6話 栄光に赤を添えて
朝から気分は最悪だった。なんとなく予感はあったが、まさかこんなに早いとは。採点者の方々に「お疲様でした」と言ってあげたい。
黒板には「赤点補習者」と書かれた紙が貼ってあった。
嫌な予感を覚えつつ、その紙を見ると、そこには一人の生徒の名前。
322E天戸零(言語学:小説)
……やっぱりね。
零は大きな溜息をつくと、自分の席へ向かった。ふと気になったことがあって、後ろの女子生徒に声をかける。
「ねぇ、ちょっといいかな」
「わっ! は、はい、なんでしょう!」
なにやらテンパりまくっている少女に苦笑しながら、出来るだけ優しい口調で尋ねる。
「赤点って…… 何点から?」
「えっと、赤点ですか? たぶん20点以下からだと……」
「……うん、ありがとう」
要するに、零は二十点以下だったということだ。
零が頭を抱えていると、教室はいつの間にか人が多くなっていた。
皆、教室に入るとまず黒板を見、次に零を見た。
非常に恥ずかしい。このクラスで赤点は零ひとりだから余計にだ。
「よし、全員席につけ」
一言そう言うと、片山先生が入って来た。先程まで喋ってた面々が弾かれたように前を向く。
「まず今日の予……お――――っと、大事なことを忘れていた。おい天戸」
呆れたような視線を零に向ける。
……きたか。
零は覚悟を決めて返答する。
予想は出来ていたことなので、別段驚きはしない。ただ、外れて欲しい予想だっただけに、良い気持ちはしない。当然だが。
「なんで御座いましょうか、片山大先生様」
零の返答に、クラスの何名かが噴き出す。
「お前……、赤点だってな」
「そうみたいですね」
あくまで淡々と、主導権を握られないよう話を進める。
「自分の小説の点数知ってるか?」
「知りません」
「0点だ」
「……」
二十点どころか0点だった。そいつは間違いなく赤点である。零に反論及び抗議の権利はない。教室からの含み笑いは敢えて聞かなかったことにした。
「天戸零が零点って狙ってんのか!」
その瞬間、教室に笑いに包まれた。
ネタにされた本人としてみれば面白くない。何故ならば決して狙ったわけではなかったからだ。そこだけははっきりさせておきたかった。
「先生、私は極めて真面目に解きました」
言ってしまってから「もしかしなくても、それはもっとダメなのでは?」と思ったがもう遅い。なにもかも。
片山先生の表情が、呆れたものから哀れんだものへと変化したのは、時間で表すと一瞬にも満たない。
「そうか…… 天戸、強く生きろ」
そう言うと零から目を逸らし、今日の予定を話し出した。釈然としないながらも、事実なのだから仕方がないと割り切り、周りの視線を流す。
「それと、昼に食堂で十位までの成績優秀者の名前が貼り出されるから、各自見ておけ。互いに切磋琢磨して伸ばしていって欲しい」
……食堂か。
ぼんやり考える。
零は昼は何も食べない。朝もコーヒーだけで済ませることが多い。夜は何かしら口に入れるが、栄養というものを一切考慮しない食事だった。
別に料理が出来ないわけではない。はっきり言って、零の料理の腕は相当なものだ。それは零が、一度見ただけでその料理の作り方を完全に記憶できることも影響している。しかし、零は自分のために料理を作らない。「食べる」という動作に興味がないからだ。
生きるために食べるなら、何も食べはしないだろう。そんなことを思う。
実際、零が食事をするのは自分の細胞と血が暴走するのを防ぐためだった。そんなDNAの「鎖」がなかったら、零は一生食事をしなかったのではないだろうかと考えたこともある。
零は自分の生きる理由がわからなかった。
◆◇◆◇◆◇◆
昼になると、教室の中は人が少なくなっていた。残っている人は弁当派なのだろう。となると、ほとんどの人間が食堂派ということになる。
さて、この昼の暇な時間を何して過ごそうか。リリの所へでも行こうか……
そんなこと考えていたその時。
バンッ!
と大きな音をたてて突然Eクラスの教室のドアが開いた。
「レイ、いる!?」
そう言って飛び込んで来たのは、零と同じ一学年の赤のラインの制服を着た少女と、二学年の緑のラインが入った制服を着た少女の二人組。
零はその二人を知っていた。
「あ、いた! 芽衣ちゃん、いたよ!」
「ホントだ! 見つけたー!」
二人は騒がしく零の所まで走り、その中の一人は零の肩(ただし首にかなり迫った位置の肩である)を掴んで前後に揺すった。
「ちょっと、どういうこと!? この学校に入学したなら、何でそのことを言わないのよ! 久しぶりなんだから……ほんっっっっとに久しぶりなんだから! こっちに帰ってきたなら、まず私達の所に来るのが常識でしょう!?」
「わ、わかったわかった。わかったから……お、落ちtgtrm」
「芽衣ちゃん、芽衣ちゃん! 絞まってるって!」
見事に首の動脈を圧迫した両手は、はっきりと言葉を発することを許さない。零は言葉にならない悲鳴を上げると、少女――月下芽衣の手を剥がした。
「あ、会っていきなり首を絞めるとは……」
「知らないわよ! 自業自得でしょう」
プイと顔を背ける少女の目は、まだ若干釣り目だった。肩まで伸ばした黒髪と、年の割にやや小さめの身長。そして生真面目そうな顔立ちは、昔のまま変わっていなかった。
「零くん、久しぶりだね。四年ぶりかな?」
「そうなるな。久しぶり結衣」
対照的に、ゆっくりとした話し方をするこの少女は月下結衣。名字が同じであることからもわかるように、芽衣の姉である。性格が真逆なら容姿も真逆で、結衣は芽衣と違って女性の中では身長が高く、髪も腰の辺りまで伸ばしている。色んな意味で対照的なこの姉妹は、かつて零と衣食住を共にしていた時期があった。
「もう四年か……」
昔はどうだっただろうか。どんな顔で、どんなことを喋っていただろうか。
いざ目の前にすると、沢山の言いたいことが溢れてうまく言葉を紡げなかった。それは芽衣と結衣も同じなのか。三人の間に、奇妙な空白の時間が生まれた。
「……師匠は元気?」
零がその空白を破る。
「うん。毎朝起きて、まず最初に零君の刀の手入れしてるよ~」
思わず、相変わらずだなと苦笑する。
師匠とは第十六代目月下家当主【雷切】月下重夫のことである。零は十歳の時、国から月下家に預けられ、約二年間をそこで過ごした。短い間だったが、零がそこで学んだことは多い。当時、人を恐れ、近づく者を本能のまま殺そうとする凶暴さを持った零を引き取り、刀の使い方、命の重み、世界の常識を教えたのが重夫だ。そんな彼に、零は尊敬と感謝の念を抱いていた。今でも重夫には頭が上がらない。彼女たちはその重夫の孫だ。
零の刀とは、刀匠でもある重夫が打った刀で、月下家の最高傑作と謳われる銘刀、鳴神【雷切】のことである。零は月下家を出る時、その刀を授かった。しかし、余程のことがない限り、もう刀は握らないと決めていたので、その刀は月下家で預かってもらっていた。
御しきれない力は使用者自身も傷つける。
零はそのことをよくわかっていた。
――最高の刀は最高の使用者に使って貰いたい。
重夫の言葉を思い出す。それは刀匠としての言葉なのだろう。それでも――使われない刀に価値はないと、零は思う。
だからこそ、重夫が毎朝、零の刀を磨いている姿を想像して、ちょっとした罪悪感に包まれた。
「それはそうと、今までどうしてたのよ? っていうか、どうしてEクラスなの? 私も姉さんもAクラスだし、昔からレイは……」
そこまで言った芽衣の口を手で塞ぎ、周りに漏れないように口元を芽衣の耳に近づけた。
「芽衣、出来れば俺のことはこの学校内で話さないで欲しい。ちょっと色々と事情があって詳しく話せないけど、昔のこととか広まるのは良くないから」
「ち、ちょっと待って」
「友達とかに聞かれても、ただの幼馴染とか知り合いで通して欲しいんだ」
「あ、わ、わわわわわ!」
「……聞いてる?」
変な叫び声を上げる芽衣を、訝しむように見つめた。よく見ると耳まで赤く染まっている。
「……何、やってるの?」
突然廊下から響いた声の主は、神無月瑠璃だった。瑠璃の角度から見えたものは、密着した状態で話す零と見知らぬ女の子。だが、もう一人の女性――月下結衣を見た瞬間、合点がいったように表情を緩ませた。
「……ああ、そっか月下さん。零と知り合いだったね」
「こんにちは、神無月先輩。どうされました?」
「私は零に、おめでとうって言いにきたのよ」
「は?」
零が呟くと、月下姉妹は「あっ!」っと言って、思い出したように話し出した。
「そうよ! そもそもそのために来たんだった! レイ、アンタ一位よ! ……赤点だけど」
「そうそう、スゴイよ零君さすがだね! ……赤点だけど」
聞くと、零は二位の人間(ちなみに芽衣だが)に大差をつけて一位だったようだ。
平均点と零の得点は次のようになっていた。
言語学(CL+現文) 093/200 平均:117.3
数学 200/200 平均:106.9
物理学 200/200 平均:099.7
錬金魔法 200/200 平均:121.1
大陸史 183/200 平均:139.2
まさかトップだとは思わなかったので素直に喜ぶ。赤点だがそこには目を瞑ることにした。ちなみに、二学年のトップは結衣で、三学年のトップは瑠璃らしい。さすがだと思った。
「そういえば、神無月先輩は零君と仲が良いんですか?」
「うん、ス・ゴ・クいいよ。まぁ『相棒』だし♪」
……心なしか空気が冷たいように感じた。瑠璃も結衣も、基本的には誰にでも優しく接する人間だが、今の二人は様子がおかしい気がした。
月下姉妹は、零が《組織》の人間であることを知らない。
一緒に暮らしてはいたが、零は制御装置(リミッター)を外せなかったし、本当のことを知っているのは重夫だけだった。
「ふぅん、そうなんですか。零君がいつもお世話になってます」
「……まるで零の保護者みたいね」
「ええ、似たようなものですよ~」
「……ふふ」
「……何でしょう?」
非常に怖かった。結衣と瑠璃は笑っていたが、それが余計に怖かった。
冷や汗を掻きながらその様子を見つめていると、不意に横から声がかかる。
「レイ、相変わらずお昼は食べてないの?」
「うーん、まあね」
「そうなんだ……」
短い沈黙が流れる。
「私たちがいないからって、きちんとした食事をしないのは駄目よ」
「……はい、気をつけます」
「いつでも」
「ん?」
「いつでも帰ってきていいのよ」
零を心配そうに見つめる。その目を見ながら、懐かしいと思った。昔、零が任務で出かける時、玄関で見送るのと同じ目だ。
――不安。
当時、何をしに行くかも解らない零を見送るのは不安だったのだろう。零はその目を見ながら、
「はは、ありがとう」
そう言って、笑った。
零は自覚していなかったが、それはこの世のどんなものよりも寂しい笑顔だった。
2012/07/14 改訂