早い速い人生。
本名がどうしても思い出せない。
しばらくはルーだな。
必ずや思い出そう。
いや、それ以前に
消された記憶ってそもそも
戻るのか............?
昨日から寝ていた
何もない路地を出て、
ルーは街中を歩いてみる。
馬車にすれ違うも、
御者はこっちを見るなり気さくに、
「よお若いの、早いな」
そのまま通り過ぎてゆく
大きな乗り物に手を振っておく。
日が照っていても、
街はとても涼しくて
朝市を終えた市場からは
人々が散っていた。
家々には徐々に灯りがつき、
小屋の犬はのんびりと欠伸していた。
「静かでいいもんだなぁ」
そう呟いて
ポケットに両手を突っ込んでみる。
「金貨三枚、銀棒二本、白銭が十二枚か。
そこそこ生活出来そうだな」
銀棒とは、銀製の細いお金のことだ。
白銭は確か、ニッケルだったかな。
ドーナツを半分に
割った片割れの形をしている。
親指の先ほどしか無い小ささ。
それを腰ポケットよりも下部、
膝ポケットの方に全て滑り込ませてから
ポケットの口をボタンで留める。
こうすれば落ちない。
あと、ポケットの中が
温かい事に気付いてしまったので
両手を突っ込むために
ポケットの中は空にしたかった。
さて、周りが今の俺を見れば、
手荷物もバッグも財布も無い
まるで無職で働く気のない少年だ。
そのイメージは避けたいところだが、
兵士の話によれば俺の記憶は消され、
家族も友人も知人も
俺の存在を知らないことになる。
要するに学校へ舞い戻れても、
先生からは「お前は誰だ」だ。
まあ俺の返す言葉は決まって
「お前こそ誰だ」なのだが。
お互い記憶に無いのであれば、
話なぞ噛み合うはずもない。
それに母校もどんなもの
だったか覚えていない。
──────俺の家の場所も。
行く宛も無いまま
街の外れまで来てしまった。
テキトーにその辺の岩に腰掛けてから
これからする事を考えてみる。
人助け?───で、見返りか。
生活としては、
いずれ死活問題になりかねんが、
力仕事とかなら、
困らない人はまず居ないだろう。
礼が貰えるかは別問題。
礼が石鹸とかだったら
焼いても食べられない。
しかし、
悪くないからひとまず保留だな。
居候って─────
土下座したらさせて貰えるものなのだろうか。
...いや、
"元囚人"を知られるのが嫌だな。
却下。
この少年は土下座を、
いささか軽視している節がある。
「おーーーーい!」
遠くから誰かを呼ぶ声。
何か名案は無いものか。
あ、生きる宛が無いから
死ぬなんて選択肢は無しな。
「おーーーーい!」
うるせえな。
それは徐々にこちらに近くなり、
声が大きく訊こえてくる。
お礼貰う線から一旦離れてみよう。
簡単なのは、
働く、金貰う、からの飯 の流れだ。
いっそのこと働いて、正当にお金を
貰うなんてのはどうだろう?
そっちの方が死活問題からは
疎遠になってくれると思うがな。
「おい、聞けよぉ。そこの若いの」
俺かよ。
ルーが顔を上げるとそこには、
息の荒い髭面がよく似合う男。
農家の服を着ている。
「何か用か」
「できたらもうちっと、
その言葉を聞きたかったなぁ。
とにかく時間が無い!
早く来てくんろ!こっちだ!」
腕を引かれて無理矢理
立ち上がった俺は、
断るのは無理だろうと諦めて
男の後ろを付いて走る。
────がたいのいい男だな。
しばらく走っているが、
どんどん薄暗くなってゆく
林の中を走っており 既に色々怪しい!
「おい オッサン!
この先に熊でもいんのか!」
「熊ならいいんじゃがな...
ほれ、お主ほどの、若い、
たいそうべっ...
...ベッピンさんな、女だぁ」
オッサン、疲れて息が上がってるな。
興奮してんのかと思った。
俺は前の筋肉を追い抜きながら、
「この先にその子がいるんだな!?」
「ああ!俺ぁ、もう 疲れた...」
そう言って立ち止まって
しまったオッサンを置いて走る。
女とは訊いたものの、
この先に居るのだろうか。
お、あれか?
女の子が倒れている。
純白のワンピース。
そこから零れ落ちたるは
たくさんのフリルとレースの刺繍。
その微睡む様はまるで、
薄暗い林に光照らし、
強く咲き誇るように
花咲かす一輪の菫のよう。
陶器人形のように
伸びる華奢な手足は
肌色というよりも白く 美しい。
何より一際目立つのは、
白のワンピースよりも
白く美しい肌よりも、
白くて長い髪。
光の反射でそれは輝きを増し、
まるで高級な綿が
綺麗に溶いてそこに
丁寧に置かれているかのよう。
文字通り、
俺が見惚れていると、
背中を思い切り蹴り跳ばされる。
思わず少女の近くに倒れ込む。
「言わんこっちゃねえ、
まあ俺も数分見とれてたんだから
口ほど言えねえんだけどよ。
じゃあ、後は宜しく頼むわ」
えっ、オッサン行っちゃうの?
心の声が聞こえたのか、
立ち去りかけたオッサンが振り返る。
「ワシこれから仕事。
ああそれと、
その子、息ねえから。じゃ」
うおおおおおい!
他人任せかよおおおおぉぅぉおい!
気道確保。脈拍の確認。
呼び掛け、外傷の確認。
外傷の確認を最後にしたのは、
目立った傷が全く無かったからだ。
ええと、次は────
息が無い訳だから、人工呼吸だな。
「すぅ──────」
女の子の顎に軽く手を当てて上げ、
女の子の唇を俺の口で覆って、
女の子の胸の方を
よく観察しながら息を吹き込む。
胸はゆっくりと上がっていった。
よし、上手く息は届いてるな。
もう一度。
女の子の胸がある程度
下がってからもう一度吹き込む。
女の子の口に耳を近付けるも、
呼吸をしている感じはしない。
脈は確かにあるんだぞっ!?
少し焦りを感じた。
俺じゃあ原因の
判別つかない症状なんじゃないのか?
いや、まだだ!!
女の子の左胸骨の
下部分に両手を当てがい、
何度も連続で圧迫する。
すると!
女の子の口が初めて僅かに動いた。
だが様子が変だ、苦しそうである!
急いで人工呼吸に切り替える。
息を吹き込むも、
口の中に何かが詰まっているのか、
息が通らない!
吐瀉物か!?
いや、そんな物は無かったはずだ!
素早い確認と判断の上、
ええい迷ってる場合か!!
女の子の口の中へ
舌をそろりと伸ばす。
どうやら女の子の
舌根が喉を詰まらせているようだ。
俺の舌が触れた瞬間、
女の子の舌がピクリと跳ねて、
絡みついてくる様に何度も触れる。
やがて、
苦しいのか俺の舌に吸い付いたり
俺の口の中へ舌を伸ばしたりし始めた。
息 出来てない!
女の子の舌を引き上げるのに夢中で
息を吹き込むのを忘れていたので、
急いで鼻で息を吸って一気に吹き込む。
女の子の鼻から
微かにすっと息が抜けたのを感じた。
よし、あと少し。
自分の舌をストローのように
器用に巻いて、
女の子の舌の上から
極力 気道へ届くように
伸ばしてもう一度息を吹き込む。
今度は息が返ってきた。
女の子の舌は、
安らぎを取り戻したように
伸ばした自分の舌を戻しながら
優しく俺の舌を撫でる。
もう良いかな。
そう思い、
顔を離す前にまず、
いつの間にか瞑っていた
目を開けるとそこには、
ぱっちりと開いた、
女の子の綺麗な琥珀色の瞳が
こちらを見詰めて瞬いた。
─────あれ?
いつから─────?
女の子がもう一度俺の舌に、
軽く吸い付いたのを
感じて慌てて顔を離す。
女の子は、
自分の口から俺の口まで引いた
長い涎を、
右手ですくい取ると
その手で自分の口元に持っていった。
「なかなかに情熱的な
人工こ......キスでした」
俺はそこだけ冷静にも目を細めて、
「何で言い直した?」
「........初めてですもの...」
「つまり?」
「私の初めて、
あなたに奪われてしまいました。
警察にはどうします?
式はいつ頃にしますか?」
この人可愛らしい真顔で言ってる!
さらっとさり気なく二択言った!!
ここでもう一度
帝国に捕まってしまっては
俺の人生が幕を閉じてしまう!
しかも今度は記憶を
消してくれないかも知れない!
その恥を持って一生償って死ね、
とか言いそう!!
と言うか、不可抗力じゃねえ?
「───責任を取らせて下さい」
俺は全力で頭を下げさせて頂いた。
「具体的に申されますと?」
白髪の女の子はそこで
初めてにっこりと笑った。
俺は はめられたことに
気付くことなく、
何の躊躇いも無く跪いて、
「僕と結婚して下さい」
女の子はさも喜ばしげに
にこやかな笑みを
浮かべて小首を傾げ、
「はい、喜んで」
跪いた体勢から
差し出していた俺の右手に、
細くて俺と同じくらいの大きさの
白くて冷たい手がゆっくりと重なった。
旅立ち早々、
とんでもない方を
生き返らせてしまった。