第二十二章 いざ、連合へ
決意した少年少女たちは前を向いて進む。
例えどんなに苦しくともやり遂げると胸に秘め。
今日も仕事を片付けていくのであった。
2019年11月5日更新開始
2019年12月10日最終更新
2021年1月20日更新
涼が小蓮を連れていくと決めた後に開かれた軍議で、徐州牧である劉備こと桃香と、その補佐役を務める涼が今回の連合参加の真意を告げたのだが、諸将、特に徐州古参の者はやはりというか混乱をきたした。
当然であろう、下手をすれば桃香たちだけでなく徐州全てが火の海になるかも知れないのだ。“反董卓連合に参加しつつ董卓たちを助ける”という事は。
初めに、糜竺こと山茶花が考え直してはくれませんか、と言った。二人は首を振った。
次いで、孫乾こと霧雨が何故そのような決断に至ったのですか、と訊ねた。二人は話せる事を全て話した。
最後に、陳珪こと羽稀が決意は固いのですね、と確認した。二人は深く頷いた。
そこで古参の徐州軍諸将は溜息を吐き、だがどこかスッキリした表情になったかと思うと皆一様に拝礼し、二人の決意への賛同を示した。
程昱こと風はその光景を見ながら、まずは風たちの読み通りになりましたね、と小声で二人に言った。
こうして、意外なほど呆気なく徐州軍の軍議は終わった。
「なんだか、拍子抜けしちゃったね。」
出発前に片付けなければならない書類を整理しながら、桃香は誰ともなしに言った。
ここは桃香がいつも居る徐州牧の執務室。今この場には彼女の他には義兄である涼と、二人の軍師である諸葛亮こと朱里と風が居る。
涼は桃香と同じ様に書類に章、つまりは判子を捺しながら桃香に応える。
「まあ、風たちが言った通りになったというか。取り敢えず、ここで躓かないで良かったよ。」
ペタン、ペタンと涼と桃香が章を捺し終わった書類を手にした風は、その書類を確認しながら常ののんびりとした口調で喋る。
「ほんとうですねえ~。もしここで反対されたら出兵すらままならなかったでしょうし、仮に強引に出兵しても火種を残すところでした。はい、朱里ちゃん。」
確認が終わった書類を朱里に手渡すと、朱里はそれを種類別に振り分けていき、竹簡に確認と振り分けが終わった事をメモしていく。
「風ちゃんの言う通りです。後ろから刺される危険性がありましたし、最悪、三万にも満たない兵で河内に行くはめになるところでした。」
そう言いながらまた一枚、風から書類を受け取り、やはり同じ様に振り分け、メモをする。
州牧とその補佐である桃香と涼の仕事は当然ながら多い。特に最近までは遠征などで二人が徐州から離れていた事もあって、仕事が溜まっていた。
優秀な軍師を始めとした文官達が居なければ、いまだに大量の書類・書簡が彼等の前に存在していただろう。
涼は最後の書類に章を捺しながら朱里に訊ねる。
「実際に連れていける兵はどれくらいになりそう?」
朱里は書類を振り分けながらその質問に答える。
「先の青州遠征及び外交遠征に参加した兵士さんの殆どは今回お休みですね。流石に疲労や怪我が快復しきっていませんし、他の兵士さんの練度を上げる為にも今回は前回留守居を守っていた兵士さんを中心に選ぶ事になると思います。あ、青州黄巾党の降兵さんは論外です。練度も忠誠心もまだまだ足りませんから。」
「……それで大丈夫なのかな?」
桃香が背筋を伸ばしながら疑問を口にする。その際、偶然か必然か大きな胸が揺れて図らずも注目を集めた。
その桃香の胸をいろんな感情で見ながら、彼女の疑問に答えたのは風だった。
「勿論、それだけではダメですねえ。真偽はともかく、相手はこの国の首都・洛陽を支配しているのです。当然ながらその兵力はどんなに少なく見積もっても二十万を超えます。」
「二十万……青州遠征でうちが動員した数の倍だね。」
「はい~。しかもそれは、以前の情報を元に精査して予測した最低限の数です。何故か董卓軍の情報は余り入ってきませんからねえ。手に入った数少ない情報には、董卓軍には呂布将軍や張遼将軍といった名将が居るとあります。この二人に率いられる兵は恐らく今の徐州軍の精鋭と同じか、それ以上の実力でしょうねえ。」
「恋と霞の部隊か……。」
涼は風の説明を聞きながら、以前洛陽で会った二人の少女の事を思い浮かべる。
十常侍誅殺の際に会った二人とは、二人の上官であった丁原の取りなしもあって友好的な関係を築けたと涼は思っている。この世界では命と同等ともいえる真名を預けてもらったからだ。
だが、その二人はどうやら今、董卓軍に居るらしい。噂によると丁原は病死し、その跡を呂布こと恋が継ぎ、張遼こと霞がその補佐をしているという。
涼が知る史実や演義では、丁原は病死ではなく呂布に殺されている。そうした違いに若干戸惑いながらも、「恋が丁原さんを殺す訳ないしな」と結論付けた。恋の本意ではないものの、この世界でも呂布が丁原を殺したという事実を涼は知らない。
だが同時に、そんな二人の部隊は強敵になるだろうとも理解していた。これもまた、涼が知る史実や演義による予測である。
「出来ればその二人の部隊とは戦いたくないな。本来の目的ってのもあるけど、多分戦ったら甚大な被害が出ると思う。」
涼がそう呟くと、桃香達はまるで図ったかの様に皆一様にゴクリと唾を飲んだ。
ここに居る四人は、誰一人として呂布と張遼、それぞれが率いる部隊を見た事はない。だが涼は十常侍誅殺の時に霞の鬼神ともいうべき戦いぶりを見ており、残る三人も両者の噂は聞いていた。
曰く、『黄巾党の残党、約三万をこの二人の部隊だけで殲滅した』などである。
こうした噂には大なり小なり嘘が含まれているのが常であるので鵜呑みには出来ないが、呂布が「三国志最強の武将」という知識を知っている涼はどこか納得していた。この世界ならそういう事もあるかも知れないとも思いながら。
また、張遼も三国志にその名を刻んでいる名将であり、とある戦いに於いては演義より史実の方が凄まじい活躍をしているという、こちらも呂布に負けず劣らずな猛将である。
その二人が今度の戦いでは敵として出てくるのだ。楽観できる筈はない。楽観視する人が居たらそいつは間違いなく馬鹿である。
そしてここには楽観視する馬鹿は一人も居なかった。
「お兄さんの懸念は当然なのですよ~。黄巾党征伐、十常侍誅殺で活躍したというこの二人は一騎討ちは勿論、部隊の指揮も優れていると言われています~。また、その中核を成す騎馬隊の強さは西方の馬一族や羌族と遜色ないとも~。」
馬鹿は居ないが、緊張感が無い口調の者は居た様だ。
馬一族とは、光武帝の家臣にして後漢の名将、馬援の子孫である馬騰やその子、馬超たちの事を指す。なお、本当に馬援の子孫かは分からない。
彼等は皆、馬の扱いに長けており、外敵との戦いでも活躍していたという。その外敵の一つが羌族であるが、馬騰の母はその羌族出身である為、馬超たちには羌族の血が流れている。その為か、羌族と結んでいた事もあったという。
そんな馬一族と羌族に匹敵するかも知れない騎馬隊を擁しているかも知れないのが呂布隊、張遼隊なのだ。何度も言うが楽観視は出来ないだろう。
「ま、まあ、私達の部隊が呂布隊や張遼隊と戦うかはまだ分かりません。何せ今回の連合には沢山の諸侯が参加する様ですからね。」
楽観視はしていないが、青くなっている涼と桃香を安心させる為に朱里はそう言った。
確かに、確率で言えば朱里の言う通りだろう。だが、桃香はともかく涼にはその慰めは通じなかった。繰り返しになるが、彼には三国志の知識があるからである。
(朱里の気遣いは嬉しいけど、演義だと関羽と張飛、そして劉備が呂布と戦っているんだよなあ。この世界は演義準拠のところが多い事を考えると、なあ……。)
涼は内心で深い溜息を吐いた。
劉備、関羽、張飛対呂布。俗に言う「三英戦呂布」であり、反董卓連合及び三国志序盤の名場面である。
もっとも、この時期の劉備たちは実際には反董卓連合に参加していないと正史では考えられているし、仮に参加していても大した地位も役職もない劉備たちが活躍できるとは思えず、演義の創作と言われている。
一方、朱里の気遣いによって少しは元気を取り戻した桃香は、可愛い軍師に応える様に語気を明るくして言葉を紡いだ。空元気も元気とどこかの隊長も言っていたが、まさにそれである。
「そ、そうだね! 今はただ連合で上手くやれる様にしないとね。」
そう言って胸の前で両手の拳を握る。その際、大きな双丘が元気に弾んだのを他の三人はそれぞれ違った感想を抱きながら見つめていた。
出立の日まであと数日といったある日、涼の許に一人の少女が訪ねてきた。
ここは州牧補佐を務める涼の執務室。ここでは書類整理が主な仕事になっているが、時々こうして来客を迎える事もある。
上座に座る涼の左右には二人の少女が立っている。仕事の手伝いをしていた風と、来客の為に呼ばれた小蓮である。
「この前届いた姉様たちの手紙には貴女が来るとは書いてなかったんだけど、ひょっとして何かあったの、明命?」
涼が訊ねる前に来客の少女、明命に訊いたのはその小蓮だった。明命とは孫軍こと揚州軍の武将、周泰の真名である。
「いえ、特には何もありません。ただ、徐州軍が連合に参加するのなら一緒にどうかと海蓮様が仰られたので。」
「一緒に?」
「はい。徐州と揚州、孫家と清宮様は同盟を結んでいるので、此度の会戦でも共に戦う事は多々あると思います。ですから、今の内から行動を共にして将兵の誼を深めておくのが良いというのが海蓮様のお考えです。」
「それはまあ、確かに。」
涼はそう言いつつ右隣に立つ小蓮と左隣に立つ風を見た。小蓮は家族に会えると聞いて表情を明るくしている。風はいつもの様に眠そうな顔をしている。
「……ぐう。」
というか、寝ていた。立ったまま寝るとは器用な事をするものだ。
「風、こんなとこで寝るな。」
ていっ、と軽く手刀を風の肩に当てる涼。途端に目を覚ます風。
「これは失礼しました~。最近“何故か”忙しいのでつい居眠りをしてしまいました~。」
「……あとで昼寝して良いから、今は起きてて。」
「はい~。」
そう言った風だが眠そうな顔は変わらない。明命はというと目の前で行われたコントに困惑している様である。
そんな明命を薄目に見ながら、風は涼が聞きたい事を答えていく。
「一緒に行軍と言うのは良い考えかと思いますよ~。勿論、こちらも出立の準備といった事情があるのでその辺りを考慮してもらえれば、ですが~。」
「それについては海蓮様は徐州軍に合わせると仰られていました。出立の日にちを教えていただければ、その日に合わせて揚州軍を動かすと。」
涼はそこまでしてもらって良いのかなと思いつつ風に確認し、了承した。
「それで、合流地点はどこにするの? ここ……下邳で待っていれば良いのかな?」
「そうですね、下邳から若干南東に下っていただければよいかと思います。」
「南東?」
涼は首をかしげた。涼たちが目指す洛陽は徐州の遥か西である。なのに何故逆方向に進むのかと。
「はい。我々は泗水を上ってくる予定ですので、皆さんには船を停める場所まで来ていただければよろしいかと。」
「えっ、雪蓮たちは船で会盟の地に行くの!?」
いつも通り陸路を行くつもりだった涼からしてみれば、明命の提案は考えもしていない事だった。
「はい。幸いにも建業の北に在る長江の支流が徐州を通り、会盟の地である河内まで繋がっているので、船団を組んで進んだ方が早いと決まりました。」
明命はそう言うと航路についての説明を始めた。
建業の北を流れる長江。その建業の東、武進から見ると西北西の位置に徐州への支流がある。
その川は射陽湖という湖に繋がり、下邳の南を流れる泗水へと到る。その泗水は西の豫州に流れると睢水となり、兗州の陳留を通り官渡を過ぎ、河内の懐で他の川と合流する。以上が明命の説明である。
現代や史実の河川の流れとは違うかも知れないが、この世界ではそうなっているらしい。
日本人の感覚では川を大船団が行くというのはピンと来ないが、中国は広いので単に川と言っても大きさが違う。三国志で一番有名な戦いである「赤壁の戦い」も夏口の流れを組む河川一帯で起きた戦いだ。この戦いの魏軍は号数百万、実数二十五万の大軍を展開させたと言われているので、中国の川の大きさがイメージ出来るだろう。
よって、数万の軍勢が川を進むのは比較的簡単な事である。尤もそれは水軍を擁する揚州軍だからではある。
「船なら行軍で兵士さん達が疲れるという事は無いので楽ではありますね~。」
「それは確かに。けど明命、うちも今回の出兵には数万人を予定しているんだ。揚州軍の船の数がどれくらいか分からないけど、船が足らなかったり却って行軍が大変にならない?」
「その心配には及びません。冥琳さまは徐州軍の数を予想し、徐州軍用に最大で十万人が乗れるだけの船を用意しました。」
「マジか。」
涼は冥琳こと周瑜の読みと、この時期の揚州軍がそれだけの船を用意出来る事に驚愕していた。
揚州軍、後の孫呉は水軍が強いというのが定説である。あの「赤壁の戦い」は史実、演義ともに孫軍と劉備軍の共闘ではあるが、その勝利は八割方孫軍の水軍による手柄といえるだろう。
古代中国には「南船北馬」という言葉があった。読んで字の如く、「南方は水軍が、北方は騎馬が強い」という意味である。
赤壁の戦い直前まで曹操軍はまともな水軍を持っていなかった。河北を転戦していた彼等に水軍は不要だったのだから仕方がない。だが、いざ中国南部を攻めるには広大な長江流域を進む事になり、水軍が必要となった。
その為に荊州を攻め落とした際に荊州水軍を吸収し、しかる後に揚州の孫軍と戦ったのだろう。演義ではこの戦いの際に周瑜の策によって荊州水軍の蔡瑁と張允が処刑されているが、史実ではその様な記述はない。
この赤壁の戦いに孫軍は二万から三万を動員したといわれる。孫権の時代になり揚州で確固たる地位を得ていた時期でこの数である。それを知っているからこそ涼は驚いたのだ。
尤も、この世界に来て長い涼はそれと同時に「この世界ならそれもありなのかな」とも思っていた。
「じゃあ、詳しくはこの後みんなと話して決めるから、明命はしばらく待っていて。シャオ、彼女の話し相手よろしくね。」
「りょーかいっ☆」
シャオはそう言うと、孫家の姫に話し相手になってもらうという事態に戸惑う明命の手をとって、慌ただしく執務室を出ていった。
そんな二人を見送ってから風が呟く。
「……本当は“今の立場のシャオちゃん”を揚州軍の人と二人っきりにするのはどうかと思うんですけどね~。」
「それって、徐州の情報を聞かれるから?」
「はい~。シャオちゃんは今はまだお兄さんの婚約者であって妃ではありません。その状況では、いつ縁談が無くなってしまうか分かりませんから~。」
「それも分かるけど、遅かれ早かれうちの事は知られるし、それに……。」
「シャオちゃんや幼平ちゃんの楽しそうな顔を見たい、ですか?」
「まあ、そんなとこ。」
風はやれやれといった表情とジェスチャーをした。頭上の宝譿も何故か同じ様な表情とポーズをとっていた。涼は突っ込まなかった。
さて、そんな涼は悩んでいた。いや、悩むというより藁をも掴む思いでいたというのが近いかも知れない。
「どうしよっかなあ……。」
小蓮と明命がどこかに出掛け、風は軍師たちと遠征の話を詰めてくると言って出ていった。昼寝はまだ良いのだろうか。とにかく、今の涼は一人だった。
いつもはこんな時に誰かが来て賑やかになるものだが、今は遠征前という事もあって各自忙しく動いている。勿論その中には涼に判断を仰ぐものもある筈だが、急ぎではないのか届いていない。
そんな訳で涼は柄にもなく考え、悩み、どうしようか迷っていた。
まあ、元来考え込んだり悩むのが苦手な涼である。今回もそんなに長くはならないだろう。
「……決めたっ!」
ほらね。
「何の意味も無いかも知れないけど、願掛けって言葉もあるし、やってみよう。」
そう言って涼は机の引き出しから一冊の本を取り出し、執務室を出ていった。
果たして、涼の言う「願掛け」とは一体何なのだろうか。それは、彼が向かった場所に関係しているのかも知れない。
「葉、景、今ちょっと良いかな?」
涼は城のとある場所に来ると、二人の少女を真名で呼んだ。
「なんだい、大将?」
「お仕事でしょうか、清宮様?」
葉こと張世平は男勝りな口調ので返事をし、景こと蘇双は大人しめな口調で訊ねた。
ここは徐州軍の武具の管理を一手に引き受ける部署。新しい武具が有れば買い取りに行き、古い武具はどこかに高く売り付け……もとい、取引をしているのがここである。葉と景はその武具管理の責任者を務めている。
「ちょっと二人に作ってもらいたい物があってね。」
「あたい達に頼みかい? 何だか久し振りな気もするな。」
「そうですね、私達の登場も大体十年振りくらいな気もしますし。」
「そういう事言わない。」
メタいメタい。
いやまあ、作者も当初はこの二人をそれなりに登場させようと思っていたのだけど、いろいろ書いていたらほったらかしになっていたという事情があったりする。
そもそも、三国志演義でも序盤も序盤に一回出るだけの人物をレギュラーにしようってのがかなり無茶な訳で。いやまあ……済みません。
「それはともかく、あたい達は何を作れば良いんだい?」
「旗を作ってほしいんだ。」
「旗……ですか?」
涼の依頼に怪訝な顔をする二人。
それも無理からぬ事であった。旗というのは「旗印」という言葉もある様に軍や部隊を示すものである。当然ながらそういった物は既に作ってあるし、涼の部隊用の旗も勿論ある。
なので、涼が今こうした依頼をするという事は既存の旗ではなく新しい旗が欲しいという事だと二人は理解した。だが、一体どんな旗をどんな理由で欲しいのかは分からなかった。
涼は二人のそんな困惑を知ってか知らずか、持ってきた一冊の本のページを開いた。
「……風林火山? それと誠?」
「こっちは何と読むのでしょうか? おんりえど……?」
涼が持っていた本には様々な旗が描かれており、二人は意図せず夢中になって読んでいった。彼女達は知る由もないが、当然ながらそれは絵ではなく写真、または画像を印刷したものであり、フルカラーであった。
涼はその中から三つの旗を指定し、それらを作ってほしいと頼んだ。
「あ、風林火山の旗は“其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山”って黒地に金で書いて、風林火山の部分は赤で書いてね。」
「拘ってるねえ。別に構わねえけど。」
「ありがとう。じゃあこの本は二人に貸しとくから、あとは頼むね。」
涼はそう言うと所定のページの端を軽く折り曲げて目印にして葉に渡すと、慌ただしく部屋を出ていった。
葉は「忙しそうだねえ」と呟きながら涼が居た方向を見ていたが、景は葉の手にある本を見ながら神妙な顔をしている。
「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山……これって確か……。」
「ん? 何か知ってるのか、景?」
景の呟きに反応した葉は聞き返した。
「はい。確か孫子の兵法にこの記述があった筈です。」
「孫子の兵法ー? お前よく知ってんな。」
「以前、興味本意で雪里さんからその本を借りた事があって、それで覚えているんです。」
珍しい事もあるなと思いつつ、今の時代に軍に関係する仕事をしているのなら、興味を持つのも当然かとも葉は思った。
「ですが……何故この文字なんでしょう?」
「? 何か問題があるのか?」
「問題は無いんですが、これは本来“故其疾如風 其徐如林 侵掠如火 難知如陰 不動如山 動如雷霆”と書かれているんです。」
「ん? 何か足りねえな。」
「はい。“難知如陰”と“動如雷霆”がこれには無いんです。この二つが無いのは何故でしょうか。」
「何でだろうな。けどまあ、それは後で大将に聞けば良いさ。あたい達は言われた通りに旗を作るだけだ。」
「そうですね。」
葉と景はそう言うと早速依頼された旗の製作に取り掛かった。
なお、涼はおろか現代でも何故この文字構成になったのか分かっていないという事実を知るのは別の話である。
そんなこんなで数日が過ぎ、いよいよ徐州軍出立の日を迎えた。
旅立ちには最適の快晴無風の中、徐州軍遠征部隊は青州遠征の時と同じ様に下邳城外に集まっていた。
今回の総数は約八万。青州遠征時の約十万と比べれば少ないが、その大多数は先の遠征に参加していない、休養万全の兵達である。
率いる将も歴戦の名将である関羽、張飛を筆頭に活躍著しい趙雲。青州遠征で敵将を討ち取る戦功を挙げた、劉備の従妹の劉燕。徐州軍古参の陳珪や糜竺、糜芳といった具合に皆、徐州軍の中核を成す者達ばかり。
文官も今回初の筆頭軍師として従軍する諸葛亮とその級友である鳳統に徐庶。この他にも程昱、孫乾などが居り、やはり彼女達も徐州軍になくてはならない者達である。
この、綺羅星の如く集った文武将官をまとめあげるのは徐州牧であり総大将である劉備。その補佐に義兄の清宮が就く。まさに徐州軍のオールスターキャストである。
今度は下邳城の城壁の上からではあるが、劉備は先の青州遠征時と同じ様に諸将達に向かって演説を行った。そこには関羽たち重臣達だけが劉備の左右に侍っている。
「かつて、夏の桀王の暴政に殷の湯王が立ち向かった様に、殷の紂王の悪政に周の武王が八百諸侯と共に戦った様に、私達も今まさに暴君を誅すべくここに集まりました。」
そこで一旦呼吸を整え、唇を湿らせて再び言葉を紡ぐ。
「私の先祖である高祖劉邦も、秦の二世皇帝を打倒すべく沛で兵を挙げました。」
沛は沛県の事を指し、小沛とも言う。後漢時代は豫州に属しており、徐州のすぐ近くに在る。
「その後の高祖劉邦がどうなったかは皆さんご存じの通りです。覇王項羽との死闘の末、漢王朝を建国し、今に続く漢の礎を築きました。」
この国に生まれ住んでいる者なら誰もが知っている事を敢えて強調するかの様に、劉備は言葉を紡いでいく。
「ですがそれも、二世皇帝や項羽が居なくなったからこそです。もしどちらかが居れば、この国は今滅んでいたかも知れません。」
もし二世皇帝が暗愚でなく、または項羽が自滅しなければ歴史は大きく違っていたかも知れない。そもそも漢王朝は建国されなかったかも知れない。
「今、この国は滅ぶか生き残るかの瀬戸際にきています。かつての桀王や二世皇帝の様な暴君……董卓が畏れ多くも皇帝陛下に反旗を翻し、帝都洛陽では多くの人々が苦しんでいると言います。」
心なしか、若干言いよどんだ気もするが、劉備は続ける。
「私は、偉大なる先祖である高祖劉邦と同じ様に、今ここに打倒董卓の旗を掲げ、皇帝陛下をお救いする為の戦いに挑みます!」
劉邦の様に。そのフレーズを敢えて強調し、利き手を軽く挙げる。
「高祖劉邦も漢王朝を開くまでは辛い日々を送りました。ひょっとしたら、私はそれ以上に辛く苦しい日々を送るかも知れません。……それでも。」
一度言葉を切り、瞑目し、その後真っ直ぐに正面を見据えた劉備はこの場に居る全員に聞こえる様な大きな声でハッキリと宣言する。
「それでも私は先祖の名を汚さぬ様、劉の名を持つ者として戦います! そしてその為には皆さんの力が必要です! 皆さん、私と共に正義を成して暴君を討ち果たしましょう‼」
劉備が利き手を高々と挙げながらそう言うと、八万の将兵は皆雄叫びをあげて応えた。徐州軍の士気は否応なく高まったのである。
さて、そんな将兵達とは真逆に士気が下がっている者が居る。他でもない劉備こと桃香である。
「涼義兄さ~ん‼」
「桃香はよくやったよ。本当に頑張った。」
演説を終えて城壁から離れた桃香は、涙を浮かべながら義兄である涼に抱きついていた。涼はそんな桃香を優しく抱き締めると、幼子をあやす様に頭を撫でる。
「で、でも……私は月ちゃんを桀王や紂王みたいに言っちゃった……言っちゃったよ~っ!」
「それは仕方ないよ。そうしないと兵達の士気が上がらないし、それに……。」
そこで一旦言葉を切ると、声音を低くして自分と桃香に言い聞かせる様に呟いた。
「居るかも知れない間者を騙すにはそれしか無かったんだから。」
中途半端に言うよりも徹底的に悪く言う方が将兵の一体感を強くするし、それを聞いたどこかの間者(スパイの事)も徐州軍の動向や目的を勘違いするだろうとの考えでこの様な内容になっている。
ちなみに、桃香の演説内容はあらかじめ軍師達が考えたものだ。
桃香は涙を拭うと涼から離れ、改めて決意する様に頷く。
「そう……だよね。私達がしっかりやれば、その分だけ月ちゃん達を助けられる確率が上がる訳なんだし。」
例えその確率の上昇具合が微々たるものであっても、桃香たちにとっては必要なもの。塵も積もればなんとやら、の精神でやっていく所存なのだ。
涼は意地らしい桃香を微笑ましく見つめた後、出立の合図を出した。それを受けて愛紗たちは皆持ち場へと動いていく。
ただ一人、趙雲こと星は皆が移動した後も残って涼と桃香を見つめていた。
「……? どうしたの、星?」
「いやなに、その様にしておられるとお二人は兄妹というより恋人の様だなと思いましてな。」
「「っ!?」」
思わぬ言葉に涼と桃香は同時にむせてしまった。その様子を見て星は可笑しそうに笑っている。
「いや失礼。恋人の様に見えましたが、その息の合い様はやはり兄妹ですな。」
からかっているのだろうか、と涼は思いながら星を見、次いで桃香を見た。桃香は頬に手を当てながら顔を真っ赤にしていた。それこそ耳まで。
それを見て涼も少なからず顔を赤らめた。星は口許に手を当てながらクスリと笑っている。
やがて、涼はわざとらしく咳払いをし、それを受けて桃香も深呼吸をした。
「桃香、先に行って将兵達に顔を見せておいで。出立前できっと緊張している筈だから。」
「そ、そうだね! じゃ、じゃあ私は先に行ってくるから義兄さんも早く来てねっ。……ひゃあっ!?」
慌てて走り出したからか少し躓いて変な声が出てしまっていたが、どうやら大した事はないらしくそのまま走っていった。
涼はそんな義妹を見送ってから、未だ残っている星へ話し掛ける。
「……で?」
「で? とは?」
「出立の忙しい時にわざわざ残っているんだ。俺か桃香に話があったと考えるのが自然だろ。」
「成程。そして私はまだここに居る。」
「それはつまり、星の話したい相手が俺って事だね。」
星はさっきと変わらぬ仕草で、だがその心情は満足しているという風な表情を作り、次いで言葉を紡いだ。
「私が聞きたいのはただ一点。“覚悟がお有りか”という事です。」
星の表情は変わっていない。口調も同じく。だが、涼にはその言葉が厳しく重く聞こえた。
星は真っ直ぐに涼を見据えている。答えを聞く為に。
覚悟とは何の事か。そんなもの、出立の前に聞くのだから決まっている。
「……どんなに頑張っても月たちを助けられないかも知れない事や、徐州を危険に巻き込むかも知れない事についての覚悟なら、とっくにしてるよ。」
「……ならば結構。迷いは身を滅ぼすと言いますからな。主殿がきちんと覚悟しておられるのなら、この趙子龍の懸念は無くなったと言って良いでしょう。」
そう言った星の表情は幾分か柔らかくなっていた。それを見た涼は内心ホッとしていたが、それを星に見透かされていた事は気づかなかった。
その後、二人は集合場所へと並んで向かった。道中、世間話や今回の事を話しながら。
「まあ、不安点と言えば俺達が居ない間の徐州の守りだね。それなりの人物を配した筈だけど、一部はいろいろと懸念材料のある人だったりするから……。」
「その点でしたら心配御無用。留守居には陳到が居るのです。きちんと徐州を守ってくれるでしょう。」
そう言った星の表情は自信とも自慢ともとれる風だった。
陳到とは正史に於ける劉備配下で、趙雲に次ぐ名声、官位があったとされる人物である。が、陳到に関する記述は殆どなく、どんな活躍をしたかは分かっていない。これは、蜀漢が史官を置いていなかった為に記録が余り残っていないからと言われる。演義では五虎大将軍の一人である黄忠の正史における記述が少ないのも、そうした事が理由かも知れない。
その所為か陳到は三国志演義にも登場していない。ただ、その少ない正史の記述を読むと「忠義に篤く勇猛な武将」だったらしく、もし現代に記録が多く伝わり、演義にも登場していたらゲームや小説にも登場して大活躍していたかも知れない。
なお、この世界の陳到はやはり女性であり、真面目な性格の様だ。いつ仕官したのかは判らないが、作者が陳到を知ったのが比較的最近なので仕方がない。いずれ活躍の日も来るかも知れない。……多分。
涼と星は所定の場所に着くと、直ぐ様自分の馬に騎乗した。既に桃香を始めとした諸将は騎乗し終えている。
諸将の中では最後となった涼の騎乗を見届けた愛紗は、利き手を挙げながら号令した。
「旗を掲げよ!」
徐州軍筆頭武将である愛紗の凛とした声が響くと、各隊の旗手が旗を揚げていく。
徐州軍を示す「徐州」、劉備を示す「劉」などのお馴染みの旗に混じって、涼の周りには見慣れない旗が三種、掲げられていた。
それを見た桃香は見たままの疑問を呟き、傍に居る朱里もまた同じ様に言葉を紡いだ。
「あれって……涼義兄さんの新しい旗?」
「その様ですね。一つは孫子の兵法にのっとった物の様ですが……少し違いますね。あとの二つは何なのか見当もつきません。」
流石の名軍師、諸葛孔明こと朱里も異世界の旗印の意味は判らなかった様だ。当然ではあるが。
掲げられた旗はそれぞれ、
『風林火山』
『誠』
『厭離穢土欣求浄土』
と書かれている。
「風林火山」は武田信玄の、「誠」は新撰組の、「厭離穢土欣求浄土」は徳川家康の旗印である。
涼は今回の遠征に大きな願いをしている。それは実現が難しく、だがどうしても成功させたい事である。涼自身には武力は無く、政治力も無い。そんな彼が最後に頼るのは神頼みだった。そしてその神頼みは新しい旗を作る事で実現しようとした。端から見ると何とも無茶苦茶で馬鹿馬鹿しいが、当人は至って本気で真面目である。
その際自身が知る、日本の戦国時代や幕末の有名な旗印の中からいくつか選んだ。
「風林火山」を選んだのは、戦国最強と言われた強さを徐州軍にもたらしてほしいという事と、元ネタが孫子の兵法に由来する事から、孫子の子孫を自称する孫家との繋がりを暗に示す為でもあった。
「誠」を選んだのは、不器用ながらも自分達の道を正しいと思い突き進んだ新撰組に敬意を払い、今の自分達がやっている事が正しいと再認識する為。
「厭離穢土欣求浄土」を選んだのは、本来の意味である“穢れきった国土を厭い離れ、永遠に平和な浄土を願い求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す”という言葉が今の涼の心情に合致している事と、この旗を使った徳川家康が天下泰平の世を作ったので、それにあやかりたい為である。
これら三つの旗に加え、いつもの「清宮」の旗を掲げた清宮隊の陣容は、一見するとまとまりの無い、何とも奇異に見えたかも知れない。
だが、既に触れた様に涼自身は到って本気で真面目である。これらの旗が掲げられ、風を受けてなびいている姿を見た涼は満足し、次いで今回の遠征の成功をこの真新しい三つの旗に祈った。
その光景を見た桃香たちは何を思っただろうか。
涼の並々ならぬ意思を感じ取ったか。
それとも困惑したままか。
はたまた無理矢理にでもその真意を探ろうとしたか。
いずれにせよ、見慣れぬ旗を作ったという事はそこに何らかの意味があると考えただろう。その意味が当たっているかは別にして。
「何か格好いいかも。」
桃香はそう言葉を紡いだ。それが彼女の答えだった。
確かに「風林火山」と「誠」は格好いいと思う。特に「誠」の旗は赤地に白抜き文字、下部に所謂ダンダラ模様があり、現代でもこの隊旗に憧れを持つ歴史ファンは多い。
尤も、この隊旗は現存しておらず、現在有るのは当時の関係者の証言に則って再現されたものである。一方で、新撰組隊士だった永倉新八は後年、隊旗にダンダラ模様は無かったと言っていたりする。
それら二つと比べると、「厭離穢土欣求浄土」の旗は白地に黒で書いているだけである。果たしてこれが格好いいかどうか。義兄に対する贔屓目かも知れない。
そうしたまとまりの無い旗印ではあるが、並べてみるとカラフルと言えなくもない。黒地に金、赤地に白、白地に黒。実は色合いは被っていなかったりする。
「清宮」の旗は義勇軍の頃から何回かデザインが変わってきたが、今は紺地に白というデザインに落ち着いており、先の三つとやはり被っていない。うん、意外とカラフルな旗印になっている。
その清宮隊が行軍の先陣を務める。なのでここに「徐州」という旗も加わる。更にごちゃごちゃしてきたが仕方がない。
清宮隊は厳かに進んだ。第二陣には関羽隊、以下、張飛隊、糜竺隊、糜芳隊と続いていき、中ほどに本軍である劉備隊。すぐ後ろに趙雲隊、劉燕隊、廖化隊と続いていき、殿軍は陳珪隊が務める。
総勢八万もの大軍の行軍である。城下の人々は皆その光景を見送った。
その多くは大切な家族や親友、恋人を見送る為であり、残った者の心情は果たしていかばかりか。ただただ、無事に戻ってきてほしいと願うばかりだろう。
さて、そんな大軍の徐州軍だが、このまま西へ行軍して会盟の地に行く訳ではない。当初はそのつもりだったのだが、同盟関係にある孫家の提案で陸路ではなく水路を使って進む事になった。
徐州軍は今、孫軍との合流地点である泗水に向かっている。下邳から見て南東に位置する河である。
その途中、桃香は隣を進む朱里に向けて話し掛けた。
「泗水は近くに在るから勿論知っているけど、あの河から河内へ行けるんだねえ。」
「はい。泗水は西に長く続いていて、途中で名前が変わったりしますがその流れは遠く長安を横切り、五丈原なども通過する程長いのです。」
「ふえー、凄いねえ。……五丈原ってどこだっけ?」
「雍州辺りですね。」
「ふえー、本当に遠くまで続いてるんだねえ。」
何でも知っている朱里を心の底から尊敬する桃香を微笑ましく見ながら、朱里は表情をやや真面目にして言葉を紡いだ。
「……水路を通って何処へでも行けるという事はつまり、水路を通って攻め入る事も可能という事です。今の私達は孫軍と友好関係にありますが、もしもの時は警戒しなければなりません。」
「……もしもの時が来ない事を祈るよ。」
それが良いでしょうね、と言って朱里はこの話を打ち切った。孫軍とはこれから共に戦うのだから、必要以上に警戒させる事はないと判断したからだった。
さてその頃、先頭を行く涼は間もなく泗水の合流地点という所まで来ていた。
「雪蓮たちはもう来ているのかな。」
「恐らくは。雪蓮様は清宮様との再会を心待ちにしていらっしゃいますので、今か今かと待ち兼ねているかも知れません。」
涼の呟きにそう返したのは隣を進む周泰こと明命。彼女は先日下邳に来て以来ずっと滞在していた。
厳密に言えば、徐州軍の出立日が決まるとそれに関する手紙を持って一度建業に戻っていたが、二、三日後には雪蓮たちからの手紙を持って戻ってきた。どんな脚力と体力をしているのだろう、河も在るのにと涼は思ったが、やはり「この世界はそういうものなのだろう」と結論付けて深くは考えなかった。
以来、明命は徐州軍を孫軍にエスコートする役目をもって涼や小蓮の傍に侍っていた。余りに傍に居るので愛紗たちは当然ながら、小蓮も怒って一悶着あったが、それも今思えば微笑ましいなと涼は思っていた。
『危機感が無さすぎます』
と、雪里や風などから怒られたのも同じく。
そうこうしている内に泗水が見えてきた。そしてそこには、数えきれないほど大量の船が待機していた。当然ながら孫軍の船である。
出迎えなのか、何人かが陸に降りていた。その中から一人、特徴的な桃色の髪と紺碧の瞳、褐色の肌の女性が馬を駆って近づいてきた。
「涼ー! 待ってたわよー!」
近づいてきたのは雪蓮だった。言うまでもなく、孫軍の中心人物の一人である孫策だ。
その様子を見て涼は苦笑しつつ歩みを早め、雪蓮と合流した。少し遅れて明命が続く。
一方、後方からその様子を見ていた愛紗は、呆れる様な驚愕する様な複雑な表情をしていた。
(いくら我等が同盟関係にあり、義兄上と婚約しているとはいえ、単騎で徐州軍に近づくとは。我等を信頼しているのか、義兄上の傍に周泰が居るから安心しているのか。いずれにしても、やはり雪蓮殿は油断ならぬな。)
愛紗は一人の武将として雪蓮に敬意を表しつつ、同時に警戒心を無くさない方が良いと再認識した。
そんな風に愛紗が思っているとはつゆとも思ってない涼は、雪蓮と話し込んでいた。
「ひょっとして、結構待たせちゃった?」
「そんな事ないわよー、今来たとこ♪」
この大船団が整然と並んでいるのを見ると、どう考えてもそれは嘘だと解る。そもそも、さっき雪蓮は待ってたと言っていた。が、涼は敢えて追及せずに話を続けた。
「そうそう、明命が来てくれて助かったよ。彼女のお陰でシャオも少し肩の力が抜けていたからね。」
「それは良かったわ。けど、それは本来婚約者である貴方の役目よ、涼?」
痛い所を突かれた、と苦笑しつつ、涼は話を続けていく。
「そ、それはまあいずれ、ね。でも、本当に明命が居てくれて助かったよ。こうして雪蓮たちと連携出来るんだから。」
「うちの軍の将来有望な子だからね、明命は。……同盟関係の貴方が頼むなら閨の相手もしてくれるかもね?」
「「えっ!?」」
悪戯っぽく微笑む雪蓮の言葉に、少年と少女が同じ驚きの声をあげる。少女ーー明命に至っては両の頬に手を当てて顔を真っ赤にしていた。どうやら、まだそういった経験は無いらしい。
少年ーー涼は「あれ、同盟の内容にそんなのあったっけ?」と思いながら、からかわないでよと言った。雪蓮はそんな涼と明命を見て満足したのか、涼が率いる(勿論、総大将は涼ではなく桃香である)軍勢に目をやった。
すると今度は雪蓮が驚いた。彼女の視線の先には、「これから行く場所には一緒に居てはいけない人」が居たからだ。
驚いた雪蓮は直ぐ様涼に説明を求めた。
「ちょっと涼! なあんでここにシャオが居るのよ!?」
「……やっぱりそう思うよねえ。」
笑顔のまま抗議するという器用な雪蓮の問いに、涼は苦笑しつつ説明をした。
シャオこと小蓮が徐州に居るのは、涼と婚約しているというだけでなく、孫家に万一の事が遭った際の「保険」でもある。黄巾党の乱を切っ掛けに乱世に突入したこの国で生き残る為には、そうした事も必要だ。その為、雪蓮は本当なら小蓮を力づくでも下邳に戻すべきなのである。
だが、大切な妹の気持ちも理解できる姉は結局そうしなかった。
「まあ、あの子も誰に似たのか頑固なところがあるから、こうなるのも仕方ないのかもね。」
呆れがちに言う雪蓮を見ながら、「多分、雪蓮や海蓮さんに似たんじゃないかなあ」と言いそうになった涼だったが、何とか口にしなかった。が、何故かその直後に雪蓮からヘッドロックを決められた。
そんなこんなで孫軍との合流を果たした徐州軍は、無事に軍勢を船に乗せ、一路会盟の地である河内へと進発したのである。
道中、いつもの様にいろいろあったが、それはまた別のお話。
その様に徐州軍と孫軍が合流する数日前、洛陽では一つの事件が起きていた。「皇帝の暗殺」である。
現代でいうなら草木も眠る丑三つ時。その様に深い時間の洛陽の宮殿の一室に二人の少女と二人の少年が円卓を囲んで話をしていた。
「……以上の理由により、陛下には“死んでいただきます”。」
そう言ったのは賈駆こと詠。今は相国である董卓こと月の補佐を務める尚書という役職に就いている。
「……そんな。」
「死んでもらう」と言われた陛下こと劉弁は絶句していた。当然であろう。
劉弁はしばし呆然とした後、詠に訊ねた。
「何か他の方法は無いのか?」
「ありません。」
詠の答えは簡潔だった。他の問いも受け付けないかの様な、冷たさを含んでいた。心なしか表情もそうなっていた。
そんな表情の詠は劉弁から視線を移しながら冷たい言葉を紡いだ。
「陛下が“亡くなられた”後は、弟君の陳留王・劉協様が即位されます。……よろしいですね、殿下?」
「……本当にやむを得ないのか。」
この場に居たもう一人の皇族、劉協は長い赤髪を揺らしながら険しい表情をしている。
劉協はしばし思案した後、左側に座っている少女に問い掛けた。
「月よ。こんな事をしてしまえば貴公の悪評は完全なものになり、最早後戻りは出来なくなる。それは承知しているのか?」
問われた少女、月は殆ど間を置かずにその問いに答える。
「承知しています。寧ろ、これは私の発案ですから。」
まるで人形の様な生気の無い、能面の様な表情でそう言った。視線はずっと正面の劉弁を見据えている。
月の答えに納得できない劉協は、卓を叩きながら立ち上がり更に問い掛ける。
「何故だ。確かに袁紹らのやっかみはあったものの、弁明の機会はいくらでもあった。いや、この帝都洛陽に居るのだからいつでも弁明し、事態の解決を図る事は可能だった筈だ。」
確かに劉協の言う通りだった。
十常侍誅殺以来、本拠地である涼州には戻らずずっと洛陽に居た月たちにはいくらでもその機会があった。そもそも、現在の地位なら多少の無茶をしても解決出来たかも知れない。
だからこそ、劉協は納得出来なかったのだ。
「それなのに何故貴公はそれをしなかったのだ?」
この問いには月はすぐに答えなかった。
視線を左隣に居る詠に向ける。詠もその視線に自身の瞳を合わせ、暫し後にゆっくりと頷いた。しばらくして、月は劉弁と劉協を交互に見ながら言葉を紡ぎ始めた。
「……これから話す事は、どうか他言無用にお願いします。」
劉弁と劉協が頷いたのを確認した月は、一転してそれまでの能面の様な表情を崩し、年頃の少女の、だが悲壮な表情になって口を開いた。
「私の父母が、とある輩に捕らわれているのです。」
それは衝撃的な告白だった。劉弁も劉協も驚愕の表情のまま動かない。
ただ一人、詠は沈痛な面持ちで月を見ていた。
「その輩の要求は、“これから私の身に降りかかる災厄を解決しようとせず、悪逆非道の名を天下万民に知らしめる事”、です。」
「何だそれは……そんな事をしてその輩に一体何の得があるというのだ!?」
「殿下、お声が。」
つい声を荒げてしまった劉協を静かに注意する詠。劉協はハッとし、口を抑えながら着席し話の先を促した。
「詳しくは判りません。ただその輩は、“それによって引き起こされる戦が必要”とだけ言っていました。」
「ついでに申しますと、その輩は戦が起きた際は手助けをすると言っています。」
「そして、全てが終わった際に父母を解放する、と。」
「その為に貴公らは何も言えなかったのか……。」
その様な理由があっては、何もしなかった、いや、出来なかったのも無理からぬと劉協は思った。
輩の目的は今一つ不明瞭ではあるが、少なくとも董卓たちが苦しむ事を良しとする一団である事は確かであった。そして、仮にも涼州の一部を治める才能を持った武将を脅迫する輩が存在する事に劉協は戦慄していた。
「ですので、陛下には絶対に“死んでもらわなければならない”のです。御理解いただけましたか?」
「……理解はした。だが納得はしていない。その輩を誅殺する事は出来ないのか?」
「恐らく可能でしょう。ですが、輩に何かあった際は月の父母の命は無いものと思えと“忠告”されました。……残念ながら、ボク達は月の父母が何処に居るか判らないのです。」
詠の表情には諦めが含まれていた。恐らく、これまでに何度も月の両親の居場所を調べていたのだろう。だが、恐らくその結果は芳しくないものだった。もし良い結果ならこんな表情はしていない。
「……解った。ならば月たちの言う通りにしよう。」
「申し訳ありません、陛下。」
「構わぬ。思えばあの時、清宮達が助けに来ていなければ十常侍に殺されていたかも知れぬ我が身だ。有効に使えるならそれに越した事はないさ。」
状況を理解した劉弁は納得した様な表情でそう言った。そんな皇帝に月と詠は心から頭を下げた。
「流石はこの漢の皇帝です、劉弁陛下。」
「貴公らの忠節に感謝する。……後は頼むぞ、協。……いえ、“姉上”。」
劉弁は弟である筈の劉協に向かってそう言った。
劉協は一瞬驚いたが、すぐに常の表情に戻し、苦笑しながら応えた。
「この様な時に姉と呼ぶか。私は“弟”だ。」
「……そうだったな。済まない、協。」
「兄弟」の最後の会話を、月と詠は静かに見守っていた。そこには驚きも何もない。ただ冷静に見守っていた。
やがて、頃合いを見計らって月が告げた。
「……では、陛下は只今より“死んでいただきます”。」
こうして、「皇帝の暗殺」は行われた。
翌日、皇帝劉弁とその生母、何太后の急死が発表された。
洛陽の都は勿論、宮廷内も大騒ぎとなった。
事態を終息させる為、相国である董卓は劉弁の異母弟である陳留王・劉協の即位を発表した。後の世に「献帝」と呼ばれる皇帝の誕生である。
洛陽の武官文官は皆新たな皇帝の誕生を祝った。だが、それと同時に急逝した劉弁と何太后に別れを告げたいという者も数多く居た。
だが、董卓と賈駆は
『先帝陛下と太后様は病により崩御され、その御遺体は既に埋葬してある。御遺体に病が残っている危険性もある為、何人たりとも陵墓に立ち入ってはならない』
とのお触れを出し、二人へ直接別れを告げる事を禁じた。
これには一部の者が反発したものの、新皇帝である劉協が二人のお触れを支持した事もあってすぐに沈静化した。劉弁と何太后の遺体が安置してある陵墓は警備が厳重で多くの見張りが立っている事もあって、その亡骸を見た者は誰も居なかった。
そう、“劉弁と何太后の亡骸を見た者は誰も居ない”のだった。
明けましておめでとうございます、こちらではご無沙汰しています。
あっちで書き溜めたものをこっちで一纏めにする、という風にしているのですが、いつ更新しようかと思っている内に一年以上空いてしまいました。本当に済みません。
で、何故今更新したかというと、暇なんです。入院中なもので。
入院といっても普通に動けるので、本を読んだりゲームをしたり動画を見たりして過ごしてます。早く退院したいです。
そんな感じで暇なので、本編も少しずつ書いています。近い内に更新できたら、と思います。
さて、今回の話は反董卓連合に参加を決めて出発するまでのお話です。
実は、今回の話が出来る前にこの次の話が殆ど出来ていて、その整合性をとる為のお話だったりします。何故次の話が出来ているかというと、数年前に筆がのって反董卓連合編を少し書いていたのです。
勿論、そのまま使う訳にもいかない部分もあるので、いろいろ削ったり足したりしました。今回の話に前倒しした部分もあります。
その為、今回の話は次の話に向かうのに必要なものでした。バッサリカットしても良かったんですが、まあ、自分の性格上無理でした。
そんな感じに作った今回、少しでもお楽しみになられたら幸いです。
次の更新はいつにするか決めてませんが、本編が更新された頃に出来たら良いと思います。
これからもどうか宜しくお願いいたします。ではでは。
2021年1月20日更新。