71話 動く列車の中で
エイダ・バースの過去編です。《組織》に属する人間の過去話をここまで詳しく書いたのは初めてかな……?
他のメンバーの話も書いていくつもりです。
久しぶりに訪れた思い出の地は、思ったほどの感慨は湧かなかった。
魔道列車の中で、エイダ・バースは海を眺めていた。
いつものような派手な黒い服装と、派手な赤い髪。体には金属のアクセサリーがいくつも付いている。そんな女性が列車の窓を見て黄昏ているというのも、いささか不釣り合いに思える。普段の彼女を知る者がこの様子を見たら、おそらく目を丸くするか、大声で笑うかのどちらかだろう。
彼女は今ひとりだ。周りなど気にする必要なない。もっとも、いたといしても誰も彼女を「認識」できない。エイダは何も気にせず溜息をついた。
……ふぅ、なんでアタシだけこんな貧乏くじなんかね。
当初は一日くらい滞在する予定でいたが、零たちの仕事が早いせいでトンボ帰りをする羽目になってしまった。そもそも、彼らは仕事が早過ぎると思った。なぜ期限が三日もある仕事を一日で終わらせてしまうのか。確かにマリア・フェレのようにいつまで経っても仕事をしないのも困るが。
セブは、昔とあまり変わっていなかった。確かに新たに増設されたホテルなどはあったが、海の様子は何も変わっていない。だから懐かしかった。それと同時に、寂しくもあった。
……あれからもう十年以上経つのか。
エイダ・バースが初めてセブを訪れたのは、【神々の黄昏】よりも前のこと。その頃はまだ《組織》も存在しておらず、自分が今のような仕事をすることになるとは夢にも思っていなかった。
生まれた時から、エイダは普通の人間とは違った。とはいえ、別に驚くべき身体能力を持っていたわけではない。身体に特徴があったわけでもない。簡単に言えば、異常なまでに「影が薄い子供」だった。
目の前にいるのに、誰もエイダの存在に気付かない。気付くことができない。友人も、大人も、時には両親でさえ、同じ部屋にいるはずのエイダの存在を忘れた。隣まで行って肩を叩き、相手の名を呼んで、そこでようやく気付くのだ、エイダがいることに。
――認識の外側に住んでいる。
エイダのこの不思議な体質を、後に零はそう表現した。
通常、人間が物事を「見る」のは目ではなく脳だと言われている。網膜に像を結ぶのは眼球の働きだが、その映像を情報として「認識」するのは脳だ。そのため、目に見えているだけでは本当の意味で見たことにはならない。エイダは何故か「認識」が極めて難しいという不思議な体質だった。
当然、エイダがその体質に苦しまなかったはずがない。自分の存在に気付いて貰えないというのは、ある意味で死よりも辛い拷問だ。相手に悪意がないなら尚更。
誰も自分に話しかけてくれない。
誰も自分と目を合わせてくれない。
空気になってしまったような虚無感。世界に自分が存在していないような錯覚。やがて両親すらエイダに気付かなくなり、徐々に恐怖を露わにするようになった。
――誰か、私を見て。私に気付いて。
それは心の叫び。
いつからか、自分の髪を赤く染めるようになった。自分を見て欲しくて、敢えて目立つように。
いつからか、派手な格好をするようになった。誰かに注意して欲しくて、誰かに怒って欲しくて。
いつからか、金属のアクセサリーを身に付けるようになった。歩けば音がする。自分が存在する証になると思って。
それでも、エイダを認識できる人間はごく僅かだった。いや、寧ろ悪化していった。成長していくにつれ、エイダに気付く人の数はどんどん減っていった。それに比例して、エイダの心もどんどん壊れていった。
そんな時だった。
エイダのことを認識してくれる人物が現れたのは。
――君、大丈夫?
彼はカールという名の青年で、世間ではいわゆるエリートと言われる類の人物だった。そんな彼が、道端で抜け殻のように座り込むエイダに声を掛けてきたのだ。エイダ自身、初めは自分が声をかけられているんだとは気付かなかった。
――え……アタシに……言ってる?
――そうだよ。当たり前じゃないか。他に誰がいるのさ。
――アタシが……分かる?
――えーっと、何があったのかよく分からないけどさ…… 君みたいな女性がこんなところにいたら襲われちゃうんじゃないかな。最近は物騒だし。
奇跡だと思った。話しかけられたエイダ自身が、一番驚いていた。彼は「家出でもしたの?」などと見当違いなことを聞いてきた。エイダを「認識」できることが、どれほど凄いことか理解できていなかったのだろう。ただ、その時のエイダには、彼が本当に神様のように見えたものだった。
エイダがカールに惹かれていったのは、当然のことと言えるだろう。今まで人と触れていなかったエイダは、誰よりも人の温もりに飢えていた。暇さえあれば、彼の家に訪れるようになっていた。そして、自分に多大な好意を寄せるエイダに、カールもまた惹かれていった。
――カール! 来たわよ!
――なんだエイダ、また来たのか。親御さんが心配するんじゃないのか?
――……しないわよ。だってあの人たち、アタシが見えないもの。
――エイダは時々、よく分からないことをいうなぁ。ま、いいけどさ。
当時のエイダにとって、カールの存在は世界の全てと言っても過言ではなかった。エイダは自分の全てを彼に捧げていたし、悪く言えば依存していた。
程なくして、二人は正式に付き合うことになった。同棲もするようになった。エイダは自分の体のことをきちんと説明し、病院へ通うようになった。精密な検査の末、この不思議な体質が卓越した闇魔法の副産物であることが判明した。魔法の根本と深く結びつき過ぎたために起こる弊害。今まで自分が闇魔法を使えることすら知らなかったエイダは、この事実に驚愕した。
カールは、エイダの不思議な体質を知っても、全く態度を変えなかった。寧ろそれなら自分が守らなければ、と意気込んでいたくらいだ。
セブへ行ったのは、そんな幸せの絶頂期とも言えるとき。久しぶりに休暇が取れたから、一緒に旅行へ行こうとカールに誘われたのだ。勿論断る理由はない。今まで旅行など一度も経験したことがないエイダは、前日の夜、子供のように夜も眠れないほどだった。
セブは、想像以上に美しい地だった。その美しい地で、エイダはカールと共に最大限の幸福を味わった。海で遊んで、沈む夕日を見て、豪華な食事をして、夜はベッドの中で互いを激しく求めあった。
思えば、あの時は大泣きしてしまって、カールが大慌てしていた。
別に悲しかったわけではない。何故か分からないが涙が止まらなかったのだ。
たぶん諦めていたのだろう、人並みの幸せを得ることは無理だと。それが、突然叶ってしまったため、感情がうまく整理できなかったのだ。
こうしてセブの旅行は終わり、時は過ぎた。
幸せは呆気なく崩れ去る。
些細なことがきっかけで国同士の関係が悪くなった。それはやがて第三、第四の国を巻き込み、最終的には大陸中がその争いに巻き込まれた。
後に【神々の黄昏】と呼ばれるようになった大戦である。
その頃、軍の中でも中枢に所属していたカールは、この大戦に積極的に関わらざるを得ない立場になっていた。
ある日エイダが家に帰ると、カールは珍しく部屋に戻っていた。
――次の作戦では、僕が現地で直接指揮をとることになった。
――え?
カールの言葉に、エイダは眉を潜めた。カールほどの上官が直接現場を指揮するということは、かなり大規模な作戦ということになる。
嫌な予感が脳裏を掠める。
――そんな心配しなくても大丈夫だよ。必ず生きて戻ってくるから。
――本当? 本当に大丈夫なの?
――大丈夫さ。ホラ、そんな顔しないでよ。エイダがそんな顔してたら、僕も心配で任務に集中できないじゃないか。
エイダは今でもはっきりと覚えている。あの時の自分は震えていた。それを見たカールが強く抱きしめてくれたけれど、それでも震えは止まらなかった。カールを失うことは考えられなかった。どんなに時が流れても、エイダにとって彼が世界の全てであることは変わらなかったから。
そして嫌な予感は現実のものになる。
カールはその作戦で、二度と帰らぬ人となった。
エイダは狂った。
涙は昼夜問わず永遠と流れ続け、やがて尽きて眼球がカピカピに乾いた。それでも悲しみは尽きることなく溢れ続け、血の混じった赤い涙を流すようになった。
何日間眠らなかったのかは覚えていない。食事も水も摂らなかった。気づいたときには病院に運ばれていた。腕はミイラのようになっていた。生気なんてからっぽになってしまっていた。
彼のいない世界に、未練などあるはずがない。
それからしばらくの間、エイダはただ呼吸をするだけのモノになっていた。後から聞いた話によると、呼吸すら自力で行わなかったらしい。きっと生存本能も、カールの死と同時に壊れてしまったのだ。
転機が訪れたのは、大戦が終わってからのことだった。
数人の兵が、エイダを訪ねて病院へやってきた。彼らはカールの部下だった兵で、あの作戦の時も一緒だったという。愛する人の名を聞いて、エイダの聴覚は何ヶ月ぶりかに活性化した。
――隊長から奥さんに伝言があるんです。
目の焦点が合っていく。忘れていた呼吸の仕方を思い出していく。心臓が自らの意思で動き始めてくのがわかった。
――生きて。どうか、生きて。
カールは死ぬ直前、最後の力を振り絞って愛する妻へのメッセージを送ったのだ。約束を破ることになる自分を許してくれと懺悔し、己の非力を嘆き、一人残していくエイダの身を最後まで案じていたという。
エイダの頬に、尽きたはずの涙が流れた。人形のようにからっぽになっていたエイダの心に、再び熱が灯った。カールはエイダを人生で「二度」救ったのだ。エイダに向けて、カールの部下たちは涙ながらに謝罪した。自分たちの未熟さが原因だと。隊長はそれを庇って死んだんだと。
エイダは彼らを責めることはできなかった。ほんの数分前まで、カールの願いに反することしか考えていなかった自分に、彼らを責める資格があるはずがない。
カールの言葉は、エイダの心を鎖のように縛っている。これがある限り、エイダはどんなに辛くても自ら死を選ぶことができない。ただ、これのお陰でカールといつも一緒にいられるような気がしている。
数ヵ月後、エイダは《組織》の門を叩いた。エイダのような特殊な人間の居場所は、やはり特殊な場所にしか存在しなかったのだ。自ら進んでこの門を叩く者はいない。ここに属する者はみな、「そうするしかなかった」のだ。《組織》に属する者は例外なく、そうなるだけの理由と過去を抱えていた。
――この場所で私は生きていく。
消えない痛みと鎖を抱えた【夜霧《ユリシーズ》】が誕生した瞬間だった。
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