僕は誰でしょう?
──この国に法律はないのか!
そう前世の妹が叫んだのは、主人公殺害未遂後に裁判の描写がないまま国外追放された悪役令嬢のエンドを見せられた時である。と云っても、もちろん悪役令嬢なぞに個別エンディングが用意されているはずもない。スチルの一枚もないまま、無駄のない地の文どころか単純な世間話の中で語られる程度の扱いである。
作中時間の経過からして裁判があったとはとても思えないが、残念なことにこの国は法治国家なので、前世の妹には是非ともその旨を伝えたい。法律がないならいっそ話は簡単だったんだけれど。ほらだって、要は僕がもみ消せばいいだけの話だし。
驚くべきことに、選択肢一つ間違えて主人公が殺害された場合でも、ろくに裁判の描写がなかったりする。いや物語の主人公が死んだ以上、その後など語るべくもないのだろうが、きっちり制裁は与えたことを証明したかったのか、何故かどのみち僕の婚約者は殺されてしまうのである。
一つのルートでは、裁判で死刑。
一つのルートでは、誰かが復習に雇った暗殺者。
そして一つのルートでは、誰であろう主人公を愛していたこの僕──と同じ名前と顔をしたメイン攻略対象。
それが僕の婚約者、可愛いエリスに死をもたらす死神のすべてである。
そして登場人物たちは、そんな彼女の死など忘れて生きていくのである。
なぜなら、彼らにとっては彼女の死よりも主人公の死の方がよほど大きな出来事であったがゆえ。
「なんで昨日の僕には予定があったんだろう」
ガラガラと流れゆく馬車の外の田園風景を頬杖をついて見送りながら、僕は憂鬱な溜息を吐く。
郊外にあるシュトルツプファル邸は僕の住まう城からは馬車で一時間、夏の邸宅からはもっと遠くなる。そして夏の邸宅へは明日から移動なのだ。
去年登ったあのブナの木はどうなっているだろうなどと騒いでいた愚弟の姿を思い出し、さらに溜息。僕だけ置いていってくれとは、王族付きの新聞記者も同行する旅路に云えないのである。家族不和など勘ぐられては堪らない。
「そう仰らず……。それに、予定がなくとも当日はご遠慮するものですよ。ご両親がいらっしゃるのでしたらばなおさら、家族水入らずにして差し上げるべきです」
「それでも、一目見てプレゼントを渡して帰るくらいならいいだろう」
「なにも直接お渡しになることもないのではありませんか?」
僕の向かいの席に座していたヨハンは、珍しく言葉を継いで僕に諫言をした。気の弱そうな笑みを口元に浮かべて──なにせ目は前髪に隠れて見えない。律儀にワックスをつけているらしい──指をもじもじと膝の上で動かしている。
それはそうなのだろう。なにせ昨日は僕の婚約者の誕生日で、その両親が珍しく邸宅には帰ってきていて、なおかつ彼女は六歳になったばかりであったのだから。
エリスの父親は外交大臣だ。通常は周辺諸国を奥方とまわり、外交摩擦のないように尽力をしてくれているらしい。きっと兄たちの婚姻にも多分に噛んでいることだろう。そんな多忙な両親が久方ぶりに帰宅しているとあれば、幼い娘が喜ばぬはずはない。
そして貴族社会における社交界デビューは十二歳からと決められている。それまでは自宅で開催されるホームパーティ以外には基本的に参加せず、直接的に繋がりのあるもの以外とは断絶して暮らすのだ。
ゆえに、僕もヨハン以外の同年代の知り合いはほとんどいない。
ポッと指先に氷の粒を出してみる。
ファンタジィにおけるお約束要素ではあるが、この世界にも魔法というものが存在する。そうでもなければ西洋風異世界などを舞台にする必要がないからだろう。
氷の粒は見る間に六方向に枝を伸ばし、三センチほどの雪の結晶へと変化した。それは七月の外気温などものともせず、次第に球形の細い氷の塊になってゆく。
「ヨハン、僕はおかしいかな」
貴族間で直接物のやりとりをすることがあまりに不自然なのは先刻承知だ。いくら婚約者だからって、そこまで頻繁に逢いに行くこともない。プレゼントだって、直接渡すのはむしろ不作法なことだろう。
「ええっと……、そうですね。エリス様に出逢われてから、少しお変わりになられました」
ヨハンは困ったように胸元で指先を合わせる。きっと前髪を切り落としたら、世の淑女はこぞって気絶するだろうなぁとぼんやりと考えた。
前世の記憶を取り戻したところで、僕という形はすでにこの世界で出来上がっている。魔法は使えるし、言語にも知識にも変化はない。性格とて、あまり変わったようには思わなかった。
けれど、
「へえ、どんな風に?」
この幼児期から僕と一緒にいる従者には、僕がもう僕には見えていないのだろうかと、僕は初めて少しの不安を覚えた。細かな皹が、氷の球に小さく走る。
ああ、もうすぐ割れてしまうな。そうしたら、新しく作り直さないと。
ピシリ、ピシリと、それは広がり、そして──。
「ええ、私に悪戯を仕掛けることが減りました!」
ピキリ、と、違う皹が入った。
「はあ?」
「こればかりはエリス嬢様々です。今月に入ってから私は一度も本に手を噛まれていないし、池にも落ちてはいないのですから。婚約者ができると大人になるとは本当であったのですねぇ」
廊下を凍らせてやったときでもここまで滑らなかっただろうと云う勢いで、ヨハンが朗々と喜びを口にする。待て、僕はそんな笑顔初めて見たぞ。それもそうか、およそ僕は彼を泣かせるようなことしかしてない。
よし、今度はベッドの中を凍らせてやろうそうしよう。真夏の夜に凍ったベッドはきっと感謝されるに違いない。それこそ泣くほどに。
「このままちょっとアレな性格を矯正していただけると、私としてもとても安心します」
今年一番のイイ笑顔を浮かべた従者に、僕はにっこりと微笑みを返す。
ほっと安堵を漏らした口にかき氷を突っ込んでやるのは、三秒後のことである。