月下の出会い
暴力描写があります。ご注意ください。
(※死人は出ません)
雨が降っている。
顔や手足がどんどん濡れていく。
彼は小高い崖の中腹で木々に絡まって辛うじて落下を免れていた。しかし、幾重にも枝が引っ掛かって身動きがとれない。なぜこうなったのだろうと考えたが、おそらく突き落とされたに違いない。現地人達も、無難にやり過ごしたかったのだろう。事故死に見せかけ侵入者などいなかったことにしたのだ。
もう彼には、助けを求める気力は残っていない。誰かが助けてくれるなんてしょうもない夢だ。けれど、ここでこんな格好悪い死に方だけはしたくない。
まだ意識がある。指が動く。右腕と左足の感覚がないがちゃんと付いてる。右腕を枝と枝の隙間からゆっくり抜いて、左手を外そうと力を込めた。左足で山肌に踏ん張って蔦のように広がる枝の檻から必死に抜け出そうと痛みを堪えて手足に力を込める。
「ふんぐぐう……ううー! うおっ!」
ずるずるとあっという間に滑り落ち、下の地面にべちゃっと音を立てて尻餅をついた。
「泥なのにかたい……左足すごく腫れてる、うわー治るかな……」
泥のついた手で左足首をそっとさする。頭から足の先まで全身泥まみれで惨めな気持ちになる。だがまだ立ち止まるわけにはいかない。
びっこながらも必死に歩くその背中を、止まない雨が濡らし続けた。
体が重い。左足を使わないように右足に全体重をかけて歩くのがとてもしんどい。スウェットは泥と雨でずっしりと重量を増し、耐えきれず脱ぎ捨てた。今、背中に直に雨を感じている。
泥のついた体が洗われる感じはなく、むしろもっと汚くなっていく気がした。
雨は延々と降っている。
太陽は見えないが日が暮れるせいかだんだん暗くなり、夜に近づいてゆく。
体はもう限界に近かった。もう三日も食べ物を口にしていない。風邪のせいで熱が出ているのかもしれない。冷静に考えれば動くべきではなかったが、 空腹が焦りを生み、前に進みつつ食べ物を探した。
ついに両足が前へ進まなくなった。膝をついた足が上がらない。
地面が雨をしっかり吸い込んで、余計足が沈んで四つん這いのまま荒い息を繰り返す。
何か口に入れたい、その衝動に駆られて左手に触れたヨモギに似た草をちぎった。
草と泥の臭いで吐きそうになりながら、両手で葉をもぎ取っては口へ運ぶ。なにも考えずがむしゃらに食べ続けた。噛みきれなくても飲み込み、 戻しそうになっても無理矢理喉に押し込んだ。手を伸ばせる範囲の草を食いつくし、他には何かないかと見渡そうと首を伸ばした。
ふと、顔のかゆみが気になった。頬をかいてると、腕もかゆくなってきた。今度は右足、左足、首、頭、どこもかしこもかゆい。泥まみれの手でかきむしるが、治まるどころかさらにかゆみが増す。
かゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆい……。
暗闇の中、かきまくって、かきまくって、かきまくれど治まらない。
「ヒイ、ヒイ、かゆい、かゆいかゆいかゆいかゆいいいいいいいい!」
爪を力一杯立てて引っ掻くようにかきつづける。爪の中に泥と削れた皮膚が入り込み、血が出てもかゆみは治まらない。
「 なんなんだよこれえ!! ヒイイ……かゆいかゆいかゆいかゆいよお!! ヒイ、イイ……!!!」
かいてない箇所がなくなるほど全身をかきむしり、次第に傷口に泥が入ってしみてくる。指がつって、もうかくことすらできなりつつある。そのうち意識がだんだん遠のいていく…………
◇
鳥が鳴いている。
瞼の裏が明るい。いつの間にか寝てしまっていた。
だるいのには変わりないが、昨晩襲った気が狂いそうなほどのかゆみが嘘のように治まっている。伸びをしたついでに、体についた泥が乾いているのでパリパリと剥がしてゆく。雨はとっくにやんでるようだ。
「……? なんかつるつるになってる? かきまくったあともない……、うーん、とりあえずなんか飲みたい」
歩こうと立ち上がると、途端に全身の骨に激痛が走った。筋肉痛か、全身痛い。痛いけれど歩かなければ水のある場所まで辿り着けない。
改めてしっかり周りを見れば、ここが現実の世界とは異なる世界なのだと実感できる。黄緑色がかった太陽は木々をよく 照らし、葉がより鮮やかな緑になっている。たくさん葉をつけている木は、 幹の表面に筋がなく鱗のようにささくれだっている。
どこか水が出ている所はないか、耳をよく澄ませて探索する。
ようやく見つけたのは 泥の混じったうす茶色のわき水。昨晩まで降った雨が混じってるようだ。しかしれっきとした水である。
「ああ、口の中がようやく洗える。草臭くて気持ち悪かった……」
そしてそのまま水の中に頭をつっこみ貪るように飲んだ。
草木の間の溝からちょろちょろと流れる水に、顔や手足をつっこみ泥を落としていく。捻挫のように赤く腫れた患部を水でひやしつつ、日が高く昇るまで休憩した。
◇
黄緑色の夕暮れが、影を延ばして夜に近付く。
彼は未だに遭難中だった。死ぬ前に、せめて一人くらい人に会いたいと思い、歩き続けていた。
その願いがようやく叶うときがきたのは、日が暮れるか暮れないかの黄昏時であった。
「なにか聞こえる……人の声? でも今なんか悲鳴のような……」
近くに複数の人がいるようだ。早足になって向かう。
「また悲鳴だ」
それと争うような荒々しい物音。一体何が起きているのか。
「おっさんの笑い声めっちゃこわ……、あっ人がたくさんいる!」
盆地に作られらた、いかにも欧州のカントリー風といった畑と民家らしき建物がいくつかが見える。村の集落のようだ。慌ただしい人影がいくつかある。
生け垣のような背の低い植え込みに隠れながら村の様子を除き見た。
「あれは追いかけてるのか、何やってるんだろ……。あっちから物いっぱい持ってる人が出てくる、運んでる? もしかして、この村強盗に……!」
民家の陰へ隠れるように十歳くらいの少女が一人、必死に走ってくる。それを柄の長い斧を担いだ男が怒鳴りながら追いかける。
「あ! あの子、そっち行ったら誰もいない、ああっ捕まった! これ犯られるやつじゃ……」
少女は背後から襟首を掴まれ、凄まじい形相で抵抗していたが、斧の刃を首に突きつけられ硬直した。男はいい気でのし掛かり、震える小さな体を蹂躙した。
「ああ、やばい。こういうのって見ないほうがいいかなあ……」
ひっそりやり過ごそうと自分をなだめる。が、
「ちょっと待てよ、あんな小さい子が目の前でヤられそうのに何もしないって、やばくないか……? なんかすごく冷たい奴じゃん。っていうか昨日俺がやられたと同じことじゃ……」
だから、人として認められたくてここまで……
「この村に何しに来たんだ。助けてもらうためだろ、だったら自分も誰かを救うのが、人として当然じゃないか」
それに、気付かれていない今なら男の気をそらすことが出来るかもしれない。
そうだ、やっつける必要はない、さあ、この尖った石を拾って男に投げるんだ。震えるな、怖くない 、怖くないぞ、きっと成功する!
彼は何度も自分に言い聞かせた。自分も少女も無事逃げられるのを想像する。
石を掴むだけで 右手首が悲鳴を上げた。あまり怪我をしていない左手にもちかえて男に向かって思いきり投げた。
だがしかし、
「ガンッ!!」
悔しくも斧に当たり、返ってくる。 ああ、真っ直ぐ恭兵目掛けて、
「うわああああああああああ!!!!」
「******!?」「****?」
「あああああああ……っ!! うああああ、ああ 、ああっいがあおおおお!!!! だあああっああああっあああああああああああああああああああああ……!!」
突然の断末魔に盗賊の男と少女はぽかんと口を開けた。
弾丸のように左目に当たった石は、眼球奥深くまでえぐり、頭を激しく振って暴れても刺さったまま。
もはや叫ぶことしかできない。
視界が赤いのか暗いのか、すべてがぐにゃりと歪み、彼は完全に発狂した。
◇
愛用の斧を担いだ男は盗賊の一味で、たくさんいる子分のうちの一人である。
段取り通りに仕事が終わり、こっそり遊ぼうとしたはずがふって涌いて出てきた少年のおかげでなぜか騒動の発端になってしまった。
「おい、誰だ! 家畜を殺した奴は!! 勝手なことするんじゃねえっ!」
「アニキっ違います! この人間、こいつが目に石ぶっ刺して叫んでるんすよ!」
「はあ!? てめえいつ言い訳が下手になってんだ!? そんなに俺様君の罰を受けてえのか!」
胸ぐらを掴まれ青ざめた子分はのたうち回る少年を必死に指差す。疑いながらも目を向ける盗賊頭。
「なんだこいつ、まさか本当なのか? はっ、とんだ間抜けなガキがいたもんだ。ハハッ」
「うぎゃああっ!? いだいよおお……っ」
アニキが泣きわめく少年の尻を蹴って転ばすと、さらに悲鳴が大きくなった。その様子が可笑しく見えたのか、アニキは吹き出した。
盗賊達の興味がそれた隙に少女は破かれた服を抱えこむように茂みに隠れ、その場から逃げる。
そうこうしているうちに、収穫を終えた仲間が集まってくる。
「アニキー! すげえ楽しそうっすけどー何かあったんすかー?」
「 新しい玩具とか! 前のはすぐ壊れたもんなあ。」
灯りに照らされた少年の顔に、彼らは苦笑いをした。
「おえっこれアニキがやったんすか。」
「こいつが一人でやったんだ、俺様君はそこまで悪人じゃねえぞ」
アニキが少年の髪をつかみ、もう片方の手で刺さった石に指を弾きながら答える。
さっきまで蹴り玉にしてたじゃないすかー、と仲間の一人が突っ込むと、どっと笑いが起きた。
◇
度重なる激痛に、少年の意識が無理矢理引き戻される。
右目に映るのは、血と涙と泥でぐちゃぐちゃになったスウェット。
こんな目に遭うのなら、目が覚めなければよかった。
「こんな酷いことを人がやってはいけない、狂ってるわ」
突如女の声が響き、盗賊達の笑いがピタッととまる。
彼らの目線は少年を越した先へ集中している。
彼女は天使、いや女神だった。
月明かりに照らされた長い髪が、臙脂色にやわらかく輝き、紫の影を落とす。 灯りに反射する遊び毛はキラキラと橙色に光っていた。
一目惚れするほど綺麗なその髪の持ち主は、倒れて動けない少年のそばに立つと、何か道具を取り出し地面に投げた。とたん煙が吹き出し、周りが曇り始める。煙を吸うと何か作用があるのかだんだん眠くなってくる。周囲の焦ったようなうめき声に目を向けると、少年を囲っていた盗賊達が次々と膝をついている。
「なんだこれは!? 薬草の類いか!」
「うう、眠い…………」
「寝るんじゃねえ、この木偶の坊が……!」
少年が意識が途切れる直前に見たものは、美しい髪の合間から覗く一対の真っ赤な煌めきだった。
次話からほのぼの入ります。
7/15 改稿しました。