フラグ一本、火事のもとと妹は云った
「兄様はいつから女になったんだ?」
怪訝な顔をして愚弟の指さす先には、当然僕の従者の抱える巨大なバスケットがある。
甚だ飛躍している脈絡のない疑問ではあるけれど、つまるところ旅行に大荷物を持ってゆくのは女性が多いと知っているがゆえの発言だ。
僕の唯一の弟──前世では妹しかいなかった──のヘンリの荷物と云えば、小さなリュックサックが一つと背中に大剣のごとく挿された虫取り網のみである。虫かごは忘れているようだが、ちょっと冒頭の発言が気に障ったのでスルー決定。僕は歴とした男です。
王宮の中庭につけられた馬車は全部で四台、うち一台は王と王妃である父母が乗るもので、残り二台には兄たちがそれぞれ乗る。最後の一台には僕とヨハン、それにこのヘンリが乗るようにと仰せつかっているわけである。
が、
「見ての通り、今年は荷物が多いからね、ヘンリは父様たちと一緒に乗ったら?」
「いやだっ! 父様といっしょだと話がながいし変な臭いがする!」
多分香水の臭いだろうきっと。子供にはわからない大人の香りだ。そうだと思いたい。
「じゃあ兄様たちとか……」
「いーやーだっ! おれ、まだやくそくしてた宿題おわらせてないもんっ!」
馬車酔い必須の強制宿題コースは確かに死活問題だ。僕はとても理解のある兄なので、夏休みの最後の日まで宿題を終わらせないタイプの弟の気持ちがわかってしまう。あと数年もすれば宿題のお手伝いもとい従者の一人もつけられるのだろうが、それもない身では真面目に勉強するしかない。
僕みたいに優秀な黒子がつけばいいねぇなんて他人事のように思わないこともないけれど、はて、さて、ここで話を長引かせてしまうのもよろしくないだろう。幸いに、夏の離宮に行くまでに休憩は挟まない予定である。
「わかったよ、ヘンリ。……その代わり、一つだけ秘密を守ってね」
きょとんと目を見開いて疑問符を浮かべるヘンリの手を引いて、僕たちの馬車に乗る。父様たちには先に挨拶をすませているので、もういつでも出発はできるだろう。
馬車の中は王族専用とあってかなり広く居心地がよく整えられているが、昨年よりも狭く感じた。それは決して、僕たち子供が育ち盛りであるがゆえだけのものではない。中に、昨年はなかった荷物を載せたからだ。
「よい、しょっ」
僕たちが馬車に乗り込むと、最後にヨハンが例のバスケットをその車内に載せた。揺れがなるべく少ないようにという気配りが感じられるそれは及第点。僕の腕力ではとても適わない技であるので、少し悔しくても口にはしない。
ヨハンが乗り込み馬車の扉を閉めれば、あとは心置きない子供だけの空間である。
「兄様、ひみつってなんだ?」
「馬車が走り出したら教えてあげる」
しぃっと人差し指を口元にあてるジェスチャをすれば、そこは好奇心旺盛にしてぬくぬく素直な六歳児、同じように秘密のジェスチャをして目をキラキラ輝かせる。
僕はバスケットの縁を撫でる。少し無謀なことをしてしまったけれど、幼子のすることである。取り返しがつくうちは、叱られるだけ叱られて好き勝手にさせてもらうのだ。
遙か彼方の阿鼻叫喚を思い浮かべて僕が笑うと同時に、馬車は動き出した。
「おほん。兄様は先日、婚約者を決めました」
馬車が町中から出たのを確認し、カーテンを閉めたところで、仰々しく話を始める。
可愛い僕の弟は素直にコクコクと肯き、まっすぐに僕を見ている。──その後ろでかなり青褪めた顔をしている従者は黒子なので見えません。──
「しかし夏の離宮に行くと、婚約者殿とはお会いすることができなくなります」
「なんでだ?」
「そりゃあ、家が遠くなるからね」
「なるほど」
「と云うわけで……」
僕は、バスケットの蓋を開いた。
途端、ひょこりと現れる小さな頭。
朝の陽を浴びずとも輝く髪に、よく磨かれた蒼い目。
「今年の夏は僕の婚約者──エリスも連れて行くことに決めた兄様なのでした」
ふわあああ、などと声にならない驚きの声を上げる弟の向こう側で呟かれた「誘拐ですよ」などと云う言葉は笑顔で黙殺。
せっかくの僕の婚約者の夏をあんな屋敷──などと云うと怒られそうなくらいには手入れが行き届いてはいたが──で終わらせてあげられるほど、僕は無関心でも無欲でもないのであーる。
エリスは顔を出した瞬間にヘンリと顔を合わせてしまったため、そのままバスケットの中に逃げ帰ってしまった。これはこれで人形のようで大変愛らしいし、いっそ将来は彼女をバスケットに入れて僕が持ち歩きながらの駆け落ちもロマンチックでいいかもしれないなどと考えてしまったけれど、それはそれ。いい加減ヘンリが煩い。
僕はヘンリの頭と顎にそれぞれ両手をあてて、思い切り閉じる。ガツリ。乳歯がぶつかる音。雄叫びストップ完了。──どうでもいいけれど、驚愕の声の上げ方がなんとも云えずアメリカのコメディ映画の子供だった気がする。名前的にドイツ系のような気がするけれど、この国の言語はどこが近いのだろう。──
「エリス、もう大丈夫だよ。これが僕の弟のヘンリです。君の将来の弟でもあるんだ」
続いて籠の中の薄暗がりに声をかける。子猫のように丸まった背中と柔らかな髪の間から、くりくりとした目が覗いて僕を捉えた。
しかしそんな僕の言葉を耳ざとく聞き取り反応したのは、ヨハンに顎を撫でて口の中を見てもらっていたヘンリの方だった。
「弟!? おれ、この子の弟になるの!?」
我が弟ながら変わり身が早いと云うか、即物的と云うか、鶏頭と云うか。それまでの痛みはもう感じないようで、齧りつくようにバスケットに手を伸ばして中を覗き込む。その目の無邪気なことと云えば、前世を思い出した僕には目が潰れるほど眩しかったりするのだけれど、まあそれはよくて。
僕はべりっとそれを剥がして、ちょっと乱暴にヨハンに投げるのです。だってほら野生児がいたら、エリスが怯えちゃうし。
「わっとと」
「エリス、出ておいで。もうそこにいなくても大丈夫だよ」
僕がバスケットの中に腕を伸ばすと、存外素直に彼女はその身を僕に預けてくれた。嗚呼、確実に着実に僕たちは近づいているのだと、ふと場違いなことを考える。彼女を抱き上げその籠から出す時、彼女の髪と赤いリボンが僕の頬を撫でた。嬉しいなぁと感じる僕の愛はきっと十歳児の体重よりも重いことだろう。
勝ち気な目を心許なさそうに揺らす少女は、昨日僕がプレゼントした白いサマードレスを着ている。麦藁帽子はまだ籠の中。降り立った靴は赤く、馬車の揺れに惑わされながらもきちんと立っている。
「エリス・フォン・シュトルツプファルともうします、ヘンリさま。以後、おみしりおきを」
目の前の野生児が思いつきもしないほどに完璧な挨拶をしたエリスは、ぎこちなく首を上げてヘンリの反応を伺う。
ヘンリは変わらず──まったくアメリカンなほどに大きく開けた口で──驚愕したまま彼女を見つめているので、困ったようにエリスは僕を振り返った。
「ヘンリ様、ご挨拶を」
僕の優秀な従者がこっそりと耳打ちをすると、ヘンリはそこで雷に打たれたように肩を大きく震わせた。
そして、
「あ……の、おれ、ヘンリです。……よろしく」
辛うじてそれだけ云うと、顔を真っ赤にして俯いてしまったのだった。
ああこれは、少し早まったことをしたかなぁと思う僕なのである。それなりに弟は可愛いので、微笑ましくはあるのだけれど。
ヘンリには、是非とも帰りの馬車を兄様たちと共にしてもらわねばなるまい。