穏やかな午後
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山で作業するときは、怪我をしないように二人とも必ずお揃いの手袋をする。ラインツは腰のポシェットに、グレタはいつも、革製のエプロンのポケットに手袋を入れて山へ入る。
目的地へ着くまでの道のりで、グレタはときおり、虫や植物を指さしてはその名称や特徴を解説する。まるで彼女自身が生きた辞書のように、ひたすら流暢に喋り続ける。
「グレタって、なんでそんなに俺に教えようとしてくれるの? 誰も雑草の名前なんか知らないし、生きるうえで本当に必要なの?」
メモを録りつつも、飽きを感じてきたラインツはつい聞いてしまった。
「必要かどうかなんてそのときになってみないとわからないよ。ただ、わたしはわたしが持っている知識を親しい人に知ってもらいたい。私が勉強したり調べたことを後世に遺していきたい、そう思ってる」
「本に記録するのではなく?」
「人から人へ、世代を経て語り継がれるのが醍醐味なんじゃない。それになるべく人の記憶の中に遺して伝えたい。今はラインツがいるからそれができる。今のわたしの生き甲斐みたいなものかな」
その言葉に、ラインツは少し誇らしい気持ちになれた。
こんな自分でも彼女の役に立っているのだと。
薬草が群集している地点に到着し、カゴを降ろして採集を始めた。
ラインツがしゃがんで雑草をかき分けて、薬草を選別していると、隣からグレタが声をかけた。
「その品種、葉をそのまま食べると皮膚がかゆくなるからキャビッツに与えないようにしてね」
グレタはラインツが右手でふれている雑草を指差して言った。
「この葉っぱ…………」
あのときのヨモギに似た雑草だった。
ラインツの頭に、三年前のあの雨の中の記憶がよぎった。
口いっぱいに詰め込んだ、雨土にまみれた苦い草の匂い。
飢餓の苦しみから逃れたくて、けれど腹は満たされず、全身が燃えるようにかゆくなって皮膚がえぐれるほど掻き毟った悪夢のような記憶が、一瞬視界を覆った。
何度か瞬きをした後、グレタに訊ねた。
「……もし、たくさん食べるとどうなるの?」
あのとき自分の体に何が起こって、かゆみと熱がひいたのか気になる。
「 うーん、実験したことないからわからないけど、おそらく皮膚の炎症が全身に回って、呼吸困難に陥って窒息すると思う。 だからラインツも誤って口に含まないように気をつけて」
これ以上は怖くて聞けない。生返事をして作業を再開した。
「今日はアニスもたくさん採れてよかったあ」
アニスとは、料理やお茶に使う香草でグレタが好きな薬草のひとつだ。 白くて小さい花を咲かせるので見つけやすい。
クリームを作る際、香料として入れると乳の獣臭さが薄まり爽やかな風味になるので、クリーム好きの彼女にとって水よりも大事なのである。
「もっと、採らなくてよかったのか? まだ向こうのほうに生えてたよ」
「だめだよ。あまり採りすぎるとアニスがこの土地で育たなくなってしまう。わたしたちが使うぶんだけで十分だよ」
たくさん採って売れば儲けられるのに、とラインツは思ったが、グレタが金稼ぎを好まない性格なのを思い出し、押し黙った。
カゴに半分程度収穫できると、二人は作業を切り上げた。
家に着くと、薬草の処理はグレタに任せ、ラインツは夕飯の支度にかかった。
夕飯は交代で作っており、今日は彼の当番だった。
日が暮れる前に野菜を収穫し、キャビッツ達を撫でに行ってから支度にかかる。キャビンはあとでもう一度行ってやらないとな、と考えながら菜っ葉を切っていく。
日本にいたころは食事はほとんど母親に任せっきりだったが、グレタと暮らすようになり、彼は料理をつくることを覚えた。
暖炉の火の起こし方、包丁、鍋の使い方、料理のレシピ、これらを覚え、一人でできるようになるまで一年ほどかかった。左目が見えないせいで、距離感が掴めなくて未だに指を怪我することも多い。
決して料理が上手いわけではないが、グレタはいつも喜んで食べた。
メニューは朝食と同じ具材のスープと、隣村でもらったソーセージのような固い燻製肉を薄く切り分けて暖炉で炙り、茹でた野菜と一緒にフォグの上に盛ったもの。肉を炙っているときの匂いが好きで、彼は肉料理を進んで調理したがる。
暖炉の縁に並べた肉の油脂が溶け出し、暖炉の熱気とともに香りが広がる。
「人間、肉の匂いで一日の疲れを癒すもんだよなあ」
肉は非常に高値で売られているため、グレタの家はめったに買うことはない。ラインツは、隣村で薬草のお礼にもらってくるのをいつも楽しみにしている。
「ふふっ、ラインツったら。そんなに近づいたら頭が燃えてしまうよ」
いつの間にか、すぐ後ろにグレタが立っていた。
「グ、グレタ! いつの間に……っ!」
あわててよだれをぬぐう。
「たったいま。薬草の処理が終わったから、手伝いに来たの。わたしも早くお肉食べたいしね」
笑顔で言われて、ラインツも笑って誤魔化すことにした。
二人は夕飯を食べながら、薬草の数と仕分けの話やなんでもない世間話などして、寝るまでの時間をゆっくり過ごした。
深夜。暗闇の中、紫色の月灯りが家々の屋根を照らす頃。
圧し殺すようなうめき声が響く。部屋で一人、悪夢にうなされる彼をじっと見つめて呟いた。
「ラインツ……ごめんね、もう少しだけ我慢して。そしたら…………」
物語中で主人公が一番楽で幸せな時期なのでぬるいです。もうすこしでぬるいの終わります。