エン・キル
a-1
濯がれた身体はいまだ熱りを残したまま。私は鏡の中の自分を彩る。
派手にならないように、地味すぎないように。
洋服は昨夜のうちに選ばれている。時間的な余裕は得られないと思ったし、それほど種類を揃えているわけでもないから、やや妥協。
気合を入れちゃダメ、入っているように見せちゃダメ。
今日出かけるのは“彼”に会うため。もちろん付き合っている彼氏じゃない。ネットで知り合い、チャットで仲良くなって。私が小さな悩みを打ち明けると「会って話そう、というか会いたいから」なんて言い出したのは彼の方。
今日はその約束の日。
彼にも彼の予定があって一日拘束されるわけじゃない。おそらくは一瞬の邂逅にも等しいのではないだろうか。それでも良い。それで良い。
伝えたい言葉はそれほど多くはない。謝罪と感謝、それと――。
大丈夫、時間はまだ、ある。
b-1
何も見えない。闇に浮かぶ意識。覚醒は靄がかかったまま。ここは、どこだ?
「ここはまだ現世さ。といっても、境界線は近い。このまま逝くか?」
現世。境界線。耳馴染みの無い言葉だ。君は、誰?
「あ? 何だよ、自覚なしか? てめぇは死んだんだよ。で、ここはあの世との境目。自分が誰か解ってるか?」
そこでようやく、僕は声の主を確認する。持て余し気味のダブッとした白い服。整った顔立ち。金の髪。その上には輪。天使の――。
「そうだよ。俺はお前を迎えに来た使いだ。おまえは――えーと、『穂村 彰人』二十四歳。ちょっ、高卒でフリーターかよ。いけてねぇな」
闇に映える白い羽を大きく広げ、どこからか取り出した分厚い手帳を見ながら、他人のプロフィールを嘲笑う天使。最悪だろコレ。口悪いし。
「うるせぇよ。続けるぞ。犯罪暦なし。扶養家族なし。両親……も死別か。なんも無ぇな」
そっちこそうるさいよ。そうだよ、何も無いよ! 僕にはやりたい事も、特筆するような趣味も、特技も、就職先も……夢も希望も無いんだよ! 死んだ方がマシかよ! 死んだ……僕、死んだのか?
「やっと自覚したのかよ。本日、西暦二〇一一年三月十五日。午後四時頃だな。コンビニから出たお前に、暴走したトラックが衝突。即死だ。死に方が派手で良かったじゃねぇか」
良いわけ無い。何も無い人生だったけど、これからだろ? まだ若いんだぞ僕は!
「そうは言っても、もう済んじまった事だ、諦めな。急ぎ伝えるべき相手も居ねぇし、お前が居なくなって困るような奴も居なさそうだぜ? まぁ、葬式してくれる親戚ぐらいは居るかもな」
ああ、遠方に住んでる叔父叔母が事情を知れば、それくらいは……あ、十五日? 明日じゃん!
「なんだ、何か未練でも有るのか? 一応聞いてやるぜ、未練なんか残ってたら、迷っちまうからな」
有る。明日は、約束の日なんだ。
a-2
電車を乗り継いで、駅に降りる。
約束の時間まではもう少し時間がある。彼から指定された場所は、駅の出口を出て目の前の公園だ。早春の風は頬に心地よく、行き交う人達も皆笑顔に見えた。私の足も自然と早まる。だけど――。
「えっと、公園て、どこ?」
浮かれ気分は早々と行き詰る。左右を見渡せど、それらしき物は見当たらない。
確認してみよう。そう思って私は携帯から、彼との会話ログが残っているはずのチャットルームへアクセスを試みた。
毎日必ずそこへ来ていた彼が、昨日はなぜか何も書き込まなかった事は、今朝も確認したばかりだった。入室してみると、一番上には私こと『ピーナッツ』の入退室のメッセージ。やっぱり、彼は一昨日からアクセスしてきていない。昨日は、今日の事を楽しみに準備に勤しんでいるのかなとか、思っていた。自分と同じように。だけどここに来て急に不安になる。彼との約束が、その存在そのものが、幻だったのではないかと。
慌ててスクロールした携帯の画面には、間違いなく『ピーナッツ』と『アギト』の会話が残っていた。一先ずホッと胸を撫で下ろす。幻なんかじゃない。彼も、私も、間違いなくこの世界に存在しているんだ。
改めてログを読み返す。約束の場所は公園の噴水の前、この駅の東出口を出てすぐの……東?
駅の出入り口付近に掲示されている、駅名の入った案内板を確認する。西出口。逆方向じゃない!?
慌てて踵を返し、今出てきたばかりの駅に駆け込む。当然早足。
大丈夫、時間はまだ、ある!
b-0
高校を卒業した頃、親父は病気であっさりとこの世を去った。
大学なんか行けなくたって、就職活動してなくたって、生きていく事は出来るさ。そんなふうに考えていた僕は、当然のように世間の厳しさを思い知る事となったって訳だ。高卒では大手の会社は見向きもしてくれない。アルバイトすら未経験者の僕に、どこの面接官も良い顔はしなかった。そんなニートの社会復帰への第一歩に手を引いてくれたのは、近所のコンビニエンスストア。だがもちろん、そんなところに腰を据えるつもりなど毛頭無い僕は、真面目に働く先輩店員を横目で見ながら、いかに楽するかを考えている始末だった。
そんなゆるやかな坂を下るような生活も板についてきた頃、母が倒れる。過労だったそうだ。心労もあっただろう事は想像に難くない。僕は家事もこなさなければならなくなった。体に相当無理を強いてきたのだろう。病床の母は合併症を引き起こし、そのまま帰らぬ人となった。
遺産とかは葬式代や家のローン等でほぼ消滅したらしい。その時お世話になったのが、叔父夫婦だ。葬式の準備も、お墓の手配もしてくれて、一人残った僕に一緒に住まないかとまで言ってくれた。まぁ、さすがにそれは気が引けた。叔父さんの誘いを丁重に断って、家財道具を売り払い、質素なアパートの一室を借りた。住み慣れた場所を離れ、忙しさに身をゆだねていると、悲しみは日常に埋もれていく。そんな小さな安息さえ、僕にはすぎたものだったのかもしれない。
実家から持ち出したのは、自分の服と生活必需品。家電一式と一台のノートパソコンだった。
今流行のブログやツイッターをやっているわけではないが、お気に入りのホームページや、知り合いのブログを巡回する事が日課だったのだ。そして僕はとあるチャットルームにたどり着く。無料で借りられて、比較的自由にカスタマイズできるそれを利用して、一人語りを楽しむ事にした。我ながら暗い趣味だ。ブログでやれと言われそうだが、仕事仲間や客に対しての罵詈雑言を世界に晒したいとは思わないだろう? 普通。
それは、そんなある日の事だった。
どこからたどり着いたのか、自分の名前を捩っただけの僕のハンドル以外の入室者が現れたのだ。名前は『ピーナッツ』。入室した後すぐに退室したらしいが、僕の日記でもあるログを読まれた可能性がある。入室しないとログは読めないように設定してあるのだが。まぁ、良いか。一人くらい僕の愚痴を聞いてくれる人が居ても良いだろう。そんな人もっとが増えるようなら、このチャットルームを閉めれば良いだけだ。そう高をくくっていた。結局その後、ピーナッツさん以外の訪問者が増える事は無かったしね。
それから、僕とピーナッツさんの奇妙な追いかけっこが始まった。
彼(彼女?)は、けっして僕の居る時間帯に入室してこない。一度メッセージを残してみた事もあるが、一言も返信はない。けれど必ず毎日入室して、ログを読み、退室していく。その時間はまちまちで、待ち伏せも出来ない。入室しているところに突入しても、すぐに逃げられてしまうのだ。
まぁ、むきになる事は無い。ログを読んでいるなら、僕がどんなにダメな人間なのかはバレているだろうし、そんな人間と話をしたくないのかも知れない。……そう思うと、少し落ち込むが。ともかく、ピーナッツさんとは一定の距離を保ちつつ、不思議な連帯感を感じるようになっていた。
とか思っていたら、コレだよ。
入室者の欄には『ピーナッツ』と『アギト』の文字。当然だが『アギト』は僕だ。入室時間がほぼ一緒だったらしい。ダメもとで呼びかけてみよう。せめて挨拶だけでも、そう思ってキーボードに指を走らせる。
アギト:こんばんは、同時に入室するなんて奇遇ですねw
返事は期待していなかった。またすぐに退室するだろう。そう思っていた。だが数秒、数分。沈黙のまま、だけど退室もしない。迷っているのだろうか。少しでも、僕と会話しようと思ってくれたなら、それは嬉しい事だ。
そしてそれは、僕がうっすらと期待した通りのかたちで返ってきた。
ピーナッツ:こんばんは。
白い背景には読みにくい黄色の文字で、表示された挨拶。その色は慎ましさを表現したかったのかもしれない。頭の中では笑顔の顔文字が右から左へ抜けて行く。僕は画面の前で、けして高くは無い天井に向けて拳を突き上げた。
アギト:はじめまして……は、おかしいですね^^
ピーナッツ:すいません。今までお返事もしないで><
アギト:いえいえ、良いんですよ。こんな奴と話したくなかったんですよねww
ピーナッツ:ち、違いますよ(汗 私が小心者なだけです^^;
お、ピーナッツさんは女性なのかな? 書かれる言葉も丁寧だし、僕の好感度も悪くは無いようだ。地道に積み上げてきたフラグのおかげだろう。などとバカな事を考えながら、画面に向けてほくそ笑む。
アギト:今日は、どういった心境の変化ですか?
アギト:っていうか、どうやってココの事を知ったんですか?
質問攻めだな。だけど仕方ない。向こうは僕のことをある程度知っているだろうけど、こっちは彼女の事をまるで知らないのだ。まぁはぐらかされても仕方無いし、まともな答えを期待している訳ではない。話題づくりの一貫だ。
ピーナッツ:どこか別のチャットにURLが貼られていたのを、私の彼が見つけてきたんです。
ピーナッツ:彼は見向きもしなかったけど、私はチャットに一人で何をするのか気になって……
彼氏居たよぅおうおう。……まぁ、正直そこは想定内なんだけど、一応ね。
アギト:そうか、酔っ払って調子に乗って、どこかに書き込んだんだな、きっと。
ピーナッツ:そんな感じでしたww
少しはうちとけてきたのか、ピーナッツさんは饒舌に語ってくれていた。次に放つ爆弾も、その延長だったと信じたいね。
ピーナッツ:それで今日は……
アギト:fmfm
ピーナッツ:その彼氏にふられて来ました(笑
いやいやいや、笑い事じゃないから! 思わず画面に向かってツッコミを入れる。いや、文字を打ち込まなきゃ通じないだろう。自分にも入れる。
アギト:えええええええっ!?
ピーナッツ:なんか、向こうは付き合ってるつもりじゃなかったとか言い出して。それじゃあ毎日一緒に登下校したり、月に二回はデートしようねとか話し合ったり、キス、とか。何だったの? って感じです;;
うわぁ、地雷踏んだか? 流すか、ここは。
アギト:あの、なんて言えばいいか……。 あ、学生なんですね(←
どんな方向転換だよ、おい。自分の気の利かなさが残念で仕方ない。
ピーナッツ:はい。高校三年。あ、受験生です(ハート
アギト:へぇ~、って、こんな事していて良いんですか!?
ピーナッツ:ええ、試験自体はもう終わってますから。
ピーナッツ:一校はもう受かっちゃってるんですよv
アギト:おお、それはすごい。おめでとうございます><
ピーナッツ:ありがとうございます^^
どうにか、話題も逸れてくれたみたいだし、本当にメデタイな。
ピーナッツ:ただそこは、元彼と一緒に行こうねって約束した大学なんですよね……
うわー、こっちもダメだったー。なんかもう、逃げ場無しって感じだ。
ピーナッツ:もちろん彼も受かってますよb
アギト:えっと、おめでとうとお伝えください。
ピーナッツ:もう、会いたくないです
その一言を残して、少しの間沈黙が続いてしまった。ヤバイ、空気が重い。電気信号でそれが伝わるのかは解らなかったが、そんな感じがしたのだ。何か上手いこと言わないと。
ピーナッツ:で、明日。別の学校の合格発表なんですっ!
アギト:へ、へぇ。そうなんだ。うん応援するよ。今から応援してどうにかなるもんじゃないけど。合格できるよう祈ってるよ^^
ピーナッツ:ありがとうございます^^v
結局、僕の方から話しかけるの事は失敗した。だけど彼女からの反応は、それほど落ち込んでもいないように見える。僕が下手に慰めたりしなくとも、彼女は一人でも立ち直れるのかもしれないな。
ピーナッツ:もし落ちてたら、アイツと同じ学校に通うの嫌だなぁ……
アギト:行かなくても良いよ、行きたくない大学なんて。
アギト:一緒にフリーターやろうぜ☆
ピーナッツ:お断りしますww
ピーナッツ:はぁ、もう……死にたい。
彼女の指は、どんな気持ちでその言葉を打ち込んだのだろう。インターネット内ではわりと簡単に使ってしまえる言葉。だけど僕には、それが危険な香りを漂わせているような気がしたんだ。
アギト:えと、大丈夫ですか? そんな事言われたら心配になりますよ?
アギト:あ、あれですか? 僕の気を引きたっかったとか、そんな感じですか?
アギト:だったら良いなーという妄言ですが^^;
何を言ってるんだ僕は、もっと他に無かったのかよ。恐ろしいほどのセンスの無さに驚愕すら覚えるよ。実際、彼女からの返信はしばらく止まってしまった。
アギト:あー。良かったら、会ってお話しませんか? と言うか、ぶっちゃけ会ってみたいだけなんですがww
さすがにコレは行きすぎかな、と思った。だけど、言葉だけで慰めるなんて高等技術は持ち合わせたいないし、他に良い考えも浮かばない。
アギト:ダ、ダメですよね。そもそもどこに住んでいるのかも知らないし……
ピーナッツ:いいえ、わりと近くに住んでますよ。貴方のアルバイト先、隣町ですから。
アギト:ま、マジっすか。じゃあ、ピーナッツさんに顔知られていたり?
ピーナッツ:いえいえ、お店に入った事は無いです。
今度こそ早とちりでよかった。僕が他の店員や常連客にあんな事こんな事考えているのを、彼女は知っているのだ。店に近付かれると大変マズイ事になるかも知れなかった。彼女が僕への興味をネットの中だけに留めてくれた事を、感謝しないといけないのかも知れない。
だけど、そこで油断してしまうのは、早計だったと言わざるを得ない。次の彼女の言葉は、僕の心をひっくり返すほど揺さぶるのに、絶大な効果を発揮したのだから。
ピーナッツ:でも、そうですね。会ってみたい、かな?
a-3
改札口で行き来する人込みをかき分けて、私は駅の構内を突っ切っていた。お気に入りのブーツの踵が擦り減るのを気にしてなんかいられない。時間はそれほど残されていない。
東出口から駅を飛び出すと、目の前には大きな公園が見える。中央に居座る噴水は、その存在の証でもある流水を湛えてはおらず、春の訪れを待っているようだった。そして私は、同じように誰かを待っている風の、長身の男性を見つけてしまったのです。
跳ね上がる肩と胸を落ち着けるために、大きく息を吸い込む。目をつむって、溜めた息を吐き出す。深呼吸は、高鳴る心にまでは効果を発揮してくれなかった。だけどそれは、熱くて。
踊りだす心ごと、私は一歩前に踏み出した。
b-2
「で、その娘に会いたいって?」
何かバカにしたような言い方で、呆れ顔の天使が言う。
そりゃあそうだろう。JKとただでお知り合いになる機会なんて、そうそう無いよ。ピーナッツさんは良い子みたいだし。
「言葉のやり取りだけで解るのかよ。っていうか、そんな理由なのかよ」
もちろんそれだけじゃない。心配だし。僕の慰めなんて効果ないと思うけど、気を紛らすくらいなら出来るって信じたい。
僕は本心から、そう思っていた。
「そうかよ。ま、そいつは信じてやるよ。だが残念だったな」
全然残念そうではなく。むしろ面倒臭そうに、天使は溜息を漏らす。
「お前はその娘に会うことは出来ない。諦めろ」
a-4
噴水に近付いた私に気がついて、その人はゆっくりとこちらを向く。すらりと伸びた足。細い指先。切れ長の目。さらさらの黒髪には、ところどころに染め残しが見える。それはアルバイトをするのに不都合だからかもしれない。それとも、私と会うためにわざわざ染め直したとか? と、自惚れた妄想はいらない。それよりも、なに? 誰、このイケメン。
「ピーナッツさん?」
少し遠慮がちに呼びかけられたのは、間違いなく私のハンドルネーム。
「あ、あの、はい。アギトさん……ですか?」
互いの名を呼び合う二人。恥ずかしそうに頬を染めて見つめ合う。高鳴る心音は心地よく、いつまでもこうしていたい衝動に駆られる。だけど私には……。
b-3
何でだよ。こういう時って、願い事が聞き入れられるもんじゃないのか? 普通。
「どんなお話の中の普通だよ、そりゃ。いいか? お前の身体はトラックに轢かれたんだ。原型なんてほとんど留めてねぇんだよ。その身体に戻ってみろ、ゾンビだぞ?」
くっ、じゃあ――あれだ、夢枕とか!
「変な事ばっか知ってるな。あれか? てめぇは『死にたい』っつった女の子に『僕は死んだけどがんばれ』って言うのか? どんな鬼畜だよ」
ううっ、じゃあ、じゃあ……。
何か有るはずだ! 僕は無い知恵を絞って、彼女に会う方法を考える。出てこない。考えろ、考えろ!
「ねぇよ、そんな方法。そうだな、向こうはお前の顔も知らないわけだし、その辺を歩いてる奴に取り憑いて、彼女と会うとかかな? 出来るとしても」
そうか、それならっ!
「ただし、そんな事したらそいつに迷惑だし、出られなくなる可能性も有る。そしたら悪霊決定だな」
うっ、それは嫌だな。天国にも行けなさそうだ。
「ああ、だからもう諦めろ。魂、導いてやるから」
ちょ、ちょっと待ってくれ! そうだ、君は!? 君は彼女と会うことが出来る?
「ん? まあ、出来るけど……待て、何を考えてる?」
もちろん、君が彼女に会って、僕の言葉を代わりに届けてくれるって事をだよ。
「それで良いのかよ! それじゃ、てめぇが彼女に会った事にはならねぇだろうがっ!」
良いんだよ、僕のことはもう。彼女が生きていてくれて、幸せなら言う事ないよ。
「……そうかよ。わかったよ、どうなっても知らねぇからなっ!」
a-5
「は、はじめまして、『森 日夏』です。わざわざおこしいただいて、すいませんっ」
「いや、こっちが呼び出したんだし、そんなに畏まらないで良いよ」
苦笑いの後に、彼は『穂村 彰人』を名乗ってくれた。
そして困ったように目を逸らし、頬を染める。これは、ヤバイ。熱くなる思考を無理やり押さえつけ、私は今日の本題を探る。
「あのっ! 来てくれて嬉しいです。でも私、試験落ちちゃってて……応援してくれたのに、申し訳なくて、一言だけでも謝ろうと思って。ごめんなさい」
一方的にしゃべり終えて頭を下げると、少しだけ体が軽くなったような気がした。彼がどんな想いで応援してくれたかなんてわからないのに、自分の気持ちだけ押し付けてしまった事に、申し訳なさが増していく。
頭を下げたままの私に、彼は手を差し伸べてくれた。その手に甘えて顔を上げる。だけど見えたのは、彰人さんの怒ったような表情。あ、私、なにか失敗しちゃった?
「あのさ、君は謝りに来ただけなの? 『アギト』は本当に心配したし、応援も本気でしてた。でもそれは『アギト』が勝手にやった事だ。君が謝る事はないし、謝ってほしくない。謝る姿なんて、見たくないんだよ」
ハンドルネームを自分とは別人のように語るのは気になったけど、理解は出来た。そうだ、謝りたかったのは私。彼が欲しいはずの言葉を探す。それは、ちゃんと私の中にも有る言葉だった。
「ありがとう、ございます。本当に、本当に嬉しかったんです。私の話聞いてくれて、心配してくれて、ありがとうございました」
笑顔が、こぼれた。
c-1
夕闇が町を照らす頃。
俺は雑音あふれる人の営みを上空から眺めていた。これから迎えに行く予定の魂が、のん気に買い物なんかしている。バイトあがりで夕飯を物色しているようだ。その最後の晩餐は、こいつの腹におさまる事はないのだけどな。
どんなにちっぽけな存在でも、どんなに汚れた心の持ち主でも、人の命は等しい重さで扱わなければならない。溜息が夜風に乗って消えた。
「哀愁か、似合わないな」
「うるせぇよ」
自分と対になるような、黒い衣が姿を現す。その存在には気付いていたが、話しかけてくる事は珍しい。
「なんだよ。何か用なのか?」
「いや、こっちも仕事だ。近くで」
紅に染まる町を見下ろす黒と白。なんだよコレ。どう考えても、健全な風景とは言い難い。
「……あれか」
「ああ、そうだな」
日常を切り裂く不協和音を奏でながら、かなりのスピードでカーブを曲がってくるトラックが、遠くに見えた。運転手も何か理由があっての事なのか、その辺の理由は知らされていない。迎える魂以外の情報が与えられない事に文句をいうつもりも無い。
「そっちは?」
「隣町だ。そろそろ冷たくなっている頃だろう」
時間つぶしに来たらしい。この地域担当のコイツとは、よく顔を合わせる。互いの仕事について文句をいうつもりは無いが、そのビジネスライクなやり方を褒め称えようという気にはなれなかった。
「見ろ」
「あ?」
突き出された死神の手には糸が乗っている。紅い光の糸。人と人とのつながりを表しているそれが、俺の今日の客に向かって伸びていた。
「なんだこりゃ? 昨日には無かったはずだぞ」
「こっちの先に、私のターゲットが居る」
無表情の言葉に、思わず息を呑む。それはいつの日にか結ばれる、運命の証……生きてさえいれば。
「んだよ、それ」
「このままでは、どちらかがどちらかに惹かれ、迷う可能性がある。切っても良いか確認に来た」
それは一番簡単で、楽なやり方だと思う。だが俺は死神が持ち上げた鎌に待ったをかける。それではあまりにも救われない。救うのは、俺の仕事だ。
「あー、ストップ。待て。それは最終手段な」
「そうか、なら……」
俺の言葉に素直に従い、死神は背を向ける。始めっから切るつもりは無かったかのように、だ。
「上手くやれよ。時間厳守だ」
「うるせぇっつってんだよ。早く行け!」
死神が消えると同時に、トラックに轢かれ宙を舞う憐れな魂に、手を伸ばす。アイツのにやけ面がチラつくのを無造作に振り払った後にな。
まったく、めんどくせぇ事になったぜ。
a-0
闇に浮かぶ意識、私が私を見下ろしていた。
自宅のバスルーム、シャワーヘッドから水滴が落ちる。湯船に張られた水には紅が泳いでいる。浸される私の左腕。その手首に重ねられた「ためらい」は、終にその本懐をとげたのだ。ああ、やっちゃったな。
「後悔しているのか?」
思考に割り込んできた声に、振り返る。誰? 今日はまだ誰も帰ってこないはずなのに。
「お前を連れに来た使者さ。だが、そのままでは囚われて、逝けなくなる」
ダブッとした黒いローブのフードを目深に被り、黒い前髪の隙間からこちらを見つめる冷たい視線。その手には長柄の刃物。死神の……。
「そう呼ばれる事も有る。『森 日夏』、君は状況を理解しているようだな」
もちろんそうだ。私は昨日彼氏にふられ、今日試験に落ちたことを知って。心にあいた穴から聞こえた声に、誘われた。可哀想な自分の残りカス。違う?
「そこまで卑下する事もないが、大方間違ってもいない。未練が残っているなら言ってみると良い。最後の言葉くらい、聞いてやれるかもしれない」
物々しいその姿からは想像できないような、優しい言葉。だけど、この世に未練なんて有ったかな? バスルームを出て部屋を渡り歩く。扶養という名目でお金という名の愛をくれる両親は嫌い。彼らは私を着せ替え人形かなにかと間違えているのではないか、と思う時がある。だから、いらない。彼氏との思い出の品なんか、もうどうでも良い。彼を紹介してくれた友達には、何も言えないままだった。今も。結局私の目に止まったのは、自室に有る一台のパソコンだった。
そうだ、明日“彼”と会う約束をしていたではないか。チャットルームの中の彼は、いつも世界に向かって不平不満を連ねていて、しかも結局自分が悪いんだと嘆いている。そんな人だった。なのに私が愚痴をこぼすと、応援したり、心配したり、気を使ったりしてくれた。そんな彼の姿が、言葉が嬉しかったのだ。
私は彼に、会いたい。
「良いだろう。君を元の身体に戻す。だがそれは二十四時間しか持たない。時が来れば、君の魂は身から剥がされ、身体はその場で死体に戻る。それで良いか?」
良いも何も、それ以外の選択が無い。そしてそれは、願っても無い事だった。
バスルームに戻ると、死神の鎌は整列したタイルをかすめて弧を描いた。使者が冷たい私の身体から“時間”を刈り取ったのだ。
幽体が、身体に戻っていく。
「出来ればその時には、この場所に居る事が望ましい。時間厳守だ、良いな」
ハッキリとしっかりと意識が戻り、重い目蓋を押し上げる。私の目にはもう、使者の姿は映らなかった。水から手を引き抜いた私は、虚空に向かって返事をする。
「はい、解りました」
まだ動きの鈍い体を起こす、準備を始めなければならない。
私に与えられた時間は、短い。
a-6
「あのっ、申し訳ないんですが、私もう時間が無くて」
もう一つの約束の時間まで、もうあまり余裕が無い。手放すには惜しいほど幸せな時間だったけど、彼に自分の醜態を晒すわけにはいかないのだ。
「そうか、残念だけど。無理言っちゃ悪いよな……えっと」
「あ、あの!」
別離の言葉とは別の何かを探すように視線を泳がせた彼の言葉をさえぎる。
これ以上一緒に居たら、これ以上優しい言葉をもらったら、離れたくなくなるかもしれない。それではマズイ。彼にはこれからの生活があるのだから。
「私もう、あのチャットに入りません。えと、忙しくなるかもしれなくて、それで」
「そうか、そうだな。僕もあそこにイロイロ書き込むのを止めるよ」
「え……」
あれは、あの場所は彼にとって唯一の逃げ場所だったはずだ。大事な。
「元気に頑張る君を見てたら、いつまでもあんな所に引きこもってちゃダメだって思ってさ」
自分の最後の行動が、こんなにも彼に影響してしまった事を、私は喜んで良いのだろうか? ただそれは、とても嬉しい。
「そう、ですか。そうですね。私もそれが良いと思います。頑張ってください」
「うん、君も。大変だろうけど、いつでも応援するからさ。それしか出来ないけど」
そう言って、苦笑して、彼は右手を差し出す。大きな、温かそうな手。私は躊躇いながらそこに自分の手を重ねる。それは、新しい約束にも似て――。
「あそこに何も書き込みが無いうちは、僕が頑張ってるんだって思ってくれて良いよ」
「はい」
「それじゃあ」
「……はい」
どちらからとも無く、そのつながりは放たれて。重なる言葉。重ねられない、約束。
「さようなら」
b-4
僕は、彼の後ろでその光景を見つめていた。
「良いのかよ、これで」
立ち去る彼女を見送って、彼は振り向かないままで、僕に問いかける。
上出来だよ。僕だったらこんなに上手くはいかなかった。ありがとう。
心からそう思った。だって、彼女は笑顔だったんだ。
「じゃあ、もう良いな。送るぜ」
うん、よろしく頼むよ。
振り向いた彼も笑顔だったから、僕は彼に笑顔を返した。ただの光になっている自分の、どこが顔なのかはわからなかったけど。そこに彼の右手がかざされる。
「あばよ」
短いけれど、彼らしい言葉に見送られ、僕は意識を手放した。
a-7
息を切らせ、戻った我が家のバスルーム。もう一つの約束の時間。死体となって転がっていた昨日の自分がそこに居るような気がして、少しだけ息を呑む。
死神は、生者の目には映らないらしい。もう、そこに居るのだろうか?
「ギリギリだったな」
声がする。目を凝らしてみてもその存在を認識する事は出来ないが、確かにそこにいるらしい。
「ただいま、もどりました」
「ああ、スッキリした顔をしているね。もう、思い残す事は無いか?」
最終確認をする死神に、今度こそハッキリと言える。
「有りません。何も」
「そうか」
笑顔で最後を迎えられる事に、なんてお礼を言ったら良いのだろう。
「礼ならいらない、ただの仕事だ」
「そうですか? でも、嬉しかったです。ありがとう」
お礼の言葉もまた、自己満足なのかもしれなかった。だけど、どうしても言いたかったのだ。
そして私は、死神が持っていた黒光りする刃物を思い出す。私の首筋に目には映らない、冷たい金属が押し当てられたのだ。
「では」
「ええ、さようなら」
不意に私は、それが伝染するものだと、思い出した。刈り取られ、魂となって散っていくはずの私の目には、ほんの一瞬、死神の笑顔が映った。
c-2
「そっちは、終わったか」
一仕事終えた俺に、またも死神が話しかけてきた。その手には、今しがた刈られたばかりの魂と、委任状。
「受け取れ、後は君の管轄だ」
その魂に罪の意識は感じられない。すぐにでも、輪廻の輪に戻してやれるだろう。
「解ってる。寄こせよ、それ」
委任状は流し読みで良いだろう、どうせいつも同じ事しか書いてない。渡されたそれにサッと目を通し、筒状に丸めて懐にしまう。続いて魂。
「これはもう、このままで大丈夫だな」
手を離し少しだけ押し上げてやると、小さな輝きは断ち切られた紅い糸の先を探して、天上へ昇って行った。先に逝ったもう一つと、仲良くまたこの世に戻ってくる事はあるのだろうか。それを知る事ができないのを不満に思う事は無い。
見送った光が消えると、空では星達が各々のリズムを刻みはじめる。満天の――とは言い難い。街の明かりは小さな輝きを隠してしまう。だが、それの何が悪い。全てを見る必要なんて無いのだ。
そんな景色をぼんやりと眺めていると、黒い頭が寄りかかってきた。
「フラフラじゃねぇか。時間採取とか、高度な術を使うからだ」
俺は少しの間、仕方なく、疲れているそいつの支えになってやる。すると死神は、肩を揺らし楽しそうな声を漏らす。
「君の方こそ、人の為にその金髪を染めてやるなんて、なかなかの入れ込みようじゃないか」
うるせぇよと呟きながら、髪に指を通す。それだけで、黒い染料は剥がれて闇に溶けていく。
そのまま少しの間、俺たちは黙って星を見上げ続けた。空も時間も人の魂もまわりまわって一つになれば、運命が奏でる音楽を聞く事が出来るのだろうか。もっともそれを聞く事は、俺達には出来ないのだろうけど。一仕事終えた後だ。少しくらいそんな余韻に浸っていても罰は当たらないだろう。
ただこうしている間にも、迷ったり、囚われたり、行き場を無くす魂がこの地上に増えていく。
「そろそろ行くか」
「そうだな」
体を離すと、黒いフードがはずれ、夜風がその長い髪をさらう。おかげで俺は、死神の顔をまともに正面から見ることが出来た。今日は良く笑うな、こいつ。
「では、また」
「ああ、じゃあな」
別々の方向へ歩き出す二人。だけど挨拶は適当で良い。この大地がまわり続ける限り、またどこかで出会うだろう。
そんなふうに繰り返す、出会いと別れを想いながら――――。
<了>