前進
「う…い…ああっ」
「こら、アヤ。1人で何してんのさ、危ないって」
「ロ、イ?きゃあ!?」
「アヤ!ちょっと大丈夫?」
ロイに話を聞いてから、私がやろうと思ったことはまず歩くということだった。
今のままじゃ何もできない。
どこかに移動することさえ、ロイに抱えられないといけないくらいだ。
初めの頃なんて人が近づくだけでも吐き気を抑えられなかったから、それは悲惨だった。
私がロイ相手なら大丈夫な状況になってからそれは解決したけれど、それでもロイなしにはまともに生活すらできないのが今の私。
まずはちゃんと自分のことくらい自分でできるようにならないといけない。
そう思った。
だから、せめて寝台から自力で立ちあがれるようになろうと思った…のだけれど。
「いきなりは無理だって言ってるでしょうが。焦る気持ちは分かるけど、1人で頑張らない!」
「でも」
「でもじゃない!全く…目を離すとすぐこれだよ。アヤってば意外とおてんばだよね」
「う…」
「利己的に甘えるとか言ったくせして何で頼らず自力で頑張ろうとするかな、こっちが毎回毎回どれだけヒヤヒヤしてるか分かってる?」
ロイの説教タイムが最近増えてきた。
「…ロイ、なんかお母さんみたい」
「なんか言った!?」
「……なんでもないです、ごめんなさい」
すりむいた膝を消毒しながらロイがまだ言い足りないらしく、ブツブツと愚痴を言っている。
私としては寝台で座った状態から立ち上がる練習くらい1人で十分できると思うんだけど、ロイの考えは違うらしい。
話をしたあの日以降、ロイの過保護具合は増した気がする。
もともと世話焼きな性格もあるんだろうけれど、それ以上に構い倒されている気がするのは気のせいなのか。
本当に皇弟なのかと疑問に思ってしまうほど、ロイの手際は良い。
ぐるぐると大げさなくらいに包帯を巻き終えると、ロイはため息ひとつ落として私の横に腰かけた。
「全くもう、足の痛みは?」
「ん、平気」
「そう、良かった」
ロイの手が私の頭を優しく撫でる。
そんな触れあいが出来る程に、私は回復してきている。
自分の気持ちがちゃんと前を向き出したからなのか、精神面はあれからずいぶん急に良い方に向かってきた。
といってもまだロイ以外の人の気配を感じると体がガチガチに固まって気持ちわるくなってしまうけれど。
でも、ロイと一緒にいて具合悪くなることは全くと言っていいほどなくなった。
今ではちゃんと長い間一緒にいて話を続けることもできる。
周りから見れば亀より遅い一歩だけれど、私にとってはうさぎ並の進歩だ。
「にしても、ずいぶん良い顔になってきたねアヤ」
「何が?」
「うん、顔色が明るくなってきた。あとは表情が戻れば完璧かな?まあ、焦らずゆっくりいこう」
「…表情が出ないのは元々です、悪かったね無愛想で」
「え、元々?勿体ない、こんな可愛いのに」
「え、ロイの目腐ってる?身内の欲目出過ぎだよ」
「えー、酷いなあ」
ロイの傍は、本当に心が落ちつけた。
優しくて温かくて、すごく安心する。
この感覚を私は知っていた。
「…ロイって、マサ兄に似てるかもしれない」
「え」
頭に浮かんだ言葉が気付けば口から漏れていたらしい。
ロイがピキッと固まって私を見つめる。
その反応を疑問に思って首を傾げれば、気まずそうに頭をかいた。
「俺、そんなに言葉荒くなってた?あれ、ごめん慣れ合って態度偉そうになってたかも」
「…ロイ、マサ兄のことそんな風に思ってるんだね」
「あ、いや。別に駄目ってわけじゃなくて、なんというかその、うん、絶対言われないだろうって思ってたことだったから、あはは」
「いいよ、心外なら心外って言ってくれて」
ロイは慌てて私の言葉を否定する。
どうやらマサ兄のそんなところを嫌っているというわけではないらしい。
ただ色々と予想外の台詞を言われて慌ててしまったと言う。
確かにロイとマサ兄は何もかも違うように見える。
口調だって性格だって全然違う。
いつだって俺様でグイグイ引っ張っていくマサ兄と、いつだって丁寧で人の意見を引きだしてくれるロイ。
それは私だって思う。
けれど不思議と、似てると思ったのだ。
ロイといるとマサ兄の傍にいることを思い出す時がある。
それは絶対的な安心感。
いったん内に入れた人のことをそう簡単に捨てたりしないんだという思い。
情に厚く、何かあると迷わず手をさしのばしてくれる人。
私の知っているロイもマサ兄もそういう人だ。
見た目も性格も口調も何もかも違うけれど、私に対してそんなところを見せてくれるというところは全く同じ。
一見簡単そうなことに見えて、そう簡単なことじゃないと思う。
人が苦しいとき、迷ってるときにちゃんと手を出せるということはとても尊いことだ。
この世界に来て尚更そんなことを実感している。
誰でもできそうでいて、案外出来る人はすくない。
ロイとマサ兄を重ねてしまうのはそんなところだった。
「ちょっと、びっくりした」
ロイがふいにそんなことを言う。
何が?と問う前に声が続く。
「アヤからマサヒロの名前が出てくるとは思ってなかったから。今まで考えたくないのかとちょっと思ってたんだ」
そこでやっと、自分の口から本当に自然にマサ兄のことが出てきたんだと気付く。
今までみたくひねくれた思いじゃなく、純粋な思いで。
そしてふとお姉ちゃんのことを思ってみる。
ずっと憧れの存在であったと共に、私に劣等感を持たせた存在。
けれど思い出すのは穏やかな思い出ばかりだった。
発表会で来たお気に入りのワンピースを可愛い可愛いと褒めてくれたこと、家族で行った動物園で大迫力のライオンに怯えて2人手をがっちり握りながら固まったこと、風邪を同時にもらって一緒に寝込んだこと。
ずっと中に渦巻いていたドロドロとした感情が、驚くほど引いていることに気付いた。
心が凪いで、優しい思い出ばかりが頭に浮かんでくる。
「あ、アヤ?ごめん、嫌なこと聞いちゃったかな」
「違う。…嬉しいの」
「え?」
「ロイ、ありがとう」
目が熱くなった。
ずっと苦しんでいた事から解放されたような気分になって。
「なんっか、ちょっと腹立っちゃうな…あの2人のタイミングの良さに」
ロイがぽつりとそう言った。
半分涙目の私はまた首を傾げる。
言葉とは反対に爽やかに笑ってロイは私に何か紙を手渡した。
「実はね、2人から手紙預かってるんだ」
瞬間息がとまる。
手渡された紙にゆっくり視線を落とす。
「“読む気になったら読んでほしい”ってさ、昨日もらったんだけど。人と会える状況じゃないならせめて手紙くらいならどうかって」
「2人が?」
「うん、そう。君の調子が少し回復してきたって聞いていてもたってもいられなくなったらしくてね。君の世界の言葉で書かれてるから僕は読めない。気分が向いたら読んでみたらどうかな」
手元が震える。
「無理しなくて良いんだよ」
心配してロイがそう言ってくれている。
けれど、私は大きく息を吸って吐きだす。
前に進むと決めた。2人に対する思いもちゃんと自分の中に戻っている。
今だって会うのは怖い、話すのもとても怖い。
前と変わってしまった自分を自分自身受け入れきれていないのだ、2人にこの姿を知られることを想像するだけで体中がゾワッとするくらい怖い。
けれど、震える手で封を開けている自分がいた。
心も体もちゃんとついてきてくれている。
今開けられなければきっとずっと出来ない。
自分にそう言い聞かせて、私はその中身を見た。