一話 下 プロローグ
視界に映ったのは一人の少女。
なるほど、と土を踏む音が軽かったのに納得する。
現れたのは魔物ではなく、『人間の』少女だ。しかも、丈から推測するに、年齢はおそらく十かそこらである。
はぐれハンターは人間を攻撃するモンスターではないとはいえ、ウォードッグの見かけは犬の獣人だ。彼女の目を見つめれば、眼光の鋭さからして私をどう認識しているかはまさしく一目瞭然だろう。
太陽もでていないのに、ギラギラとした復讐の光が彼女の瞳から放たれている。
「あなた、誰なの」
そこらに転がっている食人鬼の死体を見下ろしながら、少女は言った。
「あなたのお腹の中に、わたしの友達や、お母さんが、いるの?」
分かりやすい、復讐の使者であり、その理由を私はよく知っている。
私はこのはぐれ共を襲う際に、『食事後』を狙っていた。満腹になり、油断していたところを奇襲したのだ。
ならば当然、食事になった人間達がいたのだ。
君の両親の仇は討った。
そう告げるつもりが、口は勝手に違う言葉をつぶやいていた。
「お前の親ってのは、いったいどんな形の肉だったんだ?」
少女の目がギッと釣り上がる。
「私と同じ、赤い長い髪をしていたのが、お母さんだ!肉なんかじゃない!」
「あぁ、アレか。アレの血は中々美味かった。その娘の若い血なら、お前の美味そうな匂いも納得だ」
口からでまかせが飛び出て、自分が何を望んでいるのか、言ってから理解した。
私は、殺されたがっているのだ。
殺されて、私の魂に蓄積された命の重さを、彼女に与えて去りたいのだ。
唯一本心から出た真の言葉は、匂いについて。犬の嗅覚が嗅ぎつけた彼女の良い匂いだけは確かで、実感がこもっていた。
だからだろうか。彼女は両手で持った包丁を腰だめに構えて、膝を曲げた。
だが残念ながら、その程度の刃ではいくら傷ついていてもウォードッグの肌に傷ひとつつかない。傷口に突き刺されれば死に至るかもしれないが、そもそもがじわじわと出血死する程度の傷だ。どうせならあっさり死にたい。
彼女の瞳をしっかりとみつめながら、私はゆっくりと、手を伸ばした。
その先には、血にまみれた愛剣がある。彼女の背丈を優に超えるサイズの大剣だが、その素材となっているフライト鉱石は持ち手の意思に応じて重さを変える希少な金属だ。この大剣はたとえそれが赤子であろうとも、全力をかけて振るおうと思えば誰にでも持つことができる。
少女は私と睨み合っていたが、こちらの動きに気づくと大剣をサッと拾い上げた。
この剣ならば、あっさりと死ねるだろう。
口の中に溜まってきた血を吐き出し、噛み付こうと上体を彼女に向けて倒す。もちろん噛み付く力も無ければ、狙いを定めるだけの余裕もない。
ただ、倒れかかるだけだ。
両手に剣を持った彼女の剣先に向かって、倒れこむだけ。
自分の体を愛剣の冷たい刃が通り抜ける感触に苦笑いして、私は自分の中の何かが彼女に流れ行くのを感じた。
呼気は吐き出し。心臓は止まった。血は流れず、意識が続くのも一呼吸の間だけだろう。
全て、出し尽くした。
瞼を閉じ、呟く。
「ありがとう」
彼女が動揺に息を吸うのを耳元で感じた次の瞬間。
私の体を光が包み込み、心臓が再び強く脈打ち始めた。
● ● ● ● ●
「こ……れは……?」
自分の体の中に、何か恐ろしい物が入り込んでいた。
心臓の動かし方など意識したことはないが、自分の体以外の何かが、無理やり私の体を動かしているのが分かる。
傷はみるみる塞がり、四肢には力が戻り始めている。
重いウォードッグの体を支えられず、少女が倒れそうになった。慌てて左腕をつき、残った右腕で彼女を抱えて立ち上がる。
夢かと思ったが、体に刺さった愛剣は確かに痛かった。
泣きそうな顔で剣から手を話した少女をゆっくり地面に下ろし、私は剣を引きぬいた。
血は出たものの傷口はみるみるうちに塞がる。やはり、おかしい。痛みを伴う夢などあるのだろうか。
自分の思考が乱れる中、1つだけ確信していることがあった。
この現象の原因は、少女にある。
いったい私に何をしたのか。問い詰めるつもりで彼女の眼を再び正視したとき、私の一生で最も強い衝撃が、私の魂を強烈に打ち付けた。
この少女に、従いたい。
馬鹿な。あり得ぬ。私は今、一体何を思ったのか。
よろめいて膝をつきながら、その正体を考える。分からない。ウォードッグは獣人だ。二足歩行する獣だ。人と交配することは不可能であり、愛情など覚えるはずはない。
だが、だとしたら胸のうちに生まれたこの衝動は、なんなのだ。
唸りながら胸を抑える私の手を、少女の小さい手が握った。
「ごめんなさい、わたし……勘違いして、あなたのことを……あなたは、はぐれを狩る側だったのに」
「なぜ、それを知っている」
はぐれの事も、はぐれハンターの事も、人間界の一般人は知りえない暗部だ。
そして、
「どうやって、それを知った」
気づいた。知っているのではない。彼女は、知ったのだ。
いつ? 今だ。
どうやって? 分からない。
だが分かる。
誰から? 私からに決まっている!!
脳裏に一つの単語と、伝承がフラッシュバックした。
否、もしかしたら彼女の方から流れこんできた記憶なのかもしれない。
どちらにせよ、驚異的な知識が、私の中に確信として広がっていく。
「魔物使い。実在していたのか」
殺した魔物を蘇生させ、己の従者として従える人間。
知識と意思の伝達・伝播が行われ、言葉を発さずとも互いの事を理解し合える最強のタッグ。
人間社会と共存し始めてからはついぞ一人も見つけられていなかったというのに、まさかこんなところに生きているとは。
「よく、分からないけど。お犬さん、あなたを死なせたくない」
「だがその為に、私に君の傀儡に成れと言うのか!?」
人間社会と魔物社会の共存のために働く。それ自体は良い。だが、年端もいかぬ10歳の少女の道具として生かされるなど、我慢がならない。
ならない、はずだった。
しかし心のなかには急速に納得と求心が生まれていく。
どうせ死ぬはずだった運命なのだ。拾ってくれた彼女のために使えば良いではないか。
違う。私は社会でもなく、誰のためでもなく、"何か"に尽くして居たはずではないか。
自分に問いかける言葉に答えてくれるのは、少女しかいない。
だがこの少女は既に、甘美な匂いを放つ女神のようにしか、見えなかった。
「お犬さんが、すごい嫌なの、分かる。だけど、わたしとあなたのやりたい事は、同じなの。だからお願い言って」
誓いの言葉を。制約の呪いを。己の口から放つことのみが、生存の唯一条件。
「わたしたちは、人間をむちつじょ?に食べちゃう『はぐれ』だけを倒す。そのために」
なるほど。
それならば、変わらない。
前の私と変わらないのだから、抗えない。
「私、ウォードッグのシンゴルファルは、君のための盾と矛になろう」
少女が差し出した手に鼻を乗せると、光は一際まばゆく輝いて私の胸に収束していった。
● ● ● ● ●
雨の音だけが、しばらく降り続いた。
お互いの頭に入り込んできた数多の情報を整理してからでなければ、まともな話はできない。この少女も私と同じことを考えてくれているのだろう。お互い黙って、立ち尽くしていた。
彼女の名前。思っていたこと。見てきたもの。それらが私の中に無理やり重くのしかかり、頭の奥に鈍痛が響く。
だがしかし、生きてきた年月を思えば、おそらく少女にかかっている負担は私の何倍にもなるはずだ。このまま雨に濡れて、マスターが風邪を引いてしまっては困る。
(……マスター?)
テイマーの血のなせる技か。既に思考が喰われ始めていると分かって寒気がしたが、それを糾弾するつもりもなければ、している時間もなかった。
無数の足音が、こちらに近づいてきている。
戦闘中に逃げ出した伝令兵が、造園を連れてきたのだろう。
「ここはひとまず、逃げましょう」
「分かったわ。まずは、私の家へ……」
少女が口をつぐむ。
そうなのだ。家には帰れない。おそらくそこは雨風を凌ぐことはできるけれど、母の無残な血臭しか残っていないのだから。
雨風を凌げるだけならば、私にもアテはあった。
少女を抱え上げて肩に乗せた。
いつか必ず、私の……そしてマスターの無念を晴らしてやる。
復讐の念を忘れずに置いて。私達は全速でその場から離脱した。