愛してるなんて言わないで。
「それでも、愛しているから。」続編となります。先にそちらをお読み下さい。
「ああ、このドレス素敵ね。ショールと靴、それにその白の手袋も付けていただける?」
「奥様、ありがとうございます。それでは、いつものようにご購入いただいた品は後ほどご自宅に届けさせますので」
へこへこと頭を下げながら出て行った仕立て屋が出ていくと同時に、先日購入した商品が次々と運び込まれる。
私はメイドにそれを確かめさせてすぐに衣装部屋に運ばせた。
広いはずの衣裳部屋は、もはや足の踏み場もないほどに服や靴、アクセサリーが置かれている。使用人がいくら整理しても、私が次から次へと買い足すので追いつかないのだ。
「今日は何を買ったのですか?」
急に声を掛けられて、慌てて振り向くと夫が静かに佇んでいた。
私は一瞬だけ床に目をやった。どれだけのお金を今まで遣ってしまったのか、考えるだけで頭痛がする。
――いいえ、そこで尻込みしてどうするの?私は悪女となって離縁していただくのよ。そうして私はあの方の元へ行くの。愛されなくても構わないと思ったのは貴方でしょう。
視線を夫に戻すと、夫は何故か悲しそうに微笑んでいた。
「咲?気に入ったものはありましたか?」
「ええ、本日は若草色のドレスにショール、靴にレースの手袋を」
悪びれもせずそう伝えた・・・・・・つもりだ。声なんか震えていなかった。ええ、そうよ。
「それはよかった。これからもお金のことなど気になさらないで好きなものは好きなだけ買ってよろしいのですよ。貴女を私の勝手で閉じ込めているのですから、買い物ぐらいしかストレスを発散できるものはないでしょうし」
私の散財のおかげで湯水のようにお金が消えているというのに、夫はそう言って嬉しそうに笑った。
どうしてそんなに寛大に私のすることを許してくれるのだろう。
罪悪感に苛まれた私は目を逸らした。
「失礼致します」
それと同時にドアがノックされ、執事が入ってきた。
「奥様へのお手紙をお持ちいたしました」
そう言って執事は恭しく手紙を渡す。
・・・・・・私にではなく、夫に。
夫は私が逃げ出すことを恐れているかのように、私宛の手紙は夫が先に検閲していた。
そんなことをされなくても私は勝手にこの家を出て行ったりはしない。
しても夫に見つかってしまうことはわかっているし、出て行くのならちゃんと夫を納得させてから。
小さくてもプライドがある私は、そう心に決めていた。
でも、もう慣れたとはいえ私宛の手紙を先に読まれるのはあまり気分のいいものではない。
携帯を持たせてもらえない私には手紙しか友達とやり取りする手段はないというのに、見られてしまうから。検閲すると言われてから、友達への手紙は今まで以上に配慮するようになった。
何通かの手紙を順に読んでいた夫は、不意にくすっと忍び笑いを漏らした。
「・・・・・・なにかおもしろいことでも?」
たまらず、私はそう問い尋ねていた。なにか友人が私の過去を暴露しているのだろうか。
しかしその心配は無用だった。
夫は私を見て、その手紙をかざした。
「これは、九条家からですよ」
私はその言葉に胸を高鳴らせた。
――もしかしたら、ヒロがやっぱり私を返してほしいって言ってくれたのかも。
しかし夫はそんな私の顔を見て愉しげに残酷な言の葉を紡いだ。
「結婚式の招待状です」
途端、私の目の前は絶望で暗くなった。
夫は私の腕を引いて、少し乱暴に私をソファに座らせた。そしてすぐに自身も隣に身を寄せた。
「ねえ咲?貴女はまだそんな幻想を抱いていたんですか?
九条が貴女を取り戻そうとするわけがない。そんなことは貴女が一番わかっているはずでしょう?」
「・・・・・・」
黙り込む私にも構わず、夫は話すのをやめなかった。
「でも九条も何を考えているのでしょうね。元婚約者を体よく押し付けた家にこんなものを送りつけるとは。貴女の未練でも感じ取ったんでしょうか」
「もうやめて!!」
私は耐え切れなくなり、大声で夫を制した。
わかってる、わかってるから!!
恥も外聞もかなぐり捨てて、そう怒鳴ってから後悔する。
――私はこの方の妻なのに。この方を立てなくてはいけないのに。
「・・・・・・申し訳ございません」
私は気がつくと謝っていた。
しかし夫は優しく私を抱き寄せた。
「こちらこそすみません。わかっていて、貴女の傷を深めようとした」
そう言って私の耳を甘噛みした。
私は困惑と混乱でされるがままになった。
そんなことをして何の得がある?
そんな疑問を余所に、夫は唇を徐々に下のほうへ移動させながら甘く囁いた。
「結婚式、出席しましょうか」
「いやっ!」
私はヒロが他の女と祝福されるなんて堪えられないっ!
私は夫から距離をとろうとしたが、夫は拘束を強め、叶わなかった。
夫はぐっと私を引き寄せて痛いほどに抱きしめた。
「いいえ、咲。これは決定事項です。
貴女にもそろそろ現実を見ていただかなくては」
そう言ってそのまま私をベッドへ運んだ夫は、あくまで優しく私を翻弄する。
私が感じるように、
私が夫に愛されているとわからせるように、
――私が夫を愛せないことを責めるかのように。
幾度となく抱かれた私の身体は、私の意思とは無関係に夫に抱かれることを歓んでいた。
夫は私が達したことがわかってから私の中に侵入する。
やめて!そんな全身で、私を慈しまないで!
「・・・・・・っどうし、て!
私は貴方を愛せない!そんな私を、散財して財産を食い散らかす私を、どうして離縁しないの!」
私の叫びを聞いたのに夫は行為をやめようとはせず、寧ろ動きを激しくした。
「んぅっ・・・・・・」
夫の動きに耐え切れず、思わず声を上げた私に夫は微笑んで深く切ないキスを落とした。
「離縁?例え貴女がこの家の財産を全て奪い、逃走してもそんなことはしませんよ」
――合法的に、貴女をこの家に軟禁し私の傍から離れられないようにするには結婚が一番手っ取り早いのですから。
そう言って夫は最後の仕上げと言わんばかりに突き上げを強めた。
私は抗うことなんてできずに、小さくうめき声を上げてそれを受け止めた。
行為が終わっても、私は意識をなくすことはできなかった。
結婚したばかりの頃はあまりの激しさに意識を失うこともしばしばだったが、回数を重ねるにつれ身体が慣れたのだろう、それもほとんどなくなった。
荒く息をする私を、夫は優しく抱き寄せてぽんぽんと軽く身体を叩いて私を落ち着かせようとする。
そして情事の最中とは違う、労わるようなキスの雨を降らせた。
私には、それがどんな激しい情事よりも、蔑みの言葉よりも辛く感じた。
思い違いであってほしいと思うほどの愛情を感じて、だんだん雁字搦めになっていくような気がする。
夫がどれだけの愛を私に注ごうとも、無視すればいいだけの話なのに、最近なぜかそれができない。
だから私は決まって夫に背を向ける。
目を合わせたくはなかった。
夫はそんな私の腰に腕を回した。
「咲、愛しています」
――夫はそんな私を見透かしているかのように、絶妙なタイミングで愛の唄を紡ぐのだ。
* * *
そうして夫を説き伏せることもできずに結婚式の日を迎えた。
あの日を彷彿とさせるような眩しい日差しが注ぎ込んでいた。
「・・・・・・ヒドいカオ」
鏡の中の自分を覗き込んで思わず呟いた。
これから新郎新婦を祝福する人の顔じゃないわ。
パンッと軽く両頬を叩いて気合を入れる。
でも・・・・・・ヒロが結婚するのだとしたら。
私は、これからどうしたらいいのだろう。
私は今まで夫に離縁してもらって、またヒロに振り向いてもらえるように精一杯努力するつもりだった。でも、ヒロが結婚してしまったらその夢は自然と潰えてしまう。
私は不倫だけはどうしてもしたくなかった。
結婚する前なら勢いでできるかもしれないけれど、結婚してしまった後では絶対に無理。
しがらみとか、そういうのももちろんあるけれど、婚姻届を提出した後では気持ち的に嫌だ。
悩む私に、部屋のドアがノックされた。
「咲、準備はできましたか?そろそろ出発しますよ」
「はい、ただいま参ります」
衣裳部屋の外から声を掛けられ、急いで椅子から立ち上がった。
あまりにも急いだためか、ガラスのアクセサリーケースが音を立てて地面に落ちた。
「いけない・・・・・・」
落ち着きなさい。
自分にそう言い聞かせながら散らばった宝石やネックレスを拾っていく。
そうしてソファの下に潜り込んだ指輪と思しきものに手を伸ばした。
暗闇の中、手探りで拾ったそれは。
――ヒロが、たった一度私にくれた指輪。
「なくしたとばかり思っていたのに・・・・・・」
とても小さなダイアモンドがたった一個中央に収められているそれは、ヒロが私の高校の合格祝いにくれたものだった。それはヒロから私への初めての贈り物で、私は夜遅くまでそれを眺めて過ごした。
恐る恐るそれを指にはめると、あの頃の思い出が一度に蘇ってきた。
私は高鳴る胸を押さえて、すぅ、と深く息を吸い込んだ。
賭けを、しよう。
私はネックレスのチェーンだけ抜き取って、指輪を通した。
そして服の中に隠れるように指輪を隠す。
――チャンスは、一度。
ヒロに挨拶するその時が、最初で最後のチャンス。
私はその時にあの指輪を指にはめて、ヒロに見せる。
ヒロが気づいたら私の勝ち。気づかなかったら私の負け。
もし負けたら、潔くヒロのことは諦める。離縁もしないで今の夫に生涯尽くす。
もし勝ったら。
その時はなんとしてでもヒロを振り向かせてみせる。指輪をみてしまったのだから、不倫は嫌だなんて甘いことを言っていられない。
ぎゅっと服の上から指輪を握り締めて夫の下へ向かう。
「お待たせいたしました」
「ああ、やはり咲に桜色は似合いますね」
本当は白を着せたかったのですが、新婦ではないのでそれは失礼ですしね?
ちゅ、と軽く頭に口付けをした夫はいつもよりも柔らかに微笑んだ。
なんだか後ろめたくなって私は視線を逸らした。
「さて、車にお乗りいただけますか?お姫様」
夫は私の様子に気づくこともなく、おどけてそんなことを言う。
「い、いい年した女にそんなことを言わないで下さい!」
「いつまで経っても、貴女は私のたった一人のお姫様だ」
今度は真面目な顔をして言うから、思わず顔に全身の熱が集まったようになった。
夫はそんな私を見て高らかに笑うと、優しく私をエスコートする。
私はぎゅっと目を瞑った。
* * *
受付で記帳を終え、私たちは席へと案内された。
さすが天下の九条ホールディングスと言うべきか、その披露宴には政界、財界の重鎮がこぞって名を連ねていた。夫はひっきりなしに訪れる人々の対応に追われていた。
三鷹家ともなると交流は深い。
わかっていたつもりで、全くわかっていなかったことを思い知らされた。
「三鷹様。お久し振りです」
「これはこれは、早崎様。ご無沙汰しております」
銀行の頭取が退いた後に優雅に近づいてきたのは、夫と同じくらいの男だった。
ブランドを嫌味なく着こなすその姿は、さながらモデルのようだった。
「ああ、咲。貴女にも紹介しましょう。早崎グループ会長の次男で、社長の弟でいられる早崎亮様です。早崎グループの一員でありながら司法試験に受かり弁護士をされている、大変優秀な方です。そして早崎様、こちらが妻の咲です」
「お噂はかねがね・・・・・・。よろしくお願いします」
そう言って微笑んだ早崎様は本当に優しそうだった。
「こちらこそ。
司法試験に合格なされるなんて本当に優秀でいらっしゃるのですね」
「いいえ、そんな。私が弁護士を目指したのは不純な動機なのです」
謙遜なさらなくても、と続けようとしたら夫が深刻な顔をし始めた。
「どうなさったのですか」
「・・・・・・すみませんが咲、先ほどの受付に行って名刺入れを落としていないか聞いてきてくださいませんか」
「まあ、それは大変ですわね。
ええ、私にお任せ下さい。――早崎様、すみませんが、失礼致します」
私は早崎様に一礼すると足早に受付に向かった。
でも、夫が忘れ物だなんて珍しいわ。今までそんなこと一度もなかったのに。
「・・・・・・お前、腹黒いって言われるだろう。あれ、俺と奥方を引き離すための嘘なんだろ」
「まあな。でも助かった。
悪いな、初対面みたいなこと言わせて」
「構わないさ。早崎と三鷹はホテルの覇権争いの真っ只中だからな。奥方を余計な争いに巻き込みたくないんだろ?」
「そういうお前こそどうなんだよ。いい加減、あの女性とお近づきになれたのか」
「これからってところだな。アイツも馬鹿でさ、自分の親友と浮気してる男を婚約者にしてんだよ」
「お前らしくもない。奪っちまえよ」
「そうできたら苦労しない・・・・・・っておい、奥方帰ってくるぞ。
んじゃ、俺もう行くわ。じゃあな」
「ああ」
「すみません、名刺入れが受付にはなかったようです」
受付に行ってみるも、名刺入れは届いていないと言われた。
私は途方に暮れたが、とりあえずありのままを夫に話すしかない。
そう思って夫に告げたが、夫はさしたることでもないかのように表情を変えなかった。
「ああ、では違うところに忘れてしまったのでしょう。
すみません、咲。あんな雑事を頼んでしまって」
「いいえ、それは構わないのですが・・・・・・本当に大丈夫なのですか?」
「ええ。ありがとうございました」
ほんの少し不安に思ったが、夫がそういうのなら大丈夫なのだろうと話を切り上げた。
ちょうどその時アナウンスが入った。
――いよいよ、新郎新婦のご入場です。
そうしてヒロたちが拍手に迎え入れられながら入場してきた。
私は三鷹の妻としての役目を果たそうと顔を上げたが、すぐにヒロたちから目を逸らしてしまった。
二人がお互いを必要としている様子は見るに堪えられないものだった。
本当はお手洗いへ、とか言って逃げたかったけれど、それはどうにか堪えた。
思った以上に衝撃を受け、私はそれから自分が何をして何を話したのか全然覚えていない。
けれど、いよいよヒロがテーブルを回るという司会の言葉が聞こえて、気持ちを入れなおす。
夫に化粧直しをすると言って、パウダールームに向かった。
ゆっくりと首から指輪を取り出してそっと右手の薬指にはめた。
「へえ?そういうことですか」
いるはずのない声を聞いて、指輪から鏡に顔を戻した。
鏡の向こうに、夫がドアの縁に身をもたれかけて佇んでいた。夫の瞳は今まで見たことないほどの怒りの炎に滾っていて、それなのに空気は絶対零度に凍り付いていた。
私はともすれば怖気づいてしまいそうな自分を鼓舞して夫と向き合った。
「・・・・・・ここは女性専用のパウダールームです。どうぞ、外でお待ちくださいませ」
勇気を振り絞っていったにも関わらず、夫はそれに答えることなく私のほうへと足早に寄ってくる。
そしてその勢いのまま、私の右腕を掴みあげた。
「いたっ・・・・・・」
「こんな悪趣味なもの、私は貴女に贈った覚えはありませんけどね」
痛みに眉を顰めるも、夫は構わずに力をさらに込めた。
「これをはめてあの男の下へ駆け寄るつもりだったのですか?」
「ちが」
「させません」
そう言って夫は私の腕を掴んだまま、パウダールームを出て行こうとする。
「待ってくださいっ!最後のチャンスなんです、たった一度だけでいいんです、お願いします」
決死の思いで頼んでいるのに、夫は冷たい眼差しで私を一瞥するとそのまま引きずっていく。
そして廊下に引きずり出された。
私はせめてもの抵抗に、全体重を後方にかけた。
夫がため息を一つこぼして私に手をかけた、その時。
「ここで何をなさっているのです?三鷹様」
廊下に快活な声が響いた。
この、声は。
「・・・・・・私の妻の具合が悪くなりましてね。休ませていたところなのです」
夫がそう言ったことで、彼――ヒロは初めて私の方へと目を向けた。
ヒロは一瞬だけ躊躇う素振りを見せたけれど、すぐに笑顔を作り出した。
「本日はお越しいただきましてありがとうございます――三鷹夫人」
わかっていたことなのに、目の前が一気に暗くなるのを感じた。
それでも、気力を振り絞ってヒロに見えるように指輪をかざした。
ヒロは怪訝そうな顔をして、私の顔を見た。
そして再び微笑をつくって、私に言う。
「とてもお似合いです。三鷹様から贈られたものですか?」
まけ、た。
呆然と、気力だけで立つ私を夫は見かねて挨拶をし、その場から立ち去らせた。
そしてそのままホテルの部屋に連れて行かれた。
あらかじめキープしてあったのか、セミスイートくらいの部屋のようだった。
夫は私をベッドに座らせると、指輪を容赦なく引き抜き、そのまま窓から外へと放り出した。
そしてほんの少しだけ瞳の炎を小さくして私の隣へと腰を下ろした。
夫は私をベッドへ押し倒して腕で囲いを作った。
「貴女は愚かだ」
そう言って、いつもの行為をし始めた。
夫は行為の間何も話さず、ただ私の全身に赤い華を散らせた。
行為が終わると夫は私の隣へ身を投げた。
「貴女は愚かだ。そして、愚かな私を愛した私は、それでも後悔することはできないんだ」
「・・・・・・貴方にはずいぶん酷いことをしました。私は私の気持ちを優先させ、貴方を傷つけてしまった。――でも、もういいんです。あれで、私は納得しました。
これから先、貴方が私を離縁しようがどうしようが、私は全てを甘んじて受けます」
言いたいことを言い切り、私は久々に夫をまっすぐ見つめた。
夫はしばし目線を彷徨わせた後、同じように私と目を合わせた。
「私は、常にひたむきな貴女を愛しています。今さら、私から離れないで下さい」
私は夫――雅人さんに向かって微笑んだ。
答えはもう決まっていた。
――私が壊れないでいられたのは、雅人さんが支えてくれていたからなのね、きっと。
この感情を恋情に変えられるのは、そう遠い未来ではないはず。
朝日は、今差し込む。