第十九章 帰還、それから・前編
戦いが終わり、戦士達は家へと戻る。
さて、戦いが終わった後は宴である。
いやいや、論功行賞をしようよ。
一時の平和を、彼等はどう楽しむのであろうか。
2016年7月1日更新開始
2017年月日更新
青州から桃香達が、兗州から涼達が徐州へと戻った事で、今回の青州・揚州・兗州遠征は無事に終わった事になる。
だが、これで全てが終わった訳ではない。やる事は山積みである。
たとえば……。
「何で雪蓮さん達がまだ居るんですか!?」
「お帰りなさい、桃香。お邪魔してるわよ♪」
とか、
「……華琳殿、兗州に留まられていると聞いていましたが?」
「貴女が帰ってくると聞いて、ジッとしていられなくなったのよ、愛紗。」
とか、
「ちょっとアンタ! なに涼に馴れ馴れしくしてんのよ!?」
「シャオは涼の婚約者だもーん。これくらい当然でしょ♪」
等についてである。
……論功行賞はしなくて良いのだろうか。
今、この場には青州から帰還した桃香達。
兗州から帰還した涼達。
兗州から涼と共に帰還し、そのまま居着いている雪蓮達。
兗州で戦後処理をしていたが、愛紗が帰ってくると聞いて飛んできた華琳達。
と、大きく分けて四つのグループに分かれている。
「女三人寄れば姦しい」と言うが、三人以上居るので姦しいどころではなかった。姦しいや五月蠅いの最上級の言葉って何だろうか。多分それが現状で一番合っている筈だ。
「桃香お疲れ様。はい、貴女はこれでも飲んで疲れを癒やして。」
「あ、ありがとうございます……って、そうじゃなくてですね!」
「何よー?」
雪蓮から酒の盃を渡され、彼女のペースに乗せられそうになった桃香だが、何とか踏みとどまる。
「私達は早馬を寄越していた筈ですよ? “青州黄巾党を倒したので帰ります”って!」
「知ってるわよ。だからこうして貴女達の帰りを待っていたんじゃない。戦勝のお祝いぐらいしないと、同盟関係って感じがしないでしょ。」
「そう言って、涼義兄さんの傍に居たいんでしょ。」
「そうよー♪」
臆面も無く言う雪蓮に桃香は流石に呆れ、反論しようとする。
が、機先を制したのは雪蓮だった。
「私と涼は正式に婚約したんだし、ここに居たって良いでしょ♪」
「こ、婚約!?」
「あら、知らなかったの?」
当然知ってると思っていた雪蓮は、驚く桃香の表情を見て軽く舌を出した。
驚いたままの桃香が慌てて涼を探し、何かを言おうとした瞬間、その涼の傍に居る人物からまたも驚くべき言葉が投げ掛けられた。
「シャオも涼と婚約してるよー♪」
「なっ。」
孫尚香こと小蓮の思わぬ言葉に、桃香は思わず動きを止めた。
すると今度は、正反対の方向から声が上がった。
「……私も、婚約しているぞ。一応。」
お酒の所為かは分からないが、顔を赤らめた孫権こと蓮華も同じ言葉を呟く。
桃香や傍に居た地香たちは状況が飲み込めず、唯々呆然としていた。
一方、華琳は「意外に手が早いのね」といった表情を、雪蓮は当事者なのに「知ーらない」といった表情をしている。
そうした空気が蔓延する中、桃香はようやく我を取り戻し、この原因を作った人物の許にゆっくりと近づく。その人物からしてみれば、桃香の行動はホラー以外の何物でも無い。自業自得ではあるが。
「りょう、にい、さーん?」
とてつもなく可愛く綺麗な笑顔でそう言った桃香だが、声や雰囲気はそれに似つかわしくない感じがしている。
涼は苦笑しながら顔を背けたが、そっちにはそっちで地香が「諦めなさい」という表情で立っていた。
涼は暫し二人を見てから、降参とばかりに手を挙げて桃香に説明を始めた。
簡潔に経緯を説明した涼だったが、当然ながらそれで納得する程軽い問題ではないので、暫くの間は桃香たちから説教やら何やらを受ける事になった。正座で。
「……まあ、理由は分かりましたけど、こういった事は軽々しくしないでくださいね。」
「はい……。」
そう言って深々と溜息を吐く桃香と、項垂れる涼。涼にいたってはそろそろ正座でいるのが限界という感じなので、早く解放されたい思いもあった。
その際に華琳が面白がって「私も涼と婚約しようかしら」と言ったりして、桃香たちや雪蓮たちや桂花たちが驚いたり面白がったり混乱したりあったが、その騒動も涼の耳には入らなかった様だ。
そんな涼の地獄の時間(自業自得含む)が終わると、しびれた足をさすりながら寝転んだ。しばらくは起き上がれないかも知れない。
と、そこに、誰かが涼の頭を持ち上げ、自身の太ももに乗せた。所謂「ひざまくら」だが、その感触はこの上なく良い。
そんなひざまくらをしているのは、涼がこの世界に来て一番見知っている人物の一人だった。
「……どうしたの、桃香?」
「…………ちょっと言い過ぎましたから、そのお詫びです。」
そう答えた桃香は涼と視線を合わせず、あさっての方向を向いていた。
涼から見える桃香の表情は、頬に薄く紅が差しており、ひざまくらをしている照れ隠しの所為と思われた。それを指摘しては怒られたり、ひざまくらが終わったりするかも知れないので言わなかったが。
そんな二人を見ている人物は複数居るが、その中の一人である華琳が言葉を紡いだ。
「まるで恋人同士みたいね。」
「「「「「!?」」」」」
複数の、それもかなりの数の人物がその言葉に反応した。
驚く者 、戸惑う者と様々だったが、一番驚き戸惑っていたのは当事者である桃香だった。
「えっ?」と小さく声を出した後、周りを見て、膝元の涼を見て、それから華琳を見て、正面を見ながら顔を更に赤くして俯いた。もちろん、耳まで真っ赤である。
そんな桃香の様子を見ながら、華琳と雪蓮は同じ事を思っていた。
(ひょっとして、自覚無かったのかしら。)
と。
二人はてっきり、桃香が涼に対してそういった感情を持っていて、或いはそれに近い事を意識して行動しているものと思っていた。
何せ、年頃の男女が四六時中一緒に居るのである。そうした感情を持ったとしても不思議ではないし、むしろ健全だ。この世界では二人の年齢で結婚していてもおかしくはないし、子供がいても良いだろう。
二人が見てきた限りでは、桃香は仕事で離れている時以外は殆ど涼の傍に居た。客観的に見れば、涼の隣に居るのは自分だと言わんばかりであったし、隣に居るのが当然という雰囲気を作っていた。
現段階では涼に思慕の情を特段持っていない華琳はともかく、公私に渉って涼に好意を持ってきた雪蓮は、そんな桃香を羨ましく思った事もあるし、邪魔だなと思った事もある。
その桃香が、恐らく無自覚に涼の隣に居て、それが当たり前と思っていたという事に雪蓮は驚かざるを得なかった。
(そう言えば、桃香は涼をいつも“涼義兄さん”って呼んでるけど、呼び捨てや“義兄”を付ける以外の呼び方はしてないわね。)
涼、桃香、愛紗、鈴々の四人で「桃園の誓い」をして以来、桃香の涼に対する呼び方は何回かの変遷があったものの、「涼義兄さん」と呼ぶ事で落ち着いた。
涼は桃香たちを「妹よ!」と、どこかのガキ大将みたいには呼ばなかったが、義兄としてしっかりしようと努めてきた。結果はどうか別にして。
そんな「義兄妹」の関係が一年以上続いてきたのだが、そこから何らかの進展があってもおかしくはなかった。儒教や倫理観とか色々問題はあるかも知れないが、男女の仲に関しては些末な事とも言えた。少なくともこの世界では。
それよりも、雪蓮は先程の華琳の言葉が新たな好敵手を生んでしまったのではないかと危惧していた。
(これは……ひょっとしたら華琳が余計な事をしてくれたのかもね。まあ、婚約してる分私が一歩前に出てるけど……。)
そんなもの、何の意味もなさないかも知れない。雪蓮はそう思う。
彼女がそう思う理由の最たる物は、「距離」である。
涼は徐州に、雪蓮は揚州にそれぞれ居を構えている。この二つの州は南北に隣り合わせという位置にあるので、行き来しようと思えばそれなりに行ける。
だが、現代の様に自動車や電車といった交通手段が無いこの世界では、移動に使えて速いのは馬くらいしかなく、船もモーター等は無いので、当然ながら時間がかかる。徐州と揚州の間に長江が流れているのも、移動の際の障害と言えるだろう。
また、それぞれの立場というものもある。
涼は自称とはいえ「天の御遣い」であり、公式には州牧補佐という役職を仰せつかっている。
雪蓮はそうした役職はまだないが、母である孫堅こと海蓮によって後継者として鍛えられてる為、いくら婚約者といってもそう簡単に涼に会う事は出来ない。また、揚州の南に居る山越の事もあるので余計に動けないという事情もある。
それと比べれば、同じ徐州に居て、同じ街に居て、同じ屋敷に居るという、会おうと思えばいつでも会える距離に居る桃香はどれだけ有利か。
今までは桃香に自覚が無かったのでそうした危惧をする必要も無かったが、華琳の余計な一言で、恐らく桃香は涼を異性として見るだろう。
そうなれば、涼も桃香を異性として見るのは時間の問題だ。ひょっとしたら、既に見ているかも知れないが、義兄妹という関係や雪蓮たちとの婚約の事があるので本心を隠しているのかも、とまで邪推してしまう雪蓮である。
実際には、涼は桃香たちを異性として見た事は何回かある。
最初は涼がこの世界に来たばかりの頃。
自分に何が起きたか分からず、だが持ち前の楽天的な考えで何とかなると思いながら桃香たちと話し、取り敢えず暫くの間は彼女たちと同じ家で暮らすという事になった時、とあるハプニングで彼女たちの肢体の一部に目を奪われた事がある。
他にも、董卓こと月を初めて見た時はその可憐な姿を素直に評し、その所為で一悶着あったり、雪蓮と何やかんやあってキスされたりと、当初はそうしたハプニングに心動かされた事は多かった。
だが、黄巾党の乱で人を斬った事や、その後に経験した様々な事などの結果、涼は色恋に関して極力避ける様になった。それは何故か。
涼はこの世界の人間ではない。いつの間にかこの世界に来ていた。
ならば、いつの間にかこの世界から居なくなる事も考えられる。だとすれば、極力親しい人間を作らない方が良いと考えているのかも知れない。
勿論、それは涼しか分からない事である。
一つだけ確かなのは、だからといって涼は雪蓮たちとの婚約を、当然ながら軽々しくは思っていないという事だ。
「天の御遣い」という自分の価値と孫家との婚姻関係を、政治的なもの“だけ”としては考えていない。そこには多少なりとも彼自身の好みは反映されていた。
いくら政治的に必要だったとしても、もし雪蓮たちが醜女だったら婚約というカードは切らなかっただろう。普通の男としてある意味当然な、そういった感情は涼にもあるのだ。
だからこそ、今回の婚約で涼は桃香たちに負い目を感じているとも言える。もし、涼が割り切って行動する人物だったなら、この事で狼狽えたり謝ったりはしなかっただろう。
そして、そうした人間味のある人物だからこそ、雪蓮たちは婚約の話に乗ったのである。
雪蓮たちは涼より割り切って考える事が出来るが、だからといって将来の伴侶を決める事まで完全に割り切って考える事はしない。それは女性としての自分達を否定する事になるからだ。
あくまで、涼の人となりに好意を持ち、婚約したのである。それがいくら政治的な意味合いも大きいとは言え、彼女達にとってはついでに過ぎないのだ。
だからこそ、雪蓮はこの事態を悩ましく思っているのである。もし涼との関係が政治的な意味合いだけの関係なら、桃香について何ら興味も不安も抱かなかっただろう。
(まあ……私はともかく、孫家の為ならいくつか考えはあるけど。)
心中で軽く嘆息すると、雪蓮は二回目線を動かし、人知れず頷いた。彼女なりの「恋愛」と「割り切り」が合わさった瞬間である。
さて、そうした涼達のコント? を見ていた華琳は、聡明なだけに自身の発言が桃香を焚きつけてしまった事に気づいていた。
ただ、雪蓮の場合と違うのは、彼女は涼と婚約していない事と、恋愛感情といったものを涼に対してまだ抱いていないという事である。
彼女は、涼に対して「興味」は持っている。だがそれは、「天の御遣い」だとか、過去の共闘で感じた事が主で、愛だの恋だのの対象としては殆ど見ていないのである。
勿論、華琳とて年頃の娘である。異性に全く興味が無い訳ではない。だが、彼女は同性にも興味を持てる人間であり、現在の所はそちらの方が勝っている。
とは言え、華琳はいずれ曹家を継ぐ立場にある。そうなると必然的に生涯の伴侶を得る必要に迫られる。その時の為に早めに候補を探しておく事も必要だろう。
だが、涼はその候補に今の所入っていない。
今の涼の立場や人気を考えれば、候補に入れておいてもおかしくないのに、である。
勿論そこには、華琳なりの判断がある。
一つは、「天の御遣い」の人気がこのまま続くとは思えない事。もう一つは、涼にはそれ程秀でているものが無いという事である。
人気については、現代の芸能人やスポーツ選手などを見ても分かる通り、基本的には一時的なものであり、その期間が長いか短いかの違いがあるだけだ。
華琳は知る由も無いが、涼の所には色々な所から手紙やら貢ぎ物やらが来ている。その意味は勿論、「天の御遣い」の威光に少しでもあやかりたいからである。
だが、「天の御遣い」の威光が無くなれば、その数も自然と減っていき、いずれは零になるだろう。人気とは所詮そういうものだ。
続いて、涼に秀でているものが無いという事についてだが、これは華琳が要求するレベルが高過ぎるというのもある。実際には、涼は結構優れていると言える。
涼は現代では天才でも無く馬鹿でも無かった。学年何位とかそんなレベルでは勿論無いが、少なくとも英語以外は赤点とは無縁の成績を修めていた。
また、個人的趣味として古代中国史と日本史が得意だった。古代中国史は三国志に、日本史では戦国時代について特に詳しくなっていった。
古代中国史を知るにつれて、史記や漢文にも興味を持ち、更には孫子の兵法などを暗記したりと、涼は好きな物についてはとことんのめり込むタイプである。
その為、三国志によく似たこの世界に来た時も比較的早くに順応し、この国の国語である漢文に対しても、以前独学で勉強したお陰もあって思ったより早く覚えた。
史記や孫子の兵法を覚えていた為、それを役立てる事も出来た。他にも、秘密にしている未来知識も沢山ある。こうして見ると、涼は文官寄りの才能を充分に持っているといえるのである。
だが、華琳にとっては史記や孫子の兵法を覚えているという事はそれ程凄い事ではない。
彼女自身がそれを早くに覚え、周りの者もそれに倣っている者が多い。つまり、華琳にとっては「当たり前」の事なのである。
勿論、武官の中には、例えば春蘭とかはそうした知識を必ずしも持ってはいないが、その代わりに強大な武力を持っている。
また、部下が全員華琳と同等の実力を持つ必要は、当然ながら無い。中国史の中でもトップクラスの実力を持つ曹操と同じ名を持つ華琳は、桁違いの才能の持ち主であり、そんな彼女と同じ実力の持ち主はまず居ない。
そもそも、そんなハイレベルな人物が居る必要は無い。もしそんな人物が華琳の傍に居たら、互いに牽制し合って相討ちになるか、勝っても弱体化するだけだろう。
史実における曹操は、家柄や過去にこだわらずに才能ある者を求めるという、当時としては画期的な内容の求賢令を布告している。所謂「唯材是挙」である。
この世界の曹操である華琳は求賢令を出してはいないが、考え方はほぼ同じであり、平民であった許緒こと季衣や典偉こと流琉などの登用を行っている。
そうした事例を並べて考えれば、才能がある人物が居れば是非とも欲しがるのが、華琳という人間だといえる。
では、涼は華琳から全く評価されていないのかというとそれもまた違う。
黄巾党の乱や十常侍誅殺、そして先頃の兗州の村での涼の活躍を見てきた華琳は、彼を高く評価してきた。
その理由の一つには、涼を麾下に加えれば自然と愛紗や鈴々たちが加わるという打算もあったが、きちんと涼の戦闘力、指揮能力、知識や経験なども考えての高評価だった。
それでも華琳が涼を異性として意識しないのは、彼が一人の男として魅力に欠けるという訳では決してなく、判断材料が少ないという事が一番の要因だ。
既に触れているが、雪蓮と違って華琳は涼と余り共に過ごしていない。その為に、涼を高く評価しながら、いざとなると自身の隣に立つ者として相応しいかどうか、判断しかねるのである。
(まあ、私の勘が確かなら、いずれ涼はもっと成長する。そうでなければ、“天の御遣い”という言葉は今すぐ取り消すべきね。)
人知れず小さく笑う華琳は、目の前の喧噪を肴に酒を一口含み、それから一気に飲み干していった。
さて、桃香である。
華琳の言葉によって自身の本心に図らずも気づいてしまった彼女は、いまだに混乱の最中にあった。
(わ、私……涼義兄さんの事を好きなの……!? ううん、それは前からだけど、異性としても……え、ええ~~っ!?)
マンガならば、ぷしゅー、といった擬音と共に顔から湯気が出て、そのまま恥ずかしさの余り倒れそうな勢いである。
だがこれはマンガではないので、当然そんな擬音は出ないし、倒れて場面転換という事も無い。桃香が落ち着くまで、この状態は続くのである。
義兄妹の関係にある涼と桃香に血縁関係は無い。血の繋がった兄妹なら色恋の仲になっては一大事だが、そうでない二人に障害はさほど無い。
あるとすれば、儒教の考えや今までの立場くらいだが、些末な事とも言えた。
確かに、問題にする人は居るだろうが、二人に血縁関係が無い事が決定的になって、最終的には問題にならないだろう。
それどころか、二人が結婚したら「天の御遣い」と劉家の血が合わさるという事なので、大いに祝福されるかも知れない。勿論、その逆もあり得るが。
桃香は中山靖王の末裔を自称してきており、現在は漢王室からも認められている。
そんな桃香は、自身の意思とは関係なく、いずれ周りから跡継ぎを望まれる事になるだろう。その際に彼女が伴侶として選ぶのが誰か、という事になるのだが、現段階ではその相手として一番可能性が高いのが涼なのは間違いない。
とは言え、そんな話が出るのはまだ先の話と桃香は思っており、そもそも涼をそんな目で見ていなかった。少なくとも、自覚はしていなかった。
それが今回、華琳の一言で一変した。
それはさながら、童子が少女へと成長した瞬間と同じである。ここから更に成長するかどうかは、桃香次第であり、涼次第である。
(……涼義兄さんは、どう思っているのかな?)
桃香はそこでふと、自分の膝の上に頭を寝かせている義兄、涼に視線を向けた。
(涼義兄さんも、私と同じだったり……しないかな。)
残念ながら、涼は顔を前に向けていて、尚且つ左腕を頭に乗せているのでどんな表情をしているのかは分からない。
桃香は少し不満げながらも、ハッキリと分からなかった事にどこか安堵もしていた。
一方、安堵どころじゃないのが涼である。
(桃香、今になってそんな事言われても……いや、言ってはいないけど、困るよ……。)
涼は戸惑っていた。
彼の頭の中では、桃香はれっきとした妹だ。とは言え、当然ながら出会った当初は流石に異性として意識していた。
桃香は誰がどう見ても美少女と言って良い美貌の持ち主であり、また、彼女の特徴の一つであるその胸の大きさは男女問わず注目される程である。
健全な高校生だった涼は、桃香にあった初めの内はそんな当然の反応をして過ごしていた。
「桃園の誓い」を経て義兄妹の関係になっても暫くはそんな感じだったが、それからすぐに黄巾党の乱の鎮圧にあたり、数ヶ月間は戦いの日々が続いた。
その数ヶ月間で、涼と桃香は男と女の仲というよりは普通の兄妹の様な関係になっていた。若干の嫉妬や誤解を受けた事はあるが、それも兄妹ならばよくある事だと言えなくもない。
そんな関係が、今崩れようとしている。
それは、涼が望む事ではない。少なくとも、今はまだ。
それから暫くの間、場の空気は何となくのんびりとなり、同時にどことなく会話を切り出せない雰囲気になった。下手に発言してこれ以上空気を変えるのは良くないと考えたのかも知れない。
幸い、彼女達がその様に気を使う必要はすぐになくなった。宴の準備が出来たのである。
そう、雪蓮や華琳がここ徐州にいるのは、青州黄巾党を殲滅した事のお祝いのためだ。例え、本音は別のところにあったとしても。
その後、宴はつつがなく終了した。
途中、涼を酔い潰して何かをしようとした雪蓮が、涼と雪里と冥琳の策によって先に酔い潰れたり、華琳が相変わらず愛紗たちを引き抜こうとしたりしたが、つつがなく終了したのである。うん。
その夜、自室で深い眠りについていた筈の涼は唐突に目が覚めた。
「……いま何時だっけ…………深夜3時くらいかな。」
涼は寝台のそばに在る台の上に置いている腕時計を見ながら、そう呟いた。
もちろん、この世界には現代の様な時計が無いので、腕時計に表示されている日付と時刻はこの世界のものではない。涼がこの世界に来てからの長い時間で見てきた太陽の昇り沈み、季節の移り変わりを感じた結果、今が何時か、どんな季節かを大体ながら把握出来る様になっていた。先の言葉はその成果である。
「何でこんな時間に……疲れてるはずなのになあ……。」
そう言いながらも、涼は何となくその理由がわかっていた。
昼間にあったちょっとした騒ぎ、桃香の気持ちや雪蓮たちとのこれからについて、思うところがあったのだろうと。
「これから先、どうするべきなのか、な。」
柄にもなく、そんな事を呟く。
普段の涼は楽天的な性格である。それは元の世界に居た時から基本的に変わっていない。その性格の為に、ともすれば呆れられそうな言動をした事も一度や二度ではない。
だが、元の世界とは文化レベルから何から、余りにも違うこの世界に来て約二年。そんな涼もたまには物事について深く考える事もある。例えば今の様に。
(雪蓮たちと婚約してるから、普通に考えればいずれ結婚するんだろうけど……。)
本当にそれで良いのか? という声がどこからか聞こえてくる。
それで良い、という声と、良い訳無い、という声。それと、どうでも良いじゃないか、などといった様々な声が聞こえてくる。どの声も涼にとってはよく聞いた声だ。
(桃香の気持ちを、知っちゃったからな……。)
ふう、と一つ、息を吐く。
続いて、桃香だけじゃないか、とも思った。
涼に好意を向けている者は、桃香や雪蓮たちだけではない。勿論、そこには単純な好意だけでなく、様々な思惑もあるだろう。
事情があって劉燕として生きている張宝こと地和は、恐らく純粋に好意を向けている。愛紗や鈴々の好意ははあくまで義兄に対するものだが、桃香の例を考えればこれからどうなるか分からない。
董卓こと月たちや、顔良こと斗詩たちも悪意無く接していると思われる。呂布こと恋、というかその周りの者たちの様に、あからさまな思惑を持っていた者も居る。その中には華琳も含まれるだろう。
だが、そのいずれにしても結婚という可能性が残っているのは確かであり、現代の一般的な日本人である涼には無縁だった政略結婚が政治手段として存在するこの世界に於いては、無縁どころか却って身近なものになっていた。
桃香がいずれ伴侶を決めなくてはならない様に、涼もまた伴侶を決める日がやってくる。しかも、涼の場合は少なくとも三人は既に決まっているのだ。
正室だ側室だはたまた愛人だと立場は違うが、男である涼はこの様に複数の女性と婚姻関係を結んでいく可能性がある。いっその事、全員と結婚した方が却って上手くいくかも知れない。
美人や美少女とそんな仲になれるなんて羨ましい限りだと、普通は思うだろうが、考えてもみてほしい。仮に結婚しても、そこに愛情やら何やらが無いかも知れないのだ。そんな結婚生活をしてみたいだろうか?
もし愛情があったとしても、政略結婚である以上は普通の結婚生活は送れないと思われる。果たして、現代人の涼にそんな生活が送れるのだろうか。
「……大変そうだ。」
政略結婚の結婚生活を想像してみた涼はそう呟いたが、実際、大変なのである。
例えば、江戸幕府の初代将軍である徳川家康はかつて今川家の人質であり、松平元康という名前だった。当主、今川義元による政略結婚で瀬名姫、いわゆる築山殿を正室に迎えたが、年上で気が強かったとも言われており、今川家が滅んだ後は、家康にとっては義父にあたる関口親永が切腹になった事もあって、夫婦仲は険悪になったとも伝わっている。
また、家康は後に豊臣秀吉から天下統一の為の策として、妹の朝日姫を継室にあてがわれたりもした。この時家康45歳、朝日姫は44歳であった。朝日姫との結婚生活については詳しく伝わっていないが、程なくして朝日姫が病死している事は確かである。
やはり政略結婚は、基本的に夫婦仲が良くないのかも知れない。
とは言え、涼が政略結婚をする事は既に決まっている。
それに、涼の場合は先に挙げた例と比べたらマシな方だ。少なくとも、雪蓮たちは思惑だけで婚約した訳では無いし、涼もまた彼女達に対して思った以上の好意を持っている。
その様な例も勿論有る。義元の嫡男、今川氏真は、今川と北条、武田との同盟、所謂「甲相駿三国同盟」の成立後、北条家から早川殿を妻として迎えた。政略結婚ではあったが、夫婦仲はとても良かったと伝わっている。
桶狭間の戦いで義元が討ち死にし、多くの家臣を失い、離反者も多く出て、戦国武将としての今川家が滅亡した後も早川殿は氏真に付き従った。この時代、同盟関係が失われた場合には、実家に呼び戻される事が普通にあったし、一時は早川殿も氏真と共に北条家に身を寄せていたが、夫を邪魔物扱いする実家に怒り、出ていったとも伝わっている。
また、家康は天正壬午の乱の後に北条家と同盟を結び、娘の督姫を北条氏政の嫡男、北条氏直に嫁がせていたが、北条家と秀吉が対立し小田原合戦が起きて北条家が滅亡した後、氏直は高野山に謹慎となった為、秀吉に赦免されるまで一時的に二人を離さざるをえなかった。なお、赦免後の氏直と督姫はまた二人で暮らせる予定だったが、氏直が病死した為に叶わなかった。督姫はその後、後に姫路宰相と呼ばれる池田輝政に再嫁している。
古代中国史だけでなく日本史にも詳しい涼は当然それ等を知っている。知っているだけに、その良し悪しもわかっている。だが、だからといって自分がその渦中に投げ込まれると戸惑ってしまう。予め覚悟はしていた筈でも、ただの学生だった身には大変だろう。
そんなこんなで珍しく悩み始めた涼は、気分転換に散歩をする事にした。部屋に籠って考えても良い答えは出てこないと、涼は生まれて約二十年の年月で培った経験から判断した。
ここ下丕城は徐州に来てからずっと暮らしている、言わば涼達の「家」である。どこにどんな部屋が在るか、誰が居るか等を把握しきっている。
今は雪蓮や華琳たちが来ているので、来客用の部屋を彼女達に宛がっている。その部屋は涼達の部屋とは少し離れているので、こうして散歩をしても足音で眠りを妨げる事も無いし、気づかれる事も無い。筈だった。
「……涼?」
「蓮華?」
不意に声を掛けられた涼は少なからず驚きながらも、声の主が判って安心する。
姉に似た顔立ちをした、だがまだ幼さを残した少女、孫権こと蓮華がそこに居た。
涼は訊ねた。
「こんな時間にどうしたの?」
至極当然の質問だった。涼の予想ではあるが今の時間は深夜三時くらいであり、深夜三時というのは真夜中である。仮に時間が正しくなくても、日の入りからの感覚では少なくとも六時間以上は経っていると思われる。だとすればこの時代の人間は勿論、そうでない現代人でも眠っていておかしくない時間だ。
この世界には当然ながら深夜番組も動画サイトも無い。現代で灯りの元になっている電気は無く、この世界で灯りに使う油などは無駄遣いできないので、非常時以外は夜更かしをする事も殆ど無い。
そもそも、蓮華は客人である。彼女が住んでいる揚州の屋敷ならまだしも、徐州という余所の屋敷で好き勝手は出来ない。それは雪蓮や華琳たちも同じなので、宴が終わった後は皆、風呂で汗を流した後、程なくして就寝している。
蓮華もそうやって寝床についた筈であった。尤も、いくら婚約者とは言っても彼女の行動を涼が逐一把握している訳では無いので、あくまで想像でしかないが。
そんな涼の疑問に、蓮華は簡潔に答える。
「眠れなくて、少し散歩を、ね。」
そう言った彼女は、少し空を見上げた。その視線の先には月が浮かんでいた。
「いくら同盟関係にあるとは言え、護衛もつけずに散歩って、ちょっと不用心だと思うけど。」
「それだけ信頼してるのよ。」
蓮華のその言葉に、涼は少なからず違和感を抱いた。
涼と蓮華は、会った日数はそれ程多くない。確かに婚約はしたし、その時にそれなりに会話はした。だが、彼女が「信頼」という言葉を口にする程、濃密な日々を過ごしてきた訳ではない。
そもそも、姉である雪蓮と違って生真面目な蓮華は、初めて会った時から涼を警戒していた。仮にも孫子の末裔を名乗る孫家の姫としては、それくらい慎重になるのは当然である。雪蓮がちょっと軽いのだ。
そんな彼女が、信頼を口にしたのは何故か。
涼はしばし考えるが適当な答えが出ず、仕方ないのでありきたりな答えを選んだ。
「……何か、悩んでいるのか?」
「……っ。」
当たりか、と胸中で呟く涼。
ポーカーフェイスが得意な雪蓮と違い、蓮華は涼に言われるとすぐに表情を変化させた。素人の俺にも判る様だと、雪蓮にからかわれるぞ、なんて思ったのは勿論口にしない。
「良かったら俺に話してみないか? 悩み事って、人に話すと楽になるって言うし。」
勿論、蓮華が良ければだけど、と付け足しながら、涼は近くの東屋に体を向けた。
涼の提案に一瞬躊躇った蓮華だったが、結局は彼の後についていった。
一、二分ほど歩いた所にその東屋は在る。なお、東屋とは庭園などに眺望、休憩などの目的で設置してある簡素な建屋の事を言い、四阿とも呼ぶ。基本的に屋根と柱だけで造られており、壁は在っても簡素な物になっている。
ここに在る東屋もその例に漏れない。尤も、城の中に在るからその分豪華な感じに造られてはいるが。
涼と蓮華は対面する様に座った。円卓を挟んで見つめる二人。とは言え、何ら良いムードにならない。これも二人の関係性によるものであり、尚更先程の蓮華の「信頼」という言葉の違和感が強くなっていく。
暫しの沈黙の後、先に言葉を発したのは蓮華だった。
「私の悩みは……ね、これからどうすれば良いのかって事なの。」
涼はそれを聞いてキョトンした。あれ、何かつい最近聞いた事があるぞと。
聞いた事があって当然である。つい先程まで涼自身が同じ事で悩み始めていたのだから。
それに気づいた涼は苦笑した。その様子を見た蓮華は自分が笑われたと思い不快感を露にしたが、涼から理由を聞かされると素直に納得した。
「貴方も、私と同じ様に悩んでいたのね……何だか意外だわ。」
「俺だって、たまには悩むよ。」
そりゃあ、普段はあんまり悩まないけどさ、と思いつつも、涼は蓮華に話を振った。
「どうしたら良いかって言うけどさ、蓮華のやりたい様にすれば良いんじゃない?」
「それが出来れば悩んだりしないわよ。」
「そりゃそうか。」
人間が悩むのは、得てして自分の現状や行動が理想と違うからだったりする。本当なら勉強が出来ている筈だとか、スポーツが上手い筈だとか、モテモテな筈だとか、そういった「理想」と「現実」がかけ離れていたりするから、人は悩むのである。
なら、蓮華の理想は何だろう? と涼は思った。思ったからには訊きたくなるのもまた人間だ。
涼から「蓮華にとっての理想」は何か? と訊かれた蓮華は、さほど間を置かずに答えた。
「雪蓮姉様の様に強くなって、人を導く事が出来る様になるのが、私の理想よ。」
蓮華の言葉に涼は納得した。最初に会った時はただの乱暴者だった雪蓮だが、今では冷静になる事を覚え、思慮深くもなっている。母である孫堅こと海蓮が居るのでまだ目立たないが、「三国志」を知っている涼はいずれ雪蓮が飛躍する事を知っている。
そしてそれは、今目の前に居る蓮華も同じだという事も。
だが今はまだ、悩める女の子でしかない。少なくとも涼はそう思った。
考えてみれば、涼と蓮華は一つしか年齢が違わない。世が世なら、同じ学校の先輩後輩でもおかしくはないのだ。
だからだろうか、いつの間にか涼は後輩の悩みを聞く感じになっていた。幸いにも、涼にはそうした経験があった。両肘を卓に載せて少し前のめりになり、蓮華の理想と悩みを更に訊き出そうとする。
この辺りは、涼の楽天的な性格が良い方に出ているかも知れない。楽天的というのは、一見すると何も考えていない様に見えるが、言い方を変えれば常に前向きになれるともとれる。そしてそれは、今の蓮華には無いものである。
蓮華は涼と話していく内に、悪くない気持ちになっていった。それは話相手が婚約者だからとか、天の御遣いだからとかでは勿論なく、涼の話し方、聞き方が上手いからだろう。
蓮華と涼は揚州での会談時もそれなりには話しているが、何故か今の様に話が弾んではいない。聡い蓮華は涼と話しながらその理由を考えた。その結果、ここが揚州ではないから、という答えに辿り着いた。
揚州は現在、孫家の物と言って良い。勿論、対外的には揚州は漢王朝より賜った領地であり、孫家は漢王朝によって任命された揚州の官吏であり、我が物顔で揚州を扱って良い訳ではない。
だが、漢王朝の命脈が尽きかけている今、それを律儀に守っている者は殆ど居ない。ひょっとしたら、この徐州の州牧である桃香くらいかも知れない。
そんな状況の揚州では、孫家は揚州の支配者と言って良い。揚州の他の豪族や山越などの問題はあるが、今の孫家ならそれもいずれ解決出来ると蓮華は思っている。
よって現在の孫家は揚州に於ける一番高貴な一族であり、周りの目は良くも悪くも集まる事になる。それは揚州ならどこでもであり、孫家の屋敷の中でもだ。
だが、そういった事がここ徐州ではない。厳密に言えば勿論あるのだが、揚州で受ける注目やプレッシャーの度合いと比べれば遥かに少ない。その為、蓮華はここが他所の場所にも係わらず意外とリラックス出来ているのだ。
次に、涼の自覚か無自覚かは判らないが、その口調が蓮華と話していく内に彼女を一人の普通の女の子として扱う様になっているからだろう。
前述の通り、蓮華は孫家の人間であり、現当主の海蓮の娘なので、言うなれば「姫」である。実際、一部の家臣からはそう呼ばれているし、それを蓮華も受け入れている。それが普通だったからだ。
孫家の姫だから、母を助け、姉を補佐し、妹を守ると、幼少期から現在に至るまでの人格形成で蓮華の性格はそのように形作られた。その結果、「堅物」とか「真面目」とかも言われているが、後悔はしていない。
だが、蓮華と比べると自由奔放な母や姉、妹を見続けてきた為に、自分はこのままで良いのかという疑問と不安が生じた。根が真面目なだけに、一度不安になるととことん不安になる。誰かに相談するという事も、相手を不安がらせてはいけないと思い、しないできた。
そんな彼女が、何故か涼には不安を、理想を打ち明けた。計らずも婚約した仲だからかどうかは彼女自身にも判らないが、歳が近くて、異性で、しかも天界出身なので価値観が絶対的に違う筈の涼に訊いてもらいたかったという思いを、彼女も知らない内に抱いていたという可能性は捨てきれない。
事実がどうであれ、蓮華は涼に打ち明けた。そして涼はそんな蓮華に対し自身の考えを口にした。
「蓮華のやりたい様にやれば良いんじゃないかな?」
字面だけ見ると、何とも投げやりな感じに見えるが、その口調は意外にも真剣そのものだった。
それだけに蓮華は当惑し、慌てながらも反論した。
「その、私のやりたい事が判らないからこうして相談しているのだけど。」
「判らないって言っても、さっき言った様に理想はあるんでしょ。」
「それはそうだけど……。」
「なら、その通りに動けば良いと思うよ。なーに、理想と現実がかけ離れている事なんて、別に珍しくもないよ。」
「それはそうだけど……。」
蓮華は同じ言葉を返す。
涼が言っている事は理解できる。人は誰しも理想通りに生きていける訳では無い。
「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」と言って本当に陰麗華を妻とし、執金吾どころか皇帝にまでなった光武帝の様な人物の方が少ないだろう。
だが、人はどこまでも理想を追い求めるものではないだろうか? とも彼女は思うのだ。そうでなければ人は、いつまで経っても進歩しない生き物になってしまうのではないかと。
それは恐らく正しいのだろう。人は、美味しい物を食べたいと思うから料理の腕を上げ、川を渡りたいと思ったから船を造り、空を飛びたいと思ったから飛行機を造ったのだ。その夢は、理想は果てしなく、今や人類は宇宙の果てにまで目を向けている。尤も、当然ながら蓮華はそんな事までは知らないが。
理想を追い求める事、それは決して諦めてはいけない事だと、彼女は思っている。
だが、理想と現実の違いや差を実感している蓮華は、自分が姉や母の様に出来るか不安になっている。
姉、雪蓮は常々言っている。「自分に何かあったら、貴女が孫家を継ぐのよ」と。
聡明な蓮華は、頭では理解している。だがまだ十代半ばの少女である彼女にとって、母も姉も居なくなる時が想像できない。父が居なくなった時はまだ幼かった事もあり、また妹の小蓮が物心つく前だった事もあって、現状認識が追いつかなかったという事実もある。
そんな自分が、万が一の時に孫家を引っ張っていけるのだろうか。その為にはもっと成長しなければ、という焦りが、今の蓮華にはある。
なるほど、確かに雪蓮は蓮華にとって理想と言えるかも知れない。
母・海蓮の武勇をそっくりそのまま受け継いだかの様なその強さは、先ほど蓮華が述べた理想通りである。海蓮には程普こと泉莱を始めとした、いわゆる「孫堅四天王」が居り、雪蓮には四天王という異名がついた者は居ないものの、周瑜を始めとした優秀な武官・文官が数多くいる。
今、蓮華の傍にも同じ様に優秀な者は多いが、先の四天王や周瑜たちと比べたら劣っている、と、少なくとも蓮華は思っている。実際には、その差は経験の差であって実力や将来性は同じくらいかそれ以上なのだが、残念ながら蓮華はまだその事に気づいていなかった。
涼が言った「理想と現実の違い」に、彼女は正面衝突していた。真面目ゆえに柔軟性が無く、誰にも相談してこなかった蓮華は今、ようやくその打破に向けて一歩を踏み出せる可能性に手が届きかけているのだが、果たしてそれに気づくのだろうか。
蓮華は暫し考えた後、疑問をぶつけてみた。
「……涼は、今までどうしてきたの?」
それは、単なる興味からだったのかも知れない。
同年代の、異性の、婚約者がどうやってここまでやってきたのか、気になっただけかも知れない。
それでも、聞いてみたくなった。ひょっとしたらそこから何か得られるかも知れないと思った。孫家の中だけでは自分の悩みは解決出来ないと思ったのかも知れない。
果たして、涼の答えは蓮華の役に立ったかどうか。
「俺は……皆に助けられてばかりだよ。俺がやってきた事なんて、大した事じゃない。」
それは、涼の偽らざる本心だった。
天の御遣いとかいろいろ言われている涼だが、彼自身はそんな大層なものではないと思っているし、何かとてつもない大きな事を成し遂げたとも思っていなかった。
十条侍誅殺の時に二人の皇子を助けた事は間違いなく大層な、とてつもない事なのだが、涼にとってこれは、実質的に敵に止めをさした愛紗による手柄だと認識している。それが世間の認識と大きく違っている事とは理解しているが、涼にとってはそういう事になっていた。
涼にとって、総大将は桃香であって自分ではなく、また、中心人物とも思っていない。中心人物は桃香であり、愛紗であり、鈴々であり、朱里たちであると思っている。涼はあくまで彼女たちをサポートする立場だと思っているのだ。
それでいて自分の「価値」についてはある程度認識しており、だからこそ今回の遠征で孫家の三姉妹と婚約した。使う事は無かったが、華琳との交渉でも、万が一の時はその手を使うという覚悟も一応はあった。
そうした、涼自身がどうすれば良いかという事に対しては、彼も周りも納得する行動をとってきているが、それは全て徐州の為、桃香たちの為であり、涼の私欲の為では無い。
武将の様な武力は無い、軍師の様な頭脳も無い、有るのは「天の御遣い」という肩書きのみという自分自身の立場を理解している涼は、今までそうしてきた。それは多分、これからも変わらないだろう。尤も、周りが涼をどう見るかは別問題である。
「自分に出来る事なんてそう多くないよ。だけど、出来る事は必ず有る。俺はそれをやっていくだけさ。」
「出来る事をやっていくだけ……。」
蓮華は涼の言葉を繰り返した。極々普通の、当たり前の事を涼は言っただけである。
だがそれは、彼女にとっては思ってもみなかった事だった。
蓮華は先程こう言った。
『雪蓮姉様の様に強くなって、人を導く事が出来る様になるのが、私の理想よ』
と。
それは単に理想を述べただけに過ぎない。だが、理想の為に何をすべきかは実際の所解っていなかった。だからこそ今、こうして涼に相談していたのである。
その答えとも言うべき言葉を、いとも簡単に涼は口にした。勿論それはただの偶然に過ぎない。だがそれでも、答えを探し求めていた蓮華にとっては大事な一言であり、何でもない言葉の筈のそれは彼女が探し求めていた答えになろうとしていた。
恐らく、蓮華は母や姉という目標の高さに目眩がしそうな思いであったろう。三姉妹、または三兄弟の真ん中というのは、上にも下にも見られ、その為に中途半端な責任を押し付けられる事もしばしばである。
蓮華はまさにその三姉妹の真ん中であり、妹で、同時に姉であった。
優秀な姉を補佐し、まだ幼さの残る妹を支える。そうした想いが幼少から、恐らくは物心がついてすぐに芽生えていたかも知れない。
その結果、自由な性格の長姉と末妹に挟まれた次女は、真面目にならざるをえなかったのかも知れない。例え涼がそう指摘しても、蓮華は否定するだろうが。
蓮華は真面目な性格だからこそ、どうすれば姉妹を支えられるか、孫家を繁栄させる事が出来るかを常に考えてきた筈だ。だからこそ悩み、涼に相談するまでになったのかも知れない。…………恐らく、雪蓮や小蓮も時々は悩む事はあっただろう、うん、多分。
そうして悩み、考え、迷走した結果、目標は見つかった。だが、そこまでの道筋は見つからずにいた。
勿論、真面目な蓮華はその道筋も探し続けた。
それでも、探して探して、探しても探しても、見つからなかった。
それなのに、今まで見つからなかった道筋が、たった一言で見つかったかも知れないという事実は、蓮華にとって驚くべき事であった。無論、まだそれが正しいかは判らない。だが、五里霧中だった蓮華の心に一筋の光をもたらしたのは間違いなかった。
自分に出来る事を一つ一つやっていけば、いずれは理想に到達するかも知れない。仮に理想とは違っても、理想に近い事は出来るかも知れない。
ならば、彼女が進みべき道は決まった。いや、正しくは方向性が決まったと言うべきだろうか。「理想」を目指しつつ「現実」を直視するという、言葉にするは易く、実現するには難い事を、これから蓮華はやるつもりなのである。
「ありがとう、涼。」
「え? あ、うん、どういたしまして?」
蓮華は素直に礼を述べた。特に大した事を言ったつもりがない涼は、戸惑いつつもその言葉を受け取った。
それから暫くの間、今度はもっと軽めの、所謂雑談をした二人は、 互いに有意義な時間を過ごしたと感じつつそれぞれの寝所へと戻っていった。
その道すがら、蓮華は前を向いたままここに居ない筈の人物の名を口にした。
「思春、居るんでしょ?」
思春とは孫軍の武将の一人であり、「鈴の甘寧」とも呼ばれる甘興覇の真名である。
「はっ。」
どこからともなく、音もなく蓮華の正面に現れたのは正しく甘寧だった。トレードマークでもある黒系のマフラーを巻き、寝巻き姿の蓮華とは違い、常の赤いチャイナ服を身に纏っている。
地面に片膝を着き、頭を垂れている思春に対し、蓮華は穏やかな口調で話しかけた。
「護衛ご苦労様。尤も、ここではその必要は無いと思うのだけど。」
「蓮華様の仰る通りだとは思いますが、万が一、という事もありますので。」
「相変わらずね。」
思春の受け答えに苦笑する蓮華。彼女は自分でも自身を堅物だとか真面目だとか思っているが、今目の前に居る思春も自分に負けず劣らずの堅物、真面目では無いのかと、時々思っている。
だからこそ、蓮華の側近が務まるのかも知れないが。
「いつから居たの?」
「蓮華様が部屋を出られた辺りから、でしょうか。」
「ほとんど最初からじゃないの。」
今度は半ば呆れた蓮華。確かに、今回あてがわれた部屋は蓮華と思春を隣同士にしてある。これは孫軍側からの要望でもあり、それを徐州側が了承したという事であった。
なお、涼が揚州に行った時には徐州側が同様の要望を出しており、その際は涼の隣に鈴々の部屋があてがわれていた。
……そう言えば、一度雪蓮が涼に夜這いをかけていたが、その時鈴々は何をしていたかと言うと、実は夢の中に居たのだった。護衛の意味が全く無いのではなかろうか。
それと比べると、思春の護衛は完璧と言える。少しやり過ぎな気もするが。
「これぐらいやらなければ、護衛とは言えません。」
殊勝な心がけである。どこかのちびっ子にも聞かせたいものだ。
蓮華はまたも苦笑する。自分の様な未熟者をここまで想ってくれる部下がいる事に、彼女は心から感謝をした。
蓮華は再び歩き出した。半歩後ろを思春が続いていく。
「それで、思春から見た涼の評価はどんな感じかしら?」
「それは……。」
主の問いに対する答えに、思春は少し躊躇いを見せた。
涼は一応、蓮華の婚約者である。つまりは、将来思春にとってもう一人の主になるかも知れない相手という事になる。その様な人物に対する評価を、一家臣が易々と言って良いものかどうか迷ったのであろう。
「遠慮しなくて良いわ。私は貴女から忌憚の無い言葉を聞きたいの。」
蓮華がそう言ったので、思春は暫し瞑目してから、忌憚無い意見を述べた。
「基本的には、初めて会った時の印象と変わっておりません。先日の戦闘で清宮の戦いぶりを見たのですが、部隊指揮能力はともかく、戦闘能力や身体能力は兵卒より少しだけ良いという程度。もし、世に聞こえる武将と一騎討ちををすれば、百戦百敗は不可避かと。」
「予想以上に手厳しいわね。」
辛辣な思春の答えに、今宵何度目になるか分からない苦笑をする蓮華。そんな蓮華自身も、涼と初めて会った時は今の思春と同じ様な感想を抱いていた筈だが、小一時間二人だけで話していたからか、今の蓮華はそうは思わなくなっていた。
ちなみに、思春が言った「先日の戦闘」とは、言うまでもなく袁紹軍との戦闘の事である。
あの時は徐州軍、孫策軍、曹操軍の連合軍による攻撃で殆ど一方的な戦闘となり、完勝していた。その際、涼は味方の鼓舞と敵の更なる士気低下を狙い、一部隊を率いて戦った。
もちろん、軍師達の意見を訊いてからの出撃であり、それも可能な限り前線には出ないという約束があっての出撃であった。
またこの時、雪蓮も同じ様に一部隊を率いて出撃したので、味方の士気は否応にも上がり、敵の士気は当然ながら下がっていった。
華琳も二人と同様に出るべきかと思ったが、流石に各軍の総大将が全員最前線に出る訳にもいかず、自重した。また、これを機に二人の能力を改めて確認したいという思惑もあったのはいうまでもない。そしてそれは、徐州軍も孫策軍も同じだという事も。
涼の部隊指揮は無難であり、味方の鼓舞及び救援、敵への追撃はスムーズに行われた。だがその際に、追撃を阻止しようとした勇敢且つ忠誠心溢れる敵部隊と数度切り結んでおり、その戦いぶりはお世辞にも素晴らしいという出来では無かった。
既に何度も述べているが、涼は元々普通の高校生であり、当然ながら戦闘などした事は無い。
そんな彼がこの世界で戦えているのは、愛紗たちに鍛えられているからである。とは言え、その実力は思春が言う様に大したものではない。今まで戦ってきたのはその殆どが黄巾党の様な賊であり、だからこそ何とかなっていたという事情がある。
だが、今回戦ったのは袁紹率いる正規兵達、いわば戦闘のプロである。正規兵との戦闘は十条侍誅殺の時に経験しているが、あの時の正規兵は洛陽でぬくぬくと過ごしていた弱兵達だった。
袁紹軍も然程強くないとはいえ、洛陽の兵達と比べれば遥かに強兵であり、必然的に涼は苦戦する事となった。それでも無事に生きて帰って来られたのは、雪蓮の援護のお陰もあるが、愛紗たちによる調練の賜物であるのはいうまでもない。
揚州に居る蓮華たちは、当然ながらそうした事情を知らない。ある程度は話を聞いているかも知れないが、一軍の将としてあれで良いのかと疑問を持ったり不安をおぼえても仕方がないだろう。
「ですが、本来総大将は最前線に出ぬもの。そう考えるならば、今のままでも充分なのではないかとも思います。」
「そうね。姉様みたいに最前線で戦うのは本来有り得ない事だものね。」
そう言うと、二人は顔を見合わせながら再び苦笑した。
この時代、総大将は後方で指揮をする、もしくは戦況を見守っているのが普通である。約四百年前の楚漢戦争時の楚の総大将、項羽は最前線で戦い、いくつもの首級を挙げているが、それは例外中の例外と言えよう。なお、ライバルであった劉邦は殆ど最前線に出ていない。
「勿論、これから全く成長しないというのであれば問題外です。」
蓮華に対し、恭しく接する思春は先程のフォローを打ち消すかの様な言葉を紡いだ。臣下だからこそ言わなければならないと思ったのかも知れない。
蓮華はこの夜最後の苦笑をしてから、「ありがとう、思春。参考になったわ」と言い、寝所へと戻っていった。