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真・恋姫†無双 ~天命之外史~  作者: 夢月葵
第五部・青州動乱編
23/30

第十八章 青州解放戦・後編

黄巾党の最後の足掻きが続く。


桃香たち徐州軍は、全軍をもってそれに立ち向かう。

風は、どちらに向いているのか。



2016年4月21日更新開始

2016年6月21日最終更新

 時間と場所は戻り、というか進み、青州(せいしゅう)臨淄(りんし)

 臨淄に立てこもる黄巾党(こうきんとう)を討ち滅ぼすべく、劉備(りゅうび)こと桃香(とうか)諸葛亮(しょかつ・りょう)こと朱里(しゅり)関羽(かんう)こと愛紗(あいしゃ)と共に臨淄の街を邁進していた。

 障害となる筈の黄巾党の抵抗は(ほとん)ど無く、無人の荒野を行くかの如く、徐州(じょしゅう)軍は進んでいった。

 だが、この展開に、朱里は戸惑いつつ思案に耽っていた。


(おかしい……いくら何でも、敵の抵抗が無さ過ぎます。私達の勢いに呑まれて、逃げている……!? ううん、そんな楽観的な考えはダメ。だとしたら、これは一体……?)


 朱里は冷静に分析していった。水鏡(すいきょう)こと司馬徽(しば・き)の門下生の中で最も優秀な人物とされ、同級生を中心に“臥龍(がりゅう)”と呼ばれてきた朱里は、ありとあらゆる書物に目を通し、軍略や政治だけでなく天文にも通じている。そんな彼女だからこそ、違和感には敏感であり、些細な事も策に転じる必要がある軍師という役職は天職であると言える。

 彼女は周囲を見渡した。

 敵兵が隠れていそうな建物はいくつも在るが、どれも古く、また壁や屋根に穴が空いてるので、隠れているかどうかは直ぐに分かる。

 敵兵の本陣と思われる場所まではまだ比較的距離があり、そこから敵兵が来たとしても充分に対応できるし、矢が飛んできても盾で防げるだろう。むしろ、騎馬の勢いや弓兵で返り討ちに出来ると判断した。

 一見、見落としは無い。だが、朱里には何か胸騒ぎの様な違和感が、その胸中にずっと去来している。

 と、その時、風向きが変わった。

 それまで徐州軍を押し出すように後ろから吹いていた風が、突然、向かい風に変わったのである。

 だが、それが朱里にとっては幸いした。


「……っ! これは……! 全軍、止まってください‼」


 朱里の急な命令に、桃香を始めとした徐州軍諸将は戸惑うが、何とか急停止に成功する。(もっと)も、何人かは止まれずにぶつかったりしていたが、幸いにも戦闘行動に支障は無かった。


「ど、どうしたの、朱里ちゃん!?」

「桃香様、急いで後退を!」

「だ、だからどうして!?」

「前方から油の匂いがします! これは恐らく、周囲の建物などに染み込ませているものかと。つまりは火計の罠があるという事です! ですから急いでください!!」


 朱里の必死な表情と声が、緊急を表していると桃香は察した。桃香には朱里の様な戦術眼は無い。だが、状況判断能力はその可愛らしい、のんびりとした外見とは違って意外と高い。それは、朱里が司馬徽の(もと)で学んだ様に、桃香も盧植(ろしょく)の許で学んできたからだろう。

 桃香は直ぐに後退を命じた。だが、ここは街の中であり、それだけに一部隊とはいえその数は大軍と言えた。よって後退は容易ではなく、命令が最後尾に伝わって後退を始めるまでの時間は数刻もの長さに感じられた。

 そして、それを見逃す黄巾党ではなかった。

 異変に気付いた朱里が声を上げる。


「桃香様、火矢が飛んできます‼」

「えっ!?」


 慌てて見上げた前方の空から、無数の火矢が徐州軍の周囲に向かって飛んでくるのが見えた。徐州軍そのものに向けても損害を与える事は出来ただろうが、それよりも大きな損害を与える事が出来ると踏んだのだろう。

 それはつまり、朱里の懸念が当たってしまったという事で。

 火矢が前方の建物などに落ちた瞬間、その懸念が現実のものとなったのである。

 桃香たちの前方で瞬時に燃え盛る建物。その炎は周囲の建物へと延焼していき、瞬く間に桃香たちの周りは炎に包まれた。


「きゃあっ‼」

「桃香様! 皆さん、急いで後退を! このままでは……‼」


 朱里はそこで言葉を飲んだ。

 手遅れかも知れないが、これ以上部隊を不安にさせる言葉を出してはいけないと、瞬時に思ったからだ。この部隊は桃香直属の、義勇軍時代からのメンバーを中心に構成された歴戦の勇士達ではあるが、火計の前ではただの人間でしかない。

 朱里が危惧した通り、部隊は混乱した。我先にと逃げようとする者が続出した。現代日本の避難訓練では「慌てずに避難しましょう」とよく言うが、実際に火事に遭ったらそう冷静にはなれないかも知れない。そう考えるとこの行動を非難出来ないのも確かである。


「‼ 桃香様、避けてください‼」

「えっ? きゃあっ‼」


 愛紗の声に反応した桃香は反射的に身を動かし、飛んできた矢をかわした。

 黄巾党はここを好機と見て、動きが鈍い桃香たちに向けて矢を放ってきたのだ。距離があるので通常ならかわすのも防ぐのも簡単だが、混乱している今はそうもいかない。何人もの将兵がその身に矢を受け傷つき、または絶命していく。


「……っ‼」


 桃香は息を飲んだ。既に何度も経験している事ではあるが、やはり目の前で人が死ぬのを見るのは辛い様だ。黄巾党の乱が起きなければ、ただの村娘として生きていたのかも知れない彼女だから、辛いのも当然ではあるが。

 だが、黄巾党にはそんな桃香の事情など関係ない。

 二の矢、三の矢が、桃香たちに向けて放たれていった。このままでは全滅も有り得てしまうだろう。

 だが、桃香は運が良かった。と言って良いだろう。風向きがまた変わったのである。

 向かい風が急激な追い風となり、炎は徐州軍から遠ざかり、矢は突風に煽られて途中で落ちていった。黄巾党の陣から怒りの声があがるが、自然の力にはどうしようもない。

 風は強さを増していく。不思議な事に、徐州軍の諸将にはさほど強く感じないが、黄巾党陣営にはとてつもない向かい風らしく、黄巾党の動きが完全に止まっていた。

 天候の変化はこれだけではない。空も急激に変わっていく。

 それまでは、比較的雲も少なく、青空がどこまでも見えていたが、いつの間にかどんよりとした雲が広がっていた。余りにも黒い、誰もが雨雲だと認識できる雲が、徐州軍、青州黄巾党両軍の頭上に展開していた。

 それは、徐州軍にとっては文字通り天の助けであり、黄巾党にとっては忌むべき存在だった。


「雨です!」


 朱里が空を見上げ、歓喜の表情で叫んだ。

 ぽつぽつ、と降り始めた雨は、あっという間に豪雨へと変わった。現代で言うなればゲリラ豪雨だろうか。その雨量は凄まじく、地面を打つ音が桃香たちの声を遮る程であった。

 それだけの雨が降った事により、桃香たちを呑み込まんとしていた炎は次々に消えていった。いくら油を巻いてあったとはいえ、大量の水の前には炎の勢いも負けるしかなかった様だ。

 そうして炎が鎮火していく様を見ていた桃香たちは、ずぶ濡れになっていく体を気にする事もなく、この雨が目の前の黄巾党を倒す為の僥倖(ぎょうこう)だと考えていた。

 青州黄巾党にとって乾坤一擲(けんこんいってき)の策だったと思われる火計は、この豪雨の前に潰えた。ひょっとしたら他にもまだ策があるのかも知れないが、敵の様子から察するにその心配はない様に思われる。

 ならば、やるべき事は一つである。

 桃香は一瞬だけ表情を暗くした後、両脇に(はべ)る愛紗と朱里に命じた。


「愛紗ちゃん、朱里ちゃん。総攻撃を再開して。」

「はっ!」

「御意です!」


 主君の命を受けた二人は共に部隊を動かした。焼け跡の先の道が二手に分かれていた為、愛紗の部隊は右から、朱里の部隊は左からそれぞれ進んだ。

 黄巾党も黙ってはいなかったが、彼等が矢を射る度に強烈な向かい風が襲い、矢は射程距離の半分も飛ばなかった。逆に、徐州軍が矢を射ると追い風ばかりが吹き、通常より長く飛んでいく。

 その様子を見ながら桃香は指示を出す。この頃には別働隊だった時雨(しぐれ)こと田豫(でんよ)の部隊なども合流し、勝利は目前に迫っていた。

 そんな時、桃香は合流した部隊の面々に、「ここに居る筈がない」者が居る事に気づき、驚きを隠せずにいた。


「ち、地香(ちか)ちゃんに(せい)ちゃんに雛里(ひなり)ちゃん!? どうしてここに!? 徐州はどうしたの!?」


 徐州に居る筈の三人、地香こと劉燕(りゅうえん)、星こと趙雲(ちょううん)、雛里こと鳳統(ほうとう)が青州の自分の目の前に居るのだから、驚くのは無理もなかった。

 そんな桃香の問いに答えたのは星だった。


「我々は救援に来たのです、桃香様。徐州の守りについては、羽稀(うき)殿に任せているのでご安心くだされ。」

「救援って……私、そんな要請してないよ!?」

清宮(きよみや)殿が仰ったのだ。“少しでも多く部隊を出せば、それだけ早く戦いが終わるから、援軍として青州に行ってほしい”、と。まあ、これを見る限りでは確かに救援の必要は無かったでしょうな。」


 星はそう言うと前方で繰り広げられている戦闘に目をやった。

 愛紗率いる部隊が、次々に黄巾党の将兵を斬り伏せていく。敵の本陣らしき建物から敵の増援がわらわらと出てくるが、士気は低い様で、大した抵抗も出来ずに討ち取られるか、降伏している。どうやら大勢は決したと見て良い様だ。


「まあ、戦いが終わるまで油断は出来ませんがな。という訳で、私も行って来ます。」


 星はそう言うと部隊を率いて前へと進んでいく。

 趙雲隊が参戦した事により、青州黄巾党の瓦解は決定的なものとなった。

 趙雲こと星は、徐州軍に入って間もない。その為、歴史を知っている(りょう)や、短期間とは言え共に戦った桃香たちはその実力を知っているが、多くの徐州兵は星の力を疑問視し、侮っていた。登用されて直ぐに部隊を任された事も一因としてあるだろう。

 だが、その後の訓練の厳しさや、愛紗や鈴々との模擬戦で互角の戦いをしてみせた事で、そうした疑念は消え去っていった。その為、この趙雲隊は徐州軍の部隊の中で結成されてからの期間が一番短いのに、練度はそう劣っていない。このまま成長していけば、間違いなく徐州軍の主力となるであろう。

 兵を鼓舞するかの様に先頭を行く星は、愛槍「龍牙(りゅうが)」を手にし、次々に賊を(ほふ)っていく。

 その名の通り、牙の様な真紅の二つの刃を持つその槍は、白を基調とした衣服とは対照的な輝きを持っている。それでいて、星の実力を如何無く発揮する鋭さを持っており、彼女がその槍を振る度に紅い飛沫が飛び散っていった。

 桃香はそれを見ながら、暫し考え、次いで時雨たちにも攻撃を命じた。戦いを終わらせる為の命令である。

 その結果、討死、または降伏する青州黄巾党が増えていった。桃香はそれを見ながら息を呑みつつ、地香を自分の傍に呼び、手拭いを渡しながら小声で話し掛けた。


「地香ちゃん、髪が元の色に戻っているから、これを頭に巻いて。」

「あ、濡れて色が落ちちゃったのね。この雨だから仕方ないけど。」


 素の“地和(ちぃほう)”として会話をしながら、地香は桃香の手拭いを頭に巻いた。

 “地香”としての彼女の髪は茶色であり、ストレートである。水色にサイドテールという、本来の髪型では、万が一の事があるかも知れないという判断により、髪型を変えている。

 だが、この大雨で染めていた髪が元に戻っている。桃香が地香を呼び寄せたのは、その髪を隠す為だった。

 その間も徐州軍の猛攻は続き、残るは、管亥(かんがい)率いる本隊と少しの部隊だけとなった。

 だが、管亥は圧倒的に劣勢なこの状況下で、何故か笑っていた。いや、喜んでいたと言った方が良いかも知れない。


「あれは……間違いない!」


 管亥は何かを確信してそう叫んだ。周りの部下達が怪訝な顔をするが、気にせず一方を凝視している。


(地和ちゃんだ……生きていたんだ!)


 続いた言葉は、心の中で叫んだ。無意識の内に部下を気にしたのかは分からない。

 そう、管亥が見ていたのは、遠くに布陣する徐州軍。その中に居る一人の武将、劉燕。そしてその正体は元黄巾党の首領の一人、張宝(ちょうほう)こと地和である。

 繰り返しになるが、地和は今、涼達の取りなしもあって名を変え、桃香の従妹として徐州軍の一角を担っている。武力は無いが、かつて黄巾党を率いていたからか思ったより部隊指揮を苦にせず、戦闘では主に後方支援や伏兵として活躍している。

 名と姿を変えている為、彼女が張宝だという事は気づかれていない。彼女の正体を知っているのは、涼や桃香といった、地和が仲間になった経緯を知っている者か、朱里や雛里といった、その事を知らされている徐州軍の一部だけである。

 やはり元黄巾党である廖淳(りょうじゅん)こと飛陽(ひよう)ですら、地香が地和だという事に気づいていない。まあ、飛陽は余り地和の傍には居なかったらしいから、それも仕方ないかも知れない。

 だが、かつて張三姉妹の親衛隊をしていた管亥は地香が地和だと気づいた。今の地和は地香と名を変え、髪を染め、髪型を変えていて、服装も前とは全く違う。更には距離が離れているのに、気づいたのだ。

 それは管亥に残った、かつての張三姉妹親衛隊としての想いの為せる技だったのかも知れない。

 だが、管亥が続いて思った事は、親衛隊時代は決して思わなかった事であり、この男が只の賊に成り果てた事を表すものであった。


(これは良い……ここで地和ちゃんを捕まえて、俺の女にしてやる!)


 何とも下卑(げび)た表情と思いだが、これが今の管亥なのである。最早、昔の様にはなれない。恐らく、なる気も無いだろう。

 管亥は部隊に突撃を命じた。敵である徐州軍には勢いがあり、数も多い。その命令は死にに行けという事である。当然ながら反対意見が続出した。

 それに対し管亥は近くに居た者を斬り殺し、地香を指差しながら「旗を見る限り、あそこに居るのは敵の大将に違いない。あの女を捕まえれば、まだ勝機はある!」と言い放った。

 だがそれは、余りにも非現実的な考えとしか言い様がない。

 管亥達の目の前には、関羽隊、諸葛亮隊、趙雲隊の大軍が壁の様に立ちはだかっている。しかも、後続の部隊が援軍として続々と集まってきているのだ。

 桃香達が居るのは目の前の徐州軍の向こう側であり、突破するのは至難の業、というより無理である。兵の数だけならまだ互角だ。数だけなら。

 だが、その大半は既に戦意喪失しており、非戦闘人員も多い。(むし)ろ、非戦闘人員の方が多いのだ。勝敗は決していると言って良い。そんな中での突撃は、無謀でしかないだろう。

 だが、今の管亥にとっては最早、青州黄巾党がどうなろうと関係ない。只、自分の欲望の為に動いている。青州黄巾党が何人死のうが、殺されようが、どうでも良い。

 今の管亥には、地和を自分のものにするという目的しかない。その為には、仲間である筈の黄巾党も単なるコマでしかない。いや、それはもっと前からだったのかも知れない。

 管亥は部下達を睨みながら再び命じる。今度はそれぞれの部隊は大人しく従った。逆らえば殺されるという事実が目の前で起きた事で、彼等の思考を混乱させた為だ。恐怖による思考支配は、冷静さを失わせ、本来なら選択出来る事を選択させないという特徴がある。

 今回の場合なら、部下達は管亥を殺して降伏すれば命は助かったかも知れない。だが、そうした考えに至らなかったのは、恐怖によって支配されたからである。

 かくして、不幸にも部下達は徐州軍への突撃を開始しなければならなくなった。既に数的、士気的等々で不利になった状況での突撃の為、多くの黄巾党の命が無為に散っていった。

 だが、その文字通り必死な突撃により、徐州軍の兵士達の一部が動揺する事になった。

 その動揺した所に、青州黄巾党が襲い掛かり、僅かながら穴が出来た。その穴を広げる様に別の部隊が突撃し、遂には一部隊が通り抜ける事が出来る道が出来た。


「てめえら、よくやった‼」


 管亥はそう言いながら自らの部隊を率いて突撃を仕掛けた。目標は勿論、地和こと張宝が居る徐州軍の本陣である。

 部隊の殆どを黄巾党鎮圧の為の総攻撃に出している為、手薄と言えば手薄だった。また、この豪雨で周りの音がよく聞こえず、ある程度の接近を許してしまったのは、徐州軍にとって不運だった。只、兵数は圧倒的に上回っている。桃香は多少慌てながらも、迎撃を命じた。

 徐州軍は弓矢を構え、向かってくる管亥達に容赦なく放った。

 一人、また一人と、管亥の部隊から脱落者が出ていく。それでも、管亥は止まらない。周りの者達も、そんな管亥に中てられたのか、自棄になっているのかは分からないが、同じ様に止まらない。矢を受けてもそのまま向かってきた者は一人や二人ではなかった。

 その異様な突撃に、徐州軍本隊も動揺を見せた。地香はそれを見て前に出て、兵達を鼓舞する。そのお陰か、多少なりとも動揺は治まった。

 だが、それを見た管亥はますます地香を地和と認識してしまった。


(あの堂々とした指揮……やっぱり間違いねえ!! 生きていたんだ!!)


 大声を上げてその感情を爆発させたい管亥だったが、それは何とか押し留めた。部下達が地和に気付いていない今、わざわざ教える必要は無いと考えていた。もし教えたら、この戦に勝って地和を手に入れても余計な奴等が出てくる、と思ったのだ。

 独占欲が強いらしく、地和を自分だけのものにしたいと考えている。だから、ここで余計な事は言わない。

 管亥がやる事は、このまま地和を捕まえ、この場から逃げる事だけなのだ。その為にはいくら犠牲が出ても構わないと思っている。今や、青州黄巾党の命は、管亥にとって虫や草と同じかそれ以下の存在になっていた。


「どけええっ!!」


 管亥が得物を振るう度、徐州兵の命が消えていく。賊とはいえ、青州黄巾党は精強な兵が多く集まっていた部隊であり、それらを纏めてきた管亥は当然ながら強い。一般兵がやられるのも無理からぬ事だった。

 その結果、地香への道が拓けてしまった。地香の馬捌きでは逃げるのは間に合わない。それを察した地香は桃香に逃げる様に叫ぶ。桃香は地香にも逃げる様言うが、地香は首を振り、腰から得物を抜いた。

 桃香が部下達に連れられていくのを横目で見ながら、地香は自分に迫ってくる男を見据える。当然ながらその顔には覚えがあった。かつて、賊の首領の一人だった頃の彼女の傍に付き従い、親衛隊として活躍していた男なのだから。

 その男が今、地香に向けて得物を振り下ろしている。それを彼女はどんな思いで見ていただろうか。

 鈍い金属音と共に、地香の体に衝撃が走る。

 何とか管亥の剣を受け止める事が出来たものの、その力に思わず落馬しそうになった。

 だが、管亥はそんな体勢の地香に追撃を仕掛けなかった。その事を疑問に思いつつ正面に向き直った。そこで疑問は解けた。


(こいつ……! ちぃを狙ってる!?)


 下卑た表情を浮かべ、得物を構え直す管亥。それを見た瞬間、地香の全身を怖気が走り、汗が噴き出した。尤も、豪雨の為に雨か汗かの見分けはつかないが。

 だが、管亥が地香の命を狙っていないのはほぼ確実だった。地香は武術に秀でた武将ではない。そもそも、本来は武将ですらない。一応武術の訓練はしているが、現代からやってきて、生きる為に武術を学んでいる涼と同じか、それより低いくらいの実力しかない。

 従姉という事になっている桃香ですら、地香よりは武術が上である。人を斬った経験もある。地香はまだ、無い。

 そんな地香が、徐州軍の兵士を何人も斬り殺してやってきた管亥の一撃を防げる筈がない。明らかに手加減していたのだ。ならば、何故?


(ちぃを捕えてこの状況を乗り切ろうとしているのか、と思ったけど、この顔を見る限りじゃ、そんな考えは無さそうね。)


 確かに、現状を何とかしようとする人間は、下卑た表情をしないだろう。


(なら、こいつはちぃを捕まえて……考えたくもないわね。)


 捕まった後の事を想像し、頭の中でブルリと震える地香。恐らくそれが正解なだけに、厄介である。

 どうやってこの状況を乗り切ろうかと考えながら、横目で周りを伺うが、管亥と共に来た青州黄巾党と徐州軍との戦闘が、乱戦の如く展開されており、暫くの間、援護は来ないと考えた方が良さそうと結論付けた。

 後ろに居る筈の桃香達の部隊も、前に居る筈の愛紗達の部隊も、戦闘中だ。図らずも一騎討ちとなった地香と管亥は、そんな乱戦の中で切り離されたかの様に存在している。

 雨の勢いは若干衰えてきたが、それでも雨音は強く、地面にいくつもの水溜まりを作っている。

 そんな中で管亥は、にやあっとしながら話し掛けてきた。


「会えて嬉しいよ、“地和ちゃん”。」

「っ!?」


 管亥の言葉に、少なからず反応する地香。そして、管亥にはそれだけで充分だった。


「やっぱり地和ちゃんだ。覚えてますか、かつて貴女たちの親衛隊の一人だった管亥です。」

「……何の事かしら。人違いよ。私に賊の知り合いは居ないわ。」


 剣を構え直しながら、地香は努めて冷静にそう返した。それが無駄かも知れないと解ってはいたが、言わないといけないとも思っていた。

 管亥はその答えに対して特に反応しなかった。予想通りだったのか、それとも答えは求めていないのか。


 「そうですか。それならそれで構いません。やる事は同じですから。」


 管亥も得物を構え直し、相変わらず下卑た表情を浮かべ、舌なめずりをした。どこかの軍曹が見たら「三流のすることだな」とか言いそうだが、賊である管亥はなるほど三流で合っているのかも知れない。

 それから二人は、数合打ち合った。明らかに力の差があるのに、地香が無傷だったのは、管亥が尚も手加減している事と、地香の得物「靖王伝家(せいおうでんか)(予備)」のお陰である。

 この剣は「予備」とある様に、桃香が持っている「靖王伝家」の予備である。いつ造られたかは分からないが、大きさが一回り小さい事と装飾が少ない事以外は殆ど同じこの剣は、普通の剣よりも頑丈で切れ味が良い。

 その為、多少打ち合っても刃こぼれせず、力の差を若干ながら縮めている。それでも元々の実力差があるので、時間が経つにつれ地香の劣勢は際立ってきた。

 それに気づいている管亥は、戦いながら猫撫で声で話し掛ける。


「地和ちゃ~ん、そろそろ諦めて俺のものになりなよ~。」

「だから人違いですし、そもそも貴方は好みではありません。」


 それは地香の本心だった。

 デカくてごつい管亥よりも、もう少し細くて優しい男の方が好きなのだ。そして今、その想いを秘めている。

 そんな地香の心境を知らない管亥は、彼女の言葉を素直に受け取らず、まるでストーカーの様に都合の良い解釈をした。いや、既にストーカーだったか。

 管亥が手加減しているのは、地和を出来るだけ傷つけずに手に入れたいからであり、そうでなければとっくに斬り殺しているだろう。

 管亥としては、早々に地和に力を示し、それによって屈服させたいという思いがあったのかも知れない。ここが戦場でなければ、もっと別の方法で捕まえようとしただろう。ある意味、地香は幸運であった。

 どれくらい時が経ったか。地香の息はあがっていた。管亥が待ちに待った時である。

 管亥は少し強く得物を振った。地香はそれを剣で受けようとしたが、疲労と力の差により剣は地香の手を離れて空を舞い、やがて地面に刺さった。


「さあ、地和ちゃん。観念しようか~。」


 相変わらずの下卑た表情で近づき、そう声を出す管亥。

 後ずさろうとする地香だが、恐怖と焦りからか馬を上手く操れず、遂にはその首元に得物が突き付けられた。勿論、管亥は斬るつもりはないが、恐怖なのは変わりがない。


「……私は、劉徳然(りゅう・とくぜん)。何度も言うけど人違いよ。」


 それでも地香は、強く言い切った。恐怖で震えながらも何とかそれを隠そうと手に力を入れ、真っ直ぐ管亥を見据えた。それは、管亥が見た事の無い表情であり、僅かだが確信が揺れた時だった。

 その揺らいだ確信を改めてから管亥は決意し、ドスの効いた声で言った。


「ならば、ここで死ね。」


 勿論それは管亥の本心ではなく、只の脅しだった。

 ここまで力の差を見せ、脅しをかければ、いくら何でも屈服するだろうと思った。確かに、普通の女性ならとっくにそうなっていただろう。

 だがこの場合は、管亥にとって大きな誤算が幾つもあった。それは、地香は確かに本当は地和だが、昔の弱い地和ではなかった事であり、また、劉徳然としての強い意志を持っていて、そして、絶対的な決意をもってこの場に来ていたという事である。

 地香は管亥を見据えながら言い切った。


「やってみなさい。私は死んでも、只では死なない。」


 そう言いながら自ら管亥の得物に体を近づける。そのままでは間違いなく体が傷つき、下手をしたら死んでいただろう。管亥が驚いて得物を引っ込めたから、そうはならなかったが。

 そして、その行動が二人の運命を決定づける事になった。

 管亥の後方から、凛とした大きな声が近づいてきたのだ。


「地香様から離れろ、外道!!」


 反射的に振り向いた管亥は、声の主を見て慌ててその場を離れようとした。だが、それより速く声の主は近づき、自身の得物を横薙ぎに振った。

 管亥はそれをとっさに得物で受け止めたが、余りの威力に落馬しかけた。


「大丈夫ですか、地香様!」

「……ふう。ありがとう、愛紗。助かったわ。」


 地香の危機を救ったのは、愛紗こと関羽、字を雲長(うんちょう)という、徐州軍の筆頭武将である。

 愛紗は、自身の得物「青龍偃月刀せいりゅう・えんげつとう」を構え直しながら地香の前に立ち、彼女を守りながら目の前の敵を討とうとしている。その姿は凛々しく、頼もしく、美しかった。


「無茶をなさらないでください、地香様。私が来なければ、どうなさるおつもりだったのです?」

「その時はその時よ。それに、丁度貴女が来るのが見えたからね。時間稼ぎになればと思って動いたのよ。」


 地香の言に愛紗は呆れ、溜息を吐いた。勿論その間も管亥を見据えたままだ。

 その間に周りを見た管亥は、この段階になって、ようやく状況を呑み込めた。既に戦いがほぼ終わっている事を知ったのだ。勿論、勝ったのは徐州・青州連合軍である。

 まだ少し、遠くで戦闘のものと思われる音や声は聞こえるが、大勢は決したと言って良い。青州黄巾党の数はまだ何万も残っているが、それは女子供や老人といった非戦闘員であり、戦いの役には立たない。

 周りを敵兵に囲まれている為、当初の予定だった乱戦の中を逃げるという事も出来ない。そもそも、その時には地和を連れて行く筈だったのに、それも出来そうにない。管亥にとって絶望しかない状況であった。


「地香様、御無事ですか!?」

「飛陽。大丈夫、ちゃんと首は繋がってるわよ。」


 地香の後方からやってきた飛陽こと廖淳は、息をきらせながら近寄ると下馬し、地香の体に傷が無いか確かめていった。幸いにも、大きな怪我は一つも無かった。

 飛陽も大きな怪我は無い様だと、地香はそれとなく彼女を観察した。先程まで命の危険があったとは思えない程、地香の心に余裕が出てきたのだろう。

 そして地香は、視線を前に戻す。

 愛紗は今にも管亥を斬り倒すような気迫を見せており、管亥はというと戦意を喪失しかけている。このまま放っておいても、決着するだろう。


(地和、本当にこのままで良いの?)


 地香は、いや、地和は自身の心の中で自身に問い掛ける。

 このままでは、戦に勝って無事青州を解放出来るが、ここまで来た一番の意味が無くなってしまう。勿論、そうなってしまうのは彼女の本意では無い。

 先程の恐怖を思い出し、だが直ぐに首を振ってそれを振り払い、拳に力を籠めながら、愛紗に声を掛ける。


「愛紗、管亥を足留めしておいて。絶対に逃がしてはダメよ。」

「……このまま私が斬ってはいけませんか。」

「今回だけは、ね。」

「ですが……。」


 チラリと地香を見る愛紗。戦場なので表情には出していないが、声のトーンが少し落ちた事を考えると、彼女なりに地香を心配している様だ。


「大丈夫、そいつを“確実に殺す方法”はちゃんと考えているから。……お願い。」

「……承知しました。」


 愛紗は地香の頼みにそう応えると、偃月刀の刃先を向けて管亥を牽制する動きをとった。逃げようとすれば瞬時にその動きを止め、向かって来ればすぐに応戦出来る様に距離をとりながら。

 それを見た地香は、隣の飛陽を、周りの徐州軍兵士達を見てから再び正面を向いた。地面に刺さったままだった剣を引き抜いてから大きく息を吐き、瞑目(めいもく)する。

 やがて右手の親指と薬指を繋げて輪を作ると、何かを呟き始めた。それは何かの呪文の様だった。


黄昏(たそがれ)よりも深きもの。

血の流れよりも熱きもの。

時の流れに埋れし、尊大なる汝の名において、

我、ここに天に誓わん。

我と汝が力もて、我の望みを叶えんことを!

……急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう!!」


 次の瞬間、地香が手にしていた靖王伝家(予備)の刀身が一瞬だが黄色く輝いた。

 そうした地香の一連の行動を見ていた飛陽は驚き、口を開けたまま彼女を見つめている。やがて、何か言葉を口にしようとしたのだが、険しい表情の地香にそれを制された。


「……後で説明するわ。良いわね?」

「は、はいっ!」


 地香の珍しく有無を言わさない迫力に圧された飛陽は、了解を口にするしか出来なかった。

 地香はそんな飛陽に今度は優しい笑みを向けてから、ゆっくりと馬を進めた。前では、自棄になった管亥が愛紗に向かって斬りかかっていたが、歴戦の勇士である愛紗には掠りもしていない。


「愛紗、もう良いわ。後は私がやるから。」


 地香のその言葉を受けた愛紗は暫しの間返答しなかったが、やがて「分かりました」と応えると、管亥を牽制しながら地香と交代した。

 管亥はというと、この様な絶体絶命の状況であっても、地香が目の前に現れるとまたも下卑た表情を浮かべ始めた。それはまるで、パブロフの犬の様であった。


「嬉しいよ~。やっと俺のモノになる決心がついたんだね?」

「そんな訳ないでしょ。寝言は寝てから言いなさい。」


 管亥の戯れ言を一蹴した地香は、表情を引き締めながら自身の剣の刃先を管亥に向けて言った。


「今降伏するなら、自害する権利を与えます。どうしますか?」


 ちゃんとした武将ならこの提案を飲んで潔く自害をするだろう。だが、黄巾党という賊にそんな潔さがある訳はなく、その首領である管亥の答えは当然ながら否であった。


「そんな事……俺がどうするかなんて決まっているでしょう!!」


 管亥はそう叫びながら地香に斬りかかった。見苦しい、と愛紗が呟く。

 一方の地香は、静かに両手で剣を右に構えると、足で馬に合図を送り、管亥を迎え撃つ。

 両者の距離はみるみる縮まり、やがてほとんど同時に得物を振った。誰もが、得物と得物のぶつかり合いになると思い、そうなると力で劣る地香が不利だと思った。

 愛紗がいつでも加勢に行ける様に、手にしている偃月刀を握る力をいつもより強くしたのも、そうした予測や判断からだった。

 だが、その予測は大きく外れる事になる。

 地香の剣が再び黄色く輝くと、管亥の得物を真っ二つにし、そのままその体をも両断したのである。


「な……に…………っ!?」


 管亥は地面に落ち、そこに自身の腹部から下があるのを見て、自分の体がどうなったかを悟った。だが、何故こうなったのかは当然ながら分からなかった。

 そんな管亥に、地香は管亥に対して振り向かず、真っ直ぐ前に視線を向けたまま応えた。


「今のは、私たち劉家に伝わる必殺剣、“劉覇斬(りゅうはざん)”よ。」


 劉覇斬。そんな必殺技をお持ちだったのか。といった声が、徐州軍諸将から起こった。

 尤も、実際はそんな必殺技は無い。たった今、地香が名づけた出鱈目(でたらめ)な必殺技である。

 とは言え、必殺技の様なものは確かにあり、だからこそ管亥は今にも絶命しそうになっている。では、その必殺技の様なものは一体どうやって出来たのか?

 それは、地香が先程呟いていた呪文の様なものが大きく関係していた。

 地香は元々“張宝”、真名を“地和”という名の娘で、姉と妹と共に旅をし、音楽で生計を立てていた。その最中、とある本を手に入れた。「大平要術(たいへいようじゅつ)」と記されていた。

 その本には色々な事が書かれていたが、特筆すべきは妖術について書かれていた事であった。張三姉妹の歌は素晴らしかったが、流しの歌手である彼女たちの歌を聴く人は少なかった。そこで彼女たちはこの妖術を使って、自分たちが作った音楽を広めていったのである。

 その後、様々な誤解や偶然が重なって、いつの間にか「黄巾党」という集団が出来、それが平和を打ち砕く「賊」に成り果てたのは、彼女達にとって不幸だったと言えるだろう。

 勿論、だからといって地香が完全に許される訳ではない。それを解っているからこそ彼女は名を変え姿を変え、今に至っているのだ。

 地香は今、大平要術を持っていない。妹である張梁(ちょうりょう)が持っていたが、彼女が戦死した後の行方は判っていない。恐らく、張梁の死と共に失われたと考えられる。もうこの世に残ってはいないだろう。

 地香が地和だった頃、大平要術を持っていなくても妖術を扱えていた。そうした才能があったのかも知れない。涼たちが鉄門峡の戦いに挑むまでは、大平要術無しで妖術を使い、官軍を撃退していたほどだ。

 だが、大平要術無しで妖術を使うのは精神的疲労が大きい様で、一度使うと最短で翌日まで、長くて三日は休まなければならなかった。それでも大平要術を妹に預けたのは、姉妹の中で一番頭が良い彼女が持っていた方が一番だと考えたからであり、実際、それは当たっていた。張梁自身も地香ほどではないが妖術を使えたので、やはり適任だったのだろう。

 そんな地香が、この一騎討ちの前に唱えた呪文。それは武器に龍の牙が獲物を噛み砕く様な威力を持たせる妖術だった。威力が凄まじい為、呪文を唱える時間が必要となり、地香はその時間をとる為に愛紗に管亥を任せたのだった。

 管亥は息も絶え絶えになり、出血もおびただしい。間もなく死ぬだろう。

 そんな管亥を見た地香は、剣に付いた血を振り落としながら呟いた。


「貴方が敬愛していた張宝は、恐らく死んでいる。あの世で自分の罪について詫びてきなさい。」


 それを聞いた管亥は、目を大きく開いて地香を見つめた。

 地香がやはり地和だと確信したのだ。何故なら、地香は今、地和の事を「張宝」と呼んだ。今回の一騎討ちでは、管亥は地香の事を地和とは呼んだが、張宝とは呼んでいない。

 張三姉妹は、黄巾党に対して自分たちの事を真名で呼ばせていたので、官軍として黄巾党と戦った現在の徐州軍、つまり当時の劉備軍がその情報を知っていてもおかしくはない。だが、それを確認する術は管亥には無いし、時間も無い。

 だからこそ、管亥は先程の地香の言葉だけで確信したのだ。


「や……やっぱり貴女は、ちぃほ…………。」


 管亥の命はそこで尽きた。何か危険を察した愛紗がその首を断ち斬ったのである。

 愛紗は地香の前に進むと下馬し、跪いて言葉を紡いだ。


「これ以上は、いくら賊とはいえ見ていられませんでした。勝手な振る舞い、お許しください。」

「関将軍の気持ちはよく分かるわ。気にしないで。」


 地香はあくまで「劉燕」として愛紗に振る舞い、愛紗もそれを望んでいた。この辺りの会話は、それなりに長く付き合っているから分かる呼吸の合わせ方だろう。

 首と身体と足の三つに分かれた管亥だが、その死に顔は安らかだった。悪逆非道の限りを尽くした賊の最期の顔としては、限りなく幸せな最期だといえるかも知れない。

 地香は剣を高々と掲げると、かつて歌で鍛えた声を限りに叫んで全軍に報せた。


「青州黄巾党首魁、管亥はこの劉徳然が討ち取った!!」


 その瞬間、徐州軍と青州軍の諸将が雄叫びを上げた。自分達の勝利を祝ったのだ。

 対して、あくまで抵抗を続けていた青州黄巾党は、自分達の首領が死んだと知ると皆落胆し、その場に座り込み、武器を捨てた。青州黄巾党の中では圧倒的な実力を持っていた管亥が戦死した事は、彼等の気力を削ぐのに充分だったのだ。

 そうした残党に対して、桃香は降伏したなら殺さないように、と厳命した。それを諸将はきちんと守り、多くの青州黄巾党残党は捕縛された。

 一部は、あくまで抵抗したりしたが、そうした相手には容赦なく愛紗や星によって地面へと倒れていった。

 そうして、管亥の死から一刻も経たずに、青州黄巾党は全面降伏し、臨淄は青州の民のもとへと戻った。無論、人的・物的被害は甚大であり、復興には長い時間が掛かると思われる。

 それでも、長い間、黄巾党によって支配されてきた青州が解放されたのは事実であり、人々はそれを喜んだ。涙を流している者も、数多く居た。

 桃香たちはその様子を遠目に見ながら、自分達がやってきた事を誇った。

 犠牲が無かった訳ではない。お金も沢山使った。誰もが疲れている。

 それでも、この光景を見れば自分達の行いが正しかったと思えた。そう思わなくては、やっていけないという理由もあるが、それはこの際考えないようにしたかった。


「涼義兄さんも、上手くやっているよね。」


 桃香がぽつりと呟く。それに応えたのは愛紗だった。


「義兄上は天の御遣いです。しくじる事などありません。」


 うん、と頷く桃香。涼は確かにここでは「天の御遣(みつか)い」として活躍しており、徐州を始めとした各地の人々から慕われている。

 だが、元の世界では普通の高校生であり、軍事や政治に関しては素人である。それは多少良くなった現在でも同じであり、難しい所は雪里(しぇり)などに任せている。

 それでも、仕事を完全に投げたりはしないので、諸将から慕われている。一応現代の高校生だったので、その経験を生かせる場合もあるのだ。あくまでそれなりに、だが。

 そんな人物が自分達の「義兄」である事を桃香たちは誇りに思っている。だからこそ、こうして自分達の役目を無事に終わらせる事が出来てホッとしているのだ。

 それは、管亥を討った地香も同じであった。


「桃……香、ゴメン、しばらくの間、お願いね…………。」

 力無く呟いた地香は、そのまま倒れ込んだ。間一髪のところで飛陽が支えたので怪我はなかったが、地香の顔を見た飛陽は慌てふためいた。地香の顔色が一目で判る程悪かったのだ。


「と、桃香様! 地香様が! 地香様があっ!!」

「お、落ち着いて飛陽ちゃん! だ、だ、大丈夫だから!!」


 そう言う桃香も落ち着くべきである。


「お二人とも落ち着いてください! 椿(つばき)、地香様を連れて本陣まで下がってくれ。星、お前には二人の護衛を頼む。」

「ふむ、任された。」


 慌てふためく義姉であり総大将の代わりに、愛紗がテキパキと指示を出していく。お陰で、徐州軍は総大将の従妹が倒れたという緊急事態においても、大きな混乱を出す事なく部隊を集結させ、戦闘を終わらせる事が出来た。

 それから数日間、徐州軍は臨淄に滞在し、捕縛している黄巾党の扱いや戦後復興について青州側と話し合い、紆余曲折を得て徐州軍の目的はほぼ全て達成された。

 その、唯一と言っていい青州側が難色を示した事は、やはり捕縛している黄巾党の処遇についてだった。

 青州側としては、多くの人を傷つけ、苦しめた黄巾党は皆殺しにしてもし足りない程、憎んでいた。今も憎んでいる。

 だから、本当は捕縛した黄巾党を今すぐ皆殺しにしたいと思っている。ここ臨淄の住民も、少なからず犠牲になっている。その遺族の事を考えれば、皆殺しにするのは当然の流れであり、この時代の賊に対する考え方としてはおかしくないのである。

 だが、青州側は今回の解放戦において「助けられた」側である。強くは言えない立場であった。その為、徐州側の要求である“青州黄巾党を徐州で工事などに駆り立て、重労働の刑に処する”という事に納得出来ないまま、受け入れてしまったのだった。

 既に袁紹が触れていたが、この処遇はこの世界、時代では甘く、考えられない事である。賊は罪人である。しかも沢山の人を殺している重罪人である。普通は法に則って死罪や百叩きなどの刑に処し、生き残った者には、その顔や腕に罪人の証である黥を入れるのが当たり前なのである。

 徐州側も、そうした常識は持ち合わせており、また、青州側も気持ちも解るので、青州黄巾党の幹部クラスの者は青州側の好きにして良いという事にした。

 それでも、何十万もの黄巾党が生きたままというのは、度し難い事である。だが、それは口に出来ない。


玄徳(げんとく)殿のその厚意、いつの日か仇で返されるかもしれませんぞ』


 孔融(こうゆう)がそう言うのが精一杯であった。

 徐州側に出来る事が全て終わり、後は青州の仕事だけになったのを確認してから、徐州軍は帰還する事にした。

 その前夜、徐州軍の宿所のとある部屋で、二人の少女が話し合っていた。劉燕こと地香と、その部下である廖淳こと飛陽である。

 地香はまだ体調がすぐれないのか寝台に横たわっており、その傍らの椅子に飛陽が座っている。


「……つまり、地香様は本当は、鉄門峡の戦いで生死不明になったはずの地和様だと、言う事、ですか……?」

「まあ、そうなるわね。」


 地香から自身の正体についての説明を受けた飛陽は、暫し呆然としていた。

 嬉しくない訳ではない。かつて主君として仰ぎ見た三人の内の一人が生きていたという事実は、元黄巾党の一員である飛陽にとって感涙すべき慶事である。

 だが、それは同時に、傍に仕えていながら今まで気づかなかった飛陽自身の迂闊さを示す事であり、飛陽は自身を恥じた。恩人がすぐ傍に居たのに気づかなかったのだから、そうした彼女の感情は解らなくもない。

 尤も、そうした感情は時間が経つにつれて自然と冷静さへと変わっていき、やがて素直に事態を受け止め、涙を流しながら地香の手を取った。


「地和ちゃんだろうと地香様だろうと、貴女が生きていらした事だけで充分に嬉しいです! これで……これでまた、恩返しが出来ます。」

「そう言えば、初めて会った時も似た事を言っていたわね。」


 そう言って、地香は飛陽と初めて会った時の事を思い出す。

 徐州の街を警邏(けいら)している時、後を()けてくる不審な人物。それが飛陽であり、附けていた理由は、地香がどことなく地和ちゃんに似ていたから、だった。

 思えば、その時に飛陽を仲間にした事で、いつかはこんな日が来るのは決まっていたのかも知れない。


「それにしても地和ちゃ……いえ、地香様は先日の戦以来体調がすぐれない様ですが、大丈夫なのですか?」

「平気平気。久々に妖術を沢山使ったから、体が悲鳴を上げただけよ。明日の出立には影響無いから、心配しないで。」

「妖術……管亥を倒した一撃の時の光は、やはり妖術だったのですね。」

「そ。あとは、大雨を降らせて火を消したり、風を操って矢を防いだり。まあ、ここら辺は鉄門峡でもやってた事だけどね。」


 そう言って昔を懐かしむ様に視線を彷徨わせる地香。黄巾党を率いていたというのは、決して褒められた過去では無いが、当時の地香こと地和もまた、今の地香を形作る大事な一欠片なのである。

 飛陽は、あの戦いの最中の地香の行動を思い出していた。

 桃香たちと合流する前、地香は部隊を指揮しながら何かを呟いていた。恐らくそれが妖術の呪文詠唱だったのだろうと思いながら、目の前の地香を見つめる。

 飛陽は妖術について詳しくない。だが、地和が妖術を使えるという事は、当時の黄巾党なら誰でも知っている当たり前の事だった。

 ひょっとしたら、張三姉妹が管亥の様な好戦的な男達から身を守れたのは、彼女を守る親衛隊の存在だけで無く、男達が地和の妖術を警戒していたからかも知れない。尤も、それを知る事はもう永久に無い。


「……地香様、私決めました!」

「決めたって、何を?」


 急に何かを決意した表情になった飛陽を、地香はポカンとしながら見つめ、訊ねる。

 飛陽は一呼吸してから、その決意の内容を言葉にした。


「地香様が名を変えた様に、私も名を変えたいと思います!」

「え、ええっ!?」


 それは、地香にとって全く予想外の言葉だった。

 慌てた地香は軽々しく名前を変えるものじゃないと(なだ)めたが、飛陽の決意は固いらしく、結局翻意させる事は出来なかった。

 諦めた地香は、仕方なく飛陽に訊ねる。


「……それで、何て名前にするの?」

「はい! 廖淳の“淳”を、変化の意味を込めて“化”に変えて、“廖化”にしようと思ってます。」

「りょうか、ね……うん、良いんじゃない?」

「あ、ありがとうございます!」


 地香が飛陽の新しい名前を褒めると、飛陽は感涙し、頭を下げた。

 廖化。三国志に於いては中盤から後半にかけて、演義に於いては初期から後半にかけて登場する武将である。

 主に関羽の許で活躍し、その関羽の危機の際には単身救援を求めて走り、劉備が蜀漢(しょくかん)軍を率いると従軍し、諸葛亮が蜀漢の実質的後継者になってからは、五虎将(ごこしょう)が居なくなった蜀漢における軍事の一角を担う活躍を見せた。

 なお、元黄巾党という経歴は演義にのみ記されており、史実に於いてはどうなのかは判っていない。

 飛陽は、その廖化と同じ名前にした。史実に於ける廖化がいつ改名したかは、おおよその時期しか判っていないが、それと比べても飛陽はだいぶ早く改名した事になる。

 二人はその後、暫しの間歓談した。

 黄巾党の事が主な話題だったが、そこに悲壮感は無かった。二人とも、過去を乗り越えたのだ。特に地香はその為に青州まで来たのだから。

 そんな元黄巾党の二人の会話は、同時に欠伸が出て互いに顔を見合わせて笑うまで、長く続いた。

 翌日、徐州軍全軍は青州を発った。

 青州の人々は皆、自分達を救ってくれた徐州軍に感謝しており、帰還の途につく彼等に声を掛けてそれを伝えていく。

 将兵達もそれに応えて手を振ったりし、自分達のやってきた事に誇りを持った。

 賊が相手とはいえ、連戦を生き延びた彼等は間違いなく成長しており、これからの徐州軍を支えていくだろう。

 そんな徐州軍の総大将、劉備こと桃香は馬上で民衆に向かって手を振りながら、隣を進む地香に声を掛ける。


「地香ちゃん、お疲れ様。」

「それは桃香達の方でしょ。私は最後にちょっと参戦しただけだし。」


 そう言って照れる地香。そんな彼女に対し、桃香は首を振りながら言葉を続けた。


「その最後の活躍が無かったら、私は死んでいたかも知れない。ううん、私だけでなく、愛紗ちゃんや朱里ちゃん、そして大勢の兵士さん達も……。皆を助けたのは、間違いなく地香ちゃんだよ、ありがとう。」

「わ、分かったから。」


 更に照れる地香の顔は真っ赤である。

 その様子を微笑ましく思いながら桃香は馬を寄せ、今度は小さな声で地香に話し掛ける。


「隠していた妖術まで使って助けてくれた事……本当にありがとう。それと、ゴメンね。」

「……! ……別に良いわよ。あの場合はああするしか無かったし、気にしないで。」

「うん、分かった。」


 桃香はそう言うと、少し先に馬を進め、再び民衆の声援に応えていく。

 そんな桃香の後ろ姿を見ながら地香は思った。


(やっぱり、どことなくお姉ちゃんに似てるな……。)


 今は亡き姉、張角(ちょうかく)こと天宝(てんほう)を思い出す地香。

 確かに、髪が長かったり、どこか抜けてたり、胸が大きかったりと共通点は多い。姉妹想いな所も似ているだろう。

 顔はそんなに似ていない。ちょっと怠け癖は似ているが、天宝ほどではない。

 それでも桃香に姉を感じてしまうのは、実の姉妹がこの世に居ないという寂しさを埋める為か。それとも、偽の従姉妹を演じている内に、本当の血縁者の様に感じてきたのか。

 地香にはどちらが正しいか分からない。また、分からなくて良いと思っている。


(何にせよ、桃香は今の私には大切な従姉だしね。)


 地香はそう思いながら口元を緩めると、桃香の隣に移動した。


「どうしたの?」

「どうもしないよ、桃香姉さん。」


 桃香は地香の応えに暫し驚くも、「そっか♪」と言って笑みを浮かべた。地香も同じく微笑んでいる。

 桃香達の青州遠征は、こうして幕を閉じたのだった。

「第十八章 青州解放戦・後編」、お読みいただき、ありがとうございます。


青州編の締めとなる後編、2ヶ月かけて何とか終わりました。まあ、この後青州編のエピローグを書くんですが。


今回は、黄巾党を倒す事で地香(地和)を成長させる、という内容にする予定でしたので、何とか上手く出来てれば良いなと思います。

何故最初から従軍してないのか、と訊かれたら、本文にもある様に徐州を守って欲しいからです。その後で結局徐州を陳珪(羽稀)に任せてますが、この時は揚州から一時的に涼が帰ってますし、その後の遠征も比較的近いし、同盟が成立して敵が来る危険性も少なくなったので任せる事が可能になったのです。


地香が唱えた呪文は、スレイヤーズのドラグスレイブが元ネタです。

尤も、このネタはアニメ版のネタを取り入れたので、自分の考えではありません。

ただ、このネタを使うと決めた事で、地香が管亥を倒す方法が出来ました。アニメ版様、ありがとうございます。


飛陽(廖淳)の改名ネタは当初入れる予定はありませんでした。

ただ、地香が過去を振り切ったのだから、同じ元黄巾党の飛陽も何かないかと思い、廖化になってもらいました。

まあ、今しないと当分ないですからね。


さて、次回は先程も書いた通り、青州編のエピローグです。

どういった話にするかはまだ決めてませんが、次のシリーズに繋がる内容になる筈です。

最初の数千字は早めに投稿するので、皆さんどうか今暫く、かつ気長にお待ちください。


では、次回またお会いしましょう。

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