エピローグ
「そんな……」
黒髪をショーットカットで切り揃えた少女―――素羅は、その端正な顔を珍しく歪めて悲痛な叫びを露わにした。
「嘘じゃないよ。事実だよ」
「白死んじゃった。零号に殺されちゃった」
「ズバーって斬られて、死体すら残ってない。可愛そうな白」
対し、その台詞とは裏腹に淡々と事実を語るのは、三人の子供だ。ただ冷静に、感情のない声で事実だけを語る。それは神秘的とも悪魔的ともいえる光景だった。
素羅は脱力したように地に膝を着く。思考がうまく整理できない。起きた事実を受け入れることを拒んでいる。信じたくなかった。
白は素羅を地獄のような毎日から救い出してくれた人物だ。マリアという姉代わりの存在が消え、孤独に打ちひしがれていた時、声をかけてくれた恩人だ。彼のためならば、どんな汚いことでもやれる自信があった。
―――必要とされたい。
誰かのためになっているという存在意義が欲しかった。それが善か悪なのかはどうでもいい。あの孤独な日々に比べれば、どんなことでも乗り越えられた。
「哀しいの?」
「哀しいんだね、素羅」
「哀しいよね。本当に哀しい」
気付くと、泣いていた。もう何年も流していなかった涙は、次から次へと頬を伝い、顎まで流れて落ちていった。
「ああぁあぁぁ……」
涙は枯れたと思っていた。昔、ひとりで生きていこうと決心したことがあった。それしか生きる道はないと思っていたから。その時、泣くこともやめていた。ずっと長いこと、涙は流していなかったのだ。
―――悲しい。
それと同時に湧き起ってきたのは、また別の感情だった。
「どうしたの、素羅?」
「憎い?」
「白を殺した零号が憎いんだね?」
素羅の感情に、三つ子は敏感な反応を示す。それは、少し嬉しそうな反応でもあった。
―――憎い。
白を奪った、あの天戸零という男が憎い。
殺してやる。殺してやる。殺してやる。あの人と同じ目に合わせてやる。
殺意が研ぎ澄まされる。
三つ子は、ただ可笑しそうに笑っていた。
◆◇◆◇◆◇◆
ある男の姿が、騒ぎに紛れてカルディナ校から姿を消した。
華嶋依人―――重夫と闘って敗北した男である。依人は、混乱によって監視の目が緩んだ瞬間、近くにいた何人かを素早く気絶させ、重夫にすら見つかることなく逃げ出した。
通常、可能なことではない。あの異常なほど気配に敏感な「剣聖」を出し抜くなど、一般人からすれば不可能にも程がある話だ。それを可能にしたのは、同じく異常なまでの依人の生への執着だろう。
左足を切り落とされ、意識を失っていると思われていた依人は、実は終始意識があった。これは、そうしていた方が後々便利だと一瞬で判断したからだ。
とは言っても簡単ではない。足が激痛に侵されている中、表情一つ変えずに気を失ったフリを続けるなど、常軌を逸した行動だ。だが依人は耐えた。過去の戦争の経験から、耐えることに於いては自信を持っている依人である。左足を失った中、それでも脱出の機を窺っていた。
そして機が訪れた。
突然ホール内に入り込んできた白い光。これは人々の傷を癒していく光だった。
それを逃す依人ではない。切り落とされた左足、それをこっそり傷口に合わせ、あろうことか再生させた。完全に元通りというわけにはいかなかったが、動く程度にはなったのだ。行動した依人自身が一番驚いていた。
そこまでいけば、あとは依人にとって難しいことではない。
騒ぎに紛れ、こっそりホールを抜け出した。
「ふぅ……早く衛と合流するか」
そんな、緊張の欠片も見当たらない台詞を残して。
◆◇◆◇◆◇◆
目が覚めて最初に飛び込んできたものは、全てを見透かしたような澄んだサファイアの瞳だった。
「…………」
「あ、ようやく起きた」
「……にを…ってる……すか」
口の中はカラカラで呂律が回らず、言いたいことは言葉にならなかった。
全身が鉛のように重い。薄い布が掛けてあるだけなのに、どうしようもない圧迫感が呼吸を妨げていた。取り敢えず、生きているという事実だけが、何の感慨もなくスッポリ体に収まった気がして、零は腕から伸びる大量のチューブに視線を逸らした。
「動かないでね。と言っても、その様子じゃ動けそうにもないか」
零が寝ているベッドに腰を掛け、ガリガリと高速でペンを動かし始めたのは、金髪の女性―――マリア・フェレだ。時々ペンを止め、何かを考えるように紙面を凝視してから、また再び凄い勢いで何かを書きなぐっている。チラッと盗み見てみると、大量の文字列が何やらワケの分からない数式を作っていた。
しばらく、ペンの音だけが室内に響き渡る。
「……ゼロちゃんに言っておきたいことがあるんだけどさ」
ガリガリと文字列を書き殴りながら、こちらに目を向けずに放たれた台詞には、奇妙な威圧感が含まれていた。これは、マリアが不機嫌な時の声だ。
「ボクが知らない間に、随分と色んな女の子と仲良くなってるんだねぇ。もう何人が見舞いに来たかな。数えるのが面倒くさくなっちゃったよ。安心したな、うまくやってるみたいで」
「……ぁい?」
呂律が回らないことと言葉の意味が理解できないことが合わさって、零の返事は自分でも驚くほど間の抜けた声になってしまった。
……怒ってる? どうして。
だが、その理由を尋ねることはできない。相変わらず全身は思うように動かず、何かを喋ろうとしても声が出なかった。
「ボクがどんな思いで身を引いたのか君は分かってる? 分かってないよね、鈍感さんだもんね、つまり馬鹿だもんね。あーあ、これじゃあ何のためにボクが頑張って治療したのか分からないよ。こっちは必死だったってのにゼロちゃんには女の子が何人も何人も何人も何人もお見舞いに来るしさぁ! それも生徒だけじゃなくて一般の女性とかもお見舞いにくるのはどういうわけ!?」
ベッドに身を乗り出して問い詰めるマリアと零の距離は、数ミリのところまで迫っていた。
「ちなみに、ゼロちゃんが生き延びたのは全部ボクのお蔭だから。もう本当に大変だったんだからね。治療のために何日も連続で徹夜したのは久しぶりだよ。その辺を忘れないようにお願い。埋め合わせは後でちゃんとして貰うから」
声が出ないので、軽く頭を下げることで、了承の意図を示した。
マリアが言ったことはまさしく事実だろう。体中を疼くような鈍い痛みが支配している。だが、それは症状が改善した証だ。白と闘っていた時は、途中から感覚という感覚が抜け落ちてしまっていた。今は痛みを感じるだけマシだということだ。
「よし、じゃあたぶん喋れないだろうから、ボクが一方的に喋るね」
立ち上がって白衣を正す。そういえばマリアさんの白衣姿は久しぶりだな、などと少々ずれたことを考えながら、零は視線を白い天井に戻した。
「取り敢えずゼロちゃん。三週間ぶりのお目覚め、おめでとう」
「…………え」
マリアの台詞の意味は、すぐには理解できなかった。
……三週間?
「順を追って説明するよ」
◇◇◇◇◇◇◇
マリア・フェレはあの日のことを振り返ってみて、自分が獅子奮迅の働きをしたと自信を持っている。
明の発した白光は、カルディナ校の敷地内全体を照らし、草木や地面を、元通りにするだけでなく、負傷した生徒や一般客、教師を、ほぼ全快まで治癒させていた。
言うまでもなく、これは異常なことだ。マリアは治癒の力を持つ人間だが、これほど大規模な治癒魔法が使えるわけがない。ましてや自然の生命力に直接働きかける魔法など聞いたこともない。これらを踏まえ、マリアは天戸明の魔法を、「治癒」とは全く別種の魔法であると判断した。
当初ホール内は軽いパニックに陥っていた。何が何だか理解ができない者がほとんどだったのだろう。
そしてパニックは伝染する。たった一つの根拠ない予想が一瞬にして広まる。いくらマリアでも、騒ぎを鎮めるにはそれ相応の時間と努力を要した。
当然、それだけが彼女のやるべきことではない。
教頭―――ケビン・フロルと協力し、役割を分担すると、マリア自身は状況把握のために外へ出た。
そこで、マリアは血だまりの中に倒れている天戸零を発見した。
予感はあった。この光は、零にとっては害であると。
確かに、マリアたち普通の人間にとっては、明の発した光は無類の治癒効果を見せた。だが反対に、魔獣に対しては猛毒に近いものだった。それは、巨大蟻の死骸が、粉のようにパラパラと崩れていく様を目の当たりにしたことで確信することができた。
天戸零は、その身に魔獣のDNAを宿した人間だ。当然、その光が無害なわけがない。確実に零の肉体は崩れ始めていた。それこそ、生きているのが不思議なくらいに。
かと言って、この状況を他の一般人に見られるわけにはいかない。
そこでマリアは、大国直轄の《暗部》を動かした。
彼らの実力は《組織》のメンバーに次ぐ。それぞれの専門分野を極めた者が国中から集められ、ごく少数が選ばれる。ゆえに《暗部》の戦力は、その国家の戦力と言っても過言ではない。マリアは、所詮は余所者である自分よりも、彼らの方が確実であると判断した。情報を隠蔽しつつ勝手を利かせることくらい、朝飯前だろう。
マリアがその能力を発揮しなければならないのはその後だ。
まず零を速やかに病院まで運び、全ての情報をシャットアウトしつつ集中治療室を無条件で使用。さらに、そこにある薬剤、器具、人材を無制限に利用することを病院側に認めさせる。
そんな横暴が許されるのは、《組織》のメンバー全員に与えられた権利―――Unlimited Right Of Interference(無条件干渉権)によるものだ。
〝悪いけど君たちでは手に余る。ここから先はマイクロとコンマの世界だ。狂ってしまいたくないなら出ていくといい〟
マリアの言葉には、有無を言わさぬ迫力があった。その場にいた人間―――《暗部》の人間でさえ身動ぎひとつできないまでに。
一口に「治療」と言えども、それが天戸零の治療となれば、マリアでも簡単ではない。零の肉体は、緻密なバランスとコントロールで成り立っている。そもそも本来有り得ないDNAを組み込ませてあるのだ。常識は通用しない。あの伝説の創造主―――天戸博士が残した遺産。まさにコンマ一秒の単位で精密な治療を施さなければ、完璧な再生は望めないだろうと判断した。
三日三晩、気が狂いそうになるほどの作業を不眠不休でこなした。それは、針の穴ほどの大きさの世界で、誤差を限りなくゼロに近付けることを要求される作業だ。間違った操作が一つも許されない世界。操作が一秒遅れることすら許されない世界。
この大陸でただひとり、マリア・フェレだけができる治療だった。
零が目を覚ましたのは、それから三週間後のことだった。
◇◇◇◇◇◇◇
零には、ひとつの疑問があった。
初めて明と出会ったあの雨の夜、なぜ彼女は逃げ出すことができたのだろうと。
明はこう言った。「逃げ出してきた」と。
単純に考えておかしな話だ。逃げてきたのならば追手が来ないわけはない。万能者を警戒するにしても、あまりにも動きがなさすぎる。
当初その理由を、四大国直轄の《組織》の一員である「天戸零」の下に「天戸明」がいれば、監視もし易いからではないかと思っていた。
だが……
今回の件で、零に新たな仮説が生まれていた。
「戦争用人型兵器」として生まれた零号と「ただの人間」として生まれた壱号。この格差から生じる違和感の正体。
―――天戸明は天戸零を殺すために創られた兵器なのかもしれない。
その日、零は明の体から発せられた白光に焼き殺される夢を見た。
次回は番外編を挟みます。予定では、零が目覚めるまでの空白の三週間の出来事でも書こうかと。
その後は第四章へ突入です。
いつものように感想お待ちしております~