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真・恋姫†無双 ~天命之外史~  作者: 夢月葵
第五部・青州動乱編
25/30

第十九章 帰還、それから・後編

 それから暫くの間は、戦勝の宴で友好を深めあったり、同盟の継続や内容の変更・追加は無いかといった政治的な話を続けた。その際に雪蓮が数度、涼に夜這いをかけようとして失敗したり、姉の真似をしようとした小蓮が蓮華に怒られたりしているが些細な事である。

 そうした日々が過ぎた後、曹操軍と孫策軍の内、先に帰る事になったのは曹操軍であった。

 元々徐州に来る予定が無かったので、余り長居は出来ないという理由があったので当然ではあった。それでも五日ほど滞在していたのは、先述の事以外に武将たちのスカウトなどをしていたからである。

 特に愛紗に対しては過去何度も断られているにも係わらず、熱心な勧誘だった。並みの武将であればその熱意に打たれ、間違いなく華琳の許に鞍替えしたであろう。


「涼や桃香より先に、貴女に逢いたかったわ。」


 これは徐州を発つ時に華琳が言った言葉である。実は愛紗も、内心ある程度は同意していた。

 華琳は今現在、桃香や孫堅こと海蓮などと同じく州牧という立場に居るが、その才能や人脈を考えればその立場で納まる様な人物ではない。

 何れは後漢王朝の中枢で皇帝陛下を支える、という立場になるだろうと思っている。それは歴史を知っている涼は勿論、桃香や雪蓮たちも同じ考えであった。

 そんな華琳自らに誘われて、断るというのは本来有り得ない事だ。一部の者は華琳が宦官の家の出という事を揶揄したりするが、それでもこの国屈指の名門の一つなのは変わり無く、先祖を辿れば漢王朝建国の忠臣の一人、夏侯嬰(かこうえい)に繋がるという家柄は本来文句は出ない筈である。

 それでも愛紗が首を縦に降らないのは彼女の主君への忠誠心だけでなく、涼達とは義兄弟・義姉妹という関係だからでもある。


『姓は違えども、兄妹姉妹の契りを結びしからは、

心を同じくして助け合い、困窮する者達を救わん。

上は国家に報い、下は民を安んずる事を誓う。

同年、同月、同日に生まれる事を得ずとも。

願わくば、同年、同月、同日に死せん事を』


 これはかつて、涼、桃香、鈴々、そして愛紗の四人が誓った所謂「桃園の誓い」である。

 「兄弟姉妹で力を合わせて国の為、人々の為に生きる」という、涼たちの行動原理がここに有り、「生まれた日は違っても、死ぬ時は同じでありたい」という、普段の彼女達からは考えられない苛烈な覚悟も同時に含まれている。

 その様な誓いをした愛紗は、二君に仕える気が無い。仮に誓いを抜きにしても涼と桃香は素晴らしい主君だと思っているし、頻繁に主君を変えるべきではないという彼女なりの美学もある。よって、いくら華琳が誘ってきてもその首を縦に降る事は一生無い。

 だが、愛紗は同時にこうも考えた事がある。「先に出会ったのが華琳であったら、自分はどうしていたのか」、と。

 恐らくは、万人がそうである様に華琳に仕えていたであろう。それだけ華琳、つまり曹操という武将は凄い。

 涼の世界では中国史に名前を残し、日本においても多大な影響を与えたと言われる曹操。その曹操と同じ名を持つ華琳は、まず間違いなく大成し、この世界に名を残すだろう。

 勿論、愛紗はそんな異世界の曹操の事は知らない。それでも、華琳が優れた武将だという事は分かる。

 だが愛紗は、その優れた人間である華琳に仕えるという、「あったかも知れないもう一つの道」を、全く惜しんでいない。今の道で充分だと思っている。

 華琳の許での自分自身を夢想した事はあるが、結論としては今と余り変わらないだろうという事になった。武人でしかない自分は涼と桃香の許でも、華琳の許でも、はたまた雪蓮の許でもやる事は変わらないと。

 (すなわ)ちそれは、「主君の敵を討ち倒す」という至極シンプルな、それでいて明確な答え。

 それならば、余所に居る自分を考えていても仕方がない、今やれる事をやるだけだと、愛紗はそう結論付けて今に至っている。

 なので愛紗は華琳にこう答えた。


「これも天命ですよ、華琳殿。」


 その答えを聞いた華琳は、満足した笑みを浮かべていた。






 さて、そんな風にして兗州への帰路についた華琳たちであるが、その道中、ちょっとした出会いがあった。

 徐州を出てしばらくすると、一人の小柄な、一見すると幼女の様な外見の少女が華琳の前に現れたのである。


「兗州牧の曹孟徳殿とお見受けするのです。」


 突然の来訪者にすわ敵かと色めき立つ曹操軍だが、華琳はそれを静かに、の一言で収めると目の前に現れた少女に向き直り、言葉を紡いだ。


「貴女は?」

「先日まで中牟県(ちゅうぼうけん)の県令を務めていた、陳宮(ちんきゅう)と申しますです。」


 陳宮と名乗った少女は、そこから自身を売り込んだ。それを要約すると、自分は優れた文官なので曹操殿のお役に立てる筈だという事だった。事実、様々な兵法書の文章を(そらん)じ、華琳の問いにも多少どもりつつも答え、その実力を証明した。


(まだまだ荒い所はあるけど、確かに言うだけの事はあるわね……。)


 華琳は内心で陳宮をそう評した。

 桂花や稟ほどでは無いが、間違いなく優秀な文官だという事は、この短い時間でのやり取りで判っている。優秀な人物なら武官も文官も欲しい華琳にとって、探す手間が省けたと言って良い。

 とは言え、いきなり現れたこの人物が何者かという疑問は残る。余りにも都合の良過ぎる展開は、それだけで疑念を生じさせる。幼い頃から自分を疎んじる人間を何人も見てきたし、その中には自分の親類も含まれてきた。そうした経験から、この陳宮という少女も自分を害しようとする刺客なのではないかと、華琳は思い、登用するか迷っていた。

 そんな華琳に決意を促す、低い声が聞こえてくる。


「良い人材ではありませんか、華琳様。登用して宜しいかと自分は思いますが。」

允誠(いんせい)。……そうね、貴方がそう言うのなら間違いは無いのでしょうね。」

「勿体無きお言葉です。」


 華琳は後ろに居る軽装の武将に目をやるとそう答え、そのまま陳宮を登用する事に決めた。陳宮は喜びを全身で表し、華琳とその武将に感謝の言葉を述べた。

 実はこの武将、曹操軍に於いては珍しく、男性である。物語中にはまだ出ていないが、曹操軍にも孫堅軍にも、もちろん徐州軍にも男性の武官、文官は存在する。その中で曹操軍の男性比率は一番低い。そんな数少ない男性の一人がこの「允誠」なのである。

 彼は華琳よりもだいぶ年上で、三十代から四十代といった風貌である。短めの黒髪に黒く切れ長の目、穏やかそうな顔は、一見すると文官にも見える。

 軽装と前述したが、実際に右肩に肩当て、それと繋がる様に左胸を守る胸当てをしているくらいで、あとは黒い服や茶色いズボン等を身に付けているだけである。得物はありふれた普通の剣であり、外見からはとても華琳の側に居る様な武将には見えない。

 だが、先ほど允誠が華琳の真名を呼んだのは事実であり、少なくとも華琳が信頼している人物というのは確かな様である。

 その華琳が陳宮に自身の真名を呼ぶ事を許すと、陳宮もまた同じ様に真名を明かした。


「ね……私の名前は陳宮、(あざな)公台(こうだい)、真名は音々音(ねねね)。ねねとお呼びくださいですぞ。」


 黄緑色の長い髪を首の後ろで赤い髪留めで左右に纏めた、所謂ツインテールにしている陳宮こと音々音は、パンダの顔が描かれた黒い唾つき帽子をとって平伏の証を立てる。ちなみに外見はざっと言うと白と黒で構成された導師服の様な上着に白い服、紺色のホットパンツに白と黄のオーバーニーソックス、そして短めのブーツの様な靴を身に付けている。

 瞳は大きな金色をしており、顔は低い身長と相まって幼く、現代で言うなら小学生と言っても通用するだろう。

 そんな音々音が曹操軍の一員になり、そのまま華琳たちと共に兗州へ向かう事になったのは、音々音にも華琳にも良い事だったのかも知れない。






 数日後。兗州は陳留まであと少しという所で、華琳は允誠と音々音を伴ってとある屋敷に来ていた。

 その屋敷に居たのは華琳よりだいぶ年長と思われるが美しい黒髪の女性で、華琳はその女性を「呂伯奢(りょ・はくしゃ)」と呼んだ。

 華琳は音々音を紹介した。どうやらそれがここに来た目的の一つであった様だ。

 呂伯奢は華琳たちを歓迎したが、生憎お酒が切れていると言って買い物に出掛け、その間は彼女の娘たちや食客(しょっかく)たちが応対した。

 その夜、猪や豚を使った料理に舌鼓を打った華琳たちは、そのまま呂伯奢の屋敷に泊まった。護衛と言える護衛が允誠しか居ない事に違和感と不安を覚えた音々音は、その允誠に訊ねるが、允誠は何の心配も要らぬと言うだけであった。

 そして夜更け。既に夢の中にあった音々音であったが、尿意を我慢する訳にはいかず目を覚ました。

 何気なく隣を見ると、そこに居る筈の華琳の姿が無かった。寝台に布団はあるが誰も居ないのである。

 音々音は焦った。自分の様に厠に行っているのならば良いが、もしそれ以外の、つまりは暗殺などの凶行に遭っているのではないかと思うと気が気でなかった。


(せっかく、覇王になるかもしれない人と会えたのにです……!)


 音々音が華琳の事を知ったのは、黄巾党の乱の首魁である張角(ちょうかく)とその妹である張梁(ちょうりょう)を討ったと風の噂で聞いたのが最初である。

 それ以来、ひょっとしたらこの曹操という人物は自分が仕えるべき主人なのではないかと思いながら、県令の仕事をやっていた。

 その後も十常侍誅殺、そして今回の袁紹の兗州侵攻などでの活躍を聞いて、遂に音々音は動いた。県令の仕事を辞め、凱旋してくる曹操軍を待ち、直接売り込んだ。結果、思い通り曹操軍の一員となれた。

 曹操軍には他にも優秀な文官が多数居るであろうから、出世は楽にはいかないだろうが、それでも第一歩を踏み出せたのは間違いない。


(だから、こんなところで死なれては困るのですよ、華琳殿……!)


 音々音は尿意も忘れて華琳を探し始めた。この呂伯奢邸は多数の食客を抱えているだけあって広い。それに初めて来たので勝手が分からない。更に、もし華琳が呂伯奢や屋敷の者に命を狙われているのならば、護衛である音々音や允誠も当然ながら狙われるであろう。用心しつつ闇夜を進まなければならなかった。


(……! そう言えば、允誠殿はどこに!?)


 音々音はもう一人の同行者である允誠の事を思い出した。

 華琳と同じ女性である音々音は今回、華琳と同じ部屋に泊まっていた。主君と同じ部屋は畏れ多いと一度は辞退したが、華琳がせっかくだから音々音と寝ながら話したいと言った為にそうなった。

 だが、男性である允誠は流石に同じ部屋という訳にはいかない。この時、華琳は妖しげな笑みを浮かべながら允誠も誘ったが、丁寧に辞退されている。どうやら、允誠のそうした反応を見る為に誘った様である。

 允誠は護衛を兼ねている為、二人の部屋の隣で寝ていた筈である。もし華琳に何かあれば、すぐに動いていると思われる。

 華琳の護衛を単身で任された允誠は、華琳の信任篤く、また実力もある筈だと、音々音は判断した。ならば允誠を見つければ華琳もそこに居るのでは? と考えたのはある意味当然だった。

 と、そこまで思った時に音々音はその允誠を見つけた。

 音々音はつい大声を出しそうになったが、もし本当に刺客が潜んでいたらと思い、何とか小声で允誠に話しかけた。


「允誠殿、ご無事でしたか!」

「おや、音々音か。無事とはどういう意味だ?」


 慌てている音々音とは対照的に、允誠は廊下に静かに座ったまま応えた。

 音々音は華琳が居ない事、ひょっとしたら刺客でも居るのではないか等といった事を早口で説明し、華琳の居所を知らないかと訊ねた。


「成程。華琳さまならばその部屋にいらっしゃる。」


 允誠が指差したのは目と鼻の先に在る部屋。こんな時間だというのに灯りが点いているらしく、窓から光が漏れている。この部屋に華琳が居るという。

 拍子抜けする程あっさりと華琳の居場所は判明した。途端に音々音は脱力し、廊下にへたりこんだ。


「ご……ご無事でしたか……良かったのです。」

「もちろん刺客も居らぬ。ご安心めされよ。」


 允誠にそう言われて音々音はようやく安心し、数度呼吸を整え落ち着いた。いまだ心臓の鼓動は常より早く走っている。

 そうして安心すると、脳に新しい酸素が供給され、考えが纏まる。音々音の脳裏には当然の疑問が浮かび、それをそのまま允誠にぶつけた。


「何故、華琳殿はこの様な夜更けにこの部屋に来ているのです?」


 だが允誠は先程と違い言葉を濁した。音々音は追及するがやはり答えない。

 音々音はそんな允誠の態度を訝しんだ。知り合って数日とは言え、同じ釜の飯を食べ、共に華琳をもり立てようという同志なのは間違いない。允誠には娘が居るらしく、音々音と余り変わらない歳という事もあって良くしてもらっていた。

 その允誠がこの様な反応をするからには何か深い理由(わけ)があるのではないかと、音々音が思ったその時、件の部屋から華琳の声が聞こえてきた。


「ねね? 起きたの?」


 部屋の扉越しなので少しくぐもった声だが、間違いなく華琳の声であった。音々音はこの時、心から安堵したと言って良いであろう。

 音々音は起きたら華琳が居なかったので心配し、探していたと説明した。華琳は心配かけた事を謝罪すると、明るい声で部屋に入る様に言った。

 すると、允誠が異を唱えた。


「華琳さま、それはお止めになられた方が宜しいかと……。」

「何故かしら?」

「その……音々音にはまだ早いかと。」

「そうかも知れないわね。けど、遅かれ早かれこうなるのだし、それに最終的に判断するのはねねよ。」

「それはそうですが……。」


 その後も暫くの間、二人のやり取りは続いたが、このままだと喧嘩になる、それどころか華琳が怒って允誠を討つのではないかと危惧した音々音は允誠に謝意を述べた後、華琳に部屋に入る事を伝えた。允誠は尚も心配していたが、華琳は喜び、改めて部屋に入る様に促した。

 音々音は一声掛けてから部屋への扉を開いた。数刻後、音々音はこの判断と行動が間違っていた事を嘆くが、その時は既に後の祭りであった。


「し、失礼するので……す!?」


 恭しく入室した音々音は言葉を失った。大きめの寝台の上に寝そべっている華琳が、一糸纏わぬ姿で居たからだ。

 いや、それだけではない。この部屋には呂伯奢とその娘たちも居たがその者達も華琳と同様、つまりは素っ裸であった。

 音々音は驚きつつも現状がどうなっているのか訊ねた。すると華琳は妖艶な笑みを浮かべながら、「夜伽をしていたのよ」と答えた。

 夜伽。夜に物語を話したり、警護や看病などで夜通し起きている事も夜伽と言うが、一般的には「男女の交わり」を意味する。この部屋には女性しか居ないが、要はそういう事を意味する。

 つまり、華琳は夜中、音々音が寝た後にこの部屋に来て、彼女達と楽しんでいた訳である。ここに来た目的のもう一つはこれだったらしい。


「さあ、貴女もいらっしゃい。」


 華琳はやはり妖艶な笑みでそう言った。呼ばれた音々音は戸惑いながら返事を返せずにいる。

 幼い体躯が示す様に、音々音はそういった経験が無い。男性とも女性とも、無い。

 異性とは勿論、同性との恋愛などした事がない音々音は混乱した。ここで華琳の誘いを受けるのは是か非か。主君の命令なら聞くのが当然ではないか、いやいや、異性となら兎も角、同性となんておかしい、いや、同性とも有りなのではないか、等の考えが数秒の間に何度も繰り返され、結果として音々音の思考はオーバーヒートした。


「す、す、すみませんです! ねねはその……ゴメンナサイっ!!」


 茹で蛸の様に真っ赤になった顔、ひょっとしたら全身がそうであったかも知れないが、兎に角真っ赤になった音々音はそう叫ぶと、一目散に自分が寝ていた寝所へと戻っていった。

 その様子を華琳は苦笑しつつ見送ると、寝台からは死角になって見えないが、廊下に居る筈の允誠に話し掛けた。


「貴方の言う通りだったわね。」

「連れ戻しますか?」

「良いわ。嫌がる相手を無理矢理に、ってのは趣味じゃないから。」

「文若殿には時々そうしている様ですが?」

「あの子はその時の反応が面白いから良いのよ。それに、本気で嫌がっていたら、いくら桂花が相手でもしないわよ。」


 そう言うと、華琳は呂伯奢の娘の一人を抱き寄せた。


「ねねは兎も角、貴方はどう? この子なんか貴方の好みじゃないかと思うのだけど。」

「お戯れを。女を抱いたとバレたら妻と娘に殺されます。」

「それは残念ね……ふふっ。まあ良いわ、引き続き護衛を頼むわね、鮑允誠(ほう・いんせい)。」

「はっ。」


 允誠が恭しく頭を下げると、華琳は夜伽を再開した。允誠はこの反応も折り込み済みで訊ねたのだな、と思いながらもそれ以上は何もしなかった。




 それから一刻後、いろんな意味でスッキリして寝室へと戻ってきた華琳は、自身の寝台に置き手紙が有る事に気づき、それを手に取って読んだ。


『華琳殿、短い間ではありましたがお世話になりました。

華琳殿を覇王にするべく仕官しましたが、あの様な事をしなければならないのは本意ではありませんです。

ねねから仕官しておいて誠に勝手ながら、今限りで曹操軍を辞めさせていただくのです。


追伸。

捜さないでください。』


 何と、音々音は曹操軍を辞めていた。華琳が部屋を見渡すと、有った筈の音々音の服や荷物が無い。既にこの屋敷を離れていると考えて良いだろうと華琳は結論付けた。


「……残念ね。育てばひとかどの軍師になって私を支えてくれたでしょうに。」


 その声音は音々音が居なくなった事を真から惜しんでいる様であり、それだけ音々音を評価していたという事であった。

 とは言え、来る者は拒まず、去る者は追わない華琳はそれ以上何もせず、夜明けまで過ごした。






 一方、まるで命からがら逃げるかの様に屋敷を後にした音々音は、一度も後ろを振り返る事無く走り続けた。

 どこでも良い、兎に角ここから逃げようと思った音々音は、意図せず西へ西へと進んでいた。

 そして、兗州を出てしばらくした所で賊の集団に出遭ってしまった。文官である音々音は抵抗する事が出来ない。賊たちは音々音を囲み、下卑た笑みのままジリジリと近付いてくる。

 ねねの人生はここで終わるのか、と絶望した音々音は、せめてもの足掻きとして大声で助けを呼んだ。

 するとその瞬間、音々音の正面に居た賊の一人の体が真っ二つになった。突然の事に他の賊達も、音々音も事態を把握出来ないでいた。

 だが、誰もが現状把握する間も無く、賊は次々と絶命していった。よく見ると、紅い髪に褐色の肌の女性が黒い戟を振り回して、賊を斬り伏せていた。

 そうしてその女性は賊にまったくと言って良いほど反撃させず、あっという間に全ての賊を斬り殺した。

 戟に付いた血を振って落としたその女性は、そのまま音々音に近付いていった。賊が居なくなって安心していた音々音は、今度は自分が殺されるのでは!? と内心慌てたが、結果としてそれは杞憂に終わった。


「……大丈夫?」


 女性は、先程賊を斬り伏せていた時の迫力とはうって変わって、のんびりで穏やかな表情と口調で話し掛けてきた。

 よく見ると、女性と言うより少女と言った方が合う外見だった。背も体型も小さな音々音と違い、その少女はそれなりの身長であり、出る所は出て引っ込む所は引っ込んでいる、要は抜群のスタイルの持ち主であった。

 一体この少女は誰なのか、と音々音が考え始めた時、その少女の後方から別の少女の声が聞こえてきた。


「おーい呂布(りょふ)っち、何かあったんかー?」


 特徴的な訛りを持つ言葉を発したその少女は、ツンツンとした紫色の髪、羽織袴にサラシ姿で、銀色に輝く槍を手にしていた。後ろには部下らしき兵士が数人、ついてきている。


「……子供が賊に襲われていたから……助けた。」

「そうみたいやな。……見たところ、こいつらは黄巾の残党かいな。」

「……多分、そう。」


 そういった会話をしながら二人の少女は賊の死体を検分し、次いで部下達に何かを命じていた。

 それが終わると、羽織袴の少女が音々音に話し掛けてきた。


「大丈夫やったか? 怪我とかしてへんか?」


 随分と気さくな人なのです、と思いつつ、音々音は大丈夫と答える。

 それから、名前は? とか、何故ここに? とか、行く当てはあるのか? 等いくつか質問をされた。本来答える義務は無いが、助けてもらった手前、答えないという訳にはいかない。音々音は正直に答えた。

 質問が終わるのを確認すると、今度は音々音が質問をした。


「貴女たちは、どこの軍なのです?」


 その問いに答えたのは、やはり羽織袴の少女だった。


「うちらは呂布軍。この子が大将の呂奉先(りょ・ほうせん)で、うちは副将の張文遠(ちょう・ぶんえん)や。」


 呂布軍。その名は音々音も噂で聞いた事があった。

 呂布は元々、丁原(ていげん)軍の一員だったが、丁原が急死した為に養子だった呂布がその跡を継いだという事だった。丁原が何故死んだかまでは分からないが、丁原はそれなりの年齢だったので、死んでもおかしくはなかったとも聞いている。

 その呂布軍が何故ここに居るのか。聞いた話では、呂布軍は洛陽(らくよう)に居た筈である。兗州から西へ向かっていた音々音ではあるが、まだ洛陽付近ではなかった筈だ、と疑問に思った。

 この疑問にも、やはり羽織袴の少女こと張文遠が答えた。


「中牟県の県令に頼まれてな、最近現れた黄巾の残党討伐に来たんや。」


 音々音は少なからず驚いた。自分がかつて勤めていた場所にいつの間にか来ていた事、自分の後任が大変そうな事、そして、黄巾党がまだ生き残っていた事などについてである。

 徐州の州牧である劉備が先日行ったという、青州黄巾党征伐により、黄巾党は壊滅した筈であった。音々音だけでなく、状況を知る者は皆そう思っていた。

 だが、一匹見たら三十匹は居るというあの虫の様に、黄巾党はしつこく厄介な連中の様だ。張文遠によると、少なくとも万単位の数が確認されているという。その為、編成された討伐隊も万を超す兵数になっている。


「そんな訳でな、今から嬢ちゃんを安全な場所に連れていくわ。ここは見ての通り賊がおるから危険やけど、街なら大丈夫やろし。」


 張文遠はそう言って部下を呼ぼうとした。賊に襲われたばかりなので、送ってもらえるのなら有り難いと音々音は思った。

 だが、そう思いながらも音々音の視線は呂奉先を向いていた。

 絶体絶命の危機を救ってくれた命の恩人に恩を返さないまま、ここを離れても良いのだろうかと思い、何か出来る事は無いかと考えた。が、自分に出来る事は一つしかない。音々音は駄目元で訊いてみた。


「その……ね……私を呂布軍に入れてくれませんかです?」


 何とも無謀な事である。今会ったばかりの人間を麾下に加える人間がどこに居ると、音々音は自嘲した。……が、そういえばこの間迄居た軍はまさにそうやって加わったのだった。

 とは言え、あれは華琳の器が大きいからであり、他の軍ではそうはいかない筈だ。だから今回は断られるだろうと思っていた。だが、


「……うん。よろしく。」


呂奉先から返ってきた答えは呂布軍参加の許可だった。

 音々音は驚いたが、当の呂奉先は何故驚いているのか解らず、小首を傾げている。その仕草が可愛いと音々音は思った。

 そんな音々音に対し、張文遠は笑いながら言った。


「呂布っちが良いって言ったんやから、深く考えんでええで。これから宜しくな、陳公台。」


 音々音は本当に良いのだろうか、と思ったが、大将が良いと言ったのだから良いのだろうと結論付けた。

 それから音々音は改めて自己紹介をし、真名も預けあった。また、自分が兵法に通じているとアピールした。すると張文遠が喜んだ。


「ホンマかー! うちには今軍師がおらんかったから丁度良かったわ。」


 音々音は呆れた。軍師を連れずに作戦行動をとろうとしていたのか。いくら賊相手とはいえ無謀ではないのかと。

 とはいえ、他に軍師が居ないのなら功を立て易いのも確かであり、内心では大喜びした。優秀な文官が多く居ると言われる曹操軍で功を立てるよりは楽そうであると。


(れん)殿も(しあ)殿もご安心ください。誰が相手でも、このねねにお任せですぞー!」


 こうして音々音は、呂布軍の一員となった。

 音々音を加えた呂布軍が三万の黄巾党と会敵し、とある伝説をうちたてるのであるが、それは別の話である。






 さて、華琳がその様な帰途についていた間も、雪蓮はなかなか帰ろうとしなかった。


「雪蓮、いつまでここに居るつもりなの?」

「ずーっと……って、もちろんそれは冗談だから怒らないでよ冥琳。」


 孫策軍に(あて)がわれている一室でお茶を飲みながら、雪蓮と冥琳はそんな話をしている。確かに、華琳の援軍として涼と共に兗州に行ってからも、凱旋として徐州に来てからも相当の日数が経っている。いくら揚州には母であり総大将の孫堅こと海蓮が居るとはいえ、袁術(えんじゅつ)や山越の事もあるので、長く本拠地を手薄にするのはまずいだろう。

 勿論、海蓮の娘である雪蓮はそれくらい解っている。解っているのだが……。


「ちょっとね、気掛かりというかなんというか……。」

「蓮華様と小蓮様の事か?」


 雪蓮は自身の懸念をピタリと当てた冥琳に一瞬驚くものの、すぐに「冥琳なら当然ね」と思い直し言葉を紡いだ。


「そうなのよー。ほら、私は黄巾党討伐の頃から何ヵ月も涼と一緒に居たから良いんだけど、あの二人はそうじゃないでしょ? 蓮華は十常侍を誅殺した時に少し一緒に居たからまだ良いけど、小蓮はそういったのが無かったから。」

「小蓮様の年齢と立場なら、それも致し方あるまい。」

「それは解ってるんだけど、今のままじゃ、ね。」

「私が見たかぎり、小蓮様は清宮とうまくやっている様だが。」


 それは事実だった。この徐州に来て以来、小蓮は暇さえあれば涼と一緒に居た。余りにもずーっと居るので、桃香や地香が不機嫌になったり、小蓮の護衛も務める思春や明命(みんめい)たちも苦笑したり、真面目な蓮華と姉妹喧嘩をしたりと色々あったが、今までの接点が揚州での数日間しか無いとは思えない程、二人は親密になっていった。

 尤も、涼は小蓮の事を少し歳の離れた妹くらいにしか思っていなかったりするのだが。

 雪蓮の危惧や懸念は、まさにその事についてだった。


「涼は私や蓮華とだけでなく、小蓮とも婚約したのだから、そこら辺をちゃんと認識してくれないと困るのよ。」

「言いたい事は解るのだがな、小蓮様はその……雪蓮や蓮華様とは違うからな。」

「違うって、背が低くて胸が無いってところ?」

「ハッキリ言うな。小蓮様が聞いたら泣かれるか怒られるかその両方だぞ。」


 そうなのである。孫家の女性は母親の海蓮、長姉の雪蓮、次女の蓮華と皆なかなかのスタイルの持ち主ばかりなのだが、小蓮だけは幼児体型なのである。

 とはいえ、それは仕方の無い事でもある。小蓮はまだ実年齢が幼い。現代なら中学生になったばかりか少し経ったくらいであり、同じく現代換算すると高校生の蓮華や、大学生の雪蓮と比べればそりゃスタイルは違うだろうという当たり前の事だった。

 だが、頭では理解していても簡単に納得できないのが人間であり、小蓮は今の自分を肯定出来ないでいた。時が経てば、少なくとも今の蓮華くらいの年齢になれば、自分も背が伸びて胸が大きくなっていると思うのだが、もしそうならなかったら? という不安が常に彼女の胸中を支配していた。

 勿論、世の中の男が皆、胸の大きな女性を好む訳では無いのだが、生まれてから今までがそう長くない小蓮はそう思わないし、仮に理解しても不安が無くなる訳では無い。そもそも、自分が好きになる相手がどんな趣味嗜好の持ち主かなんて判らない。

 それに、周りが胸の大きな女性ばかりならば、尚更コンプレックスに感じてしまうのも仕方が無いかも知れない。孫堅軍は前述の海蓮たちを含め、胸の大きな者ばかりなのである。勿論、全員がそうではないが、多いと言って良いだろう。


「清宮がそう言った趣味嗜好とは限らんだろう。」

「どうかしら。桃香も愛紗も、それと星も結構大きいし、他にも何人か居るわよ。」

「確かにそうだが、鈴々と軍師二人など、そうではない者も居るではないか。」

「それはそうだけど……あと、涼は元々私と婚約しに来たって事も忘れないで。それにあの夜は私の胸に興味を持ってたし。」


 雪蓮が言う「あの夜」とは、涼たちが孫家と同盟を結んだ日の夜の事だ。

 同盟締結の夜、雪蓮は涼に夜這いをかけた。いろいろあって結局上手くはいかなかったが、一夜を共にする事は出来た。どうやらその際、涼が雪蓮の胸を触ったりしたのかも知れない。


「あの時も言ったが、普通の男性なら女性の胸に興味を持つのが普通だろう。清宮は男色家では無い様だしな。よって、それだけでは清宮が巨乳好きとは断定出来ん。」

「んー……だったらシャオにも機会は有りそうね。」

「そう言う事だ。分かったらそろそろ帰り支度を始めておけ。」

「んー……。あ、じゃあ冥琳、こんなのはどう?」


 雪蓮は何かを思い付いた様で、一際明るい表情になっていた。それを見た冥琳は嫌な予感がした。雪蓮がこんな顔をする時は、決まって何か要らぬ考えを思い付いたという事だと、彼女は長年の経験から理解していた。

 だが、雪蓮とは幼少の頃からの付き合いである冥琳は同時に、こうなっては止めても無駄だという事も理解していた。それに、殆どの場合はその思い付きが良い結果になっているという事も。

 雪蓮から思い付きを耳打ちされた冥琳はやはり驚き戸惑い悩んだが、同時に上手くいくかも知れないと判断し、雪蓮の行動を止めなかった。

 それと、ついでの様にだが、孫軍が揚州に帰還する日は、三日後に決まった。






 雪蓮たち孫軍が揚州へと帰還する日がやってきた。帰還日和、なんて言葉は多分無いだろうが、軍が出立するには丁度良い快晴である。

 涼や桃香たちの本拠地である下邳城前には、今から帰還する孫軍の一軍と、それを見送りに来た涼たちが向かい合っていた。

 付き合いの長い涼と雪蓮などだけでなく、今まで殆ど接点が無かった廖淳(りょうじゅん)改め廖化(りょうか)こと飛陽(ひよう)たちも孫軍の将たちとの別れを惜しみ、再会を誓い合っている。徐揚同盟の効果の一つと言えなくはないだろう。

 だが、いつまでも別れを惜しんでいる訳にはいかない。やがて、それぞれの将が持ち場に戻ると、両軍の総大将が挨拶を交わす。


「それじゃ涼、またね。」

「ああ、今度はもっとのんびり話したいね。」

「そうね。桃香も帰ってきたばかりで大変だろうけど、州牧の仕事、頑張りなさいよ。」

「あはは……何とかやってみます。」


 涼は普通に、桃香は苦笑しながら雪蓮にそう応えた。州牧とその補佐が長い間居なかった為、徐州の仕事は溜まっているのである。ある程度は居残り組がやっているが、物によっては州牧や州牧補佐が自ら決済しなければならない書類などが有り、その数は二人の予想より多かった。

 涼は一時的ではあったが、桃香より早く徐州に戻っていて書類の整理をしていたので、その分仕事は少ない。

 だが、遅く帰ってきた桃香は帰還後も華琳や雪蓮たちとの宴や会談などがあり、殆ど書類仕事をする事が出来ていない。両者の表情の差はこうして生まれているのである。勿論、涼や桃香の仕事がどんな感じかなど、雪蓮は知る筈が無いが。

 その雪蓮は後ろに居並ぶ自分の軍勢を見て頷く。軍師であり今回は副将的立場でもあった冥琳が頷き返すと、雪蓮は再び前を向き、涼と桃香と握手を交わした。涼には盛大な抱き締めも付け足したので一時騒然となったが、それも慣れっこになっている両軍はすぐに落ち着きを取り戻した。一部の者を除いて。

 そうして別れの挨拶を済ませた雪蓮は自身の馬に騎乗すると、孫軍全体に帰還命令をくだそうとした。だが、それに待ったをかける者が居た。雪蓮の妹の一人、孫家三姉妹の次女、蓮華である。


「どうしたのよ蓮華、そんなに慌てて。」

「慌てもします! まだ小蓮が来ていないのですよ!」


 蓮華のその言葉に孫軍は勿論、涼達も驚いた。

 そういえば見かけないな、とは思っても、それぞれに事情はあるだろうから特に気にしてなかった、と言って良い。勿論、何かあれば協力するのはやぶさかではない。

 涼達がそう思いながら小蓮はどこに行ったのかなと思っていると、その小蓮の声が聞こえてきた。何故かその涼達の後ろから。

 驚きながら振り向くと、そこには確かに笑顔の小蓮が居た。だが彼女は、帰還するにしては荷物を持っていなかった。仮にも揚州の姫なのだからそうした荷物は既に運び込まれているのかも知れないが、それにしても長旅をする風貌には見えない。

 涼がそうした疑問を内に秘めていると、小蓮は涼の隣に立ち、雪蓮たちに向かって笑顔で手を振りながら言った。


「雪蓮姉様ー、蓮華姉様ー、二人とも気を付けて帰ってねー。母様にヨロシクー♪」


 この子は何を言っているのだろうか、と涼は思った。いや、涼だけでなく桃香や愛紗たちも、蓮華や明命たちもそう思った。

 そうした思考停止から一番早く元に戻ったのは小蓮の姉の一人である蓮華だった。


「しゃ、小蓮!? 貴女は一体何を言っているの!?」


 孫家唯一? の常識人である彼女は、極めて常識的な問いを投げ掛けた。そしてそれに答える妹の小蓮は、極めて非常識な答えを返してきた。


「何って、シャオは今日からここに住むんだよ? シャオは涼の婚約者だから当然でしょ♪」


 いや、その理屈はおかしい、と涼は言いたかったが、しばらくの間、小蓮と蓮華の言い合いが続いた為に口を挟めなかった。仮にもここの主の一人であるのに情けないったらありゃしない。

 仕方が無いので、涼はこの件について何かを知っているであろう人物、というか恐らく当事者である雪蓮に話を訊く事にした。そうでもしなければ、桃香たちから向けられる疑惑の視線に耐えられなかったというのもあったが、それは仕方がない事であろう。

 そして、当事者と思われた雪蓮はあっさりと自白した。それはもう清々しいくらいにあっけらかんと。


「いやー、ほらね? シャオは私達の中で一番涼との時間が短かったでしょ? だからこの際ここに置いていって、貴方と親密になってくれないかなあって♪」


 呆れて物が言えないとはよく言ったものだ、と思いながら涼は雪蓮の隣に来ていた冥琳に視線を向ける。


「……冥琳も同じ考えなの?」

「……正直に言えば、多少やり過ぎだとは思う。だが、孫家の将来を考えれば理にかなっているのも事実。ならば私は雪蓮の考えを支持するしかあるまい。」

「普通、こうした大事な事を決める場合は事前に話し合いをすると思うんだけど。」

「それは私も言ったのだがな、雪蓮は“この方が分かり易いでしょ”と言って聞かなくてな……。」

「そこをどうにかするのが冥琳の役目だと思うんだけど。」

「……面目ない。」


 冥琳は本当にそう思っているらしく、涼とまともに目を合わせようとはしなかった。また、涼自身も雪蓮をどうにか出来る訳ではないので、それ以上追及する事はなかった。

 さて、問題は小蓮である。彼女はいまだに次姉である蓮華と口喧嘩をしているが、彼女が揚州に帰りたい、と言えばこの問題は収まるのである。よって、涼は小蓮を説得する事にした。


「えっと、シャオ。」

「あ、涼♪ これからヨロシクねー♪」


 思わず「よろしくー♪」と応えそうになるくらい、小蓮は明るくかつ自然に言ってきた。

 途端に蓮華が説教を再開するが、小蓮には馬の耳に念仏なのか堪えていない様に見える。末っ子というものはこういうものなのだろうか、と涼は思った。

 とは言え、そんな悠長な事を考えている場合ではない。このままでは「押し掛け女房」という既成事実が出来てしまう。それも相手は現代で言えば女子中学生である。しかも外見だけなら女子小学生に見えなくもない。涼と小蓮の歳の差は数歳なので現代換算だと高校生と中学生のカップルになるのだが、二人が並んで立つと身長差も相まってぱっと見が余りよろしくない。下手したら涼がそういう好みの持ち主に見えてしまう。


(そりゃ、孫夫人は三十歳ほど歳の離れた劉備と結婚したから、俺との年齢差は大した事無いんだろうけど、それでもやっぱり、なあ。)


 涼は姉妹喧嘩を眺めながらそう思った。

 孫夫人、いわゆる孫尚香が劉備と結婚したのは、演義はもちろん史実でもある。

 ただ、孫権の妹であり劉備の妻という立場だったにも係わらず、正史三国志における孫夫人についての記述は驚く程少ない。昔の中国の女性の名前が正しく伝わっていないのはまあ普通の事であるが、この立場の人間の生い立ちや没年すらも判らないというのは珍しいかも知れない。

 だからだろうか、演義や小説では正史と違い劉備との仲が良かったとか、「弓腰姫(きゅうようき)」という二つ名が付いていたりと、結構なアレンジが加えられるのも珍しくない。ゲームだと敵将相手に無双してしまったりもするし。

 ひょっとしたら、この世界の孫夫人こと小蓮も何かのアレンジがーーとまで考えたところで、涼は意識を再び小蓮たちに向けた。口喧嘩は相変わらず続いている。


「シャオは涼と結婚するの! 末っ子のシャオが孫家の為に出来る事って、こういった事しか無いんだから!」

「……っ! だからといって、行動に移すには早過ぎるでしょう!」


 蓮華、確かにそうだけど、実はそうでもないから困るんだよなあ、と涼は思う。その脳裏に浮かんだのは一人の戦国武将。通称「加賀大納言(かが・だいなごん)」、名を前田利家(まえだ・としいえ)という。

 利家は日本の戦国武将である。織田信長の家臣として活躍し、本能寺の変後は羽柴秀吉の家臣となり、秀吉の天下統一に貢献した。五大老の一人として徳川家康らと共に豊臣政権を支えた、屈指の名将である。

 そんな利家の事を涼は何故思い浮かべたのか。実は利家の正室であるまつ(芳春院(ほうしゅんいん))は、十二歳の時に彼に嫁ぎ、翌年に第一子を出産している。そうした史実を知っている為、涼は困っているのだ。ちなみにまつは最終的に二男九女の合計十一人の子供を産んでいる。

 目の前の少女もまつの様になるのだろうか、まさかね、と思いつつ、涼は改めて小蓮に話し掛けた。


「シャオ、あのね。」

「涼からもお姉ちゃんに言ってよ! シャオは涼のお嫁さんだって!」


 何を言わせようとしてるのこの子は! と内心ツッコミと焦りを感じながら、涼はチラッと蓮華を見た。睨んでいた。彼女は三姉妹の中では明らかに常識人なだけ、小蓮の言動に納得出来ないのだろう。

 確かに、涼は孫家の三姉妹とはそうした約束、つまりは婚約をしている。それはその方が両者の未来にとって良い事だと思ったからである。

 だが、涼はそうした約束を交わした後も、漠然と結婚は先の事と考えていた。結婚適齢期が二十代後半から三十代前半という価値観になってきている現代日本に生まれ育った涼だから、そう思ったのも無理なかった。

 しかし、この世界の結婚観は当然ながら現代とは違ったし、政略結婚というものが比較的身近に存在していた。涼の誤算は、そうした事情を考えていなかった、もしくは甘く見ていたという事だろう。

 婚約した以上、いつかは結婚しなければならない。もし破棄したいなら、それなりの理由が必要になる。だが、今の涼には婚約を破棄する気は無いし、あったとしても理由が無いので難しい。

 また、元々は雪蓮との結婚を想定していた訳であり、妹である蓮華や小蓮との結婚は想定していなかったのも現状をややこしくしている。もし、当初から三姉妹との結婚を想定していたのならもう少し考え方もあったのだが、先述の通り結婚観が違う涼には、三姉妹との婚約なり結婚なりを想定する事が出来なかった。

 だから、年上の雪蓮や同年代の蓮華との結婚は兎も角、幼い小蓮との結婚は全く考えていなかった。正確に言えば、孫家の事情や三国志の知識から考えれば小蓮との結婚は想定出来たが、それはまだ先の事と考えていた。演義で劉備が孫夫人と結婚したのは赤壁の戦いの後である。この世界ではまだ赤壁の戦いどころか官渡の戦いも反董卓連合も起きていないので、赤壁の戦いもまだしばらく先だと思っている涼は、小蓮との結婚もまだしばらく先の事と思っていた。

 そうした、ある意味先送りにしようとしていた現実を突きつけられた涼は答えに困った。選択肢はいくつかある。小蓮を今すぐ妻にする、あくまでまだ婚約者だと正論で諭す、等である。

 まず、「小蓮を今すぐ妻にする」というのは難しい。涼の結婚観もそうだが、現代で言えばまだ女子中学生という年齢の小蓮と結婚するというのは、「それなんてエロゲ?」な展開である。……はい、今つっこんだ人は手を挙げて。

 確かに、政略結婚では年端もいかない男女の結婚は歴史的によくある事である。例えば、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼と、徳川秀忠の子である千姫が結婚したのは秀頼十歳、千姫七歳の時である。それと比べたら小蓮はまだ大丈夫である。何がとか言わない。

 とは言え、それでもまだ幼い小蓮との結婚は二の足を踏むし、周りの目も気になる。桃香とか愛紗とか。よって、今すぐ結婚は出来ない。

 では、「あくまでまだ婚約者だと正論で諭す」はどうだろうか。恐らくこれが正しい選択肢と思われるが、そう諭した際の小蓮の反応を考えると言い出しにくい。涼たちの承諾は無かったとはいえ、彼女は姉である雪蓮から「このまま結婚しても良い」という意味の事を言われたのである。元々涼に好意的だった彼女がその気になるのは当然であった。

 そこに、「結婚はしばらく後」と言われたら彼女はどう思うだろうか。泣いて悲しむだけならまだ良い。だが、それを切っ掛けに孫家との関係がギクシャクしないとも限らない。可愛い妹に、娘に恥をかかせたと言い出さないだろうか。この状況を作ったのは雪蓮なので、もしそうなったら逆ギレになるが、人間の感情というものは必ずしも正しく動くものではない。

 仮に、そうした事がなく同盟が維持されたとしても、その事実を知った誰かがこれを利用して徐揚に離間計を仕掛けるかも知れない。結婚を延期された小蓮が傷つき心身を病むかも知れない。はたまたもっと厳しく悲しい結末になるかも知れない。そもそも、何も起こらないかも知れない。

 「知れない」ばかりだが、未来というものは本来そんなものである。確定された未来なんて存在しないし、確定されないからこそ人は前に進めるのだ。

 だからこそ人は、可能な限り不確定な未来に進まない様にしている。涼が雪蓮と、結果的には孫家の三姉妹と婚約したのは前述の通りであり、もし両者の関系が悪化すれば、早い段階で「夷陵(いりょう)の戦い」の様な戦いが起こってしまうかも知れない。そうなれば徐揚は、将来の蜀呉は双方が大きな痛手を負い、再建すらおぼつかなくなるだろう。

 桃香たちだけでなく、雪蓮たちも好ましく想っている涼は、その悲劇を望んでいない。

 そうしたいくつもの考えが涼の頭の中を駆け巡った。常の彼は楽天的な性格をしているが、こんな時に限ってその性格は鳴りを潜めている。それだけ重大な決断を下さないといけないという事でもある。

 涼は唾を一つ飲み込んだ。


「シャオ、君はここに居たいの?」

「うん! 涼のお嫁さんになってずーっと一緒に居たい!」


 いかにも子供の、だがそれだけに無垢な、素直な感情が涼にぶつけられた。


ーー何でそんなに俺を買ってくれるんだ、天の御遣いだからなのか、それとも政略結婚だからか。


 涼は困惑していた。まだ二十年も生きていない少年ではあるが、今迄こんなに好意を向けられた事は無い。

 人付き合いはそれなりにあったし、恋人が居た事もそれなりにあった。だけどそれは普通に生きていれば普通に経験する事であり、少なくともここに来てからの、少女達からの様々なアプローチは現代では経験していない。彼女達のアプローチにいろいろな意味があったのは理解しているが、悪い気はしなかった。勿論、有頂天になる事も無かった。

 だが、そうした経験をした結果、彼女達だけでなくいろいろな人達の言葉の裏を気にする様になった。いや、正確には涼自身はその事に気づいていない。彼の深層心理が注意をしているだけであり、常の彼はいつも楽天的だった。

 楽天的な分、一度深層心理の奥に眠っていた疑念が表に出ると困惑し、この様に悩んでしまう。何とも厄介な性分(たち)である。

 そんな涼の正確な性格に気づいている者は居るのだろうか。本人すら気づいていないのに、他人が気づくというのは難しいかも知れない。

 だが、今ここにそれに気づいたかの様な反応をした人物が一人居た。小蓮の姉の一人、蓮華である。

 彼女は妹を見ながら何か悩んでいる涼を見て、違和感を感じていた。ちなみに桃香たちもそんな涼を何か変だと思ってはいるが、それはここに留まろうとしている小蓮に対して、なかなか断りの言葉を言えないでいるのだろうと結論付けていた。

 だが、蓮華は違った。彼女は桃香たちと違って涼とは殆ど一緒に過ごしていない。それだけに彼の微妙な変化に気づく事が出来た。雪蓮は付き合いが一番長いだけに却って気づけず、小蓮は逆に短すぎて分からなかった。

 蓮華も付き合いは短い方だが、つい最近、真夜中に二人で話した分、涼がどんな人間か理解していた。少なくとも、理解したつもりにはなっていた。

 だから涼の変化に気づくと、いつの間にか彼の腕をつかんで小蓮や桃香たち、そして雪蓮たちから離した。

 妹の、姉の、同盟者の一人のそんな行動に皆驚いた。誰かが何か声をあげたが、その声は蓮華にも涼にも届いていなかった。

 蓮華は涼の腕をつかんだまま話し掛けた。


「私は貴方じゃないから、貴方が何を考えているかは分からない。だから、私が思った事、感じた事を言うわね。」


 涼はそう言った蓮華を見つめていた。常の彼女であれば異性に見つめられれば赤面したりしていただろうが、今の彼女は良い意味でそんな余裕は無かった。あるのはただ、自分が何をすれば良いかという事だけである。


「あの子……小蓮は天の御遣いとか、政略結婚とかを考えて貴方に好意を向けている訳では無いわ。ただ純粋に、貴方を好きなのよ。」


 不思議な事に、その言葉だけで涼は落ち着きを取り戻し始めた。


「だって、君達との婚約は政治的な……。」

「確かにそうだけど、それだけで結婚する女は、孫家には居ないわ。」

「そう言えば、雪蓮もそんな事を……けど、だとしたら小蓮は会ってからの期間が短い俺をなんでそこまで……。」

「あの子は人を見る目があるの。母様や姉様みたいにね。」

「……どう、感じたんだろう。」

「私はシャオじゃないから分からないわ。ただ、一つだけ言える事はあるわ。」

「どんな事?」


 落ち着きを取り戻しつつある涼は、それでもまだ完全に迷いが無くなった訳ではなかったらしく、すがる様な目で蓮華に訊ねた。

 蓮華は簡潔に答えた。


「貴方が感じたままをシャオに言って。そうしたら、きっと小蓮も貴方も上手くいくわ。」


 それは以前、涼が蓮華に対して言った『蓮華のやりたい様にすれば良い』と似た意味の言葉だったが、涼の迷いはこの瞬間に消え去った。考えてみれば簡単な事である。彼がいつもしている様に、楽天的に行動すれば良いのだ。何故か。それが清宮涼という人間だからだ。

 人間の性格なんて、そう簡単に変わらない。知識や経験も一朝一夕には得られない。だったら、うだうだ悩むより行動した方が性に合っている。涼は蓮華の言葉でその事に気づいたのだ。

 涼は再び小蓮の前に立った。蓮華は先程と違い、雪蓮たちの側に下がって二人を見ている。雪蓮は何かを言いたそうに蓮華を見つめ、そしてそのまま前を向いた。

 桃香たちは涼と蓮華が何を話していたのか気になっていたが、涼が再び小蓮の前に立ったので大人しく見守る事にした。

 涼は自分より頭一つ以上背が低い、けど器は自分より大きいかも知れない少女ーー小蓮を見つめながら、言葉を紡いだ。


「シャオ、君はここに居て良いよ。」


 その言葉に、徐揚両軍がどよめく。

 桃香たちは涼が言った事に混乱し、雪蓮たちはほっと胸を撫で下ろしている。

 小蓮はというと、母や姉達と同じ紺碧の瞳をキラキラと輝かせながら涼を見つめていた。

 そんな小蓮を見ながら、涼は更に言葉を紡ぐ。


「ただし、いくつか条件があるから、それを守ってくれるなら、ね。」


 その言葉に、徐揚両軍がざわめく。

 小蓮は一瞬表情を曇らせたものの、しばらく考えてから頷いた。

 涼が言った事は、当然ながら某歌手の歌の様なものではなかった。だが、徐州の決まり事を守る事、桃香たちと仲良くする事、孫家のお姫様でも殊更特別扱いはしない事など、簡単なものからちょっと悩むものまで様々だった。

 そして、最後に言った事は涼にとって、小蓮にとって、そして徐揚両軍にとって大きな意味を持つ言葉だった。


「あと、結婚はすぐにはしないよ。」


 小蓮は一瞬、涼が何を言ったのか理解出来なかった。対して雪蓮は「仕方ないか」と呟いた。

 小蓮は戸惑いながら涼に訊ねた。よく見ると、瞳が潤んでいる。その姿に涼は良心が痛んだが、大事な事なのでしっかり、はっきりと、でも優しく説明していく。


「いくつか理由はあるけどね、その一つは、まだ俺達はお互いの事を知らないからさ。」


 そんな状態で結婚しても上手くいかないだろうから、これを機にお互いをよく知ろうと涼は提案した。言われてみれば確かに、と小蓮は納得し頷いた。


「他には、まだシャオが成長段階にあるから、かな。急いで結婚する必要は無いと思うんだ。」


 間接的に幼児体型だと言われたと思った小蓮は、頬を膨らませた。涼はすぐにそれは違うと訂正し、若年での結婚のメリット、デメリットを説明した。

 その中で小蓮が特に興味を持ったのは、やはりというか妊娠・出産についてであり、余りにも若すぎたり、体が成長しきっていない内の妊娠・出産は母子共に危険だと分かると、残念な表情のまま了承した。この世界でも若年での妊娠・出産の危険性はある程度分かっていた筈だが、天の国の人間ーー正確には勿論違うのだがーーに言われると納得してしまうのかも知れない。


「そうした理由から今すぐには結婚出来ないんだ。……シャオは、それでも俺と一緒に居たい?」


 涼は改めて小蓮に訊ねた。蓮華の言う様に純粋に自分を慕っていても、政略結婚の為にでも、これは訊いておかなければいけないと思ったから。

 だが、そんな涼の誠意、または心配は杞憂に終わった。


「あったり前じゃない! シャオは涼以外の男と結婚する気なんて無いんだから!」


 涼はハニカミながら言いきった小蓮を見ながら、何でこの子はそこまで自分を買ってくれてるんだろう、と再び思った。だが、今度は先程の様に暗くなる事も悩む事も無かった。ただ一つ、「この子の期待に応えられる様になれたら良いな」と思える様になった。

 涼は小蓮と違い、まだ彼女を恋人として見ていなかった。理由は年齢差とかいろいろあるが、これからきちんと意識するのかな、と、涼は心の中で笑った。


「そっか。なら、取り敢えずそれまでは婚約者としてよろしくね、シャオ。」


 涼は微笑みながら右手を差し出す。


「ヨロシクね、涼!」


 小蓮はその手を掴みながら微笑み、次いで抱きついた。周りの反応など気にせず、自分がしたい様に行動していく。その様を見て、涼は先程の蓮華の言葉を思い出した。


『ただ純粋に、貴方を好きなのよ』


 この仕草を見てると、彼女の言う通りなのかもな、と涼は思いながら、蓮華を見た。

 何故か不機嫌そうだった。

 え、何故? と涼は思ったが、答えは出なかった。「義兄上、いつまでそうしてるのですか!」「私もー♪」「姉様!?」という風に、良くも悪くもしびれを切らした周りの乱入により、それどころではなくなったからである。






 そうしたドタバタを終え、孫軍は揚州への帰路についた。

 末妹の事はひとまず上手くいったと見た雪蓮はご機嫌だった。


(これで、私達に万が一の事が起きても孫家の血は残る。まあ、その血が産まれるのはまだ先みたいだけど。)


 妹の年齢を考えれば仕方ないか、自分もまだおばさんと呼ばれるのは何だか嫌だし、なんて思う雪蓮。


(けど、これで全てが終わった訳でもない。天の御遣いの威光や人気がいつまで続くか分からないし、涼が不慮の死を迎えるかも知れない。その時は……小蓮には悪いけど、他の所に再嫁してもらうしかないわね。)


 けど、小蓮がそれを承知してくれるかしら、と、雪蓮は先程見た妹の姿思い出す。好きな人と一緒に居られる喜びを、小さな体躯(たいく)全体を使って表現していた小蓮は、端から見ても幸せそうだった。

 そんな妹が、不測の事態になった時に孫家の為に再嫁してくれるだろうか。ひょっとしたら後を追うのではないだろうか、と心配になる。

 雪蓮は当然知らない事ではあるが、演義の孫夫人は劉備が戦死したとの誤報を受けて絶望し、長江に身を投げたという。この世界の孫夫人である小蓮が、涼に万一の事があった際に同じ様な行動をしてもおかしくはないが、それは雪蓮はもちろん、小蓮本人も知らない事である。

 仮にそうなった場合でも、最期まで共に出来るのは幸せなのかも知れないとも、雪蓮は思った。


(良いなあ。)


 心の中でそう呟くと、本当なら自分が涼と一緒に居たいのに、と続けた。

 それがすぐに叶わない事も、当然ながら理解している。雪蓮は孫家の後継者であり、母である海蓮に何かあった場合はすぐに孫家を継ぐ事になる。

 そして、そんな自分に何かあれば妹の蓮華に、蓮華に何かあれば小蓮やその子供が孫家を継ぐ事になる。今回の小蓮の徐州行きは徐揚同盟の強化はもちろんながら、孫家に万一があった際の事を考えてでもあった。

 「数年の内に結婚する」と同盟締結の時に決めていたが、その数年で事態は大きく変わるかも知れない。その時に傷を最小限に抑えるには、打てる手は可能な限り打つ。今回の事はその一つだった。


(涼と最初に逢ったのが私だったら、どうなっていたのかしら。)


 涼に好意を抱いてからそう思ったのは一度や二度ではない。

 聞けば、涼が桃香たちと出逢ったのは偶然であったらしい。そして一緒に賊の討伐をする内にその勢力はどんどん大きくなり、今の徐州軍になったという。天の御遣いという立場を考えれば黄巾党征伐の時の様に涼が総大将のままでも良いと思うが、彼はそれを固辞し、あくまで総大将は桃香こと劉備だと譲らないらしい。

 理由は分からないが、もしそれに明確な理由があるならば、仮に涼が雪蓮たちと行動を共にしても同じ様にするかも知れない。尤も、徐州軍と揚州軍では事情が違うので、ある日突然揚州軍の総大将が天の御遣いになった、なんて言ったら大混乱に陥って支離滅裂になるかも知れない、いやきっとなると雪蓮は思う。


(となると、結局は徐州軍の様に涼は副将に留めておくしかない……私達の伴侶にして総大将にするという手もあるけど、実績が無い人間が総大将になったらうちは明らかに対立する……か。そう考えると、徐州軍はあれで上手くいっている事になるわね。)


 徐州軍の総大将は徐州牧の桃香であり、涼は副将と言える州牧補佐という立場に収まっている。

 桃香は中山靖王・劉勝の末裔であり、それはつまり漢王室の縁者という事である。黄巾党討伐や十常侍誅殺、そして今回の青州救援などで実績があり、噂ではいずれ左将軍に昇進するとも言われているが、確かではない。

 一方の涼は天の御遣いである。当初は胡散臭い、という声があり、雪蓮もその一人だった。だが、桃香たちと共に黄巾党討伐や十常侍誅殺などで実績を積み、特に十常侍誅殺時は二人の皇太子を救出するという大きな実績をあげた。一部の者しか知らないが、徐州牧には本来涼が任命される筈だった。だが涼はそれを固辞し、徐州牧には総大将である劉玄徳をと願い出た。涼に助け出された恩があり、皇帝に即位していた少帝(しょうてい)劉弁(りゅうべん)とその兄である陳留王(ちんりゅうおう)劉協(りゅうきょう)はその願いを聞き入れ、桃香を徐州牧に任命した。

 そうした両者の経緯と実績を考えれば、徐州軍が劉備派と清宮派に分かれていてもおかしくない。だが、雪蓮が徐州に滞在している間にそれとなく徐州を観察してみても、そうした状況は微塵も見られなかった。寧ろ、徐州の将兵も民衆も二人を慕っており、派閥だなんだという事とは無縁に感じられた。

 雪蓮にはそれが羨ましかった。孫軍、つまりは揚州軍は地方豪族の集合体であり、彼等をうまく取りまとめる事で成立している。陸遜(りくそん)こと(のん)などもその豪族の一人であり、彼女は一見のんびりとしているが、ああ見えて他の陸家や家臣、農民たちをしっかりと取りまとめている。

 つまり、そんな穏たちを取りまとめる事が出来る孫家だからこそ今現在揚州の統治を任されているのであり、もしそれが出来なくなれば、孫家に代わって他の豪族が揚州を治める事になるだろう。

 雪蓮たちの母である海蓮はそれをよく理解している為、豪族への配慮は欠かしていないし、常に武勇をあげてきた。今はそこに雪蓮が加わっている為に孫家の影響力は強大になっている。だが、それだけでは安泰と言えないので、打てる手は何でも打っている。徐揚同盟もその一つであり、姻戚関係になろうとしているのもその為だ。もちろん、それだけで結婚しようとしている訳ではないが。


(涼や桃香にどうやって徐州をまとめているか、訊いておけば良かったかしら。)


 雪蓮は二人に訊かなかった事を少し後悔した。だが、訊いても無駄だったかも知れない。文官である諸葛亮こと朱里たちは兎も角、桃香や涼はそこまで深く考えていない。只ひたすら、「どうすれば徐州の人達が喜ぶか」だけを考えているのであり、豪族やら派閥やらの事を考えていないのだから。


(まあ良いわ。これからは小蓮が徐州に居るんだし、その内二人に訊いてもらう様、手紙に書いてみましょ。)


 もちろん、文章は冥琳に考えてもらうけどね、などと思いながら雪蓮は後ろに居るもう一人の妹の顔を見た。先程、涼と何やら話していた時の蓮華は、今までと違って大きく成長した様に見えた。見えたの、だが。


(相変わらずのしかめっ面ね。ま、理由は涼の事なんでしょうけど。)


 雪蓮と同じく馬上の蓮華は何故か機嫌が悪かった。その理由は雪蓮の推察通り、涼の事だった。


(……何で私はイライラしているのかしら。助言通りに小蓮と涼が仲良くなれそうだから、喜ばしい事なのに……。)


 徐揚同盟を強固なものにする為には、涼と孫家の娘の誰かが結婚するべきだという事は蓮華も勿論分かっていた。彼女の姉は涼に対し、『三人とも貴方の妻にしても良いのよ♪』という事を言っていたが、孫家の現状では今すぐそれが出来る訳では無いので、あくまでからかっていたのだろう。

 雪蓮は孫家の後継者であり、自分はその雪蓮に何かあった場合のスペアだと蓮華は理解している。よって、現状では涼と結婚できるのは小蓮しか居ないのだ。

 それは分かっていたのだが、実際に小蓮が徐州に残って涼と結婚すると言うと「馬鹿な事を言うな!」と思ったし、涼が小蓮との結婚について迷っていたのを見た時は「貴方の思う様にしたら良い」と助言もした。その結果、小蓮と涼の同居? が決まった。すぐの結婚は実現しなかったが、徐州側から見れば小蓮という「人質」を得る事になったし、揚州側、というか孫家からすれば「天の御遣いの威光」を更に得て揚州での地位を磐石に出来た。付け加えれば、孫家に万一の事が起きても最悪の事態は避けられるという事も重要だろう。

 それなのに、今の蓮華の胸中は晴れていなかった。そこにはまるで今にも雨が降りそうな黒雲が覆い被さっていた。

 小蓮が涼から傍に居て良いと言われ、あどけなさの残る顔を喜びに満ち溢れさせているのを見た時は確かに嬉しかった。良かったね、と祝福できた。

 だが、次の瞬間、涼に小蓮が抱きついたのを見た瞬間に胸がチクリと鳴った。桃香たちが二人を引き剥がそうとする姿や、雪蓮が混乱に乗じて涼に抱きついた姿を見た時も、よく分からない感情が沸き立った。

 それからずっと、蓮華の胸中は一向に晴れない。理由も分からない。


(何なのよ……これは。)


 蓮華は何度も理由を考えた。だが答えが見つからない。

 彼女がその答えに辿り着くのは、まだ少し先の事である。







 何はともあれ、徐揚同盟は強化され、その結果として孫家の末妹である小蓮が徐州に住む事となった。

 婚約者としてではあるが、実質的には嫁入りと言って良いだろう。勿論、本当に結婚した訳では無いので一緒の部屋に住んだりはしていないし、約束通りここでの決まり事はきちんと守っている。

 だが、孫家の末妹であるという事は「姫」という事でもある。別に孫家は王族とかそういう事ではないが、扱いには気を払うべき相手なのは確かである。

 正史において孫夫人に関する記述は少ないと既に述べたが、その数少ない記述にこうある。


『北に曹操、南に孫権、更に内にあっては孫夫人の脅威があり、その中で我が君が志を遂げたのは、ひとえに法孝直(ほう・こうちょく)(蜀漢の文官、法正の事)の功績である』


 これは諸葛亮の言とされるが、要するに孫夫人は劉備にとって曹操や孫権と同じくらい厄介だったという事らしい。一体どんな鬼嫁だったのだろうか。少なくとも、非常に気を使っていたのはよく分かる。

 その反動からだろうか、演義や小説などでは仲睦まじい夫婦になってたりするが、五十歳前後の劉備と二十歳前後の孫夫人が結婚というのは現代の感覚でなくても結構無理がある気がするが、どうであろうか。

 さて、この世界の孫夫人こと小蓮は流石に鬼嫁では無い(まだ結婚していないし)が、別の意味で涼たちを困惑させていた。


「義兄上! 少しは小蓮殿を大人しくさせられないのですか!」


 ここは涼の執務室。そこで程昱(ていいく)こと(ふう)にとある書類仕事を手伝ってもらっていた涼に対し、入室と同時にそう言ったのは、彼の義妹の愛紗である。


「そうは言っても~、実際問題難しいのではないですか~。」


 愛紗の言葉に答えたのは涼ではなく風。彼女が何故答えたかと言えば、既にこの問題は他の人からも言われてきた事なので、また涼の手を煩わせたくないという気遣いからであった。

 桃香から、地香から、朱里から、その他にも何人かが、先程の愛紗と同じ様な事を言ってきた。

 その内容を詳しく言うと、


『小蓮が仕事を手伝おうとしてくるけど、空回って失敗する事が多い』


という事であった。

 これがいたずらなどの悪意ある行動の結果ならば、わざわざ涼に頼まなくても自分達でハッキリと文句を言えているだろう。

 だが、一連の出来事は全て小蓮の善意から起きている。善意の行動をハッキリと断れる人間はそう居ない。比較的ハッキリ言う趙雲(ちょううん)こと(せい)や、孫乾(そんかん)こと霧雨(きりゅう)でさえ、余り言えないでいる。小蓮が涼の婚約者で、ここでは新人という事もあるかも知れないが。


「小蓮ちゃんが仕事を手伝おうとしているのは、早くお兄さんや愛紗ちゃん達に認めてほしいからだと思うのですよ。」

「そんな事は解っている。解っているから……上手く言えないのだ。」


 風は愛紗に座る様促しつつそう言った。愛紗も理解しているらしく、椅子に座りながら答える。

 先日、建業から大量の荷物が届いた。それは孫家の屋敷にあった小蓮の服や髪飾りといった物であり、身の回りの物を必要最小限しか持ってきていなかった為に困っていた小蓮にとっては渡りに船であった。

 だがその荷物の量を見た朱里たち幹部クラスの文官は、皆一様にその意図を見抜いていた。即ち、


『いずれはどうせ嫁になるのだから、これから娘(妹)をよろしく♪』


という事であった。何度も言うが、涼と小蓮は婚約中ではあるが結婚はまだ先の事であり、予定は未定である。

 朱里たちも徐揚同盟のメリットは理解しているので、婚約という事には反対していない。それが後で良くも悪くも影響するだろうなとは思っているが、そうしたデメリットを差し引いてみても同盟を続けるべきだと、徐州の頭脳達は判断していた。

 小蓮が仕事を手伝う様になったのはそんな後である。それまでは毎日の様に涼と一緒だったのだが、荷物が届いた翌日から仕事をしたいと申し出てきた。

 まだ本格的に徐州に住み始めたばかりなので手伝わなくても良いと言っても、何でも良いから手伝いたいと譲らなかったので、仕方なく簡単な仕事を頼んでみた。

 揚州ではよく勉強をサボっていると雪蓮たちから聞いていた涼は少し不安ではあったが、仮にも孫家の姫だからか小蓮はそれなりに知識があった。最初は戸惑いつつも何度か説明を受けたりしていく内に理解し、仕事をやり遂げていった。

 そうして簡単な仕事を次々にクリアしていった小蓮であるが、これで自信をつけた小蓮は更に仕事を求めた。

 とは言え、簡単な仕事は本来文官達がやる事であり、州牧が治めるこの下邳城には大勢の文官が勤めている。文官達が判断出来ない仕事は彼等の上司に回される。その上司とは霧雨や陳珪(ちんけい)こと羽稀(うき)たちであり、彼女達でも判断に困るものは朱里たちに回っていく。また、州牧や補佐じゃないと決済出来ないものもある。

 今、涼が風に手伝ってもらっている書類もその類いであるが、涼は一旦筆を置き、愛紗たちの話に加わった。尤も、元々は涼に対して話し掛けられたのではあるが。


「シャオは風が言った様に認めてほしいんだろうね。徐州に来て日が浅いし、俺が特別扱いはしないって言ったから。だから焦って失敗したり、実力以上の仕事をしようとしてるんだと思う。」

「……義兄上は、小蓮殿を“シャオ”と呼んでいるのですね。仲良くなられて何よりです。」

「え、今気にするの、そこ?」


 義妹にジト目を向けられた涼は困惑しつつツッコミをいれた。

 一緒に住み始めてしばらくは「小蓮」と呼んでいたが、その小蓮から「シャオ」と呼んでほしいと言われたので、涼はそう呼ぶ様になった。


「愛紗ちゃんの嫉妬はともかく~、風もお兄さんと同じ意見なのですよ~。」

「し、嫉妬ではない!」


 顔を紅くしながら抗議する愛紗を見ながら、涼は「そういや関帝廟の関羽も顔が赤いなあ」なんて事を思っていた。どこかズレてる義兄妹である。


「ですが、だからこそハッキリ言った方が良いと思うのですよ、お兄さん。」

「だよなあ……。とは言え、どう言えば角が立たないかなあ。」

「おうおう兄ちゃん、仮にも嬢ちゃんの婚約者だろ? ビシッと言ってやらないでどうすんだい?」


 涼が悩んでいると、風がいつもと違った声音で話しかけてきた。

 いや、正確には風の頭の上に乗ってる謎の造形物が話しかけてきた、という事になっている。勿論、物が話し掛ける筈が無いので、その声の正体は風なのだが、そこは突っ込まないという事になっている。

 設定としては、風の頭の上の造形物、太陽の塔をコミカルにした様なそれは「宝譿(ほうけい)」という名前で、性別は男らしい。風と一緒にお風呂に入った事のある鈴々曰く、『宝譿の顔に手拭いが巻かれていたのだ!』らしいので、それに間違いは無いのだろう。何故入浴中も一緒なのかは置いておく。

 その宝譿はこの様に時々話し掛けてくる。勿論、正確には風の腹話術によるものなのだが。この時の風は、いや宝譿は普通及び少し早めの口調で話してくる。普段の風がのんびりとした口調なのを考えると、二重人格なのかと思うくらい違う。もちろん風は二重人格ではない。

 そんな宝譿に対して、涼は煮えきらない返事しかしないでいる。


「まったく、兄ちゃんは男だろ。そんなんで本当に○○ついてんのかよ。」

「はしたないですよ宝譿。お兄さんは小蓮ちゃんに嫌われたくなくてガツンと言えないのですから、仕方ないのですよ~。」

「風、それは違うから。あと、女の子がそんな事言っちゃいけません。」

「風ではなく宝譿が言ったのですが、分かりました~。」


 風がそう言った後、涼は愛紗に何とかするからしばらくは小蓮を助けてあげて、と頼み込んだ。愛紗は小さく溜息を吐くと渋々ながら了承し、退室した。

 愛紗の退室を見送った後、涼は椅子の背もたれに体を預ける。事務仕事ばかりで固まっていた筋肉や骨が動き始め、ある程度の快感をもたらす。

 そんな涼に常のジト目、もしくは眠たそうな目を向けながら、風が改めて言う。


「まあ、お兄さんがどうするかは任せますが、早めに解決しないといけないとは思いますよ。」

「分かってるよ。」


 常の性格である楽天的な考えで、今回も何とかなるだろうと思っていたが、現実には何とかなっていない。

 いい加減この性格を直した方が良いのかなあ、とも思うが、性格は一朝一夕に直るものでは無いので早々に諦めた。

 今の涼にはそれよりも先に片付ける事があるのだから。


「それよりも風、この陛下への奏上文ってこんな感じで良いのかな?」

「あー、そうですねえー……ここはこうしたら……。」


 涼と風は、以前華琳に頼まれていた皇帝陛下への奏上文を書くのを再開した。その為、小蓮の事はしばらくの間忘れる事となった。






 徐州は平和である。いや、漢全体は平和である。

 先の青州遠征で黄巾党残党の中でも最大勢力だった青州黄巾党は壊滅した。賊自体は他にも存在しているが、各州がしっかりと治めている今は黄巾党の様な大規模な反乱は起きないだろう。

 それでも、武将や兵士達は戦に備えて訓練を怠らないし、文官達は州の運営の為に書類を片付け、要人と話し合いをしたりと忙しいのである。

 その為、人材は常に不足していた。正確には、優秀な人材が不足していた。

 かつては王朗(おうろう)趙昱(ちょういく)といった優秀な人材を前州牧である陶謙(とうけん)から借り受けたりして乗りきっていたが、今はその二人も役目を終えて陶謙の許に戻っている。

 もっともその後、朱里たちが加わった事で内政に関してはだいぶ楽になっている。それでも経験が浅い彼女たちに徐州全土をカバーする能力はまだ無いので、それを補う為に人材を募集している。

 そうして集まった中には、朱里たちが来る前に来ていた笮融(さくゆう)や、つい最近来た闕宣(けつせん)の様に人格に難のある人物も居たが、意外と仕事は出来るので採用されている。

 ここ徐州は漢王室の縁者である劉備と、天の御遣いである清宮の二人が治めているので人が沢山集まっているのだが、元来の人材不足を完全に解消するには到っていない。

 なので、そんな徐州の手伝いをしたいと小蓮が思うのはある意味当然の事だった。


「という訳で、今日もシャオが手伝ってあげるわね♪」

「結構よ。」


 ここは城内の一角、劉燕こと地香の仕事部屋。今ここに居るのは地香、小蓮、そして地香の副官である廖化こと飛陽の三人だけである。本来は徐庶(じょしょ)こと雪里(しぇり)も居るのだが、今は所用でここには居なかった。


「そんなに遠慮しなくて良いのよ。確かに今のシャオは涼の婚約者だけど、特別扱いはしないって涼も言ってたし。」

(別に特別扱いをしている訳じゃないわよ! アンタが手伝うと余計な時間がかかって、ちぃ達が困るの!)


 地香は心の中で地和に戻り、愚痴を叫んでいた。

 彼女がこうした態度なのにはもちろん理由(わけ)がある。つい先日も小蓮は地香たちを手伝ったのだが、慣れない仕事をやったからかミスが多く、結局は小蓮が帰った後に修正する羽目になった。

 その時にハッキリとミスについて言わなかったのは、彼女が孫家の姫で涼の婚約者という事もあるが、慣れない仕事なのに頑張っている姿を見たのが一番の理由(りゆう)だったかも知れない。


(けど、まためんどくさい事になるのは御免だし、かといって断るとそれはそれでめんどくさい事になりそうだし……。どうしたら良いのよー!)


 地香は心の中で頭を抱えた。

 人手はいくつあっても足りないので、仕事を手伝ってくれる事自体は助かる。だが、それで足を引っ張られては堪らない。自身も今の立場になってから何度も涼や桃香たちに迷惑をかけてきた。二人は特に何も言わなかったが、それでもきっと迷惑をかけた筈だと地香は思っている。


(なのにこのチビッ子は…………ちょっと待って。)


 それまで内心で怒っていた地香が、急に冷静になった。


(この子……仮にも孫家の姫なのよね。きっと、私よりしっかり勉強とかしてた筈……。)


 実際はよくサボっていたらしいが、間違ってはいない。


(よく分からないけど、その中には、こういった時に場の空気を読む勉強とかもあったんじゃないかしら。)


 勉強かは分からないが、場の空気を読む事はある意味死活問題にはなるかも知れない。


(だったら、ちぃでさえ気づけた事をこの子が気づけないって事、あるのかしら。……もしかして…………。)


 地香はそこまで考えを纏めると、小蓮に向き直る。妹の人和(れんほう)より背が低い彼女を見ていると、昔の事を思い出す。


(まあ、あの子はこんなに天真爛漫じゃなかったけど。)


 それはどっちかと言えば天和(てんほう)姉さんか、なんて思いながら、地香は小蓮と同じ目線になり、言葉を紡ぐ。


「ここは私と飛陽だけで良いから、他の所を手伝ってあげて。」

「…………う、うん。」


 地香の言葉を聞いた小蓮は、若干表情を暗くしながら頷いた。


(やっぱり、この子……。)


 何かを確信した地香はそのまま小蓮を送り出す。一言、言葉を添えて。


「貴女の行動は間違ってないわ。ただ、手順や方法が違うの。それを忘れないで。」


 小蓮はそれに小さく頷いて応え、部屋を後にした。

 しばらくの間、部屋は静寂に包まれた。また小蓮が戻ってくるのではないかと思いもしたが、それは杞憂に終わる。

 その静寂を破ったのは飛陽だった。


「よろしかったのですか、ちぃ……地香様。小蓮様は恐らく……。」

「ええ。あの子は焦ってる。そして、“寂しがっている”。だからこうして毎日、どこかに行って仕事を手伝おうとしているのよ。」


 認められたくて、温もりが欲しくて、安心したくて、彼女はああしてると地香は続けた。

 地香には小蓮の気持ちが解る様な気がしていた。彼女もまた、ある日突然家族と離ればなれになったのだから。

 それも、小蓮とは違って地香は、地和は永遠に家族と会えなくなった。それを知った時の地香は温もりを求め、認めて欲しくて、安心したくて毎日を生きてきた。

 そんな彼女だからこそ、何となくだが小蓮の気持ちが解る様な気がした。だが、助言をする気は無い。


(これは、アンタが自分自身で乗り越えないとダメなのよ。頑張って、シャオ。)


 ただ、心の中で応援はしていった。






 小蓮は廊下で外の景色を観ながら佇んでいる。時々通りすぎる人々は皆彼女に一礼して去っていく。涼の婚約者なのだから当然の事だった。

 それは本来、彼女にとって嬉しい事の筈だが、心の中では何故か溜息を吐いていた。


(何でだろ、涼の婚約者としてここに居るのに、あんまり嬉しくない……。)


 自分自身でもよく解っていない事に戸惑いつつ、小蓮は再び心の中で溜息を吐く。


(ううん、最初は本当に楽しかった。涼と居るだけで、桃香たちと遊んでいるだけで……。)


 結婚ではないが、涼と一緒に住めるという事が決まってからの約二週間はとても楽しかった。

 朝になったらすぐに涼を起こしに行き、涼の仕事振りを眺め、時々構ってほしくて抱きついたり、お昼休みにはいろんな話をし、午後の仕事中もやはり眺めたり、夜には一緒に寝ようと誘ってやんわりと断られたりした。


(それだけで良かったのに……建業から届いた荷物を見た途端、急に不安になった。何でか解らなかった。でも……今なら解る気がする。)


 もう一度外の景色を観る。紺碧の瞳には澄みきった青空が写し出された。


(きっと……恐いんだ。お姉ちゃん達ともう会えないかも知れない事と、涼たちに嫌われたりした時の事を考えるのが。)


 そう思うと、青空の筈なのに空が暗く見えた。

 建業からの荷物。その意味を朱里たちは「嫁入り道具」として捉えている。そしてそれは間違いではない。事実、小蓮でも知らない新しい家具や服などがいくつもあった。それはつまり、現代日本の風習とは少し違うが、結納の品の様なものだったのかも知れない。

 だが、小蓮はそれを見てもう一つの意味を感じ取っていた。

 それは朱里たちも感じていた「小蓮を人質として預ける」という意味に似ているが、小蓮にとってそれは「そのまま帰って来なくて良い」という意味にとっていた。

 勿論、雪蓮たちはそんな風に思っていないが、揚州の屋敷に有った筈の小蓮の荷物が殆どここ徐州に届けられたのを見て、そういう風に思ってしまった。

 しばらく考えて、自分の家族がそんな事をする筈が無いと気づいたが、婚約者というのはいずれ結婚するから婚約者なのである。結婚したら気軽に揚州に帰るなんて出来ないかも知れない。

 徐州と揚州は南北に隣接しているが、その間には長江という大河が横たわっている。現代と違い、ここには飛行機は無いし船もそんなに大きくない。お盆や正月に帰省する現代日本の様にはいかないかも知れない。そうでなくても、病気や戦で永遠に会えなくなるかも知れない世界である。生まれて十数年の少女がこの現実を知ったのだから、その衝撃は如何(いか)ばかりか。

 ただそれでも、涼と結婚して幸せな暮らしが出来るならまだ良いだろう。人はいずれ独立し、家族を作っていくものである。それは時代や身分の差、それぞれの事情はあれども、家族という目的には大きな違いはない。

 だが、「幸せな暮らしが出来なかったら」どうなるだろうか?

 小蓮が徐州に居るのは、婚約者の涼と一緒に住み、いずれ結婚する為だ。だが結婚とは、必ずしも幸せなものとは限らない。まして、小蓮の結婚は言うなれば政略結婚である。普通の結婚より幸せになる確率は低いかも知れない。

 今回の同居はその成功率を少しでも上げる為だが、現実的には失敗する事も充分考えられる。

 前述の通り、正史や演義、小説でも劉備と孫夫人は政略結婚で一緒になっていて、演義や小説では仲睦まじい夫婦だが、正史ではどうやら険悪な仲だったと思われる。もちろん小蓮はそんな事を知る由も無いが、孫夫人と同じ立場の小蓮はそうした正史や演義の影響を受けないとも限らない。

 そうして万が一、涼と結婚出来なかったら、または結婚しても幸せな日々を送れなかったらと思うと、不安で胸が張り裂けそうになった。

 もしそうなったら、恐らく桃香たちとも険悪な関係になるだろう。揚州から一人残された小蓮には誰一人として味方が居ない。四面楚歌である。いや、その項羽でさえ四面楚歌の後も八百騎を従えていたが、小蓮には本当に誰も居ない。

 涼との結婚が上手くいかず、桃香たちとも仲良く出来ないとなれば、小蓮がここに居る意味はあるのだろうか。

 そう考えると、不安で仕方がなくなった。

 どうしたら良いんだろう? と考え、出した結論が「涼や桃香たちに認めてもらい、ここに居る意味を作る事」だった。

 それからは周知の通り、涼たちの仕事を手伝ってきた。少しでも印象を、関係を良くしようと頑張ってきた。

 だが、焦りや不馴れな事から失敗を繰り返し、却って迷惑をかけてしまった。

 小蓮は子供だが、それでも十数年生きている。周りの雰囲気がどうか、人々の反応がどうかとかを感じ取れない程の子供ではない。

 それでも、自分が暗くなる事で心配をかけたくなくて、表面上はいつも通りに過ごしてきた。だから愛紗などは小蓮の変化に気づかず、苛々している。

 愛紗たちが小蓮を「孫家の姫」として見ている様に、小蓮もまた愛紗たちを「監視者」と見ている。どちらも間違ってはいないが、それではいつまで経っても溝は埋まらないし、関係も良くならない。


(雪蓮お姉ちゃん……シャオがこんな気持ちになるの、分かっていたの? だったら、教えてほしかったな……。)


 小蓮は今、ここに来てようやく、自分自身の立場の意味と大きさを知ったのだった。






 桃香はこの徐州の州牧である。要は徐州で一番偉いのである。

 だが、桃香自身は自分が偉いとか思っていない。義勇軍を立ち上げてから今に至るまで、そんな風に思った事は一度も無い。

 寧ろ、何故自分がこんな立場になっているんだろうとは何度も思った。

 確かに、桃香は中山靖王・劉勝の末裔、という事になっている。それはつまり漢王室の縁者という事だが、実家はとうに没落しているのでそれらしい暮らしをした事はない。寧ろ、(むしろ)を売って生計を立てていたくらい貧乏であった。

 それが今や州牧である。お金は沢山あるし、美味しいものは食べられるし、仲間も一杯居るので言うこと無しの状況だ。

 今は仕事が忙しいのでゆっくり出来ないが、一段落したら故郷の母親を呼ぼうかと考えたりもしている。その時は誉めてくれるかな、喜んでくれるかな、とか思っている。

 だが、それはまだしばらく先の事だと桃香は理解している。

 徐州はつい先日、青州救援という名目で十万という大軍を動かした。青州黄巾党を討って青州の人々を助けるという目的は達成できたが、要は戦争をしたのだ。戦争は金がかかる。武器も人も失う。孫武の時代からそう言われている。

 今回の遠征でいくら使ったのか、どれだけ物資を消費したのか、何人が亡くなったのか。そうした戦後処理がまだ完全には終わっていない。

 その戦後処理が驚くべき速度で進んでいるのは、朱里を始めとした優秀な文官達のお陰であるが、州牧である桃香自身の決済も必要なので、恐らくあと数日は掛かるだろう。

 そんな忙しい桃香であるが、今は廊下をテクテクと歩いている。彼女の名誉の為に言っておくが、決してサボっている訳ではない。


(朱里ちゃんに心配をかけちゃったみたい。ダメだなあ、もっとしっかりしないと。)


 桃香はそう思いながら両手を繋いで頭の上に伸ばした。背筋が伸び、筋肉と骨が心地よい音を鳴らす。ついでにその際、彼女の大きな胸も形を変えたり上下したりした。ここに男性が居たら間違いなく凝視したであろう。

 朱里は、働き詰めの桃香の体調を気にしてしばらく休憩をと進言していた。

 桃香は大丈夫と答えたが、朱里は『無理をしてはいけません。ここは私達がやっておきますので散歩でもしてきてください』と言って半ば強引に桃香を部屋から出した。

 余談ではあるが、最近行った軍の再編の結果、桃香には朱里が、涼には風が、地香には雪里が側仕えの軍師となった。鳳統(ほうとう)こと雛里(ひなり)は他の軍師達と共に軍師中郎将ぐんし・ちゅうろうしょうに任命され、特に誰かの側仕えという訳ではないが、平時は朱里達と同じく文官の仕事をし、実質的に下の文官達の取りまとめをする事になった。また、戦時に於いては副軍師として動く事になっている。

 そんな訳でしばらく休憩となった桃香だが、特に当てがある訳ではないのでブラブラしている。


(涼義兄さんの所に行こうかな……あ、けど今は華琳さんに頼まれていたっていう奏上文を書くのに忙しいんだっけ。風ちゃんも珍しく疲れた顔をしてたし……。)


 桃香は先日見た忙しそうな涼たちを思い出した。

 何せ二人とも奏上なんてした事が無いので、いろんな人や書を頼って何とかものにしていた。特に風の飲み込みは早く、彼女のお陰で涼は何とか奏上文を書き上げつつあった。

 その際の大変そうな、でもどこか楽しげに話していた涼と風を思い出すと、何故か桃香の胸がチクリと鳴った。念の為に言うと、彼女の大きな胸自体ではなく、胸の奥、要は心がである。


(まただ……これって何なんだろう……。)


 桃香は原因不明の痛みに不安を感じた。

 徐州に帰って来て以来、時々襲う胸の痛み。その時は決まって、涼を思い浮かべたり見ていた時だった。

 流石の桃香も、それでも何となくではあるが原因に心当たりがあった。先日の華琳から言われた言葉もある。


(やっぱり、私は……。)


 いろいろと考えた結果、遂に答えが出そうになった。が、直前になってその思考は途切れる。

 空を見上げて佇んでいる、見知った少女の姿が視界に入ってきたからであった。


「小蓮ちゃん?」


 そこに居たのは小蓮だった。最近ここ徐州に住む様になった彼女は、桃香の義兄である涼の婚約者。つまりは将来、桃香の義姉になる予定という事でもある。

 義姉になるかも知れないとはいえ、年齢も身長も桃香の方が上である。それに涼との結婚はしばらく先の事になっている為、桃香は小蓮が義姉になるかもという事は余り考えていなかった。

 よって、今も普通に友達として声を掛けた。が、何だか様子がおかしい。返事が無かったのである。

 普段の小蓮なら鈴々の様に元気に返事をしてくるのに、と思いつつ、もう一度声をかけようとした。

 が、それは出来なかった。小蓮が泣いている。少なくとも、涙の跡は見えた気がする。


「あ……桃香。」


 桃香の存在に気づいた小蓮は左手で目元を(ぬぐ)う。やはり泣いていたのだろうか。

 その仕草に桃香は一瞬躊躇するものの、彼女の様子が気がかりになり、傍に寄る。似た髪の色をしている二人が並ぶと、一見姉妹に見えなくもないかも知れない。


「どうかしたの?」


 桃香はそう言ってから、何バカな事を訊いているんだろう、と後悔した。小蓮が泣く様な事は何かなんて、ちょっと考えれば分かるじゃないか、と。

 (とお)を少し過ぎた年齢の子が、揚州から一人で来た様なものだ。不安になっても仕方がない。桃香は当然知らないが、現代でいうホームシックである。

 それに何より、小蓮は最近ここの仕事を手伝い始めた。それは良いのだが、失敗を重ねている。好意の末の事なので誰も文句は言えないが、正直なところ勘弁してくれないかなあと思っている。桃香もその一人だった。


(良い子なのは間違いないんだけどね……。)


 桃香はそれでも小蓮を好ましく思っている。普段の彼女の天真爛漫さは見ていて心地の良いものだから。

 小蓮は幼さ故か、自身の力量を測りきれていない。実際、手伝い始めの内は慣れないながらも仕事を完遂させていた。失敗が多くなったのは、調子に乗って自身の手に余る仕事まで手伝い始めた頃だった。

 それを桃香が知ったのは、小蓮の事を朱里に相談した結果だが、それ以来どうにか出来ないかも相談した。だが朱里は、


『小蓮さんの行動を止めさせるのは簡単ですが、後の事を考えると得策ではありません。一番良いのは、小蓮さんご自身が行動を改めていただく事なのですが……。』


と言って口を濁した。「後の事」とは孫家との関係の事だろうか。そう考えた桃香もそれ以上は何も言えなかった。

 小蓮は小さく答えた。


「なんでもない……。」

「何でも無いって感じはしないよ。」


 桃香は小蓮の強がりを一言で否定した。瞬間、小蓮の瞳が潤み始めた。


「なんでも……ない……っ!」

「……場所を変えようか、小蓮ちゃん。」


 小蓮を抱き寄せた桃香は、そのまま来た道を戻っていった。

 散歩に出した筈の主君が程なく戻ってきたので、朱里は一瞬驚いた。だが、その隣に居る人物を見て全てを察した将来の名軍師は、二人に一礼してから退室した。その際、扉に「会議中につき入室禁止」との掛札を下げるのも忘れずに。

 朱里が退室してしばらく後、落ち着きを取り戻した小蓮に改めて桃香が訊ねる。返ってきた答えは家族と離れて寂しい事、みんなに認めてほしくて仕事を頑張ってるけど失敗が多くなってきた事など、桃香の予想通りの内容だった。

 ただ、失敗してもへこたれてない様に見えていたので、失敗を悔やんでいるのは意外だった。また、それによりみんなに迷惑をかけているんじゃないかと思っているのも同様に思った。

 桃香にとって、いや、涼を含めたこの徐州で小蓮を知る者全てにとって、小蓮は天真爛漫で小さい事に拘らない少女に見えていた。そしてそれは基本的に間違っていない。

 だが、年端もいかぬ少女である彼女はいろいろと経験が足りていない。黄巾党征伐時も十常侍誅殺侍も揚州に留め置かれた小蓮が、一人で揚州以外の土地に住んでいるというのは、彼女自身も気づかなかった自分自身の事を気づかせるのに充分すぎる環境の変化だったのだろう。

 それに気づいた桃香は静かに小蓮を抱き寄せる。豊かな胸の中に小蓮の小さな顔が埋もれていく。


「わぷっ。……と、桃香?」


 突然の事に戸惑う小蓮。だが桃香はそのまま抱きしめ続ける。羨ましい。


「ゴメンね……小蓮ちゃんが寂しがっている事に気づけなくて。本当にゴメンね。」

「桃香……。」


 桃香は自分を恥じた。何故こんな当たり前の事に気づかなかったのだろう、何故きちんと話さなかったのだろう、何故補ってあげられなかったのだろう、と、いくつもの後悔と懺悔を繰り返す。

 桃香の双眸(そうぼう)から滴が落ちる。小蓮の褐色の肌に落ちて弾けた。

 それが何なのか気づいた小蓮もまた、桃香を抱きしめる。

 それからしばらくの間、義姉妹予定の二人は抱き合ったまま泣き続けた。




「大丈夫、小蓮ちゃん?」

「シャオは大丈夫よ。桃香こそ大丈夫なの?」

「私も大丈夫だよ。」


 どれくらい経ったか分からないが、ひとしきり泣き続けた桃香と小蓮は先程までと違い笑みがこぼれている。

 人間は泣くとストレスを発散するとかいうが、今の二人はまさにそんな状態だった。今回の事はお互いに変に気を遣い、面と向かって話さなかった事が原因の一つと言えなくもない。それが解消されればこうなるのも自明の理であった。

 小蓮は軽く呼吸を整えると、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「シャオね、恐かったんだ。涼や桃香たちに嫌われるのが。」

「私達が小蓮ちゃんを嫌う? そんな事ある訳無いよ。」

「うん、こうして桃香と話していると、きっとそうなんだろうってよく分かるわ。けど、シャオは桃香たちと……ううん、涼ともちゃんと話してなかったから、それに気づかなかったんだなって思うの。」

「涼義兄さんとも? けど、私達から見たら仲良く話してる様に見えたけど……。」


 桃香がそう言うと、またも胸の奥がチクリと鳴った。

 当然ながら桃香のそんな様子に気づかない小蓮は、そのまま話を続ける。


「確かによく話してたよ。雪蓮姉様たちの事や、涼の居た世界……天の国の事とか。けど、シャオも涼もきっとどこかで、まだ遠慮してたんだと思う。どっちも心から話していた“つもり”だったんだ、多分。」


 そういった小蓮は、どこか寂しげだった。

 涼は先日の一件以来、自分の思うように、かつ今迄以上に楽天的に行動している。勿論、真面目にやらないといけないところは真面目にやっているが。

 なので、小蓮についても涼は涼なりに真摯に向き合ってきた。それが女友達とのそれか恋人同士のそれかなどの違いはあるが、婚約者に対し、将来の結婚相手に対し彼なりに真面目に向き合ってきたのである。

 だが、小蓮からすればそんな涼も自分と同じく、心のどこかで遠慮していたという。言われてみれば、いくら真面目に、真っ正面から向き合うと言っても二人は付き合いが短い。婚約者とかを抜きにしても、遠慮してしまうのは仕方のない事だったのかも知れない。

 小蓮は続ける。


「だから不安になったんだよね。シャオが遠慮しているから、涼もきっとそうだって思ったら恐くなって、そしたら今度は寂しくなって、不安になってったの。」


 その様にして出来た不安が小蓮の手伝いにも影響し、ただでさえ慣れない仕事を失敗させていったのだろう。そうして更に不安になり、失敗を重ね、情緒不安定になった末が先程までの小蓮という事らしい。

 今はこうして桃香と話したり泣いたりして気持ちを発散したので、明るさの中に影を含んでいたさっきまでとは全然違っている。同盟に則って徐州に来たばかりの頃の、天真爛漫な小蓮に戻っていた。

 そんな小蓮を見た桃香は、不意に言葉を紡いだ。


「小蓮ちゃん、不安になんてならなくて良いよ。」

「え?」


 桃香の言葉の意味を図りかねる小蓮は、そのまま次の言葉を待つ。


「不安になる気持ちも解るけど、小蓮ちゃんはやっぱり元気一杯の小蓮ちゃんが一番だと思う。……きっと、涼義兄さんもそう思ってるよ。」

「そ、そうかな。」

「そうだよ。」


 桃香が肯定すると、小蓮は嬉しかったらしくはにかんだ。その表情を見て、桃香は自分が言った事が正しいと確信した。同時に、胸の奥がまたチクリと鳴った。

 小蓮は数度呼吸を整えると、意を決した表情になり、すっくと立ち上がる。


「ありがとう、桃香! シャオ、頑張ってみるね!」


 そう言って悩みを吹っ切ったかの様に走り出し、部屋を出て行く小蓮の後ろ姿を眺めながら、桃香は小さく呟いた。


「……良いなあ。」


 その言葉の意味を、桃香は理解していたのか。それは彼女自身にもまだハッキリとは判らなかった。






 現在、涼達が本拠にしているここ下邳は、歴史的に有名な人物が何人も住んでいた。前漢の初代皇帝、高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)の軍師の一人だった張良(ちょうりょう)もその一人である。

 張良が下邳に来たのは、始皇帝暗殺に失敗した後、偽名を使って逃亡していた時とされる。

 この時期の張良の逸話として、黄石公(こうせきこう)から太公望(たいこうぼう)の兵法書を授かったというものや、項羽の叔父である項伯が罪を犯して逃亡していた時に匿ったなどがある。

 そうした歴史があり、今現在は州牧である桃香が治めている下邳であるが、本来はその様な重要な都市ではない。徐州の州都は本来、東海郡(とうかいぐん)に在る(たん)であり、後年、曹操が治める様になると彭城(ほうじょう)を州都とした。この世界では今現在、陶謙が治めている都市が彭城である。

 そうした史実との齟齬があるこの世界だが、そもそも武将たちの性別が違っていたりする世界なので些末な事ではあった。よって、涼もちょっと気になったくらいで深く考えはしなかった。


(というか、異世界に来るとかマンガじゃないんだから。)


 涼は寝ながらふと思い、心の中で苦笑しつつ呟いた。尤もな事である。

 陛下への奏上文を大体書き上げ、夕食を食べ終え、風呂に入った涼は今、自室の寝台に横たわり、一日の疲れをとっていた。

 現代の様に電気もネットも無いここでは夜が早い。灯りすら貴重なこの世界では自然と夜更かしをする事が無くなり、急な仕事以外では早めに寝ている。現代の時間に直せば、午後九時には寝る事が多いだろう。

 今日もこのまま寝るのだろうな、と涼は思いながら、何度も読んだ司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を手に取った。この世界に来た時に持っていたバッグに入っていた数冊の本の一冊だが、元々読み込んでいたのもあって見た目はボロボロになっている。それでも読むのに支障は無いので、涼はこうしてたまに読んでいる。ちなみに他には宮城谷昌光の「三国志」、「長城のかげ」などがある。

 そうして数十ページを読んでいると、扉がノックされた。

 こんな時間に誰だろう? と思いながら涼は返事をし、入室を促す。


「こ……こんばんは。」

「シャオ?」


 入ってきたのはシャオこと小蓮だった。彼女も風呂上がりなのか髪は下ろしていて若干濡れている。また、褐色の肌は赤みを帯びていた。この後は寝るだけなので、服装は寝間着である。ちなみにピンクのミニスカ半袖だ。


「ちょっと話があるの……良いよね?」

「う、うん。」


 涼が頷くと、小蓮ははにかみながら近づき、涼が寝ている寝台の端に座った。シャンプーの香り……とは勿論違うが、何かの良い香りが涼の鼻腔をくすぐった。

 何だかいつもと雰囲気が違うなあと思いつつ、涼は起き上がって本を片付ける。


「それで、話って?」

「うん……あのね。」


 それから小蓮は話し始めた。

 内容は昼間に桃香と話した時と同じだったが、あの時の内容を小蓮なりにブラッシュアップし、真摯に伝えていった。結果として、涼は失敗を咎める事はせず、逆に小蓮の寂しさに気づけなかった事を謝った。

 すると小蓮は急に泣き出し、涼の胸に顔を埋めた。突然の事に涼は戸惑うばかりだったが、やがて小蓮が何か言っているのに気づく。


「ゴメンナサイ……それと、ありがとう……!」


 それは謝罪と感謝の言葉だった。

 桃香には既に同じ様に述べていた。実はその後、地香などにも同じ様に謝ったりお礼を言ったりしてきた。そして、桃香や涼と同じ様な反応をされていた。誰もが小蓮の事で困ってはいたが、同時にその頑張りも認めていたのだ。

 皆がそんな反応をし、認めていた訳であるが、やはり彼女にとっては涼に認められなければ安心出来なかったのだろう。そして認められたからこそ安心して、涙腺が緩んでしまったに違いない。

 涼はその事に気づき、優しく抱きしめた。二人はまだ恋人というには早すぎるからか、涼の仕草は幼児(おさなご)に対するそれに近いが、今の小蓮にはそれで充分だった。

 しばらくの間、涼は小蓮の髪を撫でたり背中をさすっていった。




「……シャオ、そろそろ良いかな?」

「だ~めっ♪」


 泣いたカラスが、いや小蓮がもう笑っている。

 涼に認められ、謝られて安心した小蓮はひとしきり泣いた後、すっかり以前の元気溌剌な孫家の姫様、孫尚香こと小蓮に戻っていた。

 それはそれで良い事なのだが、ずーっと抱きついているので涼は困っていた。もう夜も更けている。そろそろ寝ないと明日に響くと。

 それなのに小蓮はずーっと抱きついたままなので、寝るに寝られない。


「シャオ、そろそろ寝る時間だから部屋に帰った方が良いよ。」

「そっか。じゃあ、シャオも寝るね。」


 やっと寝られる、と涼が思ったのも束の間、小蓮はそのまま涼の隣に移動して布団の中に入ろうとしている。


「シャオ、何してるの。」

「寝ようとしてるの。」

「シャオの部屋はここじゃないでしょ。ちゃんと自分の部屋に戻りなさい。」


 まるで小さい子を(たしな)める親の様に優しく、だが強く言った涼。……なのだが、当の小蓮はそんな涼のお小言もどこ吹く風。それどころか、涼の服の袖をつまみながら、上目使いで訊いてくる。


「一緒に寝ちゃ……ダメ?」


 どこでそんなテクニックを身に付けたの君は、と涼が内心でツッコミを入れる。

 いくら婚約者とはいえ、今迄一緒に寝た事は無い。涼はまだ小蓮を妹の様に見ているが、万が一にも間違いがあってはいけない。小蓮はまだ十代前半とはいえ、作ろうと思えば作れるのだ。気を付けて気を付けすぎるという事はない。


『早くシャオとの子供を見せてよねー。』


 なんて事を言う、江東の麒麟児の幻聴が聞こえてきそうだ。それくらい、今の小蓮は歳の割に色っぽかった。風呂上がりだったからだろうか。眼が潤んでいるからだろうか。寝間着だからいつも以上に薄着に見えるからか。そのどれもなのか。

 そんな事を考えつつ、涼は決断した。


「い、良いよ。」


 愛紗さんこっちです。いや、勿論冗談だけど。

 とはいえ、涼の気持ちも分からなくはない。小蓮は幼いが美少女である。美少女だが幼いのである。なら、一緒に寝ても大丈夫じゃないか、なんて思っても不思議ではない。

 意思薄弱だ○リコンだなんて言わないでやってほしい。涼も男の子だし、同時にここでは兄もやっている。その両方が複雑に混ざった結果、この決断になったのだ。仕方ない。そう、仕方ないのだ。多分。

 それに、涼の返事を聞いた小蓮は満面の笑みを浮かべて抱きついてきた。こんな反応をされて、「やっぱりダメ」なんて言えるだろうか、いや出来ない。

 涼は「仕方ないか」と、「まあいっか」と思いながら灯りを消し、布団をかぶった。小蓮は抱きつき直し、やはり笑みを浮かべていた。無邪気な表情をしている小蓮を見ていると、これで良かったと涼は思う。

 恋人同士ならお休みのキスをしたりするのかも知れないが、今の二人は婚約者ではあるが恋人ではないという複雑な関係。よって、涼は小蓮の髪を撫で、小蓮は涼の腕に抱きつくだけで終わる。今の二人にはそれだけで良い。


「お休み、シャオ。」

「おやすみなさい、涼。」


 涼と小蓮は小さく、優しく言葉を交わし、そのまま眠りについた。そして夜が明けた。






「……で、こうなったという訳なんですね、りょう、にい、さん?」

「は、はい。」


 涼と小蓮を床に正座させている桃香は、その目の前で仁王立ちに笑顔のまま怒っている。器用だなと言ったら火に油を注ぐ事になりそうなので言わなかった。涼、よく我慢した。

 何故こうなったかと言えば、先程涼の部屋に桃香がやってきた為だ。

 彼女は珍しく早くに起き、折角だから涼義兄さんも起こそう! なんて考えてしまった。まだ起きなくて良いなら寝かせてあげてほしいものだ。

 そんな事は考えなかった桃香はルンルン気分で涼の部屋にノックもせずに入った。するとどうであろう、涼しか居ない筈の部屋に誰か居るではないか。それも涼と同じ寝台に。難しい言葉で言うと同衾(どうきん)である。

 それを見た瞬間、桃香はパニックになった。パニックになり過ぎて寝台に突撃した程である。

 突然の事に『ぐえっ!』『きゃあ!』との声をあげた涼と小蓮は瞬時に目が覚めた。そして事態を把握しようと見ると、何故か桃香が居るではないか。「あれ、ここって桃香の部屋だっけ」と間抜けな事を思ってしまったのは仕方がなかった。

 二人が起きたのを確認した桃香は、涼の襟をつかんで揺さぶりながら『これは一体どういう事なんですか!?』と訊ねた。起き抜けにそんな事をされては堪らない涼は、苦しみながらも説明し、揺さぶられからは解放された。が、それから二人して正座を命じられ、そして先の桃香の言葉に繋がる。

 涼は自分が軽率な事をしたと認めて謝罪し、小蓮も涼に倣って頭を下げた。そんな二人を見て溜飲が下がったのか、桃香は二人を許した。

 気がつけばいつも起きてる時間になっている。涼はここで、小蓮は自室に戻ってそれぞれ着替え、桃香は二人を待ってから三人で朝議に向かった。


(まったくもう、涼義兄さんも小蓮ちゃんもしっかりしてくれないと困ります。)


 移動中、そんな事を考えた桃香であるが、似た事を既に先程言ったので言わなかった。


(けど、昨日と比べたら小蓮ちゃんの表情が明るくなってる。これって、朱里ちゃんが言っていた事と関係があるのかな?)


 小蓮自身が変わらないと意味がない、そう言った軍師の言葉を思い起こしながら、桃香は隣を歩く義兄とその婚約者を眺め、小さく微笑んだ。

 そんな時でも、相変わらず胸はチクリと鳴るのだった。

 一方、涼は先程の事についてマズったかなあとは思いつつも、桃香が許してくれたので余り気にしていなかった。少しは気にした方が良いと思うぞ。

 また、小蓮はといえば涼と一緒に寝られたので満足していた。今までは断られていたので尚更だろう。

 なお後日、この事を揚州への手紙に書いたのだが、『一夜を共にした』と表現していたので、揚州ではいろいろと混乱したりなんやらあったのは別の話である。




 涼と風の二人が推敲(すいこう)に推敲を重ねた奏上文が完成したのは、それから一週間後だった。

 だが、これで終わりではない。この奏上文を洛陽に居る帝に届けなくては意味がない。涼は電子メールがあれば瞬時に届くのになあなんて思ったが、仮に電子メールがあったとして、奏上文は電子メールで届けて良いものなのだろうかとかの問題が出てきたので、深くは考えない事にした。

 そんな訳で、奏上文を届ける役目を誰かに任せなければならない。尤も、誰に任せるかは悩む事もなく決まった。


「星、しばらくの間、風を頼むよ。」

「承知。主もご存じでしょうが、風とは以前も共に旅をした仲。ご安心めされよ。」

「ああ。それじゃあ風、奏上文を頼んだよ。呉々(くれぐれ)も陛下に失礼の無い様にね。」

「承知したのです~。」


 涼は書き上げた奏上文を風に託し、彼女の護衛には星を選んだ。愛紗でも良かったのだが、星が『風の噂によれば、洛陽に極上のメンマがあるらしいですぞ、主!』という謎のアピールをしたので任せる事にした。なんでも、星はメンマにうるさいらしい。ラーメンじゃなく何故メンマなのかは分からない。

 涼たちは風と星を見送ると、皆一様に背筋を伸ばして肩や骨の音を鳴らした。それだけ疲れていたのだ。


「これでしばらく休めるな。」

「お疲れ様、涼義兄さん。」

「桃香もね。」


 この一週間で急ぎの仕事を全て終えた涼と桃香は、そんな会話をしながら久々にのんびりしようと、それぞれの部屋へと戻っていった。

 まさか、こののんびりとできる時間が僅か一週間しか無いなどとは、この時の彼等は思いもしなかっただろう。







 陳留。この世界では今現在、曹操こと華琳が治めている都市である。

 正史で曹操がこの地を治める様になったのは反董卓連合の直前ともいうが、この世界では既に長い間治めている。数はまだまだ少ないながらも良い人材が多いので、陳留及び兗州の統治は上手くいっていた。

 そんな華琳だが、この日はいつも以上に気を張り詰めていた。そんな華琳を見た従妹で家臣の夏侯惇(かこうとん)こと春蘭(しゅんらん)が驚く様に呟く。


「あんな華琳様は初めて見る。一体、何があったというのだ?」


 それを聞いた荀彧(じゅんいく)こと桂花(けいふぁ)は心底呆れた、という風な目を向けながら、それでも親切に? 説明をした。


「あんた馬鹿ぁ? 今日は朝廷の使者が来るのよ。いくら華琳様が素晴らしく尊いお方でも、朝廷の使者には失礼があってはならないの。例え今の漢王朝相手でも、ね。」


 どう聞いても親切からでは無かった。なので一瞬怒りかけた春蘭ではあったが、華琳が大変な状況だという事が分かると瞬時に冷静になった。


「桂花、朝廷の使者は何の用でこの陳留に来るのだ?」

「華琳様に新しい官位か何かを授けに来るみたいよ。」

「おお! 華琳様がまた出世なされるのだな!」


 桂花の説明を受けた春蘭は華琳の出世を喜んだ。「華琳様命」である彼女にとって、主君の出世は心から喜ばしい事であった。

 春蘭とは意見の相違がよくある桂花も、「華琳様命」という点では同じである。それなのに、桂花は余り嬉しそうではない。その様子をいぶかしんだ春蘭は桂花に訊ねる。


「お前は華琳様の出世を喜ばしいとは思わないのか?」

「普通の出世なら当然喜ばしいわよ。けど、今回は……ね。」

「? 何かあるのか?」


 普段は桂花から馬鹿だのなんだの言われている春蘭ではあるが、流石にこの桂花の反応はおかしいと悟った。しばらくの間、桂花を見つめる。やがて、桂花は重々しく口を開いた。


「理由は二つあるわ。一つは、この出世が清宮の奏上によるものだという事。」

「清宮とは、徐州の清宮涼の事か。」

「そう。“天の御遣い”とか大層な言われようなあの男よ。」


 春蘭も桂花も涼とは面識があり、真名も預けている。極度の男嫌いの桂花は、半ば強引に華琳に命じられた様なものだが、それでも真名を預けた事には変わりがない。

 男嫌いの桂花は、当然ながら涼の事も嫌っており、そんな涼の奏上で親愛なる華琳様が出世するというのが嫌なのだろうかと、春蘭は考えた。

 とは言え、涼に奏上を頼んだのはその華琳自身であり、それは桂花も知っている。知ってはいるが、嫌なものは嫌なのだろう。男嫌いもここまで来ると病気である。


「では、あと一つは?」


 桂花は二つの理由があると言っていた。そのもう一つはどんな理由なのか、春蘭は気になっていた。

 よく喧嘩をする二人ではあるが、互いの実力は認めている。武力は春蘭が圧倒しているが、知力では桂花が圧倒している。武力で桂花に負ける事は万に一つも無いと思っている春蘭だが、同時に、自分ではどう足掻いても知力で桂花に勝てないと思っている。そしてその見解は正しい。

 そうして認めている桂花が懸念している二つの理由のもう一つ。これが恐らく一番の理由なのだろうと、春蘭は直感的に考えていた。そしてその見解も、また正しかった。


「……今回、華琳様に官職を与えるのは劉弁陛下という事になっているわ。」

「なっているわ、ではなく実際にそうだろう。お前はさっき清宮が奏上したから華琳様が出世されると言ったではないか。」


 春蘭の言っている事は正しい。だがそれは、あくまで対外的なものであり、真実は別にあると桂花は言う。


「確かに今回、陛下に奏上したのは清宮。それを受けて華琳様に官職を授けるのは皇帝陛下。けど、その官職を決めたのは……恐らく董卓。」

「董卓? あの小さい奴が何故決めるのだ?」

「……本当に何も知らないのね。……董卓は今、相国になっているのよ。」

「しょうこく?」

「……アンタは馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、まさか、相国も知らない程の馬鹿だったとは流石の私も思わなかったわ。」


 いや知ってるぞ、えーっと……しゅうらーん、という春蘭はさておき、相国とは漢において最高位の官職であり、現代で言えば首相が一番近いと思われる。

 元々は「相邦」と書かれていたが、漢の初代皇帝である劉邦の名を憚った結果、「邦」と同じ意味を持つ「国」に変えて「相国」となった。この相国には、一つの例外を除くと漢王朝の忠臣にして名臣である蕭何(しょうか)曹参(そうしん)しか就任しておらず、それだけの人物でないとなれない、いわば永久欠番の様な官職なのである。

 日本では太政大臣だじょうだいじん・だいじょうだいじん唐名(とうめい・からな)が相国であり、平清盛や徳川家康などが「○○相国」と呼ばれている。

 そんな重要な官職に今、董卓は就いているという。

 前漢・後漢あわせて約四百年経つが、その長い年月の間で実質的に二人しかなっていない相国という官職に、董卓が就任している。その事実を聞いた春蘭は当然の疑問を発した。


「確かに、董卓は黄巾党の乱鎮圧などで実績はあるだろう。だが、話を聞く限りそんな重要な官職に就く程の実績があるとは思えん。そもそも董卓は十常侍の時に遅刻したではないか。」

「そうね。」

「それなのに、十常侍を倒した華琳さまより出世しているとか、おかしいではないか。それならば、十常侍を倒しただけでなく、皇太子殿下を救出した清宮が相国とやらになっている方がまだ理解出来るぞ。」


 桂花は遺憾ながら心中で春蘭に同意した。彼女が董卓の相国就任の報せを聞いたのは、華琳が陳留に戻っている途中であった。

 一報を聞いた桂花の感想は「あり得ない」、だった。理由は先に春蘭が述べた事とほぼ同じである。この漢王朝に於いて、相国という官職が持つ意味はとてつもなく重い。

 相国は前述の通り、蕭何と曹参という漢王朝の忠臣だけが就任している。厳密には呂産(りょざん)という人物も相国になっているのだが、この者は劉邦没後の呂氏専横時代に呂氏一族のコネでなった様なものであり、実力や功績が認められての事ではない。その為省く事が多いと言える。

 正真正銘の実力と功績で相国になった蕭何と曹参は、漢王朝の基礎を作った人物であり、更に言えば漢王朝が出来るまでの統一戦争である「楚漢戦争」で後方支援、または前線で大活躍した人物である。

 史記にある二人の伝記がそれぞれ「蕭相国世家(せいか)」「曹相国世家」と書かれている事からも、相国という官職がどれだけ重要なものが分かるだろう。ちなみに、他に史記の伝記に官職が書かれているのは陳平(ちんぺい)の「陳丞相世家」などがあるが、この陳平もやはり漢王朝の忠臣かつ重臣であった。その陳平でも相国にはなっていない。

 そんな重臣中の重臣だけが就任していた相国という官職に、それ程の実績がある訳ではない董卓が就任したというのは、普通に考えてもおかしい事である。何らかの事情、それも良くない事情があったとしか考えられない。少なくとも桂花はそう考えた。


(けど、清宮や劉備並みに甘い考えを持つあの董卓が、汚い手段を使うとは思えないのよね……。そもそも出世欲も余り無かったみたいだし。)


 桂花、というより華琳と董卓はかつて共に戦った仲間である。当然ながら、華琳の側近である桂花は董卓の事もよく知っている。

 桂花が感じた董卓の印象は、「深窓の令嬢」「虫も殺せぬお嬢様」。それ程弱々しく、儚げな、それでいて育ちが良いという感じだった。

 だが、曹操軍と董卓軍は確かに黄巾党討伐で共闘していたが、その期間はとても短い。よって、華琳や桂花の見立てが間違っているという可能性も捨てきれないでいる。


(だからこそ、今回の使者から何か情報を得たいのだけど……難しいでしょうね。)


 いくらお嬢様に見えていたとはいえ、今は仮にも相国という地位に立っている董卓が、そう簡単に情報を漏らすとは考えられない。そもそも、董卓が相国になるという前兆すら無かったのだ。甘い考えは捨てるべきだと、桂花は思った。

 と、そこへ禀がやってきて使者の来客を告げる。彼女も桂花と同じく、曹操軍の軍師の一人である。


「華琳様、使者の方々がお見えになりましたが……お通ししてもよろしいでしょうか?」

「……ええ、構わないわ。呉々も……。」

「失礼の無い様に、ですね。承知しています。」


 禀はそう言って拝礼し、退室していった。華琳はその後ろ姿を見送った後、深々と溜息を吐いた。


「……そういう訳だから、貴女達も失礼のないようにね。春蘭は特に気をつけなさい。」

「そんな、華琳さま~!」


 名指しで注意された春蘭は、捨てられた猫の様な表情と声を出しながら項垂れたのだった。

 やがて、禀に先導されて二人の女性が現れた。女性と言っても、華琳たちとそう変わらない年齢だろう。


「貴女は……ねね?」


 華琳は、その内の一人である少女を驚きながら見た。そこに居たのは、短いながらもつい先日まで華琳と共に居たねねこと陳宮だったのである。


「ご無沙汰しているのです、曹孟徳殿。」


 陳宮は軽く一礼して応えた。

 その対応に春蘭は怒ったが、慌てて秋蘭が止める。


「まさか貴女が来るとは思わなかったわ。今はゆ……董卓様の許に居るのね。」

「そうなのです。(ゆえ)殿は新参者であるねねにもお優しく、この様な大任をお任せになされたのですぞ。」


 それを聞いた秋蘭は姉を止めて良かったと心底思った。春蘭はいまだに事態を把握しきれていないが、「もし姉者があの者に危害を加えていれば、最悪、華琳様が処刑されていたかも知れない」と説明すると顔色を青くしていた。

 勿論、陳宮の主である董卓こと月はその様な事を望まない。だが、今の陳宮達は建前上は皇帝陛下の使者である。皇帝の使者に無礼を働いたとなれば、それは(すなわ)ち皇帝への侮辱となり、それなりの責任をとらなければならなくなる。勿論、その責任をとるのは華琳であり、最悪の事態になる危険性もある。春蘭が青くなったのも無理はなかった。

 華琳と陳宮の会話が終わると、使者の残る一人、背の高い羽織袴の女性が口を開いた。


「初めまして……やないな。十常侍ん時以来やな、曹孟徳。」

「ええ、あの時はお互い大変だったわね。……貴女も今は董卓様の許に居るのかしら、張文遠(ちょう・ぶんえん)?」


 張文遠と呼ばれた女性は頷きつつ答える。華琳も言った様に、彼女とは十常侍誅殺の時に共に戦っていた。


「まあ、うちも丁原(ていげん)の旦那が急死したりと色々あったんよ。それで今はねねと同じく月の所に厄介になっとるっちゅう訳や。」

「そう……丁建陽(てい・けんよう)の事は病気とはいえ残念だったわね。改めてお悔やみ申し上げるわ。」

「おおきにな。若いながらも名君の誉れ高い曹孟徳からそう言われたら、丁原の旦那もあの世で喜んでるやろ。」


 張文遠はそう言うと顔を上に向けて微笑んだ。

 丁原は張文遠の上司だったが最近亡くなっており、その跡は義娘(むすめ)が継いでいる。


「さて……うちとしてはこのまま世間話をしてもええんやけど、そういう訳にもいかんしなあ……。」

「そうね。……では、貴女たちの仕事を済ませてください。」

「そうしたいんは山々やけど……なあ。」

「どうかしたの?」

(れん)殿がまだ来ていないので、任命できないのです。」


 言いよどむ張文遠に代わるかの様に、陳宮が理由を簡潔に説明した。


「真名で言われても……いえ、そう言えば十常侍を討った宴の時にその真名を聞いたわね。……確か、そう呼ばれていたのは……。」

「失礼します、呂布(りょふ)殿をお連れしました!」


 華琳が言葉を紡いでる最中、華琳の側近の一人である楽進(がくしん)こと(なぎ)が渦中の人物を連れてやってきた。


「……そう、呂布だったわね。凪、わざわざご苦労様。後は任せて仕事に戻って良いわよ。」

「はっ! 失礼しました!」


 真面目で礼儀正しい凪はきちんと拝礼し、退室した。

 一方、凪と違ってこの場に残った呂布。真名は恋。可愛らしい真名と、今も持っている食べ物とそれを黙々と食べる様は一見すると可愛らしい。

 だが、この少女は呂布。華琳たちは知る術は無いが、三国志史上で一、二を争う武将と同じ名前を持っている。その武は当然ながら、強い。

 曹操軍の中で一番強い武将は夏侯惇こと春蘭だろう。だがその春蘭でも呂布には恐らく勝てないと思われる。この世界の呂布が呂布の名に恥じない実力ならば。


「恋殿ー! いったいどこに行っていたのですかー!」

「……良い匂いがした所に行ってた。そこに居た子に、これ貰った。」


 陳宮と呂布の会話を聞いている華琳たちは、「ああ、厨房に行って流琉(るる)から食べ物を貰ったんだな」と思った。流琉とは、曹操軍の武将の一人である典韋(てんい)の真名である。武将ではあるが、料理が趣味でかつ上手くて美味いので、時々厨房で料理をしている。


「ちゃんとお礼は言ったんやろな?」

「……もちろん。食べ物をくれる人、みんないい人。」

「その認識はちょっと違うと思いますぞ……。」


 陳宮の言葉に同意する華琳たち。その理論でいけば、食べ物を与えるなら黄巾党でもいい人になってしまうではないか、と。同時に、本当にそんな事を万民にしたら黄巾党はいい人になるかも知れない、とも思う華琳たちであった。

 そうした穏やかな会話を一通り続けた後、張文遠が本来の仕事をする様に会話を軌道修正した。それを受けて華琳は所定の場所に移動し、跪く。使者は皇帝の代理なので、漢王朝の臣下である華琳はこの様に恭しくしなければならないのである。

 張文遠はその場に留まり、陳宮と呂布が並んで華琳の前に立った。


「…………。」

「ふむふむ。呂布殿は『黄巾の賊討伐、十常侍の殲滅、そして任地であるここ兗州・陳留の統治、全てにおいて陛下はご満悦である』、と仰せですぞ。」


 え、そんな事言ったか? と比較的小声で秋蘭に訊ねたのは春蘭。秋蘭も姉の言に同意したいが、ひょっとしたら自分達の位置からは聞こえない程の小声で喋ったのかも知れない、いやでも口も動いてなかった様な……と混乱しつつ、失礼があってはいけないからと何も言えないのであった。


「……はっ。」


 華琳も多少動揺したのだろう。返事に少し時間がかかった。

 陳宮はその後も呂布の代わりに話し続け、最後にようやく任命の言葉を紡いだ。


「『皇帝陛下の命により、曹孟徳を西園八校尉(さいえんはつこうい)の一つ、典軍校尉(てんぐんこうい)に任ずる』、と仰せですぞ。」

「はっ。」


 任命状を恭しく受け取った華琳は、呂布たちが退室するまで頭を下げ続けた。

 涼が居たら、「え、今から西園八校尉に任命? 霊帝は居ないのに?」とか混乱していそうだ。本来の西園八校尉は霊帝の時代の臨時職である。一説によると、活動費は霊帝の自費からだったともいう。

 華琳は呂布たちが居なくなって暫くしてからようやく立ち上がり、大きく息を吐いた。


「……桂花、使者たちのもてなしをお願い。私は少し休んでから行くわ。」

「わ、分かりました。」


 桂花を始めとした面々が恭しく華琳を見送ると、桂花と秋蘭は揃って頭を抱えた。

 現代と違い自動車も電車も飛行機も無いこの世界では、街と街の行き来はちょっとした旅であり、往復に数日から数週間かかる事もある。当然ながら使者である呂布たちもこれからすぐに帰る訳ではない。移動の疲れを癒し、食料を補充するなどしてから帰るのだ。

 そして華琳は宴を開いて使者をもてなす必要がある。勿論、その際に失礼があってはならない。例え使者が知り合いであっても、だ。


「……もう少し、頑張りましょう。華琳様の為に。」

「ああ、勿論だ。」


 そう言って気合いを入れる二人。その後、呂布が物凄い大食いだった事を知り、更に頭を抱えるのだった。






 揚州・建業は、今現在孫家が治めている。当主は孫堅、真名は海蓮という。

 彼女には三人の娘が居る。長女に孫策こと雪蓮、次女に孫権こと蓮華、三女に孫尚香こと小蓮。

 その内、三女の小蓮は今、婚約者である涼が居る徐州に居るのでここには居ない。残る二人も、つい先日までその徐州に居た。よって、長い間建業には海蓮しか居なかったのである。


「……そんな時に山越と戦っていたのですか。それなら一報をくださればすぐに雪蓮を引っ張って戻りましたものを。」

「だから言わなかったのよ。この機会に雪蓮たちと婿殿がより仲良くなればと思ってたから。」


 屋敷の庭にしつらえてある東屋に、海蓮はその二人の娘である雪蓮と蓮華、そして軍師である周瑜こと冥琳を集めて互いの報告をしていた。

 その報告の中で海蓮から山越と戦っていたと聞いた冥琳は半ば呆れ、雪蓮と蓮華は戦いに参加出来なかった事を残念がったり心配していたりする。

 だが、海蓮も雪蓮たちの報告を聞いて呆れたり残念がっていた。


「それなのに、話を聞く限りじゃ思った程は仲良くなっていない様ね。……いっその事、誰か一人くらい婿殿の子を孕んでくれば良かったのに。……仕方がないからシャオのこれからに期待しましょ。」

「か、母様、流石にそれは……。」


 まだ十代になって数年の娘に何を期待しているのか。この母親は相変わらずである。蓮華はそんな母親の言動に呆れているが、その母親本人は娘の心配を全く意に介していなかった。

 一方、性格等が海蓮そっくりと言われる雪蓮は山越の事を早く聞きたがっていた。


「今はそれより、山越との事よ。……こちらから仕掛けたの?」

「まさか。仮にも孫子の子孫を称している私がそんな無謀な事をする筈がないわ。」


 雪蓮が確認する様に問うと、海蓮は即座に否定し、少し冷めたお茶を飲み干してから一連の詳細を話し始めた。


「山越は貴女達が徐州に向かったのをどこからか察知した様ね。程なくして攻め込んできた。」


 雪蓮たちが徐州に向かったのは一ヶ月以上前である。涼が華琳との会談を終えて徐州に帰還してすぐに雪蓮たちが徐州に着いた。その頃には既に戦端が開かれていた様だ。

 海蓮の話は続く。


「すぐに迎え撃ちたかったけど、私達は袁術への睨みもきかせないといけないから、山越への対応は伯陽に任せる事にしたわ。」

晴蓮(せいれん)に?」


 雪蓮が、恐らく真名と思われる名前を口にする。

 正史によれば、伯陽とは(あざな)であり、姓名を孫賁(そんふん)という。父は孫羌(そんきょう)といい、孫堅の兄である。よって孫賁は雪蓮たちの従兄弟にあたる。


「晴蓮姉さんなら、確かに安心です。あの方は山越戦の実績がありますから。」


 蓮華は孫賁を「晴蓮姉さん」と呼んだ。やはりこの世界の武将らしく女性の様だ。


「まあねー。私より年上だから戦の経験はあるのよね。」


 雪蓮は素直に実力を認めた。どうやら雪蓮より年長らしいが、いくつなのだろうか。


「ええ、だからこそ任せたの。そしてあの子は今回もしっかりと結果を出した。」


 海蓮の説明によると、晴蓮は将兵を巧みに操って敵に多大な出血を強い、自らも敵の首級を三十も挙げるという大戦果だったという。

 と、そこで雪蓮が疑問を投げ掛けた。


「というか、山越の奴等とはしばらく戦わないっていう不可侵の約を結んでいたわよね。今回奴等が攻めてきたって事は、その約をあいつ等が破ったって事よね?」


 涼が雪蓮たちと同盟を結ぶ為にここ建業に来た時、雪蓮たちは丁度山越の使者と会談をしていた。その際、しばらく戦わないとの約定を結んでいたのである。


「そういう事になるわね。尤も、その事については“一部の反対派が約を無視して暴走した”というのが向こうの言い分らしいわ。」

「母様はそれを信じたの?」

「まさか。私はそんなに優しくないわよ。けどまあ、暴走の首謀者たちと思われる者の首を寄越して謝罪の言葉と金品を献上してきた以上、こちらは矛を納めるしかなかったわね。被害は最小だったし、逆にあいつらの被害は甚大だし、まあ良いんじゃないかしら。」


 良い気味よ、と言わんばかりの笑みを浮かべながら海蓮はお茶を注ぎ、一口だけ飲んだ。


「母様がそれで良いのなら……けど、癪に障るわね。」

「そんな反応をすると思ったから知らせなかったのよ。」


 雪蓮は不満そうだった。約束を守れない、守るつもりもない相手を自分の手で討てなかった事が。そんな娘の性格を知り抜いている海蓮の判断は、どうやら正しかった様だ。


「けどこれで、山越に対しては今まで以上に警戒しないといけないわね。」

「今回みたいな遠征をまたしなくてはならなくなった場合、将兵を余り多く連れてはいけないな。」

「ま、そんな事はそうそう起きないでしょ。その時は冥琳に任せるわ。」

「気軽に言ってくれるな。」


 呆れつつも悪い気がしない冥琳。それは幼少の頃からの付き合いだからこそ、雪蓮の言葉から信頼されているという感じがしたからだろう。

 尤も、自分の出番はしばらく後で良いとも思っているが。

 冥琳がそう思いながらお茶を口に含んでいると、蓮華が訊ねた。


「そういえば、袁術は動かなかったのですか?」

「動かなかったわよ。」


 それに対し、海蓮はあっさりと、しかも軽く答えた。


「……妙ですね。孫軍の兵が少なく、山越が攻めているという情報は袁術のもとにも入っていた筈。そんな好機に何もしないとは……。」

「母様が恐かったとか?」

「あり得なくはないが……袁術の軍勢は孫軍全てより遥かに多い。先の状況では更に兵数差が大きかったのに、何故動かなかったのか……。」


 蓮華たちは皆口々に意見を述べ合うが、何しろ情報が無いので決定的な答えは出ない。

 そんな娘達をしばらくの間眺めていた海蓮は、湯飲みを置いてからゆっくりと口を開いた。


「私も気になって少し調べさせたのよ。……そしたら、面白い情報があったわ。」

「面白い情報、ですか?」


 蓮華が言葉を繰り返す。雪蓮と冥琳も話の先を促す様に海蓮を見つめている。

 海蓮はそれを確認するかの様に見渡してから話を続けた。


「先日、袁紹と袁術が西園八校尉に任命されたそうよ。」

「さいえんはつこうい?」


 初めて聞く官職に雪蓮は間抜けな声を出した。海蓮が知り得た情報の中から西園八校尉について説明すると、雪蓮より蓮華と冥琳が興味を持っていたのか、集中して聞いていた。


「で、その西園なんとかに任命されたのがどう面白いのよ? 皇帝陛下直属みたいなものなら、少なくとも箔はつくってくらいでしょ。」

「……これを陛下に進言したのは董卓だそうよ。」

「はあ?」


 雪蓮はまたも間抜けな声を出した。だが今回は蓮華と冥琳も声は出さなかったものの、大きく驚いていた。

 海蓮は再び知り得た情報の中から董卓の現状について説明した。いつの間にか大出世を遂げていた事に三人は驚きを隠せなかったが、董卓が相国になったと聞いた時の冥琳の驚き様は特に凄かった。

 冥琳ほどではないものの、驚き、そして呆れている雪蓮が言葉を紡ぐ。


「相国って……いくらなんでも出世しすぎでしょ。蕭何や曹参みたいな実績はまだあの子には無い筈よ。」

「雪蓮の言う通りね。誰が見てもこの出世はあり得ない。なら、考えられる事は一つ。」

「……賄賂、ですか。」

「けど冥琳、私は董卓とはほとんど話していないけど、その短い間での印象からは彼女がそんな事をする様には見えなかったわ。」


 冥琳が出した答えに対し、蓮華は董卓を庇う様に自身が感じた印象を述べた。それに同意するかの様に、雪蓮と海蓮は頷いている。


「蓮華の言う通り、あの子はそんな事をする性質(たち)じゃないわ。むしろ、その対極に位置する人間よ。」

「私もそう思う。黄巾の時に数ヶ月間、共に戦ったけど、なんでこの子はこんな所に居るのかと思ったわ。そう言えば、婿殿も同じ印象だったわね。」

「なら……。」

「ですが、人間とはいつ豹変するか分かりません。例えば(いん)紂王(ちゅうおう)は暴君として知られていますが、かつては名君だったとも伝わります。」


 殷の紂王は正しくは帝辛(ていしん)という名だが、一般的には紂王の名で知られているかも知れない。

 紂王は殷の三十代目の王にして最後の王。美形で頭が良く、弁舌もたち、殷をよく治めていたというが、段々と増長し、遂には暴君になったと伝わっている。その原因は愛妾の妲己(だっき)にあると「封神演義(ふうしんえんぎ)」などにあるが、何しろ紀元前千百年頃の話なので本当の事は分からないといって良いだろう。


「なら、月も紂王みたいになったと言うの?」

「それは分からないが……何らかの要因が無ければこの様な異例の出世は無いだろう。それが何かは今のところ想像するしかないが。」


 董卓が悪事を働いたかは分からないが、そこに何かしらの力があったからこそ、数百年間誰も就任していなかった相国という官職に董卓が就いている。それは確かだと、冥琳は思った。


「話を戻すけど、袁紹も董卓が相国になって漢の実権を握っている事を最近知った様なの。で、当然ながら納得してないし、何とか出来ないか考えたのでしょうね。」


 そう言って海蓮は懐から一枚の手紙を取り出した。懐というより胸の間からと言った方が正しいかも知れない。

 手紙に興味を示した三人は暫しその送り主を想像した。話の流れからすぐに答えは出たが、念の為に蓮華が手紙の送り主について訊ねた。


「母様、それは……?」

「袁紹からの贈り物よ。」


 海蓮はそう言うと、袁紹からの手紙を娘たちに手渡した。






 時間は少し遡る。

 風と星が洛陽に行って一週間後、徐州に来客があった。

 桃香たちは謁見の間でその来客と対面しているが、ハッキリ言って桃香たちはこの来客に困惑していた。その原因は来客の素性にある。


斗詩(とし)猪々子(いいしぇ)、久し振り……で良いのかな。」

「そ、そうですね……あはは……。」

「ま、実際にアニキたちとゆっくり話すのは久し振りだし、良いんじゃないかな。刃はぶつけ合ったけど。」


 斗詩と呼ばれた大人しそうな少女が苦笑しているのに対し、猪々子と呼ばれた活発そうな少女はさらりと言いにくい事を言った。途端に場の空気が重く、冷えた感じがしたが、当の本人は気にしていない様だ。

 二人の少女、斗詩と猪々子はそれぞれ顔良と文醜の真名であり、どちらも袁紹軍の二枚看板と言われる程の実力者である。

 この話の読者なら覚えているだろうが、この場に居る桃香、涼、愛紗、鈴々、地香、雪里、朱里、雛里という面々の内の約半数がついこの間、袁紹軍と戦っている。なので、それはそれは気まずいどころではない。


「そ、それで、今日はどんな用件で徐州に?」


 桃香が多少焦りながら話を促した。涼たちが内心ホッとしたのは言うまでもない。

 すると、斗詩がそれまでの穏やかな表情から一変し、凛々しくしっかりとした表情になって言葉を紡いだ。


「我が主、袁本初がこの手紙を、徐州牧であらせられる劉玄徳様にと。」


 恭しい口調になった斗詩が荷物から手紙を取り出すと、それを愛紗が受け取り、それから桃香に手渡された。

 受け取った桃香はすぐに手紙を開き、黙読した。暫しの沈黙の後、彼女は表情を暗くして一言だけ発した。


「…………え。」

「桃香?」


 桃香の様子がおかしいと、涼は勿論、この場に居る重臣たち全員が気づく。

 涼は桃香から手紙を半ば強引に取り上げて読んだ。その内容を把握すると、涼もまた表情を一変させた。


「…………! 斗詩、この内容に嘘偽りは無いのかい?」

「……はい。」


 返事に少し間があった事が気になるが、少なくとも袁紹側はそう感じている様だと涼は判断した。

 ふと見ると、桃香は不安げな表情で涼を見つめている。


「涼義兄さん……。」


 弱々しげに自分の名前を呼ぶ義妹に対し、涼は彼女の表情を見ながら、恐らく今の自分も同じ様な表情をしているのだろうな、と思った。

 暫し考える様に沈黙し、涼は桃香の代わりに斗詩たちに考えを述べる。


「……いきなりの事でこちらも困惑している。返事は追ってすると、袁紹殿に伝えてくれるかな?」

「……分かりました。では、私達は他にも行かなければならない場所があるので、これで失礼します。文ちゃん、行くよ。」

「ん? 終わったの、斗詩? じゃあアニキ達、また今度なー。」


 きちんとした拝礼をして下がっていく斗詩と違い、猪々子は最後まで軽い言動だった。尤も、それが彼女の良いところでもある。

 しばらくして、二人の使者が居なくなった謁見の間には、残された面々が袁紹からの手紙を読みながら困惑していた。重苦しい空気はなかなか消えそうにない。

 そんな空気の中、言葉を発したのは涼のもう一人の義妹でもある愛紗だった。


「義兄上……私にはとても信じられないのですが。」

「俺だって信じられないし、信じてないよ。」

「ちぃも、あの子達の事はよく知ってるからこれはちょっと……ね。」


 地香も愛紗や涼と同じく、手紙の内容に否定的だ。

 それは他の面々も同じらしく、その手紙に書いてある人物に会った事がある者は勿論、会った事が無く話しか聞いていない者も同じ考えだった。

 そうした意見とは関係なく手紙の返事を書かないといけないのだが、この状況で答えを出すのは正しいのかどうかと、桃香も涼も判断しかねていた。

 結果として、彼等は情報収集を優先する事にした。


「とにかく、ちょうど今洛陽に行っている星と風が帰ってくるまで待とう。今はとにかく情報が欲しい。彼女達から何か聞いてからでも良いと思うけど、どうかな?」

「……ご主人様のおっしゃる事ももっともだと思います。ですが……その間に出来る事はやっておくべきかと。」

「そうね。結果がどっちでも、すぐに動ける様にしておかないと。朱里、雛里、調練の強化と書類整理、それと返書の案をいくつか考えるわよ。」

「あわわ……がんばりましゅ……あう、噛んじゃった……。」


 軍師達三人は涼の提案に賛同した。というより、今出来る事は実際のところそれしかない。涼たちはどうか間違いであってくれ、と思いながら風と星の帰還を待つ事にした。

 そんな風に涼たちを混乱させている原因である袁紹からの手紙の内容は長く、いろいろと書いてあったが、簡単にいうとこう書かれていた。


『帝を蔑ろにし、洛陽で悪政の限りを尽くす逆賊・董卓を討ちます』


 そして、この手紙が新たな戦いの幕開けを告げていたのだった。

皆さんご無沙汰しています。まさか二年も更新していないとは思いませんでした。


本来は一つに纏める予定だったこの章ですが、文字数超過で分けるしかありませんでした。既に二十章は書いてあるので、後編も十九章のままです。ご了承ください。

この章の目的は青州編のエピローグと各陣営の話、そして次章へのさわりといった感じでした。なかなか文章が出来ませんでしたが、これを書いていた時は入院中で時間が余っていたので何とか書く事が出来ました。

今回は結構シャオについて書きましたが、そもそも、当初はこんなにシャオについて書く予定は無かったんですけどね。この後の展開を考えると、今まで殆ど登場してないシャオをここで出さないとちょっと問題かなあと思い、あの展開になりました。かなり無茶してるなあとは思いますが、他に良い展開は思い浮かびませんでした。


さて、次回からようやく反董卓連合編です。こっちも予定では物凄く長くなります←

毎回言ってる気がしますが、大まかな展開は既に決めています。問題は筆が遅いというだけで。

取り敢えず、今はその反董卓連合編の序盤で苦戦しているので、気長にお待ちください。ではでは。



2018年7月25日更新。

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