80話 愛欲の口づけ
瑠璃ブチギレ回。
何も見えない。
何も聞こえない。
身体の感覚は無く、暑さも寒さも感じない。指一本すら動かず、まるで自分の身体ではないようだった。
「……っ……ぅ」
天戸零は闇の中で呻く。
声が出ない。言葉を発そうとしても、ヒューヒューと掠れた吐息が漏れるだけだ。脱力し切った顎はだらんと下がり、口の端からは涎が垂れている。何とも醜い有様だ。
生きているが死んでいる。そんな状態だと思った。
「……フーッフーッ」
心肺機能が著しく低下している。長時間に渡る無酸素運動を行った後にように呼吸が苦しい。
アシドーシスだ。
徐々に悪化する頭痛と、眠気にも似た目眩に危機感を覚え、零は極力息を吐き続けるよう心掛けた。
しばらくしてある程度落ち着くと、真っ暗だった視界が微かに光を取り戻してきた。
ある程度身体が慣れてきた、ということだろうか。モザイクを何重にも重ね掛けしたような色彩のない世界だが、それでも自分の置かれている状況を把握することはできた。
目の前には重々しい鉄格子。周りは分厚い石の壁。両手は天井から吊るされた手錠――制御装置によって固定され、両足も同様に固定されている。
身体機能の約九割を抑え込む手錠だ。《組織》に属する者は例外なく、通常一つの装着義務がある。それが四つも着けられているのだ。最早生命維持に支障をきたすレベルだと言っても過言ではない。
「……」
些か過剰ではないかと考えてしまう。ここまでしなくても、閉じ込めておくだけなら容易だろうに。せいぜいが両手の二つ分だけで事足りる。そもそも最初から逃げるつもりなど毛頭ないのだ。
それだけ危険視されているということなのだろう。天戸零という存在は。
「―――――」
声が聞こえる。
「――――――。――……、―――――――」
どれくらい時間が経っただろう。あれから何度も気を失い、その度に酸素を求めて痙攣し、繰り返す内に感覚が狂ってしまった。
「――――。―――――? ―――、――――――……。――――――」
誰かが語りかけてきている。誰だろう。ただ、敵意はないように感じた。愛情に似た――寧ろそれ以上の感情が伝わってくる。
かつて、似たような状況に置かれたことがあったような気がする。あれはどこで、いつの出来事だったのだろうか。思い出せない。
「――……、――――――。―――――――――――」
ふわりと。
暖かいものに包まれた。
不思議とそれは、懐かしさすら感じさせるものだった。
◇◇◇◇◇◇◇
「見つけたわ」
日の光を拒絶した冷たい地下の牢獄。周囲を石で囲まれ、侵入も脱出も堅く拒む無機質な檻の中で、天戸恵は幼い少女のように興奮した声を上げた。
ほんわかした雰囲気の、可愛らしい女性だ。ふんわり膨らんだ髪を肩で切り揃え、白を基調とした明るいワンピースに身を包んでいる。
あまりにもこの牢獄には場違いな存在と言えた。こんな生命の息吹をまるで感じさせない無機質な場所に、居て良い存在ではない。彼女には色取り取りの花園こそ相応しい。
「愛しい私の零。ああ……、会いたかったわ」
一面に咲き誇る美しい薔薇のような笑顔だ。見るものを惑わせ、釘付けにし、魅了する魔性の美しさ。いや、薔薇というには刺が足りない。
どこまでも純粋で無邪気な笑顔。この世の醜さを未だ知らず、美しいものしか存在しないと本気で信じているような、そんな穢れなき少女の笑顔だ。
「可哀想に。苦しいのね? 酷いわ、なんてことを……。少し待ってて」
恵は牢の中でぐったりと衰弱する我が子の姿を見て顔を歪めた。両手両足を鎖で繋がれ、天井に吊るされる様は、さながら大罪を犯した死刑囚のようにも見える。
天戸恵は鉄格子をすり抜けて牢の中へ入った。
その現象を理解することは、恐らくあのマリア・フェレですら不可能だっただろう。空間転移などの魔法を用いたわけでもない。正真正銘、天戸恵は鉄格子をすり抜けた。まるでそんな人物は初めから存在していなかったとでも言うように。
ふわりと。
優しく、慈愛に満ちた表情で零を抱きしめた。
「ああ……、会いたかった。本当に会いたかったのよ」
それは母のものというより、紛れもない女のもの――牝の表情だった。
「喋ることすらできないなんて。ごめんね、今の私じゃ制御装置は外せないの。せいぜい効果を弱めるのが精一杯」
熱い吐息が零の髪を微かに揺らす。
「でも大丈夫、全部私に任せてくれればいいの……」
上気した頬。
潤んだ瞳。
耳元で魔性の色香が囁く。
「ね? 零、全てを私に委ねて?」
そのまま、天戸恵は零に口づけをした。
◇◇◇◇◇◇◇
音速を超えるスピードで、神無月瑠璃は黄昏の平野を駆ける。
足に魔力を集中し、且つ周囲の風を魔力で操り、風圧そのものを加速装置として用いる。もはや瑠璃は、空中を飛んでいるのとほとんど変わらない状態になっていた。
明の部屋に残っていた微かな魔力の残り香から、零が連れ去られた方角は分かっていた。加えて、零を連れ去った連中は【暗部】の者である可能性が高い。ならば答えは一つ。
――あそこしかない。
この速度なら、日付が変わる前には余裕を持って辿り着くことができる。
伝えなければ。
証明しなければ。
天戸零には、今回の件とは全くの無関係であるということを。これ以上、零が傷つかないように。彼から何も奪わせないために。
「絶対に……――っ!?」
瑠璃は急ブレーキをかけて地上に降りた。
不意に前方に現れた透明な分厚い壁。このままぶつかっていたら、下手したら全身バラバラになっていたかも知れない。大砲以上の速度で自分から突っ込んでいくようなものだ。
「これ以上先へは行かせるわけにはいきませんよ」
「……お前らか。お前らが零を」
「おお、怖い。なんという禍々しい表情。虹の女神ともあろうお方が、それではまるで神話の復讐の女神のようではありませんか」
芝居がかった仕草で以て現れたのは仮面の男。その両隣には同じく仮面を被った二人の人物。黒いマントのせいで体格も見分けがつき辛く、今言葉を発した人物以外は男か女かすら分からない。
――暗部。
姿だけは何度か見たことがあったが、言葉を交わすのは初めてだ。
「貴女が何のために来たのかは分かっていますよ。予想通り――と言うにはあまりに時間が早かった気がしますが」
「煩い。そこをどけ」
「おやおや、汚い言葉遣いだ。随分と焦ってらっしゃいますね。哀れな魔女の子。素が出ていますよ?」
――知っている?
この男は昔の神無月瑠璃を知っている。
「我々がここにいることが何を意味するのか、貴女ならお分かりでしょう?」
「……」
「お察しのとおり、我々が属するのは暗部。これは国の直属です。つまり、我々の行動は国の意思そのものなのですよ」
つまり、東国――下手をすれば大陸のトップ達が、天戸零を拘束しろと命じた可能性がある。
「世間では敬われ、目標とすらされている貴女方ですが――」
ククッと喉を鳴らす。
「所詮は《組織》という小屋に入れられた奴隷だ。首輪を繋がれ、生かして貰っているだけの忠犬だ。犬が主人に向かって牙を剥きますか? 貴女のやろうとしていることはそういうことです。」
魔法陣が展開する。
瑠璃の周囲に鋭利な土の槍が無数に浮かび、狙いを定めた。
「それでも先へ行こうというなら、我々が貴女を止めることになります。如何致しますか?」
従わなかったら国家反逆罪にでもなるのだろうか。相手の力は未知数。数は三対一。しかも、その三人が全員達人級であることは確定。
――犬、か。
的を射ている表現だと思った。全く別種の生物が互いに共存しようとした時、その方法は詰まるところ二通りしか存在しない。
管理するか、管理されるか。
そして、圧倒的少数たる我々は「管理される」ことを望んだ。人の手によって管理され、許可された時だけ本来の力を振るうことを許される化物。本来、飼い主の手を噛むようなことをするのは厳禁なのだけれども。
「……止める? 私を? たったの三人で?」
だが、瑠璃には関係なかった。
何のために生きていこうと思ったのか。どうして生き続けたいと願ったのか。その根幹は揺るがない。彼女が捧げるものは今も昔も変わらない。
あの時。
全てを失ったあの時。
そして救われたあの時からずっと。
――零と。この人といつまでも一緒に。
それが神無月瑠璃という化物の生への渇望の全て。
依存していると言われても構わない。否定しない。国に命を捧げたことなど今までに一度たりともない。
「やってみろよ一般人。組織を舐めるなよ」
瑠璃の右手が揺らめく。
炎、氷、風、雷、土。
五本の指に五色の魔力が灯る。虹の女神とは全ての理魔法を使いこなし、理の頂点に君臨する者。魔法という現象の根幹を極めし者。
「私の生きる意味を奪うなら、全て排除する。邪魔するなら消えろ!」
空気が振動し、弾けた。
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