66話 目覚め
お久しぶりです。三ヶ月ぶりくらい……?
最近なかなか時間がないですねぇ……
夕刻。
西に傾いた太陽が地平線をオレンジに染め上げる時刻。
纏わりつくような熱気はなくなり、海から吹く潮風が冷んやりと肌に心地よい。昼ごろの喧噪も消え、一定のリズムを刻む波の音が、心を穏やかにさせた。
燃えるような空と茜色の雲。
丸いオレンジの塊が、静かにゆっくりと沈んでいく。海はまるで鏡のようにその姿を反射し、水面上にゆらゆらとオレンジ色を映し出す。遠くからだと、日が二つあるようにも見えた。
「綺麗ね……」
月下鏡花が小さく呟きながら、手を空へかざす。その視線は海の向こう側へと向いており、今の風景よりも寧ろ、遠い過去を懐かしんでいるように思えた。
結局、あれから零とマリクは帰ってこなかった。
重夫としては女性に囲まれてハーレム気分を味わうのも悪くなかったが、若干気落ちした様子の孫たちと、申し訳なさそうなフローラを見るのは忍びなかった。まだ明日も明後日もあることが救いか。いずれにせよ、何かひとこと言い含めておくべきかも知れないと思った。
「さて取り敢えず、俺たちは先にホテルとやらに行ってるか」
「ええ、そうですね~」
重夫の提案に、鏡花が頷く。そのやりとりを聞いて、今までどこか夢見心地でいたフローラは、「あ、それでは私が案内します!」と慌てて立ち上がった。
重夫は一瞬思い悩む。
このフローラという女性は、間違いなく南国の王族だ。零と知り合いであることからも察するに、おそらく彼女もまた、組織に属する人間のひとりなのだろう。王族兼組織の一員。そんな人物に、道案内などという雑用のような仕事を頼んでもいいのか。
だが、そんな重夫の悩みは、何も知らない孫たちの「よろしくお願いしまーす!」という明るい声と、「お任せください!」と嬉しそうに胸を張るフローラによって、あっさりと解決してしまった。
考えすぎか。
普通、高貴な暮らしを営んできた人間は、自ら進んで一般人のような振る舞いをすることを好まない傾向があると思っていたが。
あるいは、特別な扱いを受けることを、彼女自身望んでいないのかもしれない――。フローラの横顔を見て、微かな違和感とも呼べる感情を抱いた重夫は、「ほら、おじいちゃん、早く行くよー」と急かされながら、少しずつ暗くなる海辺を跡にした。
――数十分後。
厳かなワイン色の絨毯が敷き詰められた床。信じられないほど高い天井。その天井から横壁まで完璧に磨き上げられた大理石。頭上から降り注ぐ色とりどりのシャンデリアの光。
「……え」
明が珍しくその表情を驚きに変える。
「こ、ここは……」
「ほ、ホントにここであってるの?」
芽衣と結衣は驚きというよりも寧ろ不安そうに問いかける。
まるで異世界に足を踏み入れたかのような違和感に包まれながら唖然とする月下家一同に、「はい、間違いありませんよ?」と案内人は何食わぬ顔で返した。
……名前を聞いた時に気付くべきだった。
どうして気付かなかったのか。
Sebu Resort Hotelといえば大陸有数の超高級ホテルではないか。会話の中であまりにもあっさりと名前が出たため、さらりと流してしまった。しかも、今いるのは最上階――スイートルームだ。
「温水プール、サウナ、プライベートビーチ…… やだ、バスルームも大理石なのかしら~? ふ、ふふふふふ……」
「お、お母さん、目が怖いよ……」
「こりゃあ凄い。俺も七十年以上生きてるが、こんなところに足を踏み入れたのは人生で初めてだ」
「ふふ、気に入って頂けましたか?」
目が「¥」になった鏡花と、惚けた表情の重夫を見て、フローラが満足そうに笑う。
「こ、この旅行って確かフローラさんとマリク……さんでしたっけ? お、お二人方が御招待して下さったと聞きしましたが……」
芽衣がおそるおそるといった様子で尋ねる。
「ええ、そうですよ?」
「こんな凄いホテルに泊まっていいんですか?」
「……? 駄目なんですか? 勿論、旅費は全てこちらで負担しますし、何も問題は……」
本気で理解できないというように首を傾げるフローラを見て、この人はもしかしたら――いや、間違いなくとんでもないお金持ちなのだろうと思った。そんな人物と零は知り合いで、その零と一緒に来たという理由だけで、ここまでの待遇を用意されているのだとしたら……
――天戸零とは、実はとんでもない人物なのかもしれない。
それは、四年前まで月下家で暮らしていて、学校で一緒に過ごしている彼とは別人のような気がして、ひどく落ち着かなかった。
「では皆様、ゆっくりとお休み下さい」
フローラが優雅に一礼してその場を去る。
明は、窓の外を眺めたまま、一言も発しなかった。
◆◇◆◇◆◇◆
月下家一家と別れたフローラは、再び海辺へと足を運んでいた。
日は既に完全に落ち、空は徐々に黒色へと変わろうとしている。まだ何人かの人が残っているようだったが、それでもごく僅かだ。まさか、これ以降に遠くまで泳ぎに行こうとする者もいないだろう。なんせ、夜の海は視界がひどく悪い。さらに気温も下がりやすいのだ。
「さて、どうしましょうか姫」
「そろそろ方針くらいは定めておかないと面倒なことになるかもしれませんね」
いつの間にそこにいたのか。フローラの横には、マリクと零の姿があった。後で合流しようという打ち合わせがあったわけではない。ここで待っているという伝言を残していたわけでもない。それでも、フローラはその事実に、特別な驚きを示さなかった。
「お帰りなさい、お二人とも。ナンパはどうでしたか?」
冷ややかに向けられる視線に、零は無言のまま全身から疲れを溢れさせ、逆にマリクは「最高でした」と胸を張った。
「凄かったですよ。僕はいつものことですが、零くんも年上の女性に人気がありまして」
「へ、へぇ…… 年上の女性に、ですか」
「そんな目で見ないで下さい。俺は今回被害者ですよ?」
汚らわしいものを見るような視線に対して抗議する。
「もっと凄いことに、その女性たち全員を手玉に取ってましたからね」
「ぜ、全員を…… 手玉に!?」
「そんな目で見ないで下さい! なんで興味津々なんですか!?」
好奇心が強くなった視線に対して抗議する。さらに続きそうなこの話題を「とにかく!」と大声で遮り、無理やり会話を本題へ引き戻した。
「昼間は何の動きもありませんでしたね」
何が、という主語が抜けていても、その言葉が意味することは正確に伝わったようだった。
海辺にいる間、砂の城を作っている時も、マリクと一緒に女性に囲まれている時も、零は常に注意深く海の様子を観察していた。
魔力は、空気などの気体よりも、液体や個体などの方が明らかに伝わりやすい。だからこそ、人間は武器を手にし、魔力を流し込んで戦闘に用いるのだ。今回、対象となる魔獣は海上魔獣であり、海中に存在している。さらに、巨大な魔力を持つ生き物ほど、その存在を隠すのは難しくなるという性質上、対象が動きを見せれば、零やマリク、フローラにはその動きが容易に感知できるはずだった。
「中央からの情報の中にも『夜行性』とありましたし、間違いありませんね」
本来ならば眠っているであろう昼間に奇襲を仕掛けたかったところだが、位置が正確に掴めないのであればやむを得ない。向こうから見つけて貰うしかない。
……楽な戦いではなさそうだ。
だが、プレッシャーは感じなかった。
両隣にいるのは共に「最強」の二文字を冠するに相応しい人物。
常人が努力によって辿りつける限界点を遥かに突破した「臨界者」たち。
背中を預けるには申し分ない二人だ。
「さーて、そろそろお出ましかな」
ふふん、と笑うマリクには余裕が溢れており、この状況を寧ろ楽しんでいるようですらあった。
その数秒後。
三人は同時に、対象の動きをはっきりと捉えた。
◆◇◆◇◆◇◆
暗闇が眠気の妨げになったのか。
空腹が起きろと本能に語りかけたのか。
そんなことを考え、ゆっくりと行動を開始した時には、すでに何を考えていたのかすら忘れるほどの空虚な感情が「彼」を包んだ。
日の光が届かない、深い海の底。全てが分厚い海水の膜に遮られるこの場所において、しかし「彼」は容易く周囲の様子を知ることができた。ずっしりと重い水圧を苦も無くかき分け、ゆっくりと進んでいく。でこぼこの海底には、時折切り立った岩礁がそそり立ち、そこもまた、サンゴやイソギンチャクなどの生物の住処となっている。どれくらいの年月を潮流によって撫でられてきたのだろう。奇妙な形に削れた岩礁は、ひとつとして同じ形をしているものはなかった。ひとつの岩礁が潮の流れを不規則にし、その流れがさらに別の岩礁にぶつかり、それを繰り返すことで、付近には乱流が生じているようだ。
――ここはどこだろう?
不意に湧き上がった疑問に、「彼」はふと足を止める。
通り過ぎる魚の群れ。潮流の流れ。不揃いの岩礁。何一つとして、「彼」の記憶に残っているものはない。全てが初めて見る景色であり、知らない海だった。そう、記憶にない海……
――では、何を覚えているというのだろう?
「彼」の曖昧な態度を言及するかのように、または心情を見透かすように続く心の声は、「彼」の思考を横から遮った。
わからない。ワカラナイ。
ただ、周囲を騒がせる生命の静かな囁きに、既視感とも言える奇妙な懐かしさを抱いた「彼」は、きっとこの場所こそが長年住み続けた場所なのだと、無理やり自分を納得させることによって、絶えず続く心の声を無視することに決めた。
潮の流れに身を任せ、ゆっくりと移動する。
一刻も早くこの場を去りたいという気持ちと、いつまでもここにいたいという、矛盾した願望が溢れる。ちりちりと思考回路が圧迫されるのを感じた「彼」は、再び深い意識の底へと沈んでいった。
ある意味、これは逃げでもあった。そんなことは「彼」自信が一番よくわかっていることである。
――でも、どうしようもないではないか。どうしろというのか。
何度繰り返したであろう問答を押し込め、「彼」は声にならない悲鳴をあげる。
苦しい。クルシイ。
助けて。タスケテ。
意識の途切れる瞬間に、誰かが自分の存在に気付いてくれたような気がした。
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