと入っていく。
比較的安全な場所とはいえ夜行性モンスターの襲撃に気を引き締める。
歩くという動作に疲れを感じるのはこれがはじてだった。そして当然の様に湿地帯を超える。
何処まで行くんだ…。
夜明けが近づく時間帯なのか、空が白み出したときだった。
『此処を拠点にする。』
森林地帯を抜けて広がっていた光景は荒野だった。拓けた場所で木の陰に怯える必要もないが、逃げ場もない。
そしてこの魔物の大体の強さは剣闘士と呼ばれる。騎士達の階意に属するものだった。
ランガからの見立てでは自分の能力が剣術士以上であると判断されているが、剣闘士までは後2段階の差がある。
『ここの魔物で訓練ですか…。』
『いや、まずはいくつかのスキルを会得してもらう。剣を構えろ。』
『えっ…』
構えろと言われるのと同時に何の躊躇もなく、肩から腹にかけて斬られた。
いつ持っていたのかわからない簡易的な鉄の剣を勢いよく俺の体から、引き抜く。
膝がガクガクと震えだし、痛みによるショックで視界が明滅する。溢れ出す血の中に仰向けに浸かり、意識を保たせる事だけで精一杯の状況へと追い詰められて行く。
『ぐっ…あっぐ…。』
『痛覚を遮断するように自身のエレメンタルに語りかけろ。出来なければ死ぬぞ。』
フードの中は暗くて表情は見えないが、少しだけ掠れた声に熱が帯びてるのを感じた。
『5秒…。ハイポーションだ。』
フードの人はそういうといつのまにかもっている瓶の栓を抜き、中の液体を上から俺の傷口にかける。
『がぁあああああああああ!!!!!』
激痛が脳を焼き焦がす様に貫いた。声にならない叫び声を出してないと身体と精神の意図が断絶する。
堪らず何度か痙攣した身体からは力が抜け、自分が目を開けているのかいないのか起きているのか寝ているのか平衡感覚から、聴覚、嗅覚までも、弾け飛び、自然と口から泡が出て、意識が焼き切れた。
ーーーーーーーーーー
『起きたか。』
目が開いた。一瞬で意識が覚醒し、眼球が空を捉えた。雲と同じような高さで鳥が飛んでいる。
呆然とした思考のまま、斬られた箇所を指でなぞると傷一つなく綺麗に直っていた。
記憶のフラッシュバックが襲う。自分の体に突き立てられた鉄の刃。無造作に引き抜かれた部位からは噴水のように黒い血が吹き出てた。
血の映像が脳裏から描出すると体の力が抜けて強い吐き気がこみ上げ胃液が口から噴き出す。
何度目か分からない嘔吐を繰り返し、体の震えが一際酷くなり、起き上げていた体は嘔吐も関係なく崩れ落ち、横向きの状態で地面に体を倒す。そのまま、嘔吐を繰り返し顔半分を胃液でびちゃびちゃにした後、また声が聞こえた。
『落ち着いたなら、立て。』
掠れた声は無情な迄に平坦な声音で命令してくる。
胃液で湿った地面に臥した顔で、辛うじて片目だけ開けると何処までも平坦な地平が景色の半分を占めていた。
『…死んで…しまいます…。』
『いや、死なない。』
冷たい声だった。身体の芯が凍った様に萎縮する。
このままでは殺されるという恐怖が芽生く。震える心に無造作に殴られた様な衝撃を伴って全身の血が引いてく。
こんなものは修行でもなんでもない。虐待だ。
努力に関係ない。強くなるに関係ない。積み重ねに関係ない。自分に関係ない。ない。ないないないないないないないないないないないないないないないないないないない。
『ぃひィィっ・・・。』
混乱した頭の中から、出た声はか細い悲鳴。体が声のしたほうの遠くへ逃げようと動き出す。声を出そうとして恐怖のあまり喉から空気が漏れたのが悲鳴のような音だった。
あらゆる感覚が麻痺しているのに足と手だけは地面を掻いて逃げようと動く。地面を掴む。土が硬く指が刺さらず砂を描く。
足で地面を蹴る。角度が足らず地面を蹴った足は滑って何度も同じとこを叩くように動く。
思うように進まない体でもがく。
力の限り踠き疲れて、少し止まってみる。
息が苦しい。吸って吐かないと。吸って吐かないと。吸って吐かないと。
『ぇ…はぁあぁ…ぇ…はぁぁあぁぁ…。』
大分遠ざかった気がした。
もがいてる間にいつのまにか日が落ちていたみたいだ。
辺りが暗い。
逃げた。逃げてやった…。逃げ出してやった!
『…はは…ははは…。』
何が楽しいのか、渇いた笑いが喉奥から心底漏れる。
『気が済んだか?』
さっきよりも少しだけ遠くから声が聞こえた。
茫然とした。虚無感が心臓をつかんだ様に息苦しくなる。
逃げれていない。いや進んですらないのかもしれない。この殺人鬼の目の前で地面で手脚を振り回していた。それだけだった。
日が沈んだと思ったのも、自分でも気付かない間に目を閉じていて、夜になるまで踠いていると思い込んでいただけ。
『お前は惨めだな。9年間、剣を振り続けていたにもかかわらず、初めて剣を握った少女に負けて、今このざまか…。』
掠れた声は風の通りすぎる音一つない荒野で耳元で囁かれるかのように顔の穴に入ってくる。
目から涙が溢れてくるのを止められなかった。泣いてしまうのが尚惨めで、食いしばった歯の隙間から涙声の嗚咽が漏れるのを聞かれたくなくて必死に堪える。鼻水が、垂れていくのを啜り泣きにならないように垂れ流す。
『死ぬのが怖いのに、お前は剣を振っていたのか。お前のような意気地なしが聖剣を握るなど笑い話にもならない。』
聞きたくない。考えたくない。俺は俺ができる事をやってきただけだ。まだ9歳なんだ。弱くて当然で、負けて当然で。でも、諦めなければいつか…きっと…報われる。
報われるという言葉が部分的に頭の中で反芻される。
報われるという希望的観測を知っている。いつかなんて無かったのを知っている。知っているのに、俺は年端もいかない少女に負けて本当に悔しかったのに、逃げ出した。
当たり前って何だ。努力って何だ。結局、俺は俺が特別じゃないという事を認めたくなくて、泣いているだけ。
努力の証明も糞もない。自己満足で終わってただけの腑抜け。自分の事が可愛いだけのナルシスト。
許せない。
雑魚の自分がいつかきっとなんて淡い夢を抱いて結局常人が出来る範囲の努力しか受け入れられてなかったことが。
許せない。
9年間の努力の差を一瞬で埋められてしまうのに、のうのうと今までと同じように俺は剣を振ろうとしてたのか。
嫌だ。
変わりたい。強くなりたい。この世界に生まれた時に喜んでくれたあの人の期待に応えたい。短い時しか過ごせなかったが、俺を召喚してくれたおじいさんに報いたい。
『立て。』
掠れた声は最後の通告の様に冷ややかに空気を振動させる。
脳が拒絶する。身体が震える。心が戦慄く。
腕で地面から上半身を引き離し、膝を腰の下に曲げ重い身体を立ち上げる。
鉄を皮袋で覆ったような腕は肩からぶら下がるとそれ以上力が入ることもなく、重心の振れる方へと揺れ動く。
右足を一歩出す。
辞めようか。止まろうか。
左足を1歩出す。
逃げようか。下がろうか。
泣こうか、喚こうか迷って少しだけ首に力を入れる。
泣き疲れたのかもしれない。苦難に対して逃げなかった時などなかった。自分のやれる範囲をいつも探し回っていた。自分が傷つかない様に。折れないように。恥をかかないように。だから、顔を上げた。
だから、無様でいい。睨みつける。
『始めるぞ。』
フードの人は腰の鞘から簡易的な鉄剣を引き抜く。鋭利な剣先が死刑宣告の様にゆっくりと向けられる。
気付くと刀が脇腹から、臍まで切り込まれている。
その早業に神経が認知すると同時に全身の毛穴から汗が噴き出し、身体を氷の様に冷やしていく。
『お前の中のエレメントに語りかけろ。』
意識が視界の明滅と共に落ちようとする。フードの人が何か言ってる。周りの音がドームの中で反響する様に頭の中でこだましてる。
『このまま惨めに死ぬのか?』
ここのままでは死ぬ。よくて壊れる。悪ければ死ぬ。三半規管が麻痺し、平衡感覚が消えて立ちあがっている足すら覚束ない。
傷口は沸騰した水を絶え間なくかけられている様に痛み続ける。
だめだ立ってられない。目を閉じて終わってしまいたい。この瞬間、痛みも思いも何もかも諦めて倒れ込んでしまえれば、どんなに楽だろうか。
脳が逃げようと囁いているのに。俺の足は諤々(がくがく)しながら立ち続ける。
何で立っているんだっけ…。
『常識を捨てろ。』
右肩を刺される痛みで意識が半覚醒する。
眠ろうとしていた脳が内蔵が追加された痛みで沸き立つ。
常識を捨てる…。
『限界を捨てろ。』
右肩から引き抜かれた剣は即座に右側の肋骨に切り込まれる。
何度も折れかけた意識が激痛という熱をともなって奮い立つ。
左手が肋骨に深々と切り込まれた剣に伸びようと上がる。
遠いと感じた。身体の右半身に切り込まれた剣は、左腕を届かせるには遠く、手で掴むには離れすぎている。
まるで動くはずのない物体に向かって、宿ってもいない超能力を念じている様な無意味な信号を左腕に送り続ける。
うご・・・け。うごけっ。うごけっ。うごけ。うごけ。
『痛みを捨てろ。』
俺の左手を見守る様に剣は動かない。
左腕を動かすには全身の激痛が邪魔だ。痛覚が邪魔だ。痛みが邪魔だ。
痛覚が要らないものだと自身全体で認識した
ような錯覚に陥いる。
『オーダーペイン。』
無意識に言葉が紡がれる。
まるで自身への命令だった。そして同時に痛みが一気に引いていく。流れる血が嘘の様に。塞がらない傷口が嘘の様に。頭痛と吐き気とブラウン管テレビの砂嵐映像が嘘の様に晴れていく。
今まで自覚出来ていなかった身体の機能の一部を、制御した感覚がたしかに残る。
認識すらしていなかった器官は当たり前のように付随していた。
内蔵の一つ一つに意識があるのを感じとれるような奇妙な感覚。
一つの命に同伴したエレメントの存在を物質に似た存在する形として認識出来る。
暗闇の中に確かに自分の中に前世の姿の自分が、立っている。その映像が瞬きのうちに視界から消える。
現実へと引き戻された意識は目の前の目的へと切り替わる。
全神経を集中させても動くことのなかった左腕は剣を掴む。
何かを掴んだ感覚が帰ってこなかったが、左手は右半身の肋骨に切り込まれた剣の腹をしっかりと握っている。
『…これでお前は10年分以上の修行を短縮した。』
平坦な掠れた声もしっかりと耳に聞こえた。