81話 零れ落ちる砂の粒
誰かに抱かれていることだけは確かだった。暖かく優しい手が身体を包み込んでいる。ぼやけた視界の向こうで、見覚えのあるシルエットが揺らめいた。
誰だ?
分からない。そういえば以前にも似たようなことがあった気がする。あれはいつのことだったか。よく覚えていない。
無機質な鉄の塊の中で。
冷たい水の中で。
毎日、毎日。
永遠にも似た時間を、こうして――
「ね? 零、全てを私に委ねて?」
耳元で声がした。よく知っている声だった。それは零にとっては「鎖」だった。全身から力が抜けていった。
「ン――ん、ん」
柔らかいものが唇に触れる。
生暖かいものが侵入し、口内を満たしてゆく。
「ん、ちゅ、れろ――ん、ん、ぷは」
まるで甘い果実のような妖しい魅力。そのまま身を委ねてしまいたくなる。動きかけた思考回路が再びゆっくりと止まっていくような、そんな感覚。頭がぼーっとする。
ここはどこで、自分は誰だったか。
今がどんな状況で、これから何を成すべきなのか。
全てがどうでも良くなっていく。重い瞼が次第にゆっくりと閉じられていく。
――眠い。
そう、眠かった。ずっと長いこと休んでいなかった。疲れていた。疲れて疲れて、それでも休むことを拒んで、眠ることを避けてきた。
深く、深く――深淵まで堕ちてゆく。
浮かんだのは、とある少女の顔。白い髪と白い肌を持つ美しい少女。まだ出会ってから間もないのに、ずっと昔から知っているような気がする少女。
彼女は今何をしているのだろうか?
寂しがっていないだろうか?
一人で帰りを待っているのだろうか?
――帰りを?
不意に湧き上がる疑問に、止まりかけた思考回路が錆びついた音を立てた。ギチギチと、金属が擦れるような甲高い音が頭蓋内で鳴り響く。いったい誰の帰りを待っているというのか。
分からない。
――お前は誰だ?
尚も疑問は続く。痛い。頭が割れるように痛い。激痛と共に、ぼやけた視界が徐々に色を取り戻した。
白い髪の少女に、名前を呼ばれたような気がした。
――零……零。
それはとある日の朝。一緒に登校する時のこと。
それはとある日の夜。就寝する前のこと。
彼女は名を呼んだ。時に嬉しそうに。時に呆れたように。時に泣きそうな声で名を呼んだ。そんな彼女を守りたいと願って。悲しませないと誓って――
そうだ、俺は――――
◇◇◇◇◇◇◇
「……っ!」
突然のことに、天戸恵は驚いて唇を離した。今までされるがままになっていた我が子が、初めて抵抗を示したのだ。
制御装置は依然として両手両足に付いたままだ。加えて、今の今まで口移しで零に投与していたのは、感覚を鈍麻させて意識を虚ろにする薬物。本来であれば目を開くことすらままならなくなる麻薬だ。
「ハァ……ハァ……ゴホッ」
にも関わらず、零は正気を保ってみせた。荒い息遣いと共に肩を激しく上下に動かし、苦しそうに咳き込んでいる。
そんな零を見て、思わず恍惚とした声が漏れた。
「……素晴らしい。素晴らしいわ」
愛情が溢れて止まらない。自分は何て物を造ってしまったのだと。これ以上どうやって愛せばいいのだと。悦びに全身を震わせた。
両手で零の頬に触れた。目が合った。零にとっては何年ぶりかも分からぬ再会だった。
虚ろな目が、徐々に見開かれていく。
「――――あああ」
「お話するのは久しぶりね、零。私の愛しい子」
「あああああああ」
「素敵に――本当に素敵になったわ。……月下に預けて本当に良かった」
「あああああああああああ!!!!」
零は激昂する。怒りが溢れて止まらない。狂おしいほどの殺意は、もはや言葉にすらなっていなかった。
暴風雨のように、或いは理性を失った獣のように激情に任せて飛びかかる。
「があああああああああああっ!!!!」
しかし零の力任せの行動は、敢え無く四つの制御装置と鎖によって阻まれた。それでも零は構わずに飛びかかろうとした。
千切れそうなほど引き伸ばされた手首から血が滴り落ち、ブチブチと肉が切れる音がした。奇妙な角度にまで折れ曲がった足首からは歪な音がした。
それでも零は己の行動を止めようとはしない。
ずっと探していた、自分を造った親を、全ての元凶たる女を。何年も前からずっと探していたのだ。
「……あぁ」
一方の天戸恵は、白目を剥いて牙を剥く我が子の殺意を全身に受けながら、恍惚とした表情で己の股を擦っていた。
熱い吐息。
潤んだ瞳。
それらは自分に対する明確な殺意を前にして明らかに異常者の反応。尚も獣のように怒り狂う我が子へ、変わらぬ態度で語りかけた。
「ね、零? あなたの名はどこから来ていると思う?」
「がああああああああああっ!!」
零の頬に手を当て、子をあやす聖母のように。
「零番目の作品だから? 何も持たない零の存在だったから?」
或いは長年寄り添った恋人のように。
「違うわ」
暴れ狂う零を抱き締める。
「あなたは『零れ落ちる者』だからよ」
その瞬間、零の動きがピタリと止まった。初めて聞く自分の名の由来。それは思いもよらないもので、同時にあまりに的確だった。的確過ぎて、まるで心の中を覗かれたかのようだった。
「欲しいものは皆その手から零れ落ちて行く。護りたい人もみんな零れていく。それに必死に抗って、足掻いて藻掻いて苦しんで、最期にあなたは自身の命すら零していくのよ」
「……」
「あぁ――何て美しい。私の零。どんなにあなたに似せても、結局は誰も天戸零を超えることはできなかった。何度も何度も試して、何体も何体も造ったけど駄目」
再び、天戸恵は零に口づけをした。今度はどこまでも純粋で邪気のない魔性の口づけ。
「……少しずつ……少しずつあなたの時は動き出す。止まっていた時間が、音を立てて壊れ出す。どんなに抵抗しても、どんなに足掻いても、両の掌から砂が零れていくように、少しずつ少しずつ」
天戸恵は涙した。それは天戸零の命が少しずつ零れ落ちていくという意味でもある。
彼女は知っている。この天戸零という作品は、今まさに咲き誇っているということを。そして咲き誇った花はすぐに散ってしまうということを。
だが、終わりがあるからこそ、生命は美しい。散りゆく花ほど儚いものもない。一瞬の輝きを、人はこの上なく愛でるのだ。
「……だから零を超える作品は、私にはもう造れない」
名残惜しそうに、手が零の頬から離れた。
「本当は制御装置もね、零を守るために私が造ったのよ。あなたの命が燃え尽きてしまわないように、敢えて力が出せないようにね。こんな使い方をされるとは思ってもみなかったわ。お陰で今日はこうしてお話ができたわけだけれど」
「……何がしたいんだ」
「え?」
「お前はいったい何が目的なんだ」
それは、生まれて初めて発する生みの親への質問だった。長年抱き続けた、唯一の疑問だった。
「……私はあなたのことしか考えていないわ。あなたのための世界を造ることしか考えていない」
「俺の?」
「……そろそろ時間ね。またね、零。今日はお話できて嬉しかったわ」
「ま、待て! まだ話は――」
そういうと、天戸恵は消えていった。まるで最初から誰もいなかったかのように。まるで全てが夢だったかのように。
後には何も残っていなかった。