73話 廃墟で紡がれる愛の言葉
お久しぶりです。
「どう、マリア?」
「うーん、そうですねぇ」
顕微鏡を覗き込みながら、マリアは上の空で返事をした。その間にも手は絶え間なく動き続け、紙面上に意味の分からない文字や記号を増やし続けていく。それを理解しようとは思わないし、土台、無理な話なんだと思う。
中央でのとある研究室の一角。
厳重な警備を易々とすり抜け、エイダがマリアの元にたどり着いたのは今から四時間も前のこと。床で爆睡している彼女を叩き起こすことに成功したのがちょうど一時間前。つまり、起こすのに三時間もかかってしまった。それから事情を簡単に説明し、黒箱で運んだ元蛇鮫の人間を調べるよう頼んだのが、ほんの二十分前。
「つーかアンタ、相変わらず寝てる時と起きてる時のギャップ激しいわね……」
ガリガリと、凄まじい勢いで動くペンと、ベラベラめくられていく紙の消費量を見て、エイダは呆れたように呟いた。つい数分前々まで涎を垂らし、ヘロヘロの表情のまま、わけの分からない呪文のような寝言を唱えていた奇妙な人間と、同一人物だとはとてもじゃないが思えない。凄まじい集中力だ。彼女の頭の中で、どんな複雑なものが展開されているのだろう。
「……ふー」
数分後、マリアが背もたれに寄りかかりながら一息ついた。
「なにか分かったの?」
「そうですね。大体は」
大体。なにかの情報が断片的に掴めたとか、少しずつ見えてきたとか、そういう答えではなく、大体。しかもたかだか数分だ。
かかった時間と得た情報量が全く釣り合っていない。この事実を知れば、いったい何人の研究者が自信をなくすだろうか。
「……早いわね」
「へ? そうですか?」
顕微鏡から目を離し、何本かの試験管と床に散らばった紙の束を拾い集めて、マリアはきょとんとした表情で聞き返した。
自覚がない。
本来ならば新種の魔獣の生態調査というだけで、数十人単位で一ヶ月以上の期間を要する。それを一人で、しかも数分で終えてしまうこと自体、有り得ないことなのだ。
「いやいや興味深かったです。こんな身体調べたの初めて。おかげで時間かかっちゃった」
「アンタを起こす方がよっぽど時間かかったわよ」
「いやはは、それはホラ、いつものことじゃないですか」
苦笑いしながら、ボサボサの髪をかき揚げる。せっかくの綺麗な金髪なのに勿体無いと思う。黙っていれば美人なのに。
「それで結果は?」
「エイダさんの予想通り、この男性、後天的に遺伝子を組み替えられてますね。それも、つい最近のことです」
「最近?」
「最近です。僕もこんなの調べたことないし、他にサンプルもないし確証もない。ですけど間違いないと思います」
言われなくても、マリアがこの手の推測で間違ったことなど一度もない。つまり100%正しいという意味だ。しかし、それは妙なことでもあった。
「……どういうこと? 今までの半人半魔の奴らは昔の『零プロジェクト』の生き残りだったわけよね」
零プロジェクト。
かつて義勇軍と讃えられたテロ組織――「牙」の犯した過ち。人工的に最強の兵器を生み出すという悪魔のような実験の犠牲者が、今までに零たちの目に前に現れた者たちだった。
それが、この男性はつい最近に半人半魔になったという。
「何で今頃新しく出てくるわけ」
「分からないけど……いるってことでしょう」
「いるって、なに……が」
思い当たる節があって、エイダは途中で言葉を切った。
聞かなくても分かる。そんなのは決まっている。
――研究続けてる輩。
実際、零たちの生みの親――天戸博士は、未だに行方不明のまま見つかっていない。天戸明を創るのも一人では不可能だ。必ず関係者がいる。しかし、依然として動きを見せない。
そう、いるのだ。
今でも静かに影に身を潜め、犠牲者を増やし続けている。
創造主の異名を持つ天才科学者。天戸零や天戸明を生み出した人物。零が憎悪し、殺意を抱く人物。
そしてマリアの――
「いまのとこ言えることは……」
マリアは手元の用紙に目を落とした。
「彼は偶然セブに現れたわけではない。暖かくて綺麗な水を好む魔獣の遺伝子に引きずられて、無意識の内にセブへ辿り着いたということです。いや……意図的に辿り着か『され』たと言った方がいいかもしれません」
マリアの言わんとしていることの意味が把握できず、エイダは首を傾げた。
「さっきも言ったように、この男性はつい最近になって遺伝子を弄られたんです。しかもかなり強引、無理やり組み替えられてる。未だに昏睡状態なのは、その弊害でしょう。疑問だったのは、どうして数多く存在する魔獣の中から『わざわざそんな特殊な魔獣を選んだ』のかということでして」
なるほど。
徐々に要領を得てきた。
ただ単に半人半魔の存在を増やしたかったのならば、もっとその人体に馴染みやすい魔獣を選択すればいい。わざわざ危険を冒し、強引に不適正な遺伝子を組み込む必要はない。
「……つまり、セブへ移動させるために、この魔獣の遺伝子を組み込んだって言いたいの?」
「そうです。それしか考えられない。たぶん、この男性を弄った人は、蛇鮫という強大な魔獣を、セブという南東の地に置いておきたかったんです」
果たしてその理由とは?
最初に任務の内容についてどんなことを聞かされた?
未確認魔獣。海上。隠密任務。
少し事情に通じている人間だったら分かる。これだけの条件が揃ったら、《暗部》では手に負えない。ほぼ間違いなく組織に回ってくる。そして場所は南東。つまり、東に住む者と南に住む者が任務にあたる。
東――天戸零、神無月瑠璃。
南――フローラ・シウルリウス、マリク・グレイル・ネイミート。
そして北からは意味不明な匿名の文書。
この状況で、南国にいるフローラが動かないわけがない。そしてフローラが動く以上、マリクも同行するだろう。彼は護衛だからだ。
どう転んでも南大国は戦力の要を失うことになる。
それが目的なら?
初めから、その二人を国外へ向かわせることが狙いだったとしたら?
「まさか、狙いは南大国じゃ……」
◆◇◆◇◆◇◆
未だに血の匂いと死臭が残る最南の地に、二つの影が現れた。
一人は長身の、端正な顔立ちの男性。シワ一つ無いスーツに身を包み、長めの黒髪を後ろで縛っている。
整っているからこそ温かみがないように見えるのか。温かみがないが故に端正に感じるのか。いずれにせよ、表情には一切の感情がなく、ただ冷徹と不安を身に纏っていた。
もう一人は対照的。ほんわかした雰囲気の、美しい女性。ふわっと膨らんだ髪を肩で切り揃え、明るい柄の洋服に身を包んでいる。だが、今彼女が立っている腐った土地で、そのような雰囲気でいられること事態、狂っていると形容して間違いはなかった。その点に関して言えば、隣で仏頂面をしている男の方が、まだ正常であるといえるかもしれない。
共に東国出身であることが外見からも伺える二人組。場所が場所なら夫婦に見えなくもない組み合わせ。そんな人物が、つい先日に廃墟と化したばかりの地に、いったい何の用があるというのか。
「静かで良い場所だとは思いませんか?」
先に静寂を破ったのは女性の方だった。
まるで緑豊かな自然の中で語りかけるような、さらさらと流れていくような美声。彼女にとっては、鼻の曲がるような死臭も、目を覆いたくなるような色彩も、皆等しく心休まる風景の一部だとでもいうのか。
「いい場所かどうかはともかく、便利な場所だということは納得できる」
対して、それに応えた男性の声は、どこか呆れているようにも受け取れた。
「あら、お気に召しませんでしたか? あなたが求める条件にはピッタリのはずですよ、月下衛さん?」
男性――月下衛は、フンと鼻を鳴らすと、相変わらず感情のない目で周りを見渡した。
「……建物の数は問題ない。元々が自給自足の村だ。土地の広さも十二分にある。もっと拡大することも可能か。生憎、肥料ならその辺に転がってる」
地面に転がった死体を足でどけながら、衛は廃墟を調べていく。
「取り敢えず問題なさそうだ」
「そうですか。それは良かった」
パァっと明るく微笑んだ。それはまるで花が咲きこぼれるような笑顔。見る者を虜にするには十分すぎる魔性の香り。いや、魔性というには刺が足りない。
色で例えるなら白。全くといっていいほど邪気がない。どこまでも純粋で、心の底から笑っている。
それ故に恐ろしかった。それ故に狂っていた。
「では、私はこれで失礼しますね。これから予定があるんです」
手を合わせて軽く頭を下げる。それは、デートの時間に待ちきれずに急いで出かける、年相応の女性のように見えたし、楽しみにしているプレゼントが届くのを待つ子供のようにも見えた。
だから、衛は珍しく興味をそそられた。
「嬉しそうだな」
「はい、とてもとても楽しみで。衛さんにも自慢しちゃおうかな」
「なんだ」
「実はこれから、息子に会いに行こうと思っているんです」
衛の表情がピクっと動いた。動かさないように努力したことが仇となったのかもしれなかった。
「衛さんにもいらっしゃいますよね。娘さんが二人。だったら、私の気持ちはとても良くお分かりになるでしょう? 子供が可愛くない親なんていない、いるはずがない。だって子供は親の生きがいですもの」
「……そうだな」
同意して貰えたことに、女性はとても満足したようだった。いっそう弾けるような笑みを浮かべる。
「ああ……私の零。美しく育った私の子。どんな顔をして私を見るかしら。どんな綺麗な感情を私に向けるかしら。ああ、零……零。私の最愛の息子よ」
幸せそうに呟きながら、女性――天戸恵は、腐った大地を歩き、消えていった。
今月中にあと一話くらい書けるかなーっと思ってます。