8話 孤独を共有する者 後編
何かをしたいと思ったことがなかった。何か自分の意志で動くと言うことを知らなかった。昔から誰かに命じられるままに、あるいは本能に従って動いた。
それは今も変わらない。
空っぽ。
ゼロ。
無から生まれた「モノ」には何も与えられなかった。
――人は何か意味があって天から命を授かるのよ。
ならば。
ならば天から授かった命ではない場合はどうなのだろう。
人ですらない化物だった場合ははどうなのだろう。
美しい言葉は時に冷たい刃となる。
――奪うために与えられた命に守る力はない。
分かっている。分かっていたはずだった。
でも、だからこそ……
その出会いは特別だったのかもしれない。
◆◇◆◇◆◇◆
雨はどんどん強くなってきて、やがて土砂降りになった。
少女の存在はまさに異質。あまりにも存在が希薄で不自然だった。
「……君は?」
反射的に問いかける。返ってきたのは無言。それは、ある程度予想できていた。
異常な時間帯での異常な訪問者。その理由が真っ当なものでないことくらいは分かる。それもこんな天気の日に、だ。長時間雨に打たれ続けたためか、少女はひどく衰弱していた。
とりあえず、零は少女を部屋に入れてドアを閉めた。
……事情を聞くよりも、もっと先にやることがあるか。
まず少女の体を温めるのが先決だ。見ず知らずの人間にそこまでする義理はないが、今にも倒れそうな少女を放っておくわけにはいかない。
零は風呂場に行った。
風呂が沸くまでのん気に待ってなどいられない。零は魔力を練り、湯船大きな氷を出現させると、熱で溶かして水にし、さらに温度を四〇度付近に調節した。
「事情は後で聞く。今はまず風呂に入って。話はそれからだ」
「…………」
タオルと着替え――仕方がないのでジャージを渡して、場所を案内する。おとなしく風呂場へ向かったことを確認してから、零は戸を閉めた。
遅い時間帯に異性を部屋に上がらせ、その女性は現在浴室にいる。何も知らない人間が見たら誤解しそうな状況だ。だが零の頭に、そんな感情はまるでなかった。
予感があった。彼女はなにか自分にとって重大な要素を持っていると。
しばらくすると、少女が風呂場から出てきた。顔色は少し良くなったように見える。
「さて、さっそくだけどいくつか質問していい?」
返事はなかったが、その首がわずかに縦に動いたことを確認し、肯定と受け取って話を続けた。
「まず君の名前は?」
「…………イチ」
――いち?
変わった名前だ。漢字に直すと「市」だろうか。
「なんでこんな時間に外にいた?」
「…………施設から逃げてきたから」
――逃げてきた?
「追われてるってことか」
「……私がいなくなったことは、もう気付いてるはず」
零はますますこの少女が分からなくなった。それでも、嘘をついている目ではなかった。真紅の瞳が真っ直ぐに零を捉える。
信じてみようと思った。質問を続ける。
「それで、なぜここへ」
「あなたがいるから」
「……俺が?」
意外な答えに思わず聞き返す。
「そう、あなたが」
だが、少女は迷いなく今言ったことを繰り返し、間違いでないことを強調した。
零は困惑する。そもそも零は彼女のことなど知らない。心当たりすらない。それなのに場所まで特定してわざわざ訪ねてきたのはどうしてなのか。
思案しながら手に持っていたコーヒーを口に含む。視線を横に逸らすと、そこには彼女がついさっきまで来ていた薄い布地が目に入った。
大量の雨を吸ったそれは、しばらくは乾きそうになかった。元々白かったらしいその色も、今は幾分かくすんで見える。
この季節にしては薄すぎる服だ。いや、そもそも服なのか。どちらかというと病院に入院している患者が着るような……
そこまで考えて、零は首筋を何かが撫でるような、ゾッとする感覚に襲われた。
これは見たことがある。それどころか着たことすらある。遠い昔、まだ零が人形だった頃……
まさか。
弾かれたようにその服を手に取った。
病院で着るような薄手の服。その服の裏側には大きく「1」とナンバリングされていた。
……さきほどの「いち」とはつまり「壱」のことか!?
「名前は!?」
「…………え?」
急に態度が変わった零を見て、少女が驚いた様子を見せる。だが、今の零にそれを気遣っている余裕はない。肩を掴み、必死の形相で問いかける。
「お前はいつも他人から何と呼ばれてた!?」
「…………ぁ」
「どうなんだ!」
「…………『壱号』」
ポツリと呟かれた言葉に、零は脱力したようにその場に座り込んだ。
怒り、悲しみ、憎悪、悦び。
あらゆる感情が、内側で渦巻いているのが分かった。
――実験だ
ニヤついた男達の言葉が脳裏にフラッシュバックする。
……あいつら、まだいやがったのか。
なにかどす黒いものが鎌首をもたげた気がした。
胃液が逆流する。それを堪えると、咽に激痛が走った。頭がグラグラして正常な思考ができない。
零はそのまま糸が切れるように意識を手放した。
◆◇◆◇◆◇◆
暖かかった。この世に作り出されてから初めて感じる温もりだった。
……ここはどこだろう。夢の中だろうか。
目を開ける。殺風景な部屋。いつも通りの自分の部屋だ。
……あれ、いつの間に寝たんだ?
前後の記憶があまりはっきりしなかった。体を起こそうとしたが、身動きがとれない。
そこで異変に気づいた。
「………………はい?」
昨日の少女が上に覆いかぶさっていた。見事に少女の膝と上半身に挟まれている。零を膝枕しているうちに、自分も寝てしまったようだった。
「あの、もしもし?」
「……んん」
寝息が当たる。それくらい、二人の顔の距離は近いところにあった。
改めて良く見てみて、整った顔立ちだと思う。整い過ぎているくらいだ。その完成された造形美は、どこかの人形を思わせる。
そうして眺めているうちに、少女の目がゆっくりと開いた。
「おはよう」
「…………」
「起きて突然で悪いけど、まずはどいてくれると助かる」
そう言われて、少女は初めて今の状況に気付いたようだった。弾かれたように体を起こし、気まずそうに顔を逸らす。拘束から解放された零は反対にゆっくり体を起こし、特に気にしていない風を装った。まだ起きたばかりだが、昨日のことを思い出すと、徐々に思考が活性化してくるのが分かった。
かつて零を造り上げた者たちは、零のことを「零号」と呼んだ。戦争用の兵器、その試作品として。
この少女は自分を「壱号」と呼んだ。つまり……そういうことなのだろう。零と同じく、人為的に造られた生命ということになるわけだ。
零は重々しく溜息をつく。
「知らなかったよ」
「……?」
「俺みたいなのが他にいるってこと。そんなこと知らされてなかったからさ」
少女は意外そうな顔をした。
「……私は知っていた」
「いつから?」
「もう随分と昔、何年も前から。会わせては貰えなかったけれど、私と同じような人間がいることは知らされていた」
「俺の周りにいた奴らは、そんなこと一言も教えてくれなかったよ」
もっとも、教えてくれる前に殺してしまったのかもしれないが。
「……場所」
「?」
「お前が今までいた場所はどこだ」
聞いてどうするのか、自分でも分からない。そもそも「研究対象」が逃げ出した今、まだその場に留まっている可能性は低かった。人目を忍んで研究していたのなら、場所が割れる前に新たな場所へ移動するのが鉄則だ。ただ、聞かずにはいられなかったのだ。
「ルネ」
「……随分遠くから来たんだな」
どんな気持ちでここまで来たのだろう。
追われる恐怖に耐えて、見つかるかもしれない不安に耐えて、彼女はここまでやってきたのだ。
会ったこともない「天戸零」という人間を探し求めて。まるで希望にすがり付くかのように。
昨夜、初めて出会った時のことが頭に蘇る。その時の彼女の表情は、疲れ果てていてもどこか安心した様子で――
「……嫌じゃなければ」
「?」
「お前が嫌じゃなければ、ここにいるか? ここは少なくとも安全だ。お前を追っていた奴らは間違いなく俺を避けているだろうし、ここはそもそも学園都市だ。それでも追ってくるようなら……」
真っ直ぐに彼女の目を見て、
「俺が守ってやる」
手を差し出す。もしかしたら、零が、彼女にここにいて欲しかったのかもしれない。
その手をじっと見つめた後。
少女はその手をとった。
「ここにいたい」
この瞬間、彼女は天戸零の家族になった。
「あ、そうだ。名前はどうしようか。何て呼べばいい?」
少なくとも「壱号」などとは絶対に呼びたくなかった。
「何でもいい」
「いや、何でもいいって言われても…… 希望は?」
「何でもいい」
重ねて言う。
「あなたがつけてくれるなら、何でもいい」
そう言う少女に、零は口を噤んだ。少しだけ戸惑う。零は今まで生きていて、名前など動物にすらつけたことなかったのだ。
「……とはいっても、ね」
零は目に魔力を集めた。
特に意識したわけでもない。何か名前を付けるために参考になる特徴でもあれば、と思って取った行動だった。
ぼんやりと魔力の層が少女を包む。
「別に普通……!」
零は自分の目で見た様子に驚愕した。
別に、少女が特別な量の魔力を持っていたから驚いたわけではない。驚いたのはその魔力の「質」とでも言うべきだろうか。とにかく、一般的な理魔法の「質」は帯びていなかった。かと言って、闇魔法や光魔法などの特殊魔法でもない。零は、この魔力の「色」に、ひとつだけ心当たりがあった。
――治癒。
零が持っていない唯一の属性。いや、正確に言うと「治癒」というのは属性ではない。どちらかというと、特殊な固有能力に分類される。零自身、治癒の力を持つのは一人しか知らない。それほどまでに希少価値が高いものだった。
……ああ、そうか。
納得した。
天戸零はただ「奪う」ためだけに生まれた。万物を破壊する力。悲劇と災いをもたらす力。それを象徴するかのように、何も持っていなかった。興味も、関心も、意志も。
空っぽ。それが天戸零だった。
それに対して、目の前の少女は「与える」ために生まれたのだ。生まれながらにして持つ「治癒」の力。癒し、救う力。
この少女には……
せめて「明日」があってほしい。世界に認められない自分と違って、世界から照らされる存在であってほしい。
「……明」
「?」
「明ってどう?」
「アカリ……」
ぽつりと呟いた後、少女は微笑んだ。
せめて彼女には幸せになってほしい。零は生まれて初めて他者の幸福を願った。
零は自分のような存在が生み出されることを望まなかった。他に犠牲者は出してはならない。そう思って生きてきた。
そのため、少女の存在は、零にしてみれば望まないもののはずだった。
しかし、皮肉なことに、零は少女の存在に喜びを感じていた。
「そういえば……」
零が時計を見る。
――11時51分。
何かを忘れている気がする。何だったか。
「…………学校」
もうとっくに日は昇っていた。今更間に合うはずもない。
……つまり、そんな長いこと寝てたということか。
意識がない間、妙に寝心地が良かったのを思い出す。あんな安らかに眠ったのは初めてだった。
「……アカリ」
「?」
「もしよかったら、また今度アレ、やってくれる?」
アレの意味がわかったのだろう明は顔を赤くして頷いた。
遅いメインヒロイン登場です~
次の更新は少し遅くなるかも知れません。
2013/03/06 更新