44話 突き動かすもの
突然鳴り響いた悲鳴のような甲高いサイレンが人々の意識の中に無遠慮に割り込み、賑やかだった文化祭の空気を切り裂いた。
大声で宣伝していた学生達。屋台の前で財布を取り出そうと、カバンに手を入れた女性。広い校舎内で、先を争うように走っていた子供達。サイレンはそれらの動きを全て止め、世界が一瞬停止したかのような沈黙を招いた。
何が起きたのか理解していない人々の間に、ゆらゆらと漂う動揺。やがて、その不安を埋めるかのように空間がざわめくと、再び鳴り響いたサイレンがそれらを塗り潰した。
やや遅れて、状況に不釣り合いな「ピンポーンパーンポーン」という間の抜けた呼び出し音の後、激しい息遣いが聞こえてきた。
『あーあー、もしもし? あれ、これちゃんと流れてる?』
それは女性の声だった。
『え~と、無理かもしれませんが落ち着いて聞いて下さい。現在この学校に、魔獣の群れが押し寄せています。もう一度言いますね。現在この学校に、魔獣の群れが押し寄せてきています。ということで、急いで校舎内の大ホールに避難して下さい』
それを聞いて、何を思ったのだろうか。
恐怖か。
驚きか。
いや、中にはただの冗談だと全く取り合わなかった者もいたかもしれない。そんな彼らが、しかしまず最初に示した一様の反応。
それは、ただ「呆然とすること」だった。
――嘘だろ?
――何かの間違いじゃないのか?
だが現実は彼らの期待を粉々に打ち壊す。
ギチギチギチギチと、重々しく大気を掻き毟る音が徐々に大きくなり、視界に歪みをもたらすと、やがてパニックに陥ったように人々は走り出した。
文化祭は、一瞬にして悲鳴の渦に飲みこまれた。
巨大な蟻の大軍がカルディナ学校に到着した頃、その変化は起こった。
ゴゴゴと地を揺らす新たな音。その音に呼応するかのように揺れが大きくなり、その揺れが最高潮に達したとき、ポコッと地面に穴が空いた。
一つ、二つ、三つ……次々と穴が空き、その穴から、また新たな音とともに、ぞろぞろと何かが這い出てきた。
ぬめぬめした白い体躯に、赤い眼球がギョロリと動く。それは、人間の拳四つ分ほどの大きさの白蟻だった。
次々と湧き出る白蟻はあっという間に数を増やし、大地は黒と白で埋め尽くされた。
巨大な黒蟻にも変化が現れる。
胴体部が二つに割れたかと思うと、その下から半透明で筋の通った、くしゃくしゃのものが現れた。わずかに濡れたそれは、やがて左右いっぱいに広がり、翅の形をとる。
ブンブンブンブンブンブンブンブンと、新たな音が大気を支配し、千にも届きそうな数の蟻たちが宙に浮かんだ。
小刻みに震える音が一帯に染み渡り、学校に向かって飛んで行った。
◆◇◆◇◆◇◆
放送の声には聞き覚えがあった。
深刻な状況であるにも関わらず、それを全く感じさせない天真爛漫と呼ぶに相応しいあの声は、マリア・フェレのものだ。さすが行動が早い。
しかし、それでも間に合わなかったようだ。
「逃げる時間すら与えてくれないのか」
零の呟きの直後、意識の外側に溢れそうなほどの音の奔流と共に、視界に大小さまざまな白と黒の蟻が噴き出す光景を見た。クラスメイトたちは、その津波を想起させる様子を見て息を呑み、一瞬思考を停止させたかのように見えた。
しかし、逃げ遅れた一般人らしき人物が、巨大な蟻に体を貪られ、周囲に赤黒いものを散乱させている事実を目の当たりにすると、鞭打たれたかのように我に返ることを余儀なくされ―――
「うわああぁぁあぁあ!」
「きゃああああああああああ!」
「あああ……に、逃げろ!」
一人が叫ぶと、それが引き金となって恐怖が伝染した。
パニックに陥った人間に、言葉はもはや通じない。誰もが教室の外へと駆け出し、安全な場所―――大ホールへ向かって走り出そうとした。
その瞬間、零は男女の二人組が教室の扉の前に立ちふさがったのを見た。見て、そして違和感を抱いた。
足音が全く聞こえなかったのだ。
その二人組はゆっくりと懐に手を入れ――
「伏せろ!」
反射的に、零は叫んでいた。
ダダダダダッと、激しい銃弾の音が巻き散らかされたのは、その直後。
別に当てるつもりはない、単なる威嚇射撃の類だろう。だが、それによって、教室は新たなパニックに包まれた。
「静かにしろ」
男がサブマシンガンを携えて、低い声で命令する。
「全員手を挙げて後ろを向け。少しでも不自然な動きを……」
しかし、その言葉は最後まで紡がれなかった。反応できなかったのだ、あまりの行動の早さ故に。
ただの学生が、威嚇射撃の直後に反撃してくるなど、誰が予想できただろうか。男が最後に見たのは、限界まで体勢を低くした少年が、目で追えないほどのスピードで迫ってくる光景だった。直後の鈍い衝撃と共に、男は意識を失う。
少年は止まらない。
唖然とするもう一人の襲撃者の女に体の向きを合わせ、彼女が正気に戻る前に、氷の槍がその手から銃器を弾き飛ばした。
慌てたように懐に手を伸ばす。しかしそれは少年を前にして、およそ信じられない程の隙の大きさだった。
「遅い」
呟かれた言葉を最後に、女の体が宙を舞う。そのまま床に叩きつけられ、さらに少年の左踵が鳩尾にめり込み、女は背骨が折れる音と共に意識を手放した。
「古池はいるか?」
未だ放心状態だった教室の人間たちは、その零の一言で再び我に返った。
「僕はここですが……」
「お前の土魔法で校舎全体を覆え」
「は、え、全体ですか!?」
「いいから早くやれ。蟻の餌になりたいのか」
「で、でも全体って……窓と出入り口だけでいいのでは?」
「駄目だ。召喚魔法専門のお前なら分かるはずだ。あの蟻の種類はなんだ?」
その零の言葉で、淳はようやく、本当にようやく気付いた。
「まさか『剛顎蟻』と『強酸白蟻』ですか?」
「そうだ。こんな校舎じゃ一瞬で食い破られる」
普段は零に食ってかかる淳だが、今回ばかりは零の有無を言わさぬ口調に押された。零が大の大人をいとも簡単に戦闘不能にしたという衝撃も大きかった。
「他にも土術師がいたら協力しろ。いいか、隙間一つ作るな。それから一人たりとも外へ出るな。廊下にはまだこいつらの仲間がいる可能性が高い」
チラリと、気を失って倒れている男女を見る。
それだけで、淳は理解したように頷いた。
「じゃ、頼んだ」
「ちょっ、どこへ?」
「害虫駆除に行ってくる」
その言葉に、淳だけではない、義之や他の面々も、驚きで目を見開いた。
「正気か!? さっきの見ただろ? あの大きさだぞ!?」
「正気だけど」
「いくらあなたが強くとも死にますよ!?」
「死なないよ」
彼らの驚きは尤もなことだった。零はこの場において万能者ではない。それを知る者もいない。天戸零という一生徒に過ぎないのだ。
――教員に任せればいい。生徒は守られるべき立場だ。
それは紛れもない正論なのだろう。
それでも。
「俺は行く」
心当たりがあった。今日、このテロを起こしているのはおそらくあいつらだ。
取り逃がしてしまったのは自分だから――
だから、行かなくてはならない。
零は一歩踏み出す。
その時、服の裾を何かに引っ張られた。
「……アカリ?」
不安という色で瞳を染める白髪の少女が、そこにはいた。
「ちゃんと帰ってくる?」
「もちろん」
「信じても?」
「俺は嘘をついたことはない」
「……嘘ばっか」
ジト目で睨まれ、零は出鼻を挫かれた気分になって苦笑した。
「ちゃんと戻ってくるから、そんな顔するな」
取り繕うように明の頭を撫で、それで納得したのか、渋々といった様子で頷いた。
「約束」
「はいはい」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
そう言うと、零は再び歩き出した。
空けてあった扉の部分が、零が外に出ると同時に土魔法によって塞がれる。これで、教室は完全な密閉空間になった。
◆◇◆◇◆◇◆
やはり零の予想通り、学校内にはすでにかなりの数の伏兵が潜んでいた。
壁の影に隠れて敵兵をやり過ごしつつ、その武器を観察する。
……あの銃器と背負ってるライフルは……
……だとすると、相手は『シンラ』か。そういえばさっきの男の東国語も微妙に訛ってたな。
そんなことを考えていると、外から爆撃音とともに、強い揺れが襲ってきた。巨大蟻との交戦が始まったらしい。しかし、いくらこの学校の教員が優れていようと、あの数を相手にするのは厳しいはず。
……時間がないか。
そう判断すると同時に、発見されることを覚悟で駆けだした。
「なんだお前は! 止まれ!」
突然のことに驚く兵達は、しかし驚くべき速さで照準を合わせ、予告なく威嚇射撃をする。
零は自分の真横を通り過ぎる弾丸をチラリとも見ずに、そのまま距離を詰めると、引き金を引いた兵の顔面を掴んでコンクリートの壁に叩きつけた。
大きな音を聞きつけて、さらに三人の兵がその周辺に集まる。
「何事だ!?」
「お前この学校の生徒か? そこで何をしている」
零は手元から滑り落ちた拳銃を奪い取り、一人の右肩を撃ち抜く。
全く無駄のない零の動きは、兵達にある種の恐怖を植え付ける。そしてその恐怖は、全ての行動を迅速に行う妨げとなった。
正気を取り戻し、引き金に指を掛けるまでにもう一人、照準を合わせようとしている間に、さらにもう一人が同じ運命を辿り、最終的に立っているのは零だけとなった。
絶対的な存在を前にして、人は抗う術を持たない。
右肩一本で済んだ彼らは、運が良かったと考えるべきだった。
「どけ」
零の氷点下まで下がった無慈悲な瞳が投げかけられると、固まったまま指一本動かすことができなくなった。
零は進む。その先に、まだまだ銃を持った兵士が待ち構えていようとも。
突き動かすものがあった。立ち止まることを本能が許さなかった。
それが何なのか、この時の零は理解していなかった。
◆◇◆◇◆◇◆
「さぁ~て、この子はいつ孵るかなぁ~?」
カルディナ学校の校舎裏に、スナック菓子を頬張りながら楽しそうに呟く女がいた。
どう表現するべきかわからない。
色黒なのか色白なのか判断ができない。
子供のようにも見えるし、大人のようにも見える。
美人とも言えるし、醜いとも言える。
そんな女が、甲高い声でケタケタと笑いを撒き散らしていた。
「なんだ、ここにいたのか」
「あ、白じゃん。調子はどう?」
「どうもこうも、たった今始まったばっかだろーが」
「あっはっは! それもそうだねぇー」
「帷はどこへ行った?」
「知ぃ~らない。予定通りに壱号……今は天戸明だっけ? その女のとこでも行ったんじゃない?」
「はぁ、相変わらずアイツは何を考えてるかわかんね」
「ちゃんと働いてるんだからいいじゃん」
校舎裏には他に人影がない。一般人は校舎内の大ホールに避難したはずだし、教員は蟻の魔獣に、虚しい抵抗をしているはずだった。
……勝ち目があるわけねーだろ。
……たった数十人の人間が、どうやって千匹以上の巨大蟻と戦えるってんだ。
しかし、そんなことは彼らが一番よく分かっているのだろう。それでも戦わなければならない。生徒を守るのは、教員の義務だからだ。
「ねぇ、白」
「あ?」
「えっとさ、『零号』は来るかなぁ」
「来るだろ」
この絶望的状況で、あいつが表に出て来ないわけがない。今の奴は「万能者」。本意ではないにしろ、魔獣狩りのプロフェッショナルなのだ。
「そっかぁ。なんか嬉しい」
「嬉しい?」
「だってさ、これでようやく揃うわけでしょ?」
そう言うと、女は白が見たこともないような笑顔を浮かべた。
「この子ももう孵るから、あたしももうそろそろ行くかな。厄介な女が――国の犬がいるからねぇー」
そこまで口にした時、女の腹からどろどろとした不気味な緑色の液体が飛び出た。それと同時に体がぶくぶくと膨れ上がり、今までの巨大蟻を超えるほどの大きさになる。
足が生えた。その数は六本。
岩山のようなゴツゴツした甲羅は、異様という他はないうねるような緑色。丸々と育った腹には、所々に橙色の斑点があった。
――女王巨蟻。
「行って来い」
白の言葉を受けて、元々は女性の姿をしていたその巨大な女王蟻は、緑色の体を正門の方角へ向けた。
虫気持ち悪いですね。
感想お待ちしております。
2015/04/05 改訂