夢のハジマリ
人間は誰しも、運命の日があると思う。
例えば、大学受験だったり、結婚だったり。事故で死にかけたり、何か感動的な体験をしたり。夢が叶うチャンスが舞い込んできたりとかな。
とにかく、自分の人生が一変したと感じる、そんな日がある。
──俺にとっては、あの日がそうだったんだろう。
世界に墜ちた、あの夏の日が
その日、俺は友人の黒瀬冬彦と共に図書館に来ていた。
俺は間抜けなことに、明後日提出するレポートを忘れていて、資料探しを手伝ってもらったのだ。
不満げな冬彦をどうにか宥めすかし――具体的には、好物の甘味で釣って――、図書館に籠ること、4時間。
ようやく資料が揃い、肩にカバンが食い込むほどの本や印刷した論文を担いで図書館を出た。
自動ドアが開いた瞬間、もわっとした風がぶち当たってくる。不快感に顔を顰めると、幾重にも重なりすぎて最早騒音となった蝉どもの声が耳を突き刺した。
クーラーが聞いて涼しい室内に回れ右したくなる足をどうにか前に進めて、俺達は歩き出した。
横を見ると、これからの徹夜地獄を前にして足取りが重くなる俺とは対照的に、冬彦はもやはスキップでもする勢いだ。
この後、報酬のパフェにありつけるからか、鼻歌まで歌ってる。
思わず、はあ、とため息を吐いた。数歩、冬彦から遅れだす。
「おい、早く歩け」
冬彦が軽く振り向き、歌うように言った。
相当機嫌が良い。鼻歌どころか、路上で踊りだしそうだ。
「なかなかの仕事になったからな」
冬彦はトートバックを担ぎなおした。黒のTシャツに、トートバッグの持ち手が容赦なく食い込んだ。
「ミックスパフェの他にも、スーパーデンジャラスパフェも付けてもらうぞ」
「スーパーデンジャラス? いったい何が入ってんだよ、それ」
少し先を歩いていた冬彦は振り向いてにやっと笑い、ぬるっと近づいてきた。
やめろ、気持ち悪い。
「聞きたいか? 聞きたいか? よろしい、なら教えてやろう! それは──」
「いや結構! 結構です!」
全力で首を横に振った。これは、絶対に話が長くなる。
中学からの付き合いだから、自信を持って言える。
こいつ、滅茶苦茶飽き性なのに、甘味に対しての愛は人一倍なのだ。
趣味を持っても三日で飽きる。人付き合いだって、長く続いているのは俺しかいない。この間付き合ったらしい彼女とは、『飽きた』という理由で3時間で別れた。
もはや『悪癖』とでも言える。
艶やかな黒髪に、ほんの少し茶色がかった目。身長だって180近くあるし、程よく筋肉が付いている結構なイケメンなのに、女子がなかなか寄り付かないのはそこが関係しているらしい。
――ただし、甘味は別。「生まれた時から愛してる」と公言して憚らない。
だからこそ、「愛する」甘味に対しては話が長いのだ。
前はうっかり聞いてしまったから、こいつの甘味談議に2時間付き合う羽目になったのだ。
こんなに疲れている今、そんな気力は一切ない。
俺はため息をつくと、気を取り直して冬彦に問いかけた。
「なあ、冬彦。お前さあ、そんなに甘い物ばっか食べて胃もたれ起こさないのかよ。つーか、甘い物以外になにか食べてるの見たことねーんだけど」
「何を言う! 甘味こそこの世界の宝だ! お前というやつはこんなこともわからないのか」
そう言うと、冬彦は甘い物の素晴らしさについてぐだぐだと語りだした。しまった、やってしまった。思いっきり墓穴を掘った。
自分の言動に後悔しながら、話を聞き流す。
絶対に将来糖尿になるな、こいつ。万が一の時は、俺が病院に連れて行かないと。
決意も新たに足を進めると、目の端で何かが光った。
ちょうど十字路に差し掛かった、その右の道路。また、キラリ、と光る。
俺はなんだか気になって、足を止めた。
気づいた冬彦が、不満げに文句を言った。
「おい! 聞いているのか?」
「そんなことより、あれ、なんだ?」
「は?」
俺は怪訝そうな冬彦を置いて「それ」にかけよると、冬彦も少し遅れて付いてきた。
そこには、水たまりがあった。
だいたい直径50㎝ほどだろうか。なかなかの大きさだった。全然濁ってなくて、鏡のように俺の顔を映している。
何で、水たまりが? と疑問に思う。
今日はこの暑さだし、朝の天気予報では雨が来るなんて一言も──。
その時、また水たまりがキラリと光った。なにかが中に落ちてるのかもしれない。
小銭だったらラッキーだな、と思いながら手を伸ばすと、後ろからトン、と背中を押される。
重心が前に傾き、そして──。
「うわぁ!」
俺は小さく悲鳴をあげると、顔面ダイブは避けようと、体を捻って尻餅をつこうとした。
「えっ?」
しかし、それは成功したが、失敗した。
尻餅をつく体勢になったのに
つけるはずだったのに。体が沈んでいく。
ただの水たまりのはずだ。
だというのに、まるでテレビで見た底なし沼に嵌まったヤギみたいに沈んでいく。
あんなに澄んでいた水は、徐々に黒ずみ、まるで墨汁をこぼしたようになっていく。
半ばパニックになりながら、俺は冬彦に助けを求めようとして、全身が凍りついた。
無表情だった。
その目に、なんの感情も見てとれない。
冬彦にこんな目で見られるのは、初めてだった。初対面の時だって、こんな顔してなかったのに。
冷や汗が背中を伝った。
俺はショックでなにも言うことができず、体はどんどん沈んでいく。
肩まで浸かって。
顔まで来て。
ついに、全身が沈んだ。
そして──。
視界は、暗闇に包まれた。
なんだろう、甘い香りがする。
背中には、柔らかい何か。時折、風が戯れに頬を撫で上げる。
目蓋の裏に、光を感じ。
ようやく、目を開けた。
目前には、晴れやかな青空。
状況が分からず、パチパチと瞬きをする。
顔を横に向けると、金色の花がそよ風に吹かれていた。
撫子の花のような形で、小さく可愛らしい。
花弁も美しく光って。……光って?
ガバリ、と勢いよく起き上がる。釣られて、金の花弁が空を舞った。
辺りには、一面の花畑。甘い匂いはこれだったのか、と納得しつつ、一つ手折る。
まじまじと見ても、全く変わらない。
この花は、発光している。まるで、蛍の光のように、ぼおっと。
「何だ、これ? なあ、変な花があるんだけど……」
言って、気付く。
冬彦の姿が見当たらない。
それどころか、さっきまであったはずの家々や、電柱。車でさえ。
いったい何なんだ?
俺は立ち上がり、辺りを歩き回った。誰かほかに人がいるのを期待して。
しかし、その成果は芳しくなかった。
どこにも、人影は無かった。あるのは、小学校のグラウンド並みの花畑と、その中心にある泉だけ。
途方に暮れ、再び座り込んだ瞬間、思い立った。
もしかして、夢なのでは?
天啓を受けた気分だった。
きっと、俺は冬彦に突き飛ばされて――あいつ、なんてことするんだよ――、受け身も取れずに気絶したのではないだろうか。それで、こんな夢を見ている。
うんうん、と自分で納得する。
ならば、目覚めればいい訳だ。
俺は気合を入れて、右手を振りかぶる。
起きたら、冬彦に文句を言わなくては。小学生みたいなマネ、してんじゃねーぞって。
目を閉じ、自分の横っ面を引っ叩いた。
バチン、と痛そうな。いや、滅茶苦茶痛い音が響く。
こんなに強くするんじゃなかったな。いや、優しくしても意味ないけど。
そんなことを考えながら、目を開ける。
そこには、申し訳なさそうな冬彦がいるはず。
だった、のに。
「あれ、何で……?」
目の前には、花畑。
現実にはあり得ない、発光する花。
まだ目覚めてないのか、と思う一方、ジンジンと痛む頬が、これは現実だと訴えかけてくる。
それでも、信じたくなくてもう一度、頬を叩く。
変わらない。
もう一度、もう一度。
合計で10回は叩いただろうか。風景は全く変わらない。
もう、観念するしかなかった。
夢じゃないんだ。これは現実なんだ、と。
でも、こんなのありえない。
そうだろ? 俺の住んでる町の近くにこんな場所はない。
いくら俺だって、長距離を運ばれたら、途中で起きるだろう。
だいたい、この風景だってまるで日本じゃないようだ。
こんな静かな場所。
――静か?
そうだ、こんな花畑があれば、虫だっているはずだ。それを狙う鳥も。もしかしたら、狐とか狸とかも。
なのに、何の音もしない。羽音も、鳴き声も。姿だって見かけない。
さっき泉を覗いた時も、魚も一匹もいなかった。
生き物が、俺以外存在しない?
背筋にゾッとするものを感じた。
だって、こんなのあり得ない。室内ならともかく、何の仕切りもない屋外で虫の一匹もいないなんて。
俺は震える足で立ち上がった。
とにかくここから離れたい。
美しいと思った花たちでさえ、もはや不気味なものに成り下がっていた。
最初のうちは縺れるように、徐々に駆け足に。足元の花々を踏みつぶしながら、俺は逃げ出した。
しばらく走ると、鬱蒼とした森が広がっていた。
空には、カラスのような鳥が群れを成して飛び回っている。
そのことに安堵しながら、森の中へと突入した。
走り過ぎて横腹が痛い。心臓が狂ったように胸を打ち鳴らす。
ちゃんとした運動なんて、高校の体育以来のインドア派にとって、ちょっとの距離でも苦しい。
俺はへとへとになりながら、何とか休めそうな場所を探し、寝っ転がった。
鼓動を落ち着かせるように、深呼吸する。額に書いた汗を拭い――。
瞬間、地面が震えた。
まるで、重たい何かが地面に落ちるような衝撃。
昔、体育館の天井に引っかかったボールが落ちてきた振動よりもよりも、数百倍大きい。
その地響きは、一定の間隔で鳴り響いている。
嫌な予感がする。
まさか、足音?
空では鳥たち金切り声を上げながら、何かを警戒するように飛び回っている。
森の中だから辺りが少し暗いのも、この状況の不気味さを増幅する。
いったいなんなんだ、と疑問が頭の中をぐるぐると回っているのに、どうしていいかわからない。
口から出た音も、あ、とか、う、とか、意味を成さないものばかり。
音が大きくなってきた。
近づいてきているのだ。
こんなに怖いのに、手足はまったく動いてくれない。
近づいてくる。
ようやく、逃げなければと思い立ったのに、動けない。
すぐそこまで来ている。
すくむ手に何とか力を入れて、ようやく起き上がり、木立の間を見た。
そこにいる。
全身影のように真っ黒な、4メートルはあるかという木と同じくらいの大きさの怪物が、こちらを見ていた。子供の頃に図鑑で見た恐竜のような、小さな前足、巨大な後ろ足の化け物。
それが、真っ直ぐ俺を睨みつけていた。