再会
会いたいと、その一言を手紙に書くことに10日近くかかった。
強く決意したはずなのに、いざそれを発信しようとするとどうにも手が震えてしまうのだ。
ロイがまだ早いと言っていたのは、こんな私を理解していたからだろうか。
それでもロイはやっぱり止めようとは言わなかった。
我慢強く見守って、そこにいてくれた。
おかげで、10日もかかったけれどちゃんと言葉は紙に自分の字で書かれたのだ。
そして、返事が届いたのは次の日のことだった。
夕方にロイに託した手紙が翌日の朝に返ってくるというのは、お姉ちゃんと文通をしてから最も早い間隔だ。
「それだけ心待ちにしていたんだよ、ミサキは」
「う、うん…」
「ほら、緊張しないのは無理だろうけど、少し体の力抜いて?」
私の決意が揺らぐ前に会いたいという私の我儘を受け入れてくれたのか、会う日はすぐにやってきた。
あの手紙からわずか5日。
今私は自分の部屋の寝台の上で、何度も何度も深呼吸をしている。
広い部屋の出入り口付近から半分のあたりで、ほんの少し透明がかった水色のカーテンが揺れている。
私がいるのは部屋の奥側。
お姉ちゃんとマサ兄は扉側に来ることになっている。
カーテンは淡い色で、ほんのり向こう側が見えるようなそんなものだ。
この屋敷は綺麗な水色で溢れている。
壁も寝台も家具のひとつひとつが、透き通った淡い水色なのだ。
白と水色の世界、もう慣れてしまったけれど改めて見回すととても綺麗な色だと思う。
心が回復し始めた頃、ロイにそれを告げたことがある。
ロイは嬉しそうに笑っていた。
そしてそこから続いた会話の中で、この国の人は遺伝によって髪目の色が継がれないから同じ家系でも色んな髪色や目色の人間がいるのだということ、そしてそんな背景から体に現れる色を個性として家や装飾品などに使うことが多いということを知った。
今ではこの淡く優しい水色に囲まれると心が安らぐようにまでなっている私。
カーテンの色もまた私に落ちつきを与えてくれる。
「よしよし、良い子。俺がずっと横にいるから大丈夫だよ」
「うん、ありがとう」
「…良い子」
ロイが優しく頭を撫でてくる。
甘えてしまっていいのかと未だに悩む自分もいるけれど、素直にロイに頼るとロイは嬉しそうに笑ってくれる。
だから、いつも心からお礼を言うことだけは忘れず甘えることにした。
そうして心を何とか落ち着けていた私。
ギイッとカーテン越しに音が響いたのは、そんな時だった。
「っ」
「大丈夫だよ。怖い?」
反射的に強張る私の背をゆっくり撫でてロイが聞いてくる。
なんとか意識を保って首を横に振ると、ロイは苦笑してから頷いた。
「ちょっと、待ってて。確認するから」
そう一言告げてからそっと私の傍を離れて、私からは見えないようにカーテンをめくって扉の方を確認しする。
「や、2人ともよく来たね」
「ロイシュさん、色々ありがとうございます」
「いえいえ。…で、マサヒロも元気?」
「……」
「こら、マサ。あんたね」
「いいよ、ミサキ。ちょっと複雑だしね、俺達の関係も」
間近でお姉ちゃんの声を聞くのは本当に久しぶりのことだった。
相変わらず凛とした声。
自然と体中が熱くなるのを感じて、少し嬉しくなる。
ちゃんと自分の中に慕う気持ちがあるのだと確信して。
うっすらとカーテンに映る2人の影から表情なんて勿論見えない。
けれど、そのシルエットや声、雰囲気からそこにいるのが紛れもなくあの2人なのだと強く感じていた。
思わず手に力が入る。
声を聞いてみて、前みたく体が狂いそうにはならない。
その事実にはまず心底ほっとしたけれど、どうしても体の緊張だけは抜けてくれない。
空気が薄く感じて体がガチガチになってしまうのは、どう念じても治ってくれない。
落ちつけ、落ちつけ。
何度も自分に言い聞かせる。
「彩美、手紙ありがとう。会いに来たよ」
そうしてどれだけ時間が経ったか分からないけれど、私に向かって声が届いた。
ハッと顔を上げる私。
けれど、言葉がどうにも口から出てきてくれない。
声を出せと頭は命令を出しているのに、体が言うことを聞かない。
何を言えば良いのかも分からない私は焦ってしまう。
気付けばロイがまた私のすぐ傍に戻ってきて私の背を宥めるよう撫でてくれていた。
膨れてしまいそうな得体のしれない感情を、ロイに縋ることで何とか押しやる私。
ロイの服の裾を皺くちゃになるまで握って、息を何度も吸う。
「あ、ありがと、う」
ひどく掠れて片言になってしまう言葉に、情けなくなって泣きそうになった。
ロイとあれだけ話せるようになったから、自分はかなり大丈夫になったんだと思っていた。
けれど、どうやらそういうわけでもないらしい。
こんな短い言葉を一つ出すことすらまともにできない。
それもロイに縋りながらで何とかやっとだ。
当たり前のことが当たり前にできない。
悔しくて情けなくて、そんな姿を惨めに晒す自分が滑稽で、苦しくなる。
まだまだ駄目な自分を認識して、予想以上にショックを受けている自分がいる。
ロイがあんなに心配していたのはこうなることを分かっていたからなのかもしれない。
でも、それでも、だ。
前に進まなきゃいけない。
変わると決めた。ならば何もできないなりにもちゃんと気持ちだけでも強くもたなきゃ。
そうじゃなきゃ、こうやって会おうと言った意味がなくなる。
そんな私を見てどう思ったのか、ロイの顔が強張っている。
少し険しい顔になっているのは、何かを感じとったからなのか。
「アヤ」と私を呼ぶ声すら心なしか固く感じる。
目を見ると、明らかに迷っているのが分かった。
ロイからみて今の私の精神状態は、許容範囲のかなりギリギリのあたりを行き来しているらしい。
けれど、駄目だ。
逃げちゃいけない。
今逃げちゃ、何もかも台無しだ。
「…アヤ、やっぱりまだ早」
「ちょっと、マサ!?だ、駄目だってば!ちょっと!!!」
ロイが何かを言おうとするのと、お姉ちゃんの叫ぶような声が聞こえたのはほぼ同時だった。
そしてこれもまた同時に、ガタンという物が動く音とダンダンと床を跳ねる音も耳に届く。
ザバッという大げさなくらいの音が鳴って視界が開けるのはすぐのことだった。
境界線が一瞬消えてまた現れるまでの間に、大きな影がどんどんと近づいてくる。
いきなりのことに上手く体が反応できなくて、代わりに体中に得体のしれないモノがブワッと溢れ出てきた。
「ヒッ」
何が何だか分からなくなってパニック状態になってしまった私の体から出てくるのは、声にもならない引きつり声。
「マサヒロ!!!」
近くでロイの怒鳴り声が響く。
私を隠すように抱き込んで、部屋が割れるくらいの大音量で怒るロイ。
初めて聞くロイのそんな声。
完全にパニックになっている私はそれすらも上手く認識してくれない。
ただただ恐怖に支配されてガタガタと震える体。
けれど、マサ兄は歩みを止めることなく私に近づいて両肩を掴んできた。
咄嗟に庇うように手を顔の前に動かし、目をきつく閉ざす私。
「…吐きたきゃ吐け」
マサ兄は、やっぱり荒い声でそう言った。
その声はいつもより低くて、マサ兄もまた怒っているのだとこんな時なのに正しく理解する。
けれども、どうすればいいのか分からない。
感情の膨らみが激しくなって、あっという間に破裂しそうになる心。
目がぐるぐる回って急激に気持ち悪くなって、マサ兄の手を払い目の前にあった桶にせりあがってきたものを吐きだす。
それでもガタガタ震える体や気持ち悪さは抜けない。
「マサヒロ、お前一体どういうつもりだ!」
「うるせえ!!」
ロイの怒鳴り声を怒鳴り声で被せると、部屋の中はシンと静まりかえった。
「吐きたきゃ吐きゃ良い、怖いなら怖いで良い、話せねえならそれでも良いんだよ!ボロボロだろうが怪我だらけだろうがアヤはアヤだろうが!!お前自身がそれ否定すんな、こんな時まで俺らのこと考えて無理すんじゃねえよ!!」
「ま、マ、サに」
「…ざけんな。良いんだよ、何もできなくたって。そんなことで俺らがお前を見損なうとでも思ったのかよ、ふざけんな…!」
そう言って、マサ兄はその場に崩れるように膝をつく。
ぼやける視界でその姿を見つめるとマサ兄の手もまた傷だらけで。
その傷だらけの手にぽたぽたと何かがこぼれているのが分かる。
…泣いて、いる?
あのマサ兄が。
ハッと、突然に頭が覚醒する。
心にマサ兄の言葉が入り込むまでどれだけ経ったか分からない。
「ご、めん…」
けれど、ふいに体中熱くなった。
マサ兄の言葉の真意を深くまで理解できているわけじゃない。
けれど、マサ兄がどれだけ私を思ってくれたのかは伝わった、たぶん。
うまく説明できるわけじゃない。
言葉じゃなくて、理屈でもなくて、ただただ感情が震えて膨れる。
今度のソレは、同じく得体のしれないモノではあったけれど、不思議と怖いとは思わなかった。
その証拠に、行き場のないはずのソレは、目から形となって溢れてくる。
「ごめん、ごめんね、マサ兄…!」
涙が止まらなくなって初めて、私は無性にとてつもなく安心したのだと気付く。
本当はたまらなく怖かった。
何かと理由を付けては2人に置いていかれないよう、嫌われてしまわないよう、縁が切れてしまわないようひたすら怯えて無理をしていた。
そんな狂いそうになる私の心の叫びを無理に無視していたこと、きっとマサ兄は気付いたんだろう。
何があろうと大丈夫だと、マサ兄に言われた気がした。
そうだ、どんな私だろうと良いんだとマサ兄は言ってくれたんだ。
そう理解できたのは、マサ兄に怒鳴られてずいぶん経過してからのこと。
それを言葉に紡ぐことも出来ず、私はただただ泣いた。
気付けば、あんなに体中を支配していた震えは消えていた。




