限界の果て
私のお姉ちゃんが周りの目をひくほど優秀だったかと聞かれれば、そんなことはない。
確かに勉強は出来たし運動神経も良かったのは知っているけれど、それでも周りに騒がれる程際立っていたわけではないというのが正直な印象。
よく言われるような優等生キャラのポジションでありながら本人がそこまで社交的じゃないことから「気付けば何でも出来てるソツのないタイプ」というのがお姉ちゃんだった。
それでも大事なことはちゃんと大事にできる人だし、ダメなこともちゃんとダメだと言える人。
私に対してだって周りに対してだって変わらずそう接することのできるお姉ちゃんは、私にとって憧れであり目標の存在だ。
「馬鹿か、お前は。ちょっと美咲のこと美化しすぎだっつの」
「ちょっと、マサ。それどういう意味?」
「優等生ポジションってのがまず美化だろが。本当に優等生なら地味でももう少し人目ひいてるっつの」
「あんたね、せっかく彩美が褒めてくれたことを何でわざわざ否定すんの」
「アヤの曇った眼鏡を綺麗にしてやってんじゃねえか、感謝してほしいくらいだわ」
「へえ、そういうこと言うんだ?言って良いことと悪いことの区別くらいつけなきゃいけないって今日こそ教えてあげるわ、この俺様鬼畜大王が!」
一度だけぼそりと本心を伝えた時、2人はそんな口喧嘩をしていた。
それはもう日常茶飯事となっていたことだ。
少し俺様気質のマサ兄は、それでも将大という名前の通りどこぞの将軍のようにグイグイと人を引っ張ってくれる性格で、そしてそんな性格のわりに他人の意見や価値観に対して寛大なところがある。冗談やからかう時はともかくも、本心から他者の意見を否定したり自分の意見を押し付けたりはしない。口が悪いから敵も多いだろうけれど、その分仲間も多くいるタイプだ。
お姉ちゃんとマサ兄はしょっちゅう喧嘩をしながら、それでも何だかんだいつも一緒にふざけて笑い合ったり時には協力し合ったりしていて、とにかく私には入り込めないほど強固な絆が2人の間にはあった。
そんな2人に必死にしがみつこうと、昔からそれこそ金魚のフンのように付いて回っていた。
対等な関係にある2人と、さしずめ子分のような立ち位置にあった私。
保護者と被保護者のようなそんな関係性。
それでも大好きだったんだ。
俺様でも口が悪くても、何だかんだで私を構ってくれたマサ兄のことが。
姉以上に引っ込み思案で男友達も居ない私に、唯一「アヤ」だなんて下の名前の愛称で呼んでくれる男性のことが。
どこにでもあるような兄貴分に恋する近所の子供。それが私だった。
そんなもの、叶わないものは叶わない。
生粋の灰かぶりは所詮シンデレラにはなれないのだ。
そんなことずっと分かっていた事。認めたくなかっただけで、とっくに気付いていた。
けれど現実世界は、そういうところ予想以上にシビアだったらしい。
「おら、とっとと歩け!」
「…っ」
「手間とらせんじゃねえ、奴隷風情が」
ズキズキといつついたかすら分からない傷がしみる。
重りのついた縄を引きずって足を動かすのは楽じゃない。
血のにじむすり傷の上で擦れる縄の感触は気持ちいいものでもない。
それでも、そんな私の感情なんてこの場で反映されるわけがない。
ここでは私は人ではなくモノなのだ。もしくは家畜。
ただの物を動かすために手間をかけたくないというのは、まあ分からないわけでもない。
対象が人かそうじゃないかの違いなだけ。
ここに来て地球の常識と言うものは第一に捨てなければいけないと私は学んだ。
頬を容赦なくぶたれ、すでに口の中の血の味にも慣れてしまった。
突き飛ばされるように置かれ、お尻も内出血したような痛みが広がっている。
それでも恐怖を感じなくなってしまったのは私の中にある防衛本能なのか、それは分からない。
とにもかくにも、恋だ何だと言ってられるような状況じゃなくなってようやく私の心は諦めるということを理解してくれたらしい。
「はは、バカみたい」
久しぶりに声になった言葉は、カラカラと醜い響きになっている。
喉はとうに枯れ、水だってろくに飲めないこの環境じゃ治る期待もできない。
あんなにぽっちゃりな体型を気にしていた事が嘘のように、体はどんどんと枯れていく。
惨めだと思った。
恐怖心が麻痺して、真っ先に頭を占めた感情。
こんな状態になってもどうやら私の中にプライドというものは残っていたらしい。
優秀さの欠片も持たないくせして変な所でプライドが高い自分をこんなところでも再認識させられて、何もかも嫌になってしまう。
…これはもう、死んじゃった方が良いかな。
体よりも先に精神の方がやられてしまったのかもしれない。
生まれてこの方考えたことすらないことまで当然のように浮かんでくる。
もともとそんなにプラス思考な性格はしていなかったけれど、ここ最近なにもかもマイナスに思考が働いてしまう。
自嘲、自己嫌悪、蔑み、諦め、そんなものばかりが体中を巡っている。
そして一通り自分を蔑んだ後は、自分のこの理不尽な環境を嘆き、最後に考え疲れて頭がボウッと真っ白になり意識を飛ばすのだ。
まあ、鞭で叩かれて無理やりまた起こされるんだけど。
この世界に来てどれだけ経ったのか分からない。
自分が奴隷というものになってどれくらい経ったのかも分からない。
毎日叩かれるか引きずられるか蔑んだ目に晒されるだけの日々。
私を取り扱っている商人は、需要が比較的高い若い女である私をそれなりに高く売ろうとしているらしい。けれど、お世辞にも整っているとは言えないこの容姿に魅惑的とは言い難い体じゃ、そうそう売れない。おまけに何故かは知らないけれど、女性売買の規制が最近厳しいらしく堂々と表に私を引きずり出せないというのも私が未だ買われない理由なのだろう。
普段は奴隷は表にも引きずり出されて一般の客にも売り出すらしい。けれど現在はそんな理由からひたすら地下部屋の埃だらけの場所に閉じ込められている。
上得意である富裕層くらいしか私の元にはやってこない。
そんな色々と余裕のある身分の人間からしてみれば、私みたいな見目が良いわけでなく役立ちそうにもない小さい女は興味の対象にはならない。
「日本に帰りたい」
思わずそう口に出ていた。
言ったところで帰れるわけじゃないのは、分かっている。思ったり言ったりするだけで帰れているのならば私はとっくの昔に日本にいるはずだから。
独り言なんてしているところが商人の耳に入れば、また意識がとぶくらいぶたれるのは分かっていた。
分かっていたのに、そんなことを言ってしまったあたりもう限界も限界だったのだろう。
死んだ方がマシだと思えるくらいまで思考が傾いてしまっているのだ、まともな判断を下せるだけの思考能力が残っているようにも思えない。
「…商人、この娘を買う。今すぐこちらに預けてくれ」
だから、いきなりそんな声が響いた時だって私はまともな反応ができなかったんだ。
見知らぬ顔。明らかに日本人じゃない顔立ちの、けれど整っていると分かる褐色の肌の男性をぼんやりと見上げる。
「大人しくしていなさい、良い子だから」
言われた言葉の意味だって理解できなくて、顔を逸らし目を閉ざす。
ああ、これから新しい家畜生活でも始まるのかな。
頭に思い浮かんだのは、そんなことだった。