第十四章 江東の虎達
戦いとは武器を振るうだけではない。時にはその舌や態度でもって戦う事もある。
この時の清宮涼の戦いは後者であった。
だがこれは、決して油断出来ない戦いなのである。
2011年7月13日更新開始。
2013年9月25日最終更新。
桃香達が北で活躍している頃、涼は南で活躍していた。
涼が最初に目指したのは揚州の建業だった。
本当は先に、青州と隣接している兗州の陳留へ行きたかったが、陳留へ行ってから建業へ行き、それから下丕に戻るのは移動や時間の大幅なロスになる。
時間が掛かれば、それだけ状況が悪化するかも知れないのだから、そうしたロスは可能な限り避けたい。
その為、先ずは南下して孫堅や孫策――雪蓮との会談を成功させるべきと判断した。
建業へは、泗水に沿って南東に進み、泗水と淮水の合流地点である広陵郡淮陰から州境の高郵を通り、揚州へと入った。
そこから広陵に入り、江水を渡って武進に進んだ。ここ迄で一週間を要している。
翌日、その武進から西に在る建業へ向かっていた所、とある一団と遭遇した。
その一団は商人でもなければ賊でもない、軍旗を掲げた正規の軍勢だった。
その軍勢の先頭の旗は「甘」と「凌」、少し遅れて「黄」の旗が有った。
突然現れた軍勢に、驚き戸惑う徐州軍。
だが、軍師である簡雍――雫は冷静だった。
「清宮様、どうします?」
「俺達は戦いに来たんじゃない。けど念の為、油断しない様に皆に伝えて。」
「解りました。」
雫はそう言って一礼すると、後ろで待機している兵士達に涼の指示を伝えに行った。
その間、涼は前方一里(約四百メートル)で止まった一団に目をやった。
(“甘”に“凌”に“黄”か……。凌がどっちの武将の旗かは判らないけど、あとの二つは多分あの武将の旗だろうな。)
次いで、やっぱり女なんだろうな、と付け加えながら思案に耽る涼。
そうしている内に、その一団から三人の女性が馬から降りて近付いてきた。
それを見た涼も馬から降り、彼女達を待つ。
同じ様に降りて涼の隣に居る鈴々は自然と身構えるが、涼に制されると僅かに蛇矛を下げた。
それでも、万一に備えて蛇矛を握る力は緩めなかった。
やがて、涼達との距離が十メートルになった所で女性達は足を止め、次いで三人の中で一番年長者らしい褐色の肌の女性が声を発した。
「儂の名は黄蓋、右に居るのが甘寧、左に居るのが凌統。我等は孫堅様の名代として貴殿等を迎えに参った。貴殿が徐州軍の清宮殿で相違ないか?」
「え、ええ。清宮涼は自分です。それと、左の子は張飛、後ろの二人は右が簡雍、左が孫乾です。」
黄蓋と名乗った女性の声に、涼は若干怯んだ。
別に黄蓋は涼を睨んだりしていない。寧ろ、穏やかな表情を向けているといって良い。
それなのに涼の背筋には今、汗が流れている。
(流石は孫呉の宿将、黄蓋の名を持つだけはあるな……愛紗や星が訓練の時に見せるのと同じ……いや、それ以上の気迫だ……っ!)
涼は内心ヒヤリとしながら気持ちを立て直し、黄蓋を見返す。
黄蓋の髪は薄紫色で、頭の後ろで結い上げてそのまま腰迄伸ばしている。
細い濃紺の瞳は穏やかであり、鋭くもある。
小豆色のチャイナドレスみたいな服により、肩や太股は大胆に露出している。胸元が空いているので、谷間も見える。
その胸は、男なら誰もが凝視してしまうであろうと簡単に予想出来る程豊かな胸。豊か過ぎる気もする。少し垂れ気味なのは歳の所為か。
背中には大きな弓矢を背負っており、それが黄蓋の武器の様だ。
その証拠に、腕には弓使いが使う弓篭手と呼ばれる長手袋を身に付けている。
太股には薄桃色のガーターベルトらしきものが有り、同じ色のニーソックスみたいな物と繋がっている。
靴は濃い小豆色の短いブーツっぽい靴で、全体的に同系色を中心とした服装は色合いのバランスがとれている様に見えた。
と、涼が黄蓋を一通り観察し終えると、今度はその黄蓋が涼を見ながら口を開いた。
「ふむ……策殿からは白い服か青い服を着ている黒髪の少年、と聞いておったが、今日は青……浅葱色の服であったか。」
そう言った黄蓋は涼をじっくりと見据えている。
確かに、今の涼はこの世界に来た時の服、つまりコートを着ていない。
今の服装は、浅葱色の羽織りにジーンズといった格好だ。
「袖の模様が策殿の服の袖の模様と似ているのは、策殿を意識しての事かの?」
「いえ、特にそんなつもりは無いです。単にこの服が俺の国で有名な服ってだけですよ。」
確かに、涼が今着ている服は涼の国、つまり日本で有名な服だ。
袖と裾に白い山形の模様、俗に言うダンダラ模様を染め抜いた浅葱色の羽織。
それは、日本の幕末に名を馳せた剣客集団、「新撰組」の羽織と同じデザインだ。
鉄門峡の戦いの後、涼は返り血が付いたコートの代わりに、青を基調とした羽織を羽織っていた。
この羽織はその時の羽織を見た涼が、折角だから作ってみようと思い、後に徐州の町の仕立屋に依頼して作った物だ。
因みに、これとは別に背に「誠」の一文字を白く大きく染め抜いた羽織もある。
一応言っておくと、孫策――雪蓮の袖の模様はダンダラ模様ではなく、薄桃色の花びらである。
「ふむ、まあ良い。……確認するが、貴殿の目的は堅殿との会談じゃな?」
「はい、孫文台さんと有意義な話をしに来ました。」
「有意義とな? それは貴殿等にとってか?」
「俺達は勿論ですが、そちらにとっても有意義な話になる筈ですよ。」
涼が笑みを浮かべながらそう断言すると、黄蓋はその涼の顔を暫く間見つめ、やがてフッと笑った。
「有意義かどうかを決めるのは堅殿じゃ。貴殿が堅殿を納得させる事が出来るかどうか、楽しみじゃな。」
「自分もです。」
涼がそう言うと、黄蓋はまたも笑い、その表情のまま背を向けた。
「では、儂等の後についてきてまいれ。建業迄御案内しよう。」
「解りました。」
それから、黄蓋と涼はそれぞれの部隊に命令を出し、行軍を再開した。
案内は護衛も兼ねているらしく、黄蓋達の部隊は涼達を囲む様に展開した。
旗で位置を表すと、先程と違って「黄」の部隊が先頭になり、その後ろに「清宮」を中心とした徐州軍。
その右から後ろにかけて「凌」、左から後ろにかけて「甘」の部隊がそれぞれ進んでいる。
完全に包囲されているので、徐州軍の兵士達は常に緊張しているが、時々涼達が声を掛けていったので、何とか緊張の糸が切れずに済んだ。
やがて、陽が高く昇った頃に一行は建業に到着した。
建業は下丕や彭城とは比べ物にならない程大きく堅固な城壁に囲まれており、その城門には「孫」の牙門旗が威風堂々と掲げられている。
城門を潜ると、二人の少女が涼の前に現れ、平伏しながら口を開いた。
「お待ちしていました、御遣い様っ。」
「孫堅様より話は聞いております。これより先は私、蒋欽と、」
「周泰が御案内致しますっ。」
地面に着くかと思う程長い黒髪の元気溌剌な少女――周泰と、肩迄満たない程短い栗色の髪の少女――蒋欽の二人によって、涼達はこの建業で一番大きな屋敷に案内されていく。
その様子を黄蓋、甘寧、凌統の三人は表面上は穏やかに見守っている。
やがて、涼達が視界から遠く離れるのを確認すると、黄蓋が二人に向かって話し掛けた。
「お主等、あの孺子をどう思う?」
「……ハッキリ言って、噂の様な人物には見えません。」
「ちっ……興覇と同意見なのは癪ですが、自分もそう思います。少なくとも、武力は無いかと。」
「お主等もそう思ったか。……じゃがの、堅殿と策殿があの者をお認めになられているのも事実じゃ。何も仰られておらぬが、恐らく権殿も同じじゃろう。」
「蓮華様も、ですか……。」
「冥琳様と泉莱様はなんと?」
「二人も似た様なもんじゃ。冥琳の場合は、『出来れば敵に回したくない』とも言っておったの。」
「なんと……“孫軍の柱石”と呼ばれる周公謹殿が仰られるのなら、それなりの人物なのでしょう。」
「ちっ……遺憾ながら、自分も興覇と同意見です。」
またも舌打ちしながら答える凌統に黄蓋は呆れつつ、二人に注意する。
「……お主等、いい加減仲良うせんか。」
「そう仰られましても……。」
「興覇と仲良く等、一生無理です!」
「……だそうです。」
「ハア……。」
とりつく島もない凌統の頑なな態度を前に、黄蓋は深々と溜め息を吐く。
だが、それ以上は何も言わない。凌統が甘寧を嫌っている理由を知っているからだ。
とは言え、いつまでもこのままで良いと思っている訳でも無い。
時間はかかるだろうが、いつかは和解してもらわなければならない。
「ふう……。」
黄蓋はもう一度溜め息を吐き、内と外の問題に頭を悩ませた。
黄蓋がそんな風に悩んでいる頃、涼達は孫家の屋敷に到着していた。
余り装飾が無い朱色の門を潜ると、そこから広大な庭と、それを包み込む様に存在している堂々とした屋敷が一同の目に入ってきた。
「清宮様とお付きの方々はこちらへどうぞ。」
屋敷に見とれていた涼達を、蒋欽と名乗った少女の声が現実へと引き戻す。
蒋欽の要請に従い、涼達は孫堅に面会する組と部隊を指揮する組に分かれた。
詳しく説明すると、面会組は涼、鈴々、霧雨の三人。指揮組は残った雫一人で、彼女が兵達を指定の場所に連れて行く事になった。
涼達は、周泰と名乗った少女に案内されて孫堅との面会に向かった。
涼達は、先程声をかけてきた蒋欽が案内するものとてっきり思っていたが、その蒋欽は周泰に涼達の案内を任せると雫と軽く自己紹介を交わし、そのまま雫と共に涼達とは逆方向へ歩いていった。
「ささっ、皆さんこちらへどうぞ。」
笑顔の周泰が涼達に声をかけて会見場へと先導すると、涼達はほぼ一列になって彼女の後に付いて行った。
その道中、涼の後ろを歩く霧雨が、周泰を注視しながら涼に囁く様に告げる。
「……清宮様、お気をつけ下さい。」
「……えっ?」
突然の事に驚きながらも、霧雨が声を潜めているのに合わせて涼も声を小さくして応えた。
「どうやら孫堅殿は、この機会に私達の戦力を調べたい様です。」
「それはまあ、覚悟してたけど……何故そう思ったの?」
「簡単な事ですよ。蒋欽殿が私達の案内ではなく、兵士達の移動の手伝いに行ったのが理由です。」
「と、言うと?」
「兵士の移動という雑務は、そこらの兵士に任せれば済む事です。それなのに、蒋欽殿は自らその雑務に向かった。それはつまり……。」
「自分の眼で徐州軍の力量を確かめる為、か。」
「恐らく。」
そこ迄話すと、二人は静かに前を向きながら考え込む様に口を閉じた。
蒋欽――三国志を知る涼はその名をよく知っており、今の彼は蒋欽について自身が知る限りの事を思い浮かべていた。
蒋欽、字は公奕。周泰伝によれば共に孫策に仕え、数々の反乱を鎮圧し功績を残している。
演義では何故か周泰と共に水賊をしていた事になっていたり、劉備・孫夫人追跡に参加していたりする。
(確か蒋欽って、孫権に諭されて呂蒙と共に勉学に励んだ結果、賛嘆されたんだっけ。もしこっちの蒋欽も同じなら、確かに油断ならないな……。)
涼はそう思いながら歩き続けた。
だからだろうか、前を行く周泰が僅かに涼達を見た事に気付かなかった。
屋敷内の廊下を歩く涼達は、左側に中庭を望みながら進んでいた。
その最中、中庭を挟んだ反対側の一室に見知った顔を見つけた。
いや、正確には見知った顔を見かけた気がしたというのが正しいだろう。
何故そんなに曖昧な表現かと言えば、その人物が「有り得ない」姿と仕草をしていたからに他ならない。
常の服装である、露出過多な深紅のチャイナドレスっぽい服ではなく、足下迄すっぽり隠れるロングスカートタイプのドレスっぽい服装。色は薄紅色。
スカートの前面部分には深紅の花柄が刺繍されており、その柄は常の服装のと似ている。
服とは離れている袖部分や、僅かに見える足には薄絹を纏っており、どこか物静かで神秘的な装いにも見える。
だが一番の違いは、髪や首、手首や足首に瞳と同じ紺色の装飾品を身に付けている事だろう。
彼女とて女性であり、装飾品の一つや二つ、身に付けていなかった訳では無いが、今の彼女は些か装飾過多と思える程、沢山身に付けていた。
「しぇれ……ん?」
なので、涼の呟きが疑問系になるのも仕方ないのである。
その呟きは涼が思っていたより声量が大きかったらしく、前後を歩く周泰や霧雨達が足を止めて涼に注目し、更には反対側の部屋に居る雪蓮らしき女性もが涼に気付いた。
その女性は涼を視界に捉えると僅かに口を開き、利き腕を上げかけたが、結局は微笑を浮かべながら会釈をするに止まった。
そうした一連の行動は、涼が知る雪蓮とは明らかに違う。雪蓮は明るくて行動的で、いつも涼や周瑜達と楽しげに過ごしていた。
少なくとも涼は、今みたいにお淑やかな仕草の雪蓮を見た事が無い。それだけに、雪蓮らしき女性はやっぱり他人の空似かと思ってしまう。
とは言え、そのそっくりさは他人の空似で片付けられるレベルでは無いのは明らかで、雪蓮に一卵性双生児の姉妹でも居ない限り、今、涼が見ている女性は十中八九、雪蓮本人に間違いなかった。
「海蓮様と雪蓮様は今、大事な会談中なのです。」
雪蓮らしき女性を見ながらそう言ったのは周泰であり、お陰で、漸く雪蓮らしき女性が雪蓮本人だと確定した。
「会談……? 差し支えなければ、会談相手を教えてもらえるかな?」
涼の問いに周泰はやや表情を険しくしながら、静かに答える。
「……山越の使者です。」
先程会ってから今迄、殆ど笑顔しか見せていなかった周泰が渋面を見せる。それがどんな意味を持つのか、「山越」に関する知識を持ち合わせている涼にはよく解った。
山越とは、後漢から唐の時代にかけて史書に登場する中国南東部の少数民族の事だ。
正確には、単独の民族の名前ではなく、幾つかの少数民族の総称を山越と呼ぶ。
その一部は春秋戦国時代(紀元前770年〜紀元前221年。周が洛邑に遷都してから秦による統一迄。)に会稽付近に存在した越国の末裔と言われている。
山越は三国時代、地理的関係上、主に呉と争っており、山越対策は呉にとって重要課題だった。
因みに、「呉越同舟」という言葉の「越」は越国を指しており、「呉」も春秋戦国時代の呉を指している。
三国時代の呉と山越は、その時代からの対立を引き摺っている訳だ。
尤も、この言葉の本来の意味は「深く対立する者達も、共通の危機の際には遺恨を忘れて協力する筈」という事なのだが。
少なくとも、周泰の表情を見る限りは山越との関係は上手くいっていない様だ。
「成程。差し詰め、この会談はお互い暫く戦わないって事を取り決める為のものかな?」
「……その通りです。」
涼の問いに短く答えると、前を向いて再び歩き出す周泰。涼達はそれについて行き、話は歩きながらする事になった。
「誤解の無い様に予め申し上げておきますが、山越如きに私達孫軍が後れをとる事はありません。ですが……。」
「今、山越との戦いが起きたら袁術辺りに狙われるかも知れない、かな?」
「は、はい……。」
周泰の言葉を繋ぐ様に涼が話すと、周泰は多少驚きながらも冷静に話し続けた。
「十常侍誅殺以降、彼等に気を遣わなくて済む様になった袁術が、この地を狙っているらしいという情報を得ています。ですが、未だに袁術が行動に出ないのは、孫堅様や孫策様がしっかりと守り、袁術に睨みをきかせているからなのです。」
「だろうね。」
数々の武勇を誇る「江東の虎」と「江東の麒麟児」を相手に戦うのは、可能な限り避けたいだろう。
例えそれが、沢山の将兵を有する名門袁家の一つ、袁術であってもそれは変わらない。
将兵の総数では袁術に分があるが、孫堅、孫策とまともに戦えば損害は小さくない。
損害を少なくし、成果を多くしなければ、戦をする意味が無いのだから、袁術が今戦わないのは賢明な判断だろう。
尤も、その判断が袁術自身によるものなのかは疑わしいが。
ここで、現在の孫軍、袁術軍、そして山越に関して説明しよう。
孫軍の領土は豫州全域と揚州の北中部、厳密に言えば南昌、南城、建安のライン迄。そこから南は袁術の領土の一部になっている。
その袁術は、前述の部分と荊州全域を自らの領土としている。
単純に領土の広さで比べれば豫州と揚州の大半を持つ孫軍が有利だが、袁術は名門の出という事もあって沢山の人材を抱えており、また、それ等を維持し増やす為の財力を持っているので、人口は袁術の領土の方が多い。
最後に山越の領土だが、揚州の東から東南にかけて、つまりは永寧や羅陽辺りが該当する。
領土としては三勢力の中で一番小さく、周りは孫軍の領土の為、一見すると大した事が無い相手に見える。
だが、彼等の領土の殆どは険しい山々であり、いざ戦うと地の利を活かされて大苦戦になる事が多い。
大軍を擁し、時間をかければ討伐は可能だろうが、袁術という憂いがある以上、孫軍は今動く事が出来ないのである。
(その為の会談か……何だかうちと似ているな。)
涼はそう思いながら歩を進めていき、奥の一室へと通された。
それから、半刻(約一時間)以上の時が過ぎた。
涼と霧雨は、その部屋に置いてあった本を読んだり窓からの景色を見たりして静かに待っていたが、鈴々は退屈そうに手足をブラブラと動かしていた。
因みにその間、周泰は出入り口の前にジッと立って三人の様子を眺めていた。
涼達から話し掛けられればきちんと応えるが、彼女の方から話し掛ける事は一度も無かった。
「お待たせしました。準備が出来ましたので御案内致します。」
孫家の侍女が涼達を呼びに来たのは、そんな時だった。
侍女に案内された先は、先程、雪蓮達が山越の使者と会談していた部屋だった。
そしてその部屋では、雪蓮、孫堅、孫権、程普、周瑜の五人が二つの長椅子にそれぞれ座って待っていた。
「久し振りね、涼。」
雪蓮は笑顔のまま椅子から立ち上がると、開口一番にそう言った。山越の使者との応接時に見せていた作り笑顔とは違う、涼が知るいつもの雪蓮の笑顔だ。
「久し振り、雪蓮。孫堅さん達もお元気そうで何よりです。」
「私もまだまだ娘達に負けていられぬからな。それより、私の事は“お義母さん”と呼んでくれて構わないわよ。」
「そ、それはまた今度という事で……。」
「照れなくても良いのに。ねえ、雪蓮?」
「ねえ。」
そう言いながら笑顔で顔を見合わせる孫堅と雪蓮。どうあっても涼を婿入りさせたい様だ。
(まあ、それも視野には入れてるけどね……。)
涼は頭の中でそう呟くと、孫堅に促されながら空いている長椅子へと腰掛け、自己紹介をした。
長椅子は三つ在り、入り口から見ると正方形の木製の台を中心にして、カタカナの「コ」を左へ90度傾けた形に配置されている。
左側の長椅子には右から霧雨、涼、鈴々が。真ん中の長椅子には右から周瑜、程普が。右側の長椅子には右から雪蓮、孫堅、孫権がそれぞれ座っている。
因みに、周泰は座らずに雪蓮達の後ろに立っている。
暫くすると、雫と蒋欽がやってきてそれぞれの主の許へ行ってから、改めて自己紹介をした。
その直後、今度は黄蓋と甘寧と凌統、そして見知らぬ三人の女性が入ってきた。
「遅かったわね、祭。」
「済まぬ堅殿。こ奴等を探すのにちと手間取っての。」
「祭」と呼ばれた黄蓋が、後ろに居並ぶ甘寧達をチラリと見る。
黄蓋の直ぐ後ろに居る二人は黄蓋と歳が近い様に見えるが、一番後ろに居る残りの一人は、甘寧や凌統と同じ十代の少女の様だ。
涼が彼女達を注意深く見つめていると、黄蓋がそれに気付いたらしく、涼に対して彼女達を紹介していった。
「こ奴等の名前は後ろの二人が右から韓当と祖茂、その後ろの甘寧と凌統の間に居る胸の大きい娘は陸遜じゃ。」
余りにもサラッと言ったので、涼は驚くのに時間がかかった。
(韓当に祖茂に陸遜だって!?)
涼が驚くのも無理はない。
韓当と祖茂と言えば、黄蓋、程普と共に孫堅四天王と言われる程の武将である。
世界が違うとはいえ、同じ名前を持つ四人が目の前に居るのだ。驚かない方がおかしいだろう。
また、陸遜もやはり孫軍の名将としてその名を歴史に刻んでいる。尤も、登場し活躍した時代は孫堅の時代ではなく孫権の時代になるのだが。
(まあ、諸葛亮や鳳統が十常侍誅殺後に登場する世界だし、少しくらいズレてもおかしくないか。)
涼はそう思いながら心を落ち着かせた。三国志の武将の殆どが女性になっているこの世界が一番おかしいのだが、最早それには違和感を感じなくなっている様だ。
簡単な自己紹介の後、黄蓋は程普の隣の空いていた席に座り、韓当と祖茂はその後ろに立った。
それと同じ様に、甘寧達は雪蓮達の後ろに立った。
「未だ来てない者も居るけど、待つ時間が惜しいから始めましょうか。」
孫堅がそう言って会談が始まった。
とは言え、涼達にしてみればこの状況での会談はやり難い事この上ない。
何せ、目の前に居る会談の相手は仲間を十人以上連れており、更にはその殆どが武官という構成だ。
これが涼達に対する威圧なのは、涼は勿論ながら鈴々ですら解った。尤も、鈴々は何故孫堅達が威圧しているのか迄は解らなかった様だが。
そんな周りの様子を見ながら、涼が小さく呟いた。
「予想していたとはいえ、やっぱりこちらにプレッシャーをかけてきたなあ。」
「ぷれっしゃあ?」
隣に座る霧雨が、聞き慣れぬ言葉に興味を持った。
「えっと……心理的圧迫とでも言えば良いのかな?」
「成程。まあ、会談を自分達に有利に進める為には、こうした手を使って相手に“ぷれっしゃあ”をかけてくるのは当然でしょう。」
霧雨は早速、覚えたばかりの新しい言葉を使いながら、冷静に状況を分析していった。
「兎に角、この雰囲気に呑まれない様にお気をつけ下さい。何しろこの会談の結果によって、徐州全体は勿論、清宮様御自身にも大きな影響を与える事になるのですから。」
その言葉を聞いた涼は無意識の内に唾を飲み込んだ。
徐州で雪里達と打ち合わせをした時に、今回の会談がどれだけ重要なのかは散々言い含められていたし、理解もしていた。
だが、実際にその場に来て、いざ会談となると心臓の鼓動が速くなる。緊張しているのだ。
仕方の無い事とは言え、涼は自分自身が情けなくなった。
そうして一通り自己嫌悪してから、軽く深呼吸をし、真っ直ぐに相手を見据えながら口を開く。
「俺達がここに来た理由は先触れから御存知かと思いますが、改めて申し上げます。」
普段は使わない堅苦しい口調で話す涼。
「俺達徐州軍は青州からの要請を受け、黄巾党の残党を倒すべく十万を超す部隊を青州に派兵しました。」
「……! 十万……。」
涼が発した「十万」という兵数に思わず声を詰まらせる孫権。
だが、雪蓮や孫堅は孫権程の反応は見せず、他の武将達の反応もまたそれぞれに違っていた。
そんな様子を見ながら話を続ける涼。
「これだけの大軍を派兵をしたのは、黄巾党の乱を再び引き起こしてはならないからです。その為、討伐軍は桃香……劉玄徳自らがその指揮を執り、関雲長を始めとした主力部隊で構成しています。」
「へえ〜、あの子が自らねえ。ちょっと意外かも。」
「そうかしら? あの子は意外としっかりしてるわよ。」
涼の説明を聞いた雪蓮と孫堅のこの様な会話があると、
「ふむ、討伐軍には関羽殿が居るのか。ふっ……黄巾党に同情してあげるべきかも知れぬな。」
「お主が前に話しておった武人じゃな。それ程の強者なのか?」
という程普と黄蓋の会話が続いた。
雪蓮、孫堅、程普の三人は黄巾党の乱の最中に涼達と共闘しており、桃香や愛紗の人柄や実力については孫軍で一番詳しい。
厳密に言えば、孫権と周瑜の二人も十常侍誅殺の時に涼達と共闘しており、それなりには知っている。
だが、雪蓮達が数ヶ月一緒に居たのに対し、二人は一日くらいしか一緒に居なかった。
その為、雪蓮達と孫権達とでは桃香達に対する認識に差があるのである。
桃香達と長く過ごした雪蓮と孫堅の意見が違うのは、経験の差によるものだろう。
その後暫くの間、黄蓋達自領残留組が雪蓮達共闘組の話を聞いていたが、やがて結論が出たらしく、涼に話を続ける様促した。
涼は続けた。
「相手の青州黄巾党は万を超す大軍ですが、所詮は賊。徐州軍が負ける筈がありません。」
自信たっぷりな涼の言葉に周瑜が反応し、
「ほう、大層な自信だな。」
と言うと涼は、
「みんな、鍛えてますから。」
と、体を鍛えて仮面のヒーローになった青年の様に爽やかに答える。
勿論、直ぐに表情を引き締めて言葉を紡ぎ直す。
「問題は、十万という大軍を動かす以上、空き巣が徐州に来る危険性が出て来るという事です。その危険性を無くす、もしくは少なくする為に……。」
「私達と同盟を結びたい、という訳なのよね。」
話の先を言った雪蓮の言葉に、涼は頷いて答えた。
それから暫くの間、黄蓋達の間でざわめきを伴った意見交換が交わされていった。
それも仕方無いだろう。涼が言っている事は、彼等、つまり徐州にとって都合が良い話でしかない。
『徐州が何の憂いも無く戦える様に、協力してほしい』
涼の言葉を要約すれば、こうなる。勿論、協力自体は孫軍としても異存は無いだろう。
徐州軍が出撃した大義名分は「青州黄巾党の討伐」であり、先年に起きた黄巾党の乱が、どれだけの被害と混乱を招いたか考えれば、協力しない方がおかしいと言える。
だが、協力した場合の見返りが何なのか、それが未だ提示されていない。
孫軍が袁術や山越と対立関係にある事は既に触れた。
その為、孫軍は協力したいが簡単には出来ないというジレンマを抱えている。
そんな孫軍の内情を予め知っていたのか、霧雨が懐から一枚の書簡を取り出す。
「これを御覧下さい。」
そう言って霧雨が差し出したその書簡を周瑜が手に取り、孫堅の許可を得て読み出した。
すると、見る見るうちに周瑜の表情が驚きに変わっていく。
何事かと思った孫堅と雪蓮がその書簡を読むと、二人もまた同じ様に表情を変えていった。
書簡の内容を要約して箇条書きにすると、
『有事の際(正確には青州遠征時の有事に限定)の兵糧、金子の六割は徐州が負担する』
『その際に孫軍領が外敵の侵攻を受けた場合、徐州は可能な限りの援軍を送る』
『青州遠征後も、徐州と孫軍との同盟関係を続け、共に平和の為に行動する』
という内容になる。
兵糧・金子の件はもとより、援軍や同盟維持等、大いに孫軍に配慮した内容に孫堅を始めとした孫軍諸将は安堵し、感心していった。
だがそれでも、一部の将は不満げな表情をしており、孫堅・雪蓮の両名も内容に満足しながら、あと一声という表情をしていた。
その「あと一声」が何なのかは、涼は勿論解っている。
この世界で涼だけが使えるカード、切り札、アドバンテージ。涼がそれを使う事を二人は望んでいる。
だが涼は迷っていた。このカードをきれば、間違いなく同盟は結ばれるだろう。だが、それだけに安売りして良いのか判断に苦しんでいる。
そして何より、涼自身の気持ちが定まっていなかった。
こんな重大な事を打算で決めて良いのか。大切なのは心じゃないのか。
心さえ有れば、最悪の展開にはならないんじゃないか。例えばそう、以前交際していた彼女との関係みたいに。
そうして煩悶した末、涼は決断した。それが個人的に正しい判断かは兎も角、少なくとも徐州を運営する一人としては正しい判断だと信じて。
「……そこには書いてありませんが、数年以内に雪蓮との結婚を考えています。」
涼がそう言うと、孫堅と雪蓮は満足した用に笑みを浮かべ、諸将はざわめき、孫権は急な展開に驚き顔を赤らめた。
ざわめきが止まぬ中、孫堅は笑みを浮かべたまま訊ねる。
「……雪蓮と結婚したいと言ってくれるのは嬉しいけど、何故直ぐに結婚しないのかしら?」
「言わなくても解っているのではありませんか?」
「と言うと?」
「御存知の通り、俺は徐州を治めている劉玄徳の補佐をしており、その劉玄徳の義兄でもあります。ですから、ここに婿入りする事は出来ません。」
「残念だけど、そうなるわね。」
「となると、残りは雪蓮がこちらに嫁入りするしかない訳ですが、そちらの事情を考えればそれもまた難しい筈。」
「……続けて。」
一旦話をきった涼に対し、孫堅は話の先を促す。
「これは自分の想像ですが、孫堅さんは雪蓮を後継者にするべく、様々な事を教えてきたと思います。今思えば、苑城での一件もそうではないかと。」
「よく覚えているわね。確かにその通りよ。何せあの頃の雪蓮は、只血の気の多い娘でしかなかったから。」
「母様も涼も、そんな昔の事を蒸し返さないでよ。」
過去の自分の事を言われた雪蓮は、顔を赤らめながら二人に文句を言った。
涼が言う苑城での一件とは、以前触れた黄巾党討伐時の事である。
当時、桃香等と共に義勇軍を率いていた涼は曹操軍、董卓軍、盧植軍と共に黄巾党討伐にあたっていた。
だが、盧植が讒訴により討伐の任を解かれ、曹操が増兵の為に連合から離れた後、入れ替わる様にして孫堅軍が加わった。
涼は連合軍結成当時から総大将を務めており、孫堅軍が合流してもその任は変わらなかった。
雪蓮はそれが我慢ならなかった。大して強くもない人物が、「天の御遣い」というだけで総大将になり、自分達に命令する。そんな馬鹿な事があって良いのか、と。
その為、反発して軍議を乱したり、果ては涼に真剣で斬りかかったりと、当時の雪蓮は孫堅が言う様に「血の気の多い娘」でしかなかった。
そんな雪蓮に対して孫堅は、彼女が軍議を乱しても直ぐには咎めず、ある程度時が経ってから行動に移した。また、涼に斬りかかった際も止めようとはせず、只傍観していた。
そうした一連の行動を見ると、孫堅は涼という人物を雪蓮を使って見極めようとしていた節がある。
自分の娘である雪蓮より若い少年が総大将を務める事に、孫堅自身も若干の不満があっただろうという事は想像に難くない。
そこで、未だ血気盛んな愛娘の雪蓮を通して涼を観察し、あわよくば雪蓮の精神面も一緒に鍛えてみたかったのではないか。
と涼は推察し、先の質問に至った。
果たして推察通りの答えが返ってきた事に涼は満足し、孫堅もまた、改めてこの「婿殿」を気に入ったのだった。
一方、昔の恥ずかしい話を蒸し返された雪蓮は不機嫌そうにしている。
「母様もあの時不満だったのなら、何故そう言わなかったのよー。」
「当時の連合は既に劉備・清宮、董卓、盧植の三軍の結束が固かったのよ。外様の私達がわざわざ文句を言って対立しても、得する物は何も無いわ。」
孫堅がそう言うと、雪蓮は不満げながらも納得せざるを得なかった。
それから話は戻る。
互いに婿入り、嫁入りが出来ない以上、取り敢えず婚約だけしておくという事で話は進み、双方の軍師・文官を交えて同盟の最終確認をしていく。
そうした一連の作業が終わり、同盟締結の一文を誓紙に記そうとした時、作業中は殆ど話さなかった雪蓮が口を開いた。
「婚約の件なんだけど……。」
そう言った雪蓮を、涼や孫堅を始めとした室内のメンバー全員が見つめる。
その殆どが、雪蓮が婚約について早くも不安になった、所謂マリッジブルーになったのかと思ったのである。
だが、そんな一同の予想は真っ向から覆された。
「私だけじゃなく、蓮華やシャオも候補者にしといてくれない?」
そう言った雪蓮の表情は満面の笑みだった。
それとは対照的に涼達は驚き固まっていたが。
前段落で「涼達は驚き固まっていた」と書いたが、それは正確ではない。孫軍諸将も驚いていたし、恐らく一番驚いていたのは、突然名前を挙げられた蓮華こと孫権だろう。
それを裏付けるかの様に、孫権は顔を真っ赤にしながら立ち上がり、雪蓮に向かって抗議の声をあげ始めた。
「ね、姉様っ! 同盟締結という大事な席で、何をふざけているのですかっ!!」
「ふざけてなんかいないわよ。寧ろ本気。」
「尚更悪いです!」
感情的になって話す孫権と、明るく軽めに返す雪蓮。
姉のそうした態度に孫権は過剰に反応し、更に感情的になっていく。
只の姉妹喧嘩ならこれもまた一つの姉妹の光景だが、今この場はそんな事をして良い場所と雰囲気ではない事を、孫権は口論していく内に失念してしまった様だ。
そんな口論が暫く続いた後、
「伯符、仲謀。じゃれ合いはそこ迄にしなさい。」
孫堅が静かに、だが威圧する様に力強く言葉を発した。
瞬間、雪蓮と孫権は表情を強ばらせ、声の主である孫堅に目を向ける。
孫堅は、自分の左右に居る二人の娘を一瞥しただけで特に何もしない。
だがそれでも威圧だけはしているらしく、二人は勿論、孫軍諸将も皆気圧されていた。
味方である孫軍諸将でさえ威圧されてるのだから、当然ながら涼達も威圧されている。
涼は愛紗達との鍛錬で気圧されない様にしている為、未だ耐えられるが、少しでも気を抜けば忽ち耐えられなくなってしまうだろう。
一方、文官である雫と霧雨は既に耐えられそうではなくなっている。霧雨は多少なりとも武の心得が有るとは言え、愛紗達みたいな耐性は無い。
鈴々は武官である為、三人と比べれば平然と耐えている様に見える。
だが、よく見ればそんな鈴々の額や頬にうっすらと汗が浮かび、流れている。
表情も笑みを浮かべながらどこか強ばっており、それに気付いた涼は「燕人張飛」と呼ばれる鈴々ですらそうなのかと思い、安心と恐怖が同時にやって来るのを感じていた。
そんな驚異の威圧は唐突に終わった。
瞬間、両軍諸将がまるで計ったかの様に同時に息を吐く。呼吸が荒くなっている者だけでなく、冷や汗を流している者も何人か居る。孫権に至っては若干顔色が悪くなっている様に見えた。
「雪蓮、貴女の考えをきちんと説明しなさい。そうしなければ蓮華は勿論、清宮殿達や皆が納得しないわ。」
孫堅は声音と表情を戻し、温和な笑み迄浮かべながらそう言った。
雪蓮は孫堅に何か言いたそうにしたが結局何も言わず、周りを見てから涼に向き直り、自分の考えを口にした。
「私は、孫家の後継者としてこの母、孫文台に厳しく育てられたわ。そりゃあもう、子供の頃から戦場に連れて行かれるくらい、厳しくね。」
そう言ってジト目を孫堅に向ける雪蓮。だが孫堅は全く意に介さず、静かに話を聞いている。
雪蓮は続ける。
「そのお陰か知らないけど、私は生まれ育ったこの孫家を愛している。母様や妹達は勿論、亡くなった父様も、祭や冥琳を始めとした将兵を含めた“孫家”を大切に思っているわ。」
雪蓮のその言葉に、孫軍諸将は皆少なからず感動した。
直接名前を挙げられた祭――黄蓋と冥琳――周瑜は特に感動してても良いが、見た目からはそう感じない。
だが勿論、二人は心の中で深く感動しており、感謝していた。
「その孫家の為に、私は今の提案、つまりは涼と私の婚約を、涼と孫家三姉妹との婚約に変更したいの。」
「ですから、何故そうなるのですか。」
実の姉にジトっとした目を向ける孫権。だが雪蓮は微笑みながら対応する。
「だからそれを今から説明するってば。せっかちな女は嫌われるわよ、蓮華。」
それがまるでからかう様な言い方だったので、孫権は思わず立ち上がって雪蓮と向き合う。
が、孫堅が無言で窘めると、忽ち孫権はシュンとなって座り直した。
一方の雪蓮は、何事も無かったかの様に話を進めた。
「私が涼の妻になって同盟を結べば、徐州と揚州、そして清宮家と孫家が共に繁栄する可能性は高いわ。けど、同盟の条件が私が涼の妻になる、というだけでは孫家の為にはならない。……蓮華、何故だか解る?」
「それが解らないから訊いたのです。」
「ふふっ、そうだったわね。その理由はね……。」
雪蓮はそこで一旦言葉を切ると、それ迄の軽めの表情から瞬時に引き締め、声も若干低くして答えを告げる。
「私が、いつ死ぬか分からないからよ。」
その瞬間、室内の空気は重く張り詰めていった。
孫権に至っては狼狽し、常の真面目で堅いその表情が一際固くなっている。
「ね、姉様、何を縁起でもない事を言っているのですか!?」
「だって、人間なんていつ死ぬか分からないじゃない。父様の事忘れたの?」
「そ、それは……。」
雪蓮の言葉に孫権は何も言い返せず、諸将もまた同じだった。
雪蓮達の父であり孫堅の夫は既に他界している。
当然ながら、涼は雪蓮達の父親について、詳しくは知らない。黄巾党征伐時に連合で一緒だった時に少し聞いた話だと、「戦死した」という事だった。
名前も聞いたが、涼は知らない名前だった。この世界では殆どの武将の性別が逆転している為、この世界の孫堅の夫は、涼の世界の孫堅の妻が該当すると考えられる。
だが、古代中国の女性の名前は余り現代に伝わっていない。「○夫人」や「○皇后」として伝わっているものが殆どであり、孫堅の妻も「呉夫人」としてしか伝わっていない。
因みに涼が聞いた雪蓮達の父親の名は呉○ではなく、孫○という名前だったが、詳しく覚えていない。
現代に伝わる名前なら諸葛亮の妻の「黄月英」や、劉備の妻の「孫尚香」等が居るじゃないかという意見もあるが、これ等の名前は史書には無く、京劇等で付けられた名前という場合が多い。
三国志の時代で言えば、馬超を撃退した女傑「王異」や、数奇な運命の才女「蔡文姫」等が、きちんと名前が伝わっている少ない例と言えるだろう。
「そう言えば、雪蓮は以前似た事を言ってたね。“私達が生き残っていれば、孫家の血は絶えない”って。これもそれと同じ考えって事だよね?」
「十常侍を討つ前の話ね。よく覚えてるわね。」
雪蓮が感心した様に涼を見ると、椅子に座り直して再び話しだした。
「涼の推測通りよ。私は自分なりに考えて、孫家にとってこれが一番良いと判断したの。」
「だ、だからと言って、私やシャオに何の相談も無く決められては困りますっ!」
「あら、二人に相談したらシャオは兎も角、貴女は反対したでしょ?」
「それは……っ!」
反論しようとして、言い淀む孫権。雪蓮の考えには「私」の孫権としては反対だが、「公」の孫権としては賛成するしかない。
そうした事から、「公私」で相反する答えに悩む。彼女も姉と同じく孫家の将来を第一に考えているのだから、それもまた当然の事だろう。
「まあ、そんなに深く考え込まなくて良いわよ。あくまで私に何かあった場合、なんだから。」
「それはそうですが……。」
「勿論、貴女が涼に惚れたり、涼が私達三姉妹を全員嫁にしたいって言ったらその限りじゃ無いけどね♪」
「なっ!?」
またもや雪蓮がからかう様に言うと、孫権は呆気にとられ、次いで涼を睨んだ。この原因が涼にあるからだろう。
その涼は孫権の迫力に思わず怯み、苦笑するのであった。
取り敢えず涼は、三姉妹を一度に妻にするつもりは無いと説明する事で、孫権の怒りを鎮める事に成功した。
因みに、涼に万が一の事があった場合は同盟がどうなるか聞いてみると、同盟の条件が無くなるので同盟関係は無くなるとの事だった。
(元々死ぬつもりは無いけど、尚更死ねなくなったなあ。)
と、涼は緊張した表情をしながらも、その頭の中は緊張感がないのか、のんびりとしていた。
それから両者は、改めて誓紙に同盟についての文言を書き記した。
涼と孫堅、双方の総大将が内容を確認し、更に文官にも確認させてからそれぞれが印璽をしっかりと押す。
こうして徐州と揚州の同盟、ひいては清宮家と孫家の縁談は纏まった。
と、そこに一人の少女が、
「ごっめーん、遅くなっちゃったー。」
という、場にそぐわない一際明るい声を出しながらやってきた。
皆の視線がその少女に集まる。が、少女はその視線の矢を受けても平然としている。
只一人、
「尚香、客人の前でその態度は何? 私の顔に泥を塗りたいのかしら?」
「う、ううんっ! ご、ごめんなさいっ!」
孫堅の鋭い視線と言葉には、この明るい少女も勝てなかった様だ。
来た時とは打って変わってしおらしくなった少女だったが、この場に居る唯一の男性である涼を見つけると、瞬時に先程迄の明るさを取り戻した。
そうなると行動は早い。
涼の側に近付き、声をかける。その行動を後ろに居る孫権が注意するが、残念ながらその声は彼女の耳に届いていない様だ。
「あなたが徐州牧の清宮涼さん?」
「確かに俺は清宮涼だけど、徐州牧じゃなくてその補佐だよ。徐州牧は劉玄徳だ。」
「そうなの? けど前に雪蓮お姉ちゃんに訊いた時は、あなたが州牧だって言ってたよ。」
「……雪蓮?」
少女の話を聞いた涼がその視線を雪蓮に向けると、雪蓮は苦笑で応えた。
それを見た涼はやれやれと小さく嘆息する。
そんな二人を見ながら、少女が誰にともなく声をかける。
「それで、会談は終わったの?」
それに応えたのは周瑜だった。
「ええ。徐州との同盟は無事結ばれ、雪蓮と清宮殿との婚約も正式に決まりました。」
「そっかあ♪ ……あ、じゃあ、お姉ちゃんはお嫁に行っちゃうの?」
すると今度は雪蓮本人がそれに応える。
「直ぐって訳じゃないけどね。貴女や蓮華に色々教えないといけないし。それに……。」
「それに?」
「この婚約には、私だけじゃなく蓮華や貴女も含まれているのよ。」
「えっ?」
雪蓮の発した言葉に少女は驚き、次いで周りを見た。
頷く者、目を逸らす者、苦笑する者と反応は様々だが、それ等は全て、雪蓮の言葉に嘘が無いという証だった。
「つまり、シャ……私も清宮様と結婚するって事?」
「そうよ。まあ、今直ぐって訳じゃないから安心しなさい。」
「う、うん。」
雪蓮に確認し、間違いがないと確信した少女は僅かに頬を朱に染め、涼の姿をチラリと見る。
口調が変わったのは、結婚するかも知れない相手に対して、失礼にならない様にと思ったからだろうか。
その後、少女は雪蓮に促されて涼に自己紹介をした。
「改めましてこんにちは、清宮様。私は孫文台が三女にして末子、姓名は孫貞、字は尚香、真名は小蓮。シャオとお呼び下さい。」
「御丁寧に有難う、シャオ。俺は徐州牧補佐の清宮涼。字や真名は無いから、好きに呼んで良いよ。けど、“様”ってのは何か固っ苦しいから、出来れば普通に呼んで欲しいな。」
涼も改めて自己紹介をし、その際にもっと軽めに、要はフレンドリーに接して欲しいという事を目の前の少女――シャオにお願いした。
シャオは直ぐにその申し出を受けようとしたが、何かを思い出したのか一度伺う様に孫堅を見た。
その孫堅が頷いたのを見てから、シャオは涼の申し出を受け、常の表情と口調へと戻る。
「じゃあ、改めてヨロシクね、涼♪」
「ああ、宜しく、シャオ。」
シャオと涼は改めて挨拶をし、笑顔を見せる。
その様子を見た孫権が、何故か驚いたり不機嫌だったりしていたが何故だろうか。
それからは雑談となり、最近あった事や、互いの州の事を話し合ったりしていった。
そんな中、孫堅が一つの提案をした。
「婿殿が今日から正式に婿殿になったのですから、私は真名を預けようと思います。祭達も良いわね?」
「堅殿、それは儂等の真名もこの孺子に預けよ、という事ですかな?」
「そうよ。……嫌かしら?」
「いえ。儂もこの孺子が気に入りました。これだけの人数を前にして、平然としているのですからな。」
「平然となんてしていませんよ。これでも緊張してますから。」
涼の世界では「孫呉の宿将」と伝わる黄蓋が、涼を見据えながら孫堅に答える。
黄蓋は普通に答えたが、「真名を預けよ」という命令はひょっとしたらこの世界で一番強い命令かも知れない。
何せ、勝手に呼ばれたら殺しても良いと言うのが真名である。
それを他人に預けろというのは、取りようによっては屈辱を受けろと言っている様なものだろう。
だが、黄蓋はそれをあっさりと受け入れた。勿論、黄蓋自身が納得していたというのもあるだろうが、それでも自分で預けるのと他人に促されるのでは気持ちの上で大きく違うだろう。
そうした事を考えると黄蓋の器の大きさがよく解るし、無茶な命令をさらりと命じられる孫堅も凄いと言える。
「そうは見えんがの。……まあよい、では儂から預けるとしよう。儂の名は黄蓋、字は公覆、真名は祭。宜しく頼むぞ、清宮。」
「はい、こちらこそ宜しくお願いします。」
黄蓋から真名を預けられた涼はそう答え、自分の呼び方は好きな様に呼んでほしいと続けた。
黄蓋こと祭の番が終わると、次はその隣に居る程普が涼に向き直った。涼に近い順番に進むのだろうか。
程普は常の冷静な表情のまま、静かに口を開いた。
「私の名は程普、字は徳謀、真名は泉莱。改めて宜しくお願いします、総大将。」
表情だけでなく、口調迄もが常と変わらない程普こと泉莱だった。
涼も改めて自己紹介をし、次に備えた。
順番で言えば次は周瑜であり、その通りになった。
「次は私だな。私の名は周瑜、字は公瑾、真名は冥琳。改めて雪蓮共々宜しく頼む。」
「こちらこそ宜しく、冥琳。」
二人はそう言って会釈し、少しの雑談を交わした。二人は十常侍誅殺の時に会ったのが最初であり、今回はそれ以来の再会となるので互いにそれ程知っている仲という訳では無いが、“共通の話題”がある為か意外と話が合っていた。
その際に、何故か雪蓮がむくれていたり、いじけたりしたが、些細な事なのか二人共スルーしていた。
そうして雪蓮が不貞腐れたまま、尚も雑談は続いた。
周瑜――冥琳は、愛紗の様に艶のある黒髪を長く伸ばしている。
その長さは腰より下迄伸びており、先端で桃色の細い布を巻いて纏めている。
服装は赤紫色のドレスの様な服で、肩や胸元や腹部が大胆に露出しており、目のやり場に困る。尤も、ここ揚州は緯度で言えば日本の九州と余り変わらず、比較的温暖な気候の土地である為、薄着の人が多いのは仕方ないのだろう。
黒い長手袋とストッキング、そして靴は白いハイヒール。全体的に寒色のコーディネートは彼女の褐色の肌によく似合っている。
冥琳の左の目元にはホクロがある。所謂泣きぼくろというものだ。その所為か、只でさえ色気がある冥琳が尚更美しく妖艶に見える。
正史、演義共に「美周郎」と呼ばれ、京劇では二枚目の役者が演じる役とされる周瑜だけあって、その容姿は性別が変わっても凛としており、思わず溜息が出そうになる。
そんな彼女は視力が悪いのか眼鏡を掛けている。長方形のレンズに紅い上縁が無い眼鏡で、現代ではハーフフレームと呼ばれる物だ。
三国志や日本史に詳しい涼でも、眼鏡については流石に詳しくない。
レンズ等を使って物を拡大して見る行為は紀元前の昔からあった様だが、「眼鏡」という物に限定すると、13世紀のヨーロッパで発明される迄待たねばならない。そうした歴史を知っていると、この時代に眼鏡があるのはおかしいのだが、他にも色々とおかしいこの世界では些末な事である。
そんな冥琳との雑談、つまりは雪蓮いじりもやがて終わり、次の自己紹介へと移った。
次は誰かと涼は思ったが、後ろに居る韓当が口を開いた。
「私の名前は韓当、字は義公、真名は快。清宮殿、これから宜しくお願いします。」
韓当は真っ直ぐに涼を見詰めながら、丁寧な口調でそう名乗った。
韓当は長いストレートの金髪を首の後ろで纏め、それをマフラーの様に右肩にかけている。そんなに長い髪を巻いて暑くないのだろうか。とは言え、この場には実際にマフラーみたいな布を首に巻いている者も居るので、その辺はよく判らない。
一つだけ確かなのは、この揚州は漢大陸の中でも温暖な気候だという事だけだ。
話を韓当に戻す。
韓当の瞳は燃える様な紅であり、孫呉の人間の殆どがそうである様に彼女の肌も褐色だ。
年齢は孫堅四天王の一人だけあって、同じ四天王の泉莱や祭と近い筈だが、涼が見る限りは四天王の中で一番若く見える。
服装はこの場に居る孫呉のメンバーの中では比較的地味と言える。地味というか、露出が少ないと言った方が正しいか。
前述の通り、揚州は温暖な気候である為、薄着の者が多い。この場にも、雪蓮を筆頭に何人も薄着の者が居る。
薄着でない者は韓当の他には、今日も以前と同じ漆黒のコートタイプの長袖の衣服を身に着けている泉萊くらいだ。
韓当は泉莱程ではないが、孫呉のメンバーの中では厚着の方であり、胸元は疎か足も殆ど露出していない。それでも彼女の胸が大きいのはよく判るし、全体でもバランスのとれたスタイルの持ち主だと判る。
衣服の基調は橙色であり、長袖の側面、肩から袖にかけて黒い線が三本引いてある。それを見た涼は片仮名五文字の某スポーツブランドを思い出した。
下はスカートではなくズボンであり、そちらも橙色を基調とし、やはり側面に三本の黒線が引いてある。
要するにジャージに近いのだが、そう見えないのは衣服の材質の違いの他に、衣服の上下に非対称に刺繍された鴉の意匠や、着る者の雰囲気といった様々な事によるものが大きいだろう。
他には、左耳に紅いピアスをしている事と、靴が白いハイヒールというのが彼女の服装に関する情報だ。
(韓当は弓術や馬術に優れてて、演義だと太刀を使う武人だけど、この世界だとどうなのかな?)
涼は韓当と挨拶しながらそう思った。
韓当は関羽や張飛等と比べれば地味で知名度も無いが、映画の題材にもなった「赤壁の戦い」では黄蓋の命を救ったり、夷陵の戦いで活躍する等、かなりの名将である。
尤も、日本で三国志といえば劉備や諸葛亮の蜀、というイメージが強く、その次に近年その墓が見つかったと言われた曹操の魏、最後に孫策や周瑜が活躍した呉という順の人気や知名度なので、孫呉の将兵が地味になってしまうのは仕方無いかも知れない。
世界中で公開された映画「レッドクリフ」で周瑜や孫権の名は広く知られただろうが、黄蓋の見せ場がカットされたり、甘寧が話の都合上とはいえ架空の人物に置き換えられていたりと、優遇されているのか不遇なのかよく解らない演出をされていた。因みにその役を演じたのは日本人であり、序でに言えば諸葛亮を演じたのも日本人――正確に言えば日本人と台湾人のハーフ――である。
韓当との挨拶が終わると、次はその隣の女性の番となった。
「我が名は祖茂、字は大栄、真名は黛。童よ、宜しく頼む。」
そう名乗った女性――祖茂は涼を「わらべ」と呼んだ。確かに、壮齢の女性から見れば、未だ十代の涼は童子と同じだろう。
それを理解している涼は特に不快には思わず、挨拶を交わした。
祖茂の外見はというと、年齢は前述の通り泉莱達と近い様だ。四天王全員に言える事だが、年齢より若く見えるのは何故だろう。
そもそも、妙齢の娘を持つ孫堅も、年齢より遥かに若く見える。しかも三人の子持ちでこれだから尚凄い。この世界の人は某戦闘民族の様に若い時代が長く、老化の時期が遅いのだろうか。勿論そんな訳は無いのだが、そう思う程に若々しかった。
余談になるが、この後の会食後に涼がその事を雪蓮に語った所、『あんなの単に若作りしているだけよ』と返された。本人達に聞かれたらどうするのだろうか。
祖茂の髪は黒く、長さは孫堅と同じくらいの長さ、髪型もどこか似ている。見た感じは身長も似ている様だ。
似ていると言えば、スタイルもそうであった。何を食べたらそんなに大きくなるのかという胸に、どう動けばそこ迄引き締まるのかという腰等も、孫堅と似ていた。
無論、顔や雰囲気は全く似ていない。肌の色はやはり褐色だが、瞳の色は孫堅の碧眼では無く茶色である。
服装に関しても、基調となる色は似ているがチャイナ服を大胆に加工している孫堅とは違い、水色のタンクトップに赤いジャケットタイプの服を羽織っている。
下は足首迄隠れる程の長いスカート、色はやはり赤。靴は黒いハイヒールで、ヒールはそれ程高くない。
そうした外見の祖茂こと黛だが、涼は彼女を見ながら心の中でツッコミを入れていた。
(既に紅い頭巾を被っているのかい。)
確かに、黛は紅い頭巾を被っている。頭巾というよりバンダナの様だが、何れにしても頭に何か被っているのは間違いなかった。
何故涼がこの様なツッコミを入れているのかと言えば、正史及び演義で伝えられている祖茂に関する記述によるものである。
孫堅がある戦いに参加した時、当然ながら祖茂も従軍した。だが、その戦いで孫堅が大敗し敗走している時、祖茂は孫堅が被っていた頭巾を被って自らが囮となり、その為に孫堅は助かったという。
実は、祖茂に関する記述は正史も演義もこの戦いに関する事しか記されていない。更に言えば、演義ではこの後に華雄を倒そうとするも返り討ちにあって戦死している。正史ではそうした記述が無いので、生死不明である。
演義では孫堅四天王の一人として登場しているにも係らず、その記述の量は他の三人より遥かに少ない。それが長い歴史の中で散逸した為に少なくなったのか、元々少なかったのかは判らないが、正史で現在伝わっているのは三国志「孫堅伝」のこの部分だけなのである。
三国志に詳しい涼は当然その事を知っており、だからこそこの格好にツッコミを入れざるをえなかった。
とは言え、それを本人に言う訳にはいかないので、心の中だけに留めたが。
尤も、黛はそんな涼の様子に気付いた様で首を傾げていたが、敢えて追求はしなかった。
黛との挨拶が終わると、今度は正面に視線を移す事になった。そこには右から雪蓮、孫堅、孫権、そして小蓮が座っており、その後ろに甘寧、陸遜、凌統、蒋欽、周泰が立っている。気の所為か、陸遜は笑顔を引き攣らせている様だ。
(まあ、甘寧と凌統に挟まれてたらそうなるよなあ。)
涼は何となく事情を察し、事実その通りだった。
それは兎も角、自己紹介は続いた。
前と後ろのどっちからかなと涼は思ったが、前列の四人は既に顔見知りであり、その内の二人からは真名を預かっているのもある為、後ろの五人の番となった。
その中で最初に自己紹介を始めたのは、左端に居る少し小柄で長い黒髪の少女だった。
「私の名前は周泰、字は幼平、真名は明命と申します。御遣い様、若輩者ですが宜しくお願いしますっ。」
明るくハキハキと名乗る周泰こと明命に、涼は好感を持った。
この屋敷に来た時に接客したのはこの明命と、その隣に居る蒋欽である。勿論、そこには少なからず謀が有ったのだろうが、屈託の無い笑顔を向ける彼女を見ると本当にそうだったのかなと思う程だ。
そんな彼女の外見は、繰り返しになるが長い黒髪が特徴的だろう。
どれくらい長いかといえば、彼女の膝下よりも長い。ひょっとしたらもっと長いかも知れない。
彼女も他の将と同じく褐色の肌だが、この活発そうな表情を見ると元々の肌の色というより、動きまわって日焼けしたのではないかと思ってしまう。
まあ、日焼け止めクリームとかは無い世界だから、それも間違いでは無いのだろうが。
服装は表現するなら小豆色の忍者服、それも所謂「くノ一」と呼ばれる者が着ている様な服という表現がピッタリな服であり、袖は短く足も大胆に露出している。
とは言え、先程の快活さも相まって、露出の割には色気が無い。どちらかと言えば「美しい」と言うより「可愛い」という言葉がよく似合う。
あと、この中では明命の胸が比較的小さいのも、少なからず関係しているのかも知れない。というか、他がでか過ぎるのだが。
そもそも、胸の大きさで女性の価値は決まらないのだから、大小をどうこう言っても仕方が無い。……誰に対するフォローではない。断じて違う。
話を戻そう。明命は前述の通りに明るく活発そうな少女であり、その様子から察するに彼女は活動的な人物なのだろう。彼女は「周泰」の名を持つのだから当然武官だろうし、その実力も確かな筈だ。
とは言え、今目の前に居る彼女はそこ迄の手練れとは見えない。
勿論武将である分、実力者なのは確かであり、涼よりは遥かに強いだろう。そもそも涼は、戦えるとはいえ強くはない。彼が戦えるのはあくまで黄巾党の様な賊レベルの強さしかない相手だけであり、周泰の様な将クラスの強さを持つ者が相手では数合もしない内に負けると思われる。
あくまで、この場に居る将の中では手練れではないというだけで、彼女の実力は折り紙付きに違いない。そんな風には見えない程のあどけなさを、明命は持っていた。
あと、外見について補足するなら、素足にサンダルのような靴を履いている事くらいか。
涼は明命にも今迄と同じ対応をし、好きな様に呼んで良いと答えた。
すると明命は花が咲いた様な笑顔で「宜しくお願いします、涼様!」と言った。御遣い様という堅苦しい呼び方ではなくなった分、涼は嬉しく思った。
続いて自己紹介を始めたのは、明命の隣に立つ蒋欽だった。
「私の名前は蒋欽、公奕、真名は美怜と申します。私も明命同様若輩者ですが、宜しくお願いします。」
蒋欽こと美怜は落ち着き払った口調で名乗り、恭しく礼をした。
その際に肩にも満たない程短い栗色の髪がさらりと揺れ、漆黒の瞳が真っ直ぐに涼を見詰めていた。
その口調が示す様に、彼女の所作はゆっくりで、かつ優雅だ。生まれ育ちが良いのか、様々な事を学ぶ内に身に付いたのかは判らないが、少なくともその所作が好意的にとられるのは間違いない。
自身の所作に合わせる様に、服装もキッチリしている。
緑を基調としたその服は、涼の世界では「唐装」と呼ばれる服の一種であり、その名から唐の時代の服と連想されるが、一説には清末の服装とも言われており、更に広義では単に中国の服、つまりはチャイナ服と呼ばれる事も多い。
とは言え、今彼女が着ている服は日本人がイメージする一般的なチャイナ服、つまりは胸元が空いていたり深いスリットがある物では無く、子供が着ている様な露出が無い服であり、昔流行った映画、何とか道士のヒロインが着ていた服をイメージすれば良いだろう。
異世界とはいえ、後漢末の時代に唐代や清末の服が何故あるのかという疑問が出て来るが、この世界ではそうした事は些末な事だろう。何せ、本来なら未だ火薬が貴重な時代なのに花火が普通に打ち上げられているのだから。
また話が逸れてきたので、元に戻そう。
彼女の服は前述の通り緑を基調としているが、袖や襟の部分は深紅となっている。また、下の部分には鴬の絵が幾つか刺繍されている。
唐装の特性上、靴は服に隠れていて見えないが、恐らく唐装に合う靴を履いていると考えられる。
既に触れたが、正史の蒋欽は呂蒙と共に勉学に励み、孫権に賛嘆された程の努力家である。周泰だけでなく何気に呂蒙とも縁があり、二人が亡くなった時期も近い。ともすれば蒋欽も呂蒙同様にあの「呪い」によって亡くなったと言えるかも知れない。
涼はそうした事を知っている為に少し気になったが、この場でそれを言っても仕方ないので、明命達と同じ様に普通に接した。
また、涼は先程、美怜が明命と共に自分達に接してきた為に二人を一纏めにして意識しており、活発そうな明命と冷静そうな美怜をコンビとして認識している。
実はその認識は間違っておらず、孫軍では若手であるこの二人はよく二人一組で行動している。尤もそれは、若手の育成に時間をかけずに済むという理由もあるのだが。
そうして美玲との挨拶が終わると、順番通りというか凌統が口を開いた。
「自分の名前は凌統、字は公績、真名は莉秋。先の二人同様、宜しく頼みます。」
鋭い眼つきとは違い、丁寧かつ温和な声で自己紹介をする凌統こと莉秋。何故か雪蓮を始めとした数人が笑いを堪えている。
莉秋はその反応を見て僅かに顔を赤らめ、コホンと咳払いをした。その際、笑っていない甘寧をひと睨みしたのは何故だろう。因みにその甘寧は意に介していない様だ。
(この世界でも甘寧と凌統は仲が悪いのかな。)
二人の様子を見た涼はそう思った。
涼の世界の正史では、甘寧と凌統は不仲であったと伝えられている。
それは、甘寧がかつて江夏太守だった黄祖の部下だった事に由来している。黄祖はとある事情から孫家にとって憎んでも憎みきれない敵であり、結果として孫権に敗れ戦死している。
或る時、孫権率いる孫軍と黄祖が戦った時、部下である甘寧も孫軍に対して戦った。
黄祖は敗れて敗走し、その殿を甘寧が務めた。当然ながら追撃があったが、甘寧はよく戦い、追撃隊の将を討ち取るといった活躍を見せた。その将の名は凌操といい、凌統の父である。
つまり、凌統にとって甘寧は父親の仇であり、可能なら討ち取りたいと思うのは当然だった。事実、何度か二人は一触即発の状態となっており、孫権や呂蒙といった周りの人々の制止がなければ先ず間違いなく殺し合いになっていただろう。
尚、演義においても両者は仲が悪いが、とある戦いを切欠に和解するというエピソードがある。正史にはその記述が無いので、演義の創作とされている。
ここで凌統こと莉秋の外見について述べよう。
胸は余り大きくなく、服は青を基調とした袖無しミニスカワンピースの様な服で、スカート部分は薄水色。両手首と足首には緑色の布をリストバンドや靴下の様に巻いており、靴は明命の様なサンダルタイプで色は黄色。
揚州人特有なのかは判らないが彼女も褐色の肌である。茶色の髪は肩より少し下迄の長さで、瞳は金色。小顔な童顔だが、鼻が高いからか少し大人びた雰囲気もある。
先程の自己紹介を聞く限り、莉秋は大人しく真面目という印象を涼達は受けた。だが、その際に雪蓮達が笑いを堪えていたのも気になっている。
公式な会談は既に終わり、今は歓談をしている面々だが、自己紹介という真面目な場面で苦笑される事は普通は無いだろう。
その理由を訊くべきか涼は一瞬迷ったが、訊く事で莉秋が困るんじゃないかと思い、止めた。
続いて自己紹介は陸遜の番となった。
「わたしの名前は陸遜、字は伯言、真名は穏と申します~。宜しくお願いしますね、御遣い様~。」
陸遜こと穏はにこやかに微笑みながら、間延びした口調でそう言った。
彼女はこの場に居る孫軍諸将の中では珍しく、白い肌の持ち主である。珍しいといえば、彼女の衣服は布の面積が大きく、温暖な揚州の気候からすれば暑くないのかと思う程だ。
尤も、その分という訳では無いだろうが、胸元は大きく開いている。その為、彼女の大き過ぎる胸が露わとなっている。
何度も触れているが、孫軍は平均的に大きな胸の持ち主が多い。穏はその中でも特に大きく、また、若いという事もあって張り艶があり、若い涼にとって抗い難い光景と言えた。
(この土地で採れる作物には、巨乳になる成分でもあるのか?)
と、思ってしまったくらいに内心では動揺し、平静に努めようとした程である。
なお、当然ながらその様な成分は無いし、巨乳じゃない者も居る。
穏の外見について更に補足しよう。
先ず、彼女の髪は緑色である。
涼の世界では緑色の髪は染めなければ見る事は出来ないが、この世界では普通にあるらしい。まあ、他にも色々な色の髪を持つ人が居るのだから、余り大した事では無いのだろう。
その緑色の髪は、左右にふんわりと広がっており、何らかの整髪料で固めているのか、重力を無視した髪型になっている。頭には黄色い長方形の冠の様な物を乗せているが、官位を示すのかファッションかは判らない。
目が悪いらしく眼鏡をかけているが、そのサイズはとても小さく、鼻にちょこんと乗せているだけであり、果たしてちゃんと見えるのか疑問だが、わざわざ伊達眼鏡をかけているとも考え難いので、恐らく見えているのだろう。因みに瞳は紺色だ。
服や袖は朱色であり、前述の通り布面積が大きい。尤も、その大部分は長く大きな袖になるのだが。
そして、これも前述の通り、胸元は大きく開いている。序でに言えばおへそも見えている。そうした所を見ると、結局は薄着になっていると言える。
足にはニーソックスの様なものを穿いており、それは内側から外に向かって上がっているデザインで、お陰で内太腿が綺麗に見える。勿論、涼がまじまじと見る訳は無いが。
そんな風に魅力的な外見を持つ少女ではあるが、彼女も「三国志」に名を残す名将と同じ名というのを忘れてはいけない。
(口調はのんびりしてるけど、仮にも陸遜の名を持ってるんだからきっと優秀なんだろうな。)
それを忘れていなかった涼は、穏を見ながらそう思った。
陸遜は、正史では「呉郡の四姓」と呼ばれる有力豪族の一つ、陸家の一員と記されており、孫権に仕えて孫呉の重臣としてその実力を発揮している。
だが、演義では何故か初め無名の将として登場し、最初はその才能を疑われている。また、周瑜の様に美男子という記述があり、一部の創作作品を除き、後の時代に作られた三国志の作品では美形に描かれている。
それに関連しているのかは判らないが、目の前に居る「陸遜」こと「穏」は美少女である。しかも巨乳である。
(……うん。気をつけよう、色々と)
涼は正史での陸遜の活躍が、結果として劉備達に大きな影響を与えた事を思いつつ、同時に穏という少女の別の要素についても注意をする事を心に決めた。
続いて、後列最後の人物の自己紹介に移った。
「私の名は甘寧、字は興覇、真名は思春。君命によって真名を預ける。」
「こちらこそ宜しく。」
「……宜しくするかは、これからの貴様次第だがな。」
甘寧こと思春は静かに目をとじると、冷たく言った。
どうやら思春はクールな性格なんだな、と、涼は思いつつ、今迄と同じ様にそれとなく観察する。
彼女の髪は黒っぽい紺色で長い。明命程では無いが、結構長い。その髪を頭の後ろで布を巻いて纏めているらしく、白い布で髪を包み込み、紅い紐で結んでいる。
服装は赤いチャイナ服の服の部分に白い長袖を足した様な服。上半身の露出度は他の呉将と比べて高くは無いが、下半身は靴下代わりに布で巻かれた部分と靴以外は何も穿いていない様に見えるので、逆に高くなっている。
因みに、下着代わりに褌をしているので、角度によっては丸見えだ。
他には、手首を中心にして腕にも布を巻いており、手は黒い指貫き手袋。首には黒いマフラーの様な厚手の布を首に巻いている。
「……他に何かあるのか?」
観察しているのがバレたのか、涼をギロリと睨む思春。それに対して涼は苦笑するしか出来ない。約二年、戦乱の世を生きて来たとはいえ、元の世界では普通の高校生だった少年には、呉を代表する武将と同じ名前を持つ少女に抗う術は無いに等しい。
思春が涼を睨んだ事で若干場の空気が悪くなったが、孫権が思春を窘めた事と涼が気にしていない事等で大事にはならなかった。
残るは孫家の四人だが、先程自己紹介をした小蓮と、以前から真名を預けている雪蓮は簡単な自己紹介をするに留まった。
続いて名乗ったのは、孫家の家長であり孫軍の総大将である孫堅だった。涼は姉妹の中で唯一自己紹介をしていない孫権の番かと思っていたが、その予想は外れた。また、孫権自身も自分の番と思っていたらしく、先に孫堅が自己紹介をすると言った時は驚いていた。
「私の名は孫堅、字は文台、真名は海蓮。改めて宜しくしますね、婿殿。」
孫堅こと海連は、両腕と両足を組みながらそう名乗った。
雪蓮と似た様な服裝である海連は、年齢を感じさせない若々しさと妖艶さを持ち併せており、その仕草に涼も一瞬ドキリとした程である。
その瞬間、複数の鋭い視線を感じたのはまた別の事だが。
一方、最後に自己紹介をする事になった孫権こと蓮華は、少なからず緊張していた。
彼女と涼は今回が初対面では無い。十常侍誅殺の時に会ってはいるが、前述の通り涼達が長く洛陽に滞在しなかった事もあって、それ程の交流は無かった。
「天の御遣い」という胡散臭い肩書きを持つ、自分と然程変わらぬ年齢の少年に対し、元来真面目な彼女は警戒の色を隠さなかった。
そうした感情には、姉である雪蓮が涼を評価しているのが、信じられなかったというのもある。彼女にとって雪蓮は母・海蓮と共に目標としている人物であり、その姉が傍目からは頼りにならなそうな優男を評価し、果ては婚約するという事が、孫家の為と頭では理解出来ても納得は出来ないのである。
とは言え、既に同盟は結ばれ、涼と雪蓮の縁談も纏まっている。ひょっとしたらその縁談によって自分も結婚させられるかも知れないという状態で、自分だけ自己紹介をしないというのは、下手をすれば同盟や縁談が白紙に戻ってしまうかも知れない。
孫家の一員として、それは出来なかった。
蓮華は孫権であり、正史での孫権は孫堅から「仲謀は只者では無い、貴人の相をしている」と言われ、孫策からは「才能ある者を用い、江東を保っていくことについては、私はお前に及ばない」と評された人物である。
この世界の孫権である蓮華もまた、その才能を持っていると思われ、実際に三姉妹の中では一番の良識持ちである。
まあ、姉や妹が豪快過ぎるとも言えるが。
彼女は孫家の事を思い、自身の不安や戸惑い、苛立ちをグッと抑えて心を整理し、表情を出来るだけ柔らかくした。
それでも若干固かったのは、真面目な彼女の愛嬌と言えるだろう。
「……私の名は孫権、字は仲謀、真名は蓮華。雪蓮姉様や妹の小蓮共々、宜しく頼むわね。」
そう言った蓮華の表情は前述の通り若干固く、彼女が彼女なりに作り出した笑顔は誰から見ても無理してると判るものの、元来が整った顔立ちの為とても美しく、同年代の涼が暫しの間思わず見とれてしまう程である。
隣に居る霧雨がコホン、と咳払いをしたので涼は我に返り、無事に蓮華との挨拶を終えた。
こうしてこの場に居る孫軍全ての自己紹介が終わると、そのまま雑談へと移っていった。
その内容は、互いの近況や統治している州での政治経済といった、プライベートな話からシリアスな話迄多岐に渡る。
その際に、当然の様に色恋の話もあり、雪蓮だけでなく小蓮迄もが涼を誘惑しようとし、蓮華がそれに過剰反応を示すなど色々あった。
そうして会談と雑談が終わり、一同は部屋を出た。
外を見ると、陽が少し西の彼方に向かって傾き始めている。随分と長い事話し込んでいた様だ。
散々述べているが、揚州は温暖な気候である。その為、日没が近くなっている現在でもそれなりに暑さを感じている。
「そろそろ夜になるわね。婿殿は今日、泊まっていくのでしょう?」
涼がそんな揚州の景色と気温を感じていると、後ろから海蓮が話し掛けてきた。
「出来ればそうしたいですね。兵達を休ませないといけませんし。」
「ならば丁度良い。貴方達の歓迎の宴を用意しているから、思う存分食べて疲れをとるといいわ。勿論、兵達の分も用意しているから安心しなさい。」
「有難うございます。」
「なに、義息子の為だし気にしないで。」
「ハハハ……。」
どうやら、海連の中では二人は既に義親子関係になった様だ。尤も、以前から涼を「婿殿」と呼んでいた彼女にとっては今更かも知れない。
その後、何人かの孫軍の将は持ち場に帰ったらしく、今涼の周りに居るのは鈴々達を除けば孫家の四人。冥琳、穏の軍師コンビ。祭と思春、莉秋の出迎え組に明命、美鈴の案内コンビだけだ。
この面子で宴が行われる場所へと移動中、涼は気になった事を何気なく訊ねた。
「そう言えば、呂蒙が居なかったけど、用事で居なかったのかな?」
だが、その涼の質問に孫軍一同がキョトンとした反応を見せる。
涼はその雰囲気を感じ取りながら振り返ると、皆一様に不可思議な物を見た様な表情をし、涼を見詰めていた。
「もしかして……呂蒙って未だ居ない、のかな?」
戸惑いながらそう言うと、皆を代表するかの様に雪蓮が頷いた。
「呂範なら居るけど、呂蒙って子はうちには居ないわね。冥琳は知ってる?」
「残念ながら私も知らぬ名だな。……清宮、その呂蒙とやらが何故ここに居ると思った?」
「えっと、それは……。」
冥琳の質問に涼はどう答えようか迷った。天の知識だと言って納得してくれれば良いが、これから先ずっと天の知識を当てにされたら色々と困る気がする。
涼は暫く考えた。その間も一同の視線が涼に集まるが、気にしていたら限りが無い。
とは言え、既に呂蒙という人名を口にし、ここに居るかの様に訊ねてしまっている。ここで下手に言い訳をしても、却って状況が悪くなってしまうのではないか。
だったら、多少言葉を濁すのは仕方無いとしても、正直に言った方が良いのではないかとの結論になった。
そう決めてからの涼の思考は早かった。
涼は、一旦口の中を湿らせてから呂蒙に関する知識を思い出し、言葉を紡ぐ。
「呂蒙は、近い将来この孫軍の一員になる人だよ。字は子明。性別は判らないけど、多分女性で、住まいは多分……汝南郡《じょなんぐん》富陂だと思う。」
「なに……?」
涼の言葉に冥琳は一瞬驚いた表情を作った。それも当然であろう。涼が言った事は呂蒙という人物の詳細であり、普通なら知る筈が無い情報である。しかも、徐州に居る者が、だ。
冥琳はジッと涼を見据えながら、利き手の中指で眼鏡を上げ、その類稀なる思考能力を駆使しつつ、再び訊ねる。
「……先程の質問の答えを未だ聞いていないが。」
「それは……ゴメン、言えないんだ。敢えて言うなら、俺が“天の御遣い”だから、としか言えない。」
「それで納得しろと……。」
当然ながら冥琳は納得せず、追求しようとしたが、それを止める人物が居た。雪蓮である。
「まあまあ、良いじゃない。涼が言っている事が本当なら、私達にとって有益なんだし、もし違っていても損は無いでしょ?」
「それはそうだが……。」
「それより、今はその呂蒙って子を探す事を優先しましょ。汝南郡富陂なら、私達の領土内だし、探すのは簡単でしょ。」
「その通りだが……探すのか?」
「さっき言ったでしょ、どっちにしろ損はしないって。……涼、他にその子に関する情報は無いの?」
未だに思案顔の冥琳とは違い、雪蓮は興味津々といった表情で涼に訊ねる。涼はそんな雪蓮の様子に多少戸惑いながらも、彼女の要請に応えた。
「他は……義理の兄か姉に鐙当って人が居るかも知れない。それと、家は余り裕福じゃないと思う。後、家族思いの人、くらいかな。」
「成程ね。……幼平!」
「はっ!」
涼の話を聞いていた時とは打って変わって真面目な表情となった雪蓮は、後ろに居る明命の字を呼び、次の指示を出した。
「貴女の部下を使って、呂蒙を探しなさい。見つけたら力尽くでもここに連れて来る様に厳命するのよ。」
「解りました!」
明命は両手をつけて平伏しながらそう応えると、一瞬の内に居なくなった。
「消えた!?」
「慣れないとそう見えるわよね。私も前はそうだったわ。」
そう言いながら雪蓮は右後方に視線を向けた。その視線の先には、小さな黒い影が屋敷の屋根を駆けて行くのが見える。
涼が雪蓮の視線に気付いた時は、既に見えなくなっていた。
念の為辺りを見回すが、勿論明命の気配はどこにも無かった。
「彼女の部隊なら、明日明後日迄には見付けて来ると思うわ。幸い、ここから汝南迄はそう遠くないし。」
と、雪蓮は事も無げに言うが、実際はそんな簡単なものではない。
汝南は豫州の西に在って荊州に近い為、ここ建業からはかなりの距離がある。飛行機どころか新幹線や電車が無く、自動車すら無いこの世界では往復だけでも時間が掛かる。そこに人探しが加わるのだから、短時間では終わらないと考えるのが普通だろう。
そんな不安が表情に表れていたのか、雪蓮は涼に対して「まあ、見てなさいよ♪」と笑顔で言った。
結局、呂蒙についてはそれで終わりになった。冥琳や穏といった軍師組は未だ納得していなかった様だが、孫軍の次期後継者と目されている雪蓮がそれ以上追求しなかった事、現指揮官の海蓮も同様に何も言わなかった為、それに倣って追求をしなかった。
(……“天の御遣い”か。本当に呂蒙とやらが居たら、その二つ名も強ち間違いでは無いのかも知れんな。)
親友と並んで歩く年下の少年を見据えながら、後の世に「大都督」と呼ばれる冥琳こと周瑜は一人思案に耽っていった。
その日の宴は滞り無く行われた。
涼が海蓮、雪蓮、祭から酒を勧められて困ったり、小蓮が年齢の割に妖艶に迫ってきたり、互いの義姉や主君の優秀さを巡って鈴々と思春が一色触発の状況になったが、それ等はほんの些末な事だ。うん。
宴が終わった時は、下弦の月が頭上にある程に夜が更けていた。酒を飲んだ者は勿論、素面の者ですら睡魔に襲われる時間である。
涼達は宛てがわれた部屋でそれぞれ休息をとり、旅の疲れを癒していった。尤も、涼は直ぐには眠れなかったが。
「……何してんの、雪蓮?」
「夜這いに来たの♪」
涼が寝台に横になって暫くした後、浅い眠りに入った時に何者かの気配を感じて目を開けると、自分に覆い被さる様にしている雪蓮が居た。
涼が元の世界から持ってきた寝間着に着替えている様に、彼女も着替えていた。その服は、昼間に見たドレスの様な形の服である。
生地が薄いのか、服の下にある彼女の肢体が薄っすらと月夜に浮かぶ。有る筈の下着が足りない様な気がする。
「いやいや、夜這いと言われても困るんだけど……。」
「良いじゃない、正式に婚約したんだし。」
「それはそうだけど……。」
「こんな美人と一夜を共に出来るんだから、もっと喜びなさいよー。」
「わーい。」
「……ちょっと。」
「……ゴメン。」
冗談が通じず、ジト目で睨まれる涼。
だがその後、雪蓮は急に表情を悲しげに変えて、呟く様に口を開いた。
「……やっぱり、私との婚約は嫌だった?」
衣服同様、月夜に浮かぶ雪蓮の表情は、普段の彼女からは想像が出来ない程にしおらしく、乙女と言って過言でない。実際に女性なのだから乙女で間違いないのだが。
涼はそんな彼女をジッと見つめた。海の色をいた瞳が、どことなく潤んでいる様に見える。そんな彼女の頬を撫でながら、涼は微笑み、雪蓮の不安を無くす様に言葉を紡ぐ。
「こんな美人と婚約出来て、嫌な訳ないよ。」
「だったら、ここは直ぐに抱きしめてって流れになるんじゃないの?」
「まあ……そうなんだけど……。」
涼も年頃の少年であり、成人に近い年齢である。涼の言葉にある様に、雪蓮の様な美人に迫られて嬉しくない筈がない。
それでも涼が躊躇してしまうのは、この婚約が政治的要因を多分に含んでいる為だ。
政略結婚と聞いてマイナスイメージを持つ者は少なくない。涼もその一人である。
現代では表向き、余り政略結婚は行われていない。実際はどうか判らないが。
日本史では、織田信長の妹、お市と浅井長政との政略結婚が有名だろう。また、豊臣秀吉も妹の朝日姫を徳川家康に嫁がせている。
だが、浅井長政は同盟関係にあった朝倉義景と共に信長を裏切った末、姉川の戦い、小谷城の戦いに敗れ、滅亡。豊臣秀吉も自身の死後に家康によって嫡男の秀頼が自害に追い込まれており、政略結婚が必ずしも成功するとは限らない。
また、三国志で政略結婚と言えば、劉備と孫夫人が有名だろう。
孫夫人は孫策、孫権の妹であり、孫権や周瑜の様々な思惑によって三十以上も年上の劉備と結婚させられた。「横山光輝三国志」では、この時の孫夫人は十代後半とされている。
正史と演義では両者の仲は正反対に伝えられており、物語では仲睦まじい夫婦になっている事が多い。
そんな二人だが、正史、演義共に謀略によって離れ離れとなる。正史ではその後の同行について記述が無いものの、演義では夷陵の戦いで劉備が戦死したという誤報を受けた孫夫人は絶望し、長江に身投げしてしまった。
やはりここでも悲劇が起きている様だ。
勿論、政略結婚でも仲が良かったという話もあるし、政略結婚が悪いという事は無い。それでも、涼のイメージはどちらかと言えば悪かった。
その為、雪蓮との婚約の際も中々吹っ切れなかったし、そもそも自分は雪蓮を一人の女性として愛しているのか、という根本的な悩みが涼にはあった。
今はその悩みはある程度解消されているものの、雪蓮の誘いに乗れない所を見ると未だ少し悩んでいる様だ。
「……雪蓮はこれで良いの?」
「……。」
雪蓮は涼の問いに答えなかった。代わりに、その柔らかな唇を涼の唇に重ねた。
涼はそれに対して何もせず、只彼女のしたいようにさせた。
「……涼が言いたい事は解っているつもりよ。でもね……。」
そう言うと雪蓮は自身の体を涼に預け、ギュッと抱きしめた。そして、涼の首筋にキスをし、そのままの姿勢で話を続けた。
「好きでも無い相手に体を預ける趣味は、私は持ってないわ。」
そう言って再び涼を抱きしめると、顔を少し涼に向けて静かに目を閉じた。この状況でそれが意味する事に気付かない程、涼は鈍感ではない。
雪蓮を抱き寄せ、その唇を塞ぐ。さっきの雪蓮とは違い、何度も重ねていく。
そのまま、涼の手がゆっくり動く。
だが、豊かな胸の前でその動きは止まる。何度もしていたキスもそこで終わる。
「それから先」に進む事は、やはり出来ない様だ。
「……しないの?」
「……ゴメン。」
「女に恥をかかせないで欲しいんだけどなあ。」
「ゴメン。」
「……政略結婚の事以外にも、理由は他にあるみたいね。良かったら教えてくれる?」
涼はどうしようかと迷ったが、理由を言う事も拒否するのは流石に悪いと思い、「どうなるか未だ判らないけど」と前置きしてから言葉を紡いだ。
「これから先、大きな戦が起きるかも知れない。その時に、雪蓮が居てくれると凄く心強い。」
「大きな戦、ね……。」
涼が発した「戦」という言葉に、流石の雪蓮も少なからず動揺した。
先の黄巾党の乱や十常侍誅殺等、世の中が乱れ、戦いが起きている以上、また戦いが起きる可能性は充分にある。
今の漢王朝に諸侯を統べる力が無いのは、前述の件でも解るし涼が今この揚州に居るのも、周辺情勢が不安定だからである。
青州では未だに黄巾党が暴れ回っており、その賊を倒す為に徐州軍が遠征をしている。涼の揚州外交の目的は、この青州遠征を切欠に同盟関係を結び、今迄以上の友好関係を構築したいからだ。
言ってしまえば、雪蓮との婚約は、同盟を結ぶ為の手段でしかない。それは雪蓮も理解してはいるが、彼女も一人の女性であり、複雑な心境になってしまうのは仕方無い。
だが、今の雪蓮には婚約よりも戦の事が気になる。
「何故、戦が起きると思うの?」
「それは……ゴメン、言えないんだ。」
「……呂蒙の事もそうだけど、涼って言えない事が多いわよね。」
「……本当にゴメン。」
涼は苦しそうな表情で謝り続けた。
彼が何故本当の事を言えないのか、雪蓮には判らない。徐州軍の機密なのだろうかという推測は出来るが、どうも違う様だなとも思っていた。
普通ならいい加減不信感を募らせるところだが、雪蓮はそうした感情にならなかった。数ヶ月という短期間だが、寝食を共にしてきた仲であり、涼の人となりは彼女なりに理解しているつもりだ。
だからこそ、彼が口を閉ざすのはそれなりに理由があるのだろうと思っている。勿論、知りたいという好奇心は有る。
だが、今深く追求して涼を困らせるのはいけないとも思っていた。彼なら何れ理由を言ってくれる筈だから。
「……まあ良いわ。要は、その時に私が身重だったら困るからって事ね。」
「うん……。それに、今桃香達は青州で黄巾党と戦っている。そんな中で雪蓮と、ってのは気がひけるしね。だから、凄く勝手なのは解っているけど、どうか今回は俺の頼みをきいてほしい。」
「うーん……。」
雪蓮はそこで。小さく唸った。
先の理由から、このまま涼の願いを受け入れても良かったのだが、無条件で受け入れるのは幾ら婚約者と言えども譲歩し過ぎではないかと思った。
少しの嗜虐心も湧いて出たし、女としてこのままでは終われないというプライドもあっただろう。
「……そういう事なら仕方無いわね。解ったわ。」
「……!有難う、雪蓮。」
「た・だ・し。」
涼の口許に利き手の人差し指を当てながら、ゆっくりとかつ妖艶に言葉を紡ぐ。
「今夜はこのまま一緒に寝させて。私が満足する迄、行為以外の事で私を楽しませて。」
それが、彼女が今出来る我が儘だった。
色々思う所はあるが、今は涼と正式に婚約出来ただけで良しとする。そう、雪蓮は思い、納得しようとした。その、納得する為の理由付けが涼との同衾だ。
繰り返すが、涼も年頃の男性だ。雪蓮の様な美人と一緒に寝ていて、果たして理性を保てるだろうか。
理性を保てるのなら自制が利く人間という事で、改めて涼が誠実な人間だと認識出来るし、保てなかったのならそのまま既成事実を起こせば良いだけである。
「え、えっと……。解った。」
「ありがと♪」
涼の答えを聞くと同時に再び唇を重ねる雪蓮。涼も先程と同じ様に反応し、約束通りに彼女を楽しませようとしていった。
そうして暫くの間、二人は逢瀬を楽しんだ。それでも、結局二人が最後の一線を超える事はなかった。涼の理性やら何やらが危ない場面は何度もあったが、何とか耐え抜いた。その為、雪蓮の表情は複雑なものになっていたが。
因みに、二人はそのまま寝たので、翌日の朝になって涼を起こしに来た雫や、雪蓮が居ない事に気付いてもしやと思い探しに来た冥琳に同衾している様が見つかってしまい、涼は誤解を解こうと慌てながらも説明し、一方の雪蓮は冥琳に事の次第を報告し、上手くいかなかった愚痴を零すのだった。
「……涼って、男色じゃないよね?」
「今話した事が本当なら、違うだろう。その趣味の男が女性の胸に興味は持つまい。」
「それもそうね。」
親友の言葉に少なからず安堵した雪蓮は、昨夜の涼の行動、テクニックを思い出し、体が熱くなるのを感じた。
彼女は男性との経験は無いが、同姓との経験は少なからずある。それだけに男女による行為の仕方の違いを知る事が出来た。
だが、その為に一つの疑問が出て来た。
(……涼が私とするのを避けているのは、昨夜涼が言った、桃香達が戦っている時には出来ないって事だけじゃなく、ひょっとしたら経験が無いのを悟られたくなかったから、と思ったんだけど……あの技術を見る限りは、経験が無いって訳じゃなさそうなのよねえ……。)
そう思うと、更に体が熱くなっていった。
涼が最後迄いかなかったのは、その現象が起きなかった事で判っている。だが雪蓮はというと、涼のテクニックで何度か達してしまっていた。
男性のそれと違い、女性はその現象が目に見えなくても達する事が出来る。その為、涼が彼女のそれに気付いたかはどうかは判らない。一応、それなりの反応を見せるので全く判らないという事は無いだろうが、昨夜の涼はその事を指摘しなかった。気付かなかったのか敢えて言わなかったかは判らない。
何れにせよ、昨夜の事で涼が経験が無いという事は無いだろうと雪蓮は結論付けた。そうすると自然に新たな疑問が出てくる。涼がいつ、誰とその行為に及んだか、だ。
そう思った時、最初に思い浮かべたのは桃香の顔だった。
(兄妹とは言え義理だし、あの二人は仲良いしね。……けど。)
仲が良いからこそそこから進展するのは難しいのでは、とも思う。それに、あの思っている事が表情に出易い彼女が涼と恋仲になっていたら、自分はその変化に気付くのではないか。勿論、最後に会ってからかなりの月日が流れている事を考えれば、その間にとも考えられるが、今や徐州牧である彼女の日々は忙しいだろうし、そうした関係になる暇も無いのではないか、と結論付けた。
その後も、愛紗や鈴々といった少女の顔が浮かんでは消えたが、どの少女も決定打に欠けていた。鈴々に至っては、末妹の小蓮と余り変わらぬ年齢ではないか。
と、そこで、今迄考えつかなかった可能性を思い付いた。涼の元の世界の女性だ。
余りにも馴染んでいるのでつい忘れがちになるが、涼はこの世界の人間では無い。こことは違う別の世界から来たと言う。
俄には信じられない話だが、涼が本来着ていた服や持ち物を見た事がある雪蓮は、それらに使われている材料や技術がこの世界、少なくとも漢王朝によって一応統治されているこの国では、絶対に作れないものだという事はよく解った。
となれば、必然的に涼はこことは違う国から来たという事になる。仮にそうでなくても、涼がこの国に来る迄の年月は十数年もあるのだ。その間に恋人の一人くらい居たとしてもおかしくない。
そして、その女性と経験をしたという事も充分に考えられる。十代半ばにもなれば、それくらいしているだろう。
雪蓮はそこで、ひょっとしたら婚約者が居たのでは? と考えた。この世界の男女は結婚が早い。十代前半で結婚し、子を成している場合も多い。その例から言うと、二十歳を過ぎている雪蓮は行き遅れという事になるが。
尤も、婚約していたかもという雪蓮の不安は杞憂である。涼は元の世界に居た時、現役の高校生であり、日本の一般的の高校生は未婚である。勿論、涼も例外では無い。
只、恋人の有無については彼女の不安通りであるのだが、その答えを知るのは未だ先の事である。
(ま、今はこれで良しとしますか。例え涼に恋人や婚約者が居たとしても、今の婚約者は私なんだから。)
雪蓮はそう思いながら小さく微笑んだ。側に居た冥琳は、今迄愚痴を零していた雪蓮が微笑んでいるのを怪訝に思ったが、彼女なりに何か納得したのだろうと思い、追及はしなかった。
そんな感じで、涼の滞在時は色々なドタバタがついて回った。
お陰で余り休息にならなかった気もするが、後になって振り返れば、間違いなく休息になったと言える。
涼達の建業滞在は、計四日になった。本当はもう少し早く旅立ちたかったが、兵達の休養に時間を要した事、孫一家による接待等で遅れてしまった。
それと、もう一つの理由がある。
「涼、呂蒙を連れて来たわよー。」
「……えっ?」
兗州の曹操こと華琳の許へと出立する日の朝、雪蓮はそう言って一人の少女を連れて来た。その少女は黒に近い茶髪を三つ編みの様に二つのお団子ヘアにしている、どこか気弱そうな子だ。
「えっ? えっ?」
「何をそんなに驚いているのよ。」
「いや、だって呂蒙が居るって事は、明命が汝南迄行って帰って来たって事だろ? 幾ら何でも早過ぎない?」
「普通ならね。けど、明命なら可能なのよ。ね、明命。」
そう言うと、雪蓮の視線が涼の後ろに向かう。それに気付いた涼が後ろを向くと、そこにはいつの間にか明命が立っていた。涼は驚いた。
そう、涼が今日迄ここに留まっていた理由は、明命が呂蒙を連れて来るから暫くここで待っていてほしいという雪蓮の頼みをきいたからだ。
本来なら、涼達の用事を早く済ませないといけないので断っても良かったのだが、涼は雪蓮の情事の誘いを断っていたので後ろめたい気持ちがあり、彼女の誘いをこれ以上断る事は難しかった。
それに、雪蓮が言うには明日、つまり今日中には来るだろうという事だったので、それくらいなら待とうと思った。もし、一週間待って、と言われていたら流石に待てなかっただろう。寧ろ、地理的にはこちらから行った方が早いかも知れない。
とは言え、涼は常識的に考えて車も飛行機も無いこの世界で、四日で呂蒙を探し出し、往復する事は不可能だと考えていた。だが、今目の前には呂蒙らしき少女が居る。
雪蓮の性格を考えれば、わざわざ赤の他人を呂蒙と偽って連れて来ないだろう。となれば、この少女は呂蒙本人だと考えられる。
「……何か怯えている様に見えるけど、何かした?」
「何もしてないわよ。ちょっと説得して、無理矢理来てもらったくらいよ。」
「それ、充分酷いからっ!」
涼は雪蓮に怒りながら呂蒙と思われる少女に謝った。まさかこんな強引な手に出るとは思いもよらなかった様だ。
思い返してみれば、あの時雪蓮は「見つけたら力尽くでもここに連れて来る様に」と言っていた。
涼は頭を抱えながら、今は取り敢えず呂蒙についてどうにかしなければならない。
図らずも、自分の言動の所為で彼女はここへ連れて来られたのだ。彼女へのケアは出来るだけ自分がしなければと思った。
「えっと、初めまして。俺の名前は清宮涼、徐州の州牧補佐をしている。……君が呂子明で間違いないのかな?」
「は……はい、私の名前は呂蒙、字は子明、です……。…………きよみや、りょう、さん?」
呂蒙は涼の問いに答えると、俯けていた顔を上げ、涼の顔を見た。
その瞬間、怯え、震えていた彼女の表情は一変した。
驚き、涼の顔を凝視する呂蒙の頬は段々と紅が差しており、朱色の両眼はキラキラと輝き、右眼はモノクルを付けている事もあって特に光っている。
服は平民の物で、現代風に言うなら小豆色のワンピースの腰の部分に緑色の帯を巻いている様な感じ。そこから伸びる白い手足はスラっとしていて、だが細過ぎず、バランスのとれた体躯をしている。
胸は一見小さく見えるが、実際はそんな事は無く平均かそれ以上の大きさなのだが、孫軍の面々の殆どが規格外の大きさの胸の持ち主という事もあってか感覚がおかしくなっている様だ。
その呂蒙が、ジーっと涼を見詰めている。
涼は何故こんなにも見詰められているのか判らなかったが、暫くして彼女が口にした言葉で納得した。
「あ……あの、きよみや、りょうさんとは、あの“天の御遣い”と呼ばれている“清宮涼”様の事ですか?」
所々詰まりながらも、そう言った呂蒙。身長の関係上上目遣いになって可愛いなと涼は思ったりしたが、それは置いといて彼女の質問に答えた。
「一応、そうかな。自分ではあんまり自覚無いけど。」
「や……やっぱり! あ、あの、失礼しましたっ‼」
頬を人差し指で搔きながら、照れる様に言った涼。それに対して呂蒙は、再び驚くと慌てて両手を平伏時の形に組み、体ごと頭を下げて、まるで皇帝陛下に拝謁するかの様に恭しくなった。
「知らなかったとは言え、劉弁陛下と陳留王劉協様の御信頼厚き御方の御前で何たる無礼を……! どうかお許しください!」
「え、えーっと……。」
呂蒙の行動に戸惑う涼。こんな時は何て返せば良いのか判らない。笑えば良いのだろうか。
「これが貴方に対する一般人の認識よ。少しは解ったかしら?」
「う、うん。充分過ぎる程に。」
涼は尚も戸惑いながら対応を考えつつ、そう答えた。
まさか、自分に対してここ迄恭しく接する人が居るとは思いもよらなかった。
勿論、今迄も自分に対して恭しく接する人が居なかった訳ではない。だが、自分自身が元々普通の一般人であり、堅苦しいのが嫌だという事もあって、周りの人は比較的普通に接してくれた。それは、徐州の州牧補佐となった今も変わらず、桃香達と共に政治を行っている下丕や、隠居した陶謙が居て第二の州都とも言える彭城の民も、最初はそれなりに恭しく接していたものの今では比較的フレンドリーに接してくれている。勿論、それでも州牧補佐や「天の御遣い」として接しているが。
そんな風に暮らしてきた為、目の前の呂蒙の様に多少大袈裟とも言える対応をされると涼は非常に困ってしまう。
彼はこの世界に来てそれなりの月日を過ごしてきたが、今も普通の高校生という気分で居るのだから。
その為、涼は何とか現状を変えようと動く。
「と、取り敢えず、そんなに畏まらなくて良いですから、顔を上げてください、子明さん。」
「あ、亞莎です!」
「えっ?」
「私の真名です! どうか受け取ってください!」
「……え、ええええっ!?」
だが、呂蒙の発言で現状は更に混乱する事になった。
彼女は自身の真名を涼に預けると言った。真名というこの国、若しくはこの世界独特の文化、風習がどういった意味を持つかを、こことは異なる世界から来た涼でもよく知っている。
真名は神聖なものであり、その名を口にして良いのは本人から認められた者のみ。それ以外の者が口にした場合は、殺されても文句は言えない。
その真名を預けられるという事の重大さを知っている涼は、呼吸を整えてから呂蒙に訊き返す。
「し、子明さん。急に真名を預けるなんてどうしたんですか!?」
「そ、それは……一つは、先程の無礼に対する謝罪の意味を込めていまして……。」
「そんなに気にしないで良いですよ。寧ろ、気にされ過ぎるとこっちが困ってしまいます。」
「す、すいませんっ。け、けど、も、勿論、それだけでは無いのでしゅっ。」
涼の気遣いに却って畏まってしまった様で、呂蒙は言葉を噛んでしまった。それを見た涼は、徐州で留守番をしている鳳統こと雛里を思い出した。
呂蒙は言葉を噛んだ事で赤かった顔が更に赤くなったが、何とか落ち着きを取り戻して言葉を紡ぐ。
「あ、あの……先程御遣い様を見た時、私は今迄に無い感覚に陥ったのです。」
「今迄に無い感覚?」
「はい。御遣い様のお顔を見た時、何故か私は動けなくなりました。勿論、その時間は短かったのですが、動ける様になってからも私は中々動けず、只々御遣い様を見詰める事しか出来なかったのです。」
「そうだったのか。不思議な事もあるもんだな。」
「子明さんの身に起きた現象は一体何なのでしょう……。」
(おいおい。)
涼、呂蒙、明命の三人の会話を聞いていた雪蓮は呆れながら心の中でツッコミを入れた。普段は冥琳の役目である。
(どう考えたって、それって彼女が涼に“一目惚れ”したって事じゃない! 年頃の男女が三人も居て、どうしてそこに考えが到らないの!?)
雪蓮は「年頃の男女」である涼達を見ながら人知れず溜息を吐く。幾ら世の中が乱れているとはいえ、恋愛に疎い人物が身近に三人も居るとは思わなかった。しかも、その内の一人は自分の婚約者であり、少しばかり体を重ねた相手である。
(……涼って、時々解らないわ。)
清宮涼。異世界から来たという、雪蓮より年下の少年。年齢で言えば妹の蓮華の方が釣り合いがとれるだろう。実際、先の同盟締結の場で蓮華や末妹の小蓮との結婚を可にしているのは、そうした事も考えた結果だった。
これ迄の経緯を考えると、涼の恋愛経験はそれなりにあるのだろう。少なくとも、年上の女性を何度も満足させる技術を得るくらいには。
それなのに、今の涼は目の前に居る少女の反応が、特別な好意だという事にすら気付いていない。当の少女本人が自身の気持ちに気付いていないのも要因かも知れないが、それにしても鈍い。
(これだと、蓮華を焚きつけるだけじゃなく、涼も蓮華を意識させるしか無いわね。)
涼に関しては孫家の事を考えてそう思った雪蓮だが、同時に呂蒙については敢えて教えない方が良いとも思った。
何せ、彼女の一目惚れの相手は、今日にも此処を発つのである。好きになったその日に逢えなくなるというのはかなりの悲劇ではないだろうか。
あと、立場の問題もある。幾ら涼自身が否定しても、この世界に於ける彼の立場は下手をすれば皇帝とほぼ同じである。少なくとも、一般の人々の認識は先程の呂蒙の反応と同じといって良いだろう。
そんな人物に対して、王族でも無ければ貴族でもない、これといって地位が無い平民の少女が恋に悩んだらどうなるか。只でさえ萎縮している彼女が、更に萎縮し心身を壊してしまうのではないだろうか。
そうなっては、折角涼が教えてくれた人材を失ってしまう。それは呂子明という人材を失うというだけでなく、孫家にとって大きな痛手になってしまうかも知れない。未だ会って僅かな時間しか経っていないが、雪蓮はそう思った。彼女得意の勘というやつかも知れない。
(まあ、取り敢えずは彼女の実力を見ましょう。全てはそれからね。)
相変わらず続いている三人のツッコミ不在の寸劇を見ながら、後に「江東の小覇王」と呼ばれる事になる孫策こと雪蓮はこれからの事を考えていた。
それから数刻後。
涼を総大将とする徐州軍外交部隊、総勢四千は整然と隊列を作り、建業の大通りを進んでいた。
先頭部隊にはこの部隊の総大将である清宮涼と、護衛の張飛こと鈴々が進み、その周りを孫家の四人が馬を並べている。勿論、彼女達はこの部隊の一員ではなく、涼達の見送りに来ている訳だ。
孫家の周りには孫堅四天王の内、程普こと泉莱と黄蓋こと祭、それに若手武官から思春こと甘寧と莉秋こと凌統がそれぞれ左右に散っている。
その後も孫軍の文武百官が徐州軍と共に行進していく。殿には徐州軍から雫こと簡雍が、孫軍からは孫堅四天王の残る二人、黛こと祖茂と韓当こと快が並んで進んでいる。
これだけの人数が徐州軍と共に行進しているのは、勿論見送りの為だけでも無ければ護衛の為だけでもない。建業に住む人々や、此処へ来た旅人達に孫軍と徐州軍の繋がりの強さを主張し、更には孫家の三姉妹と「天の御遣い」との関係も周知させる為である。
そして、その目論見は今の所成功していると言って良い。
四千を超える一団を見ている市井の人々、旅人達は皆口々に涼と雪蓮達について思い思いの言葉を発していた。
今回の会談は勿論機密扱いなのだが、涼と雪蓮、両者の仲については以前から豫州、揚州の人々の間で噂になっていた事もあって、仲睦まじく歓談している二人の姿を見てその関係について確信した者も多い。中には不敬とも言える会話をした者も居たが、隊列に居た兵士達の中でそれを咎める者は居なかった。意図的に放置していたのか、兵士達もそう思っていたのか。恐らくその両方だろう。
先頭を行く涼はそんな事等露知らず、雪蓮達と会話しながらゆっくりと馬を進めていた。
「凄い人出だなあ。建業の人々が全員出て来たみたいだ。」
「強ち当たってるかもね。元々人が多い街だけど、こんなに多いのは私も初めて見るわ。」
涼の隣で、雪蓮が周りを見ながらそう言った。
現代に伝わる資料によると、三国時代の揚州の人口は最大で四百万人を超えていたと言われている。この世界の揚州の人口が何万人かは判らないが、涼の視界に映る人々の数は何千、何万と見えた。
涼達の今現在の本拠地である下丕も何万人もの人々が住んでいる。
先の遠征式の際には沢山の住人達が見送りに出ていた。勿論それは、愛する家族や友人の見送りであり、ひょっとしたらもう二度と逢えないかも知れないからだが。
それを考慮すれば、今此処に集まっている人々は戦争という憂慮とは関係が無く、ただ単に興味を持って集まっている野次馬なのだ。そう言うと建業の人々の印象が悪くなるが、実際その様なものだから仕方が無い。
戦争というものが身近にある世界に生きているからこそ、平時の行動はそれぞれが思った通りの行動をとるのである。後悔をしない為に。
とは言え、今此処に居る人々がそこ迄深く考えているかは解らないが。
「にぎやかで良い街でしょー♪ 涼もこのままここに住んじゃえば良いのに♪」
涼を挟んで雪蓮の反対側に居る小蓮が、カラカラと明るい口調で涼に言ってくる。尚、彼女は雪蓮達とは違って馬に乗っていない。白虎に乗っている。
白虎とは文字通り白い虎の事であり、本来は中国の伝説上の神獣を指す。只、現代ではホワイトタイガーという虎の白化型が一般的であり、それを白虎と称する事も多い。
恐らくこの虎もホワイトタイガーなのだろうと思いながら、涼は小蓮に対する返事をした。
「それはそれで確かに楽しいだろうけど、今は無理かな。未だ徐州でやらないといけない事が沢山あるし。」
「ぶー。つまんなーい。」
期待した答えが返って来なかったからか、小蓮は頬をハムスターの様に膨らませて不満を露わにする。
だが、始めから良い返事が来るとは思っていなかったらしく、直ぐに表情を明るくし、次の話題へと移ろうとする。
「俺が此処に居るのも良いけど、その内シャオも下丕においでよ。歓迎するからさ。」
「えっ……? う、うん…………えへへ。」
が、涼が言った一言で小蓮は言葉を飲み込み、次いで頬を紅くして微笑んだ。
既に前を向いていた涼はそれに気付かなかったが、愛娘の会話を聞いていた海蓮、小蓮の反対側に居た雪蓮、そしてそんな彼女達を後ろから見ていた蓮華は気付いていた。
三人はそれぞれ、幼いながらに女の顔になった娘、または妹をそれとなく見る。
涼の意思とは関係なく、その言葉によって喜んでいる小蓮の姿は微笑ましくあった。
(流石は婿殿。無自覚に自然と女性を口説くとは英雄の素質有り、かな。尤も、今のを口説き文句というには多少強引だが。)
彼女の母である海連はそう思い、
(シャオはやっぱり放っといても涼と仲良く出来そうね。まあ、あの子が大人しくしている訳は無いけど。……それにしても、他家の令嬢を自分の所に呼ぶなんて相当な事なんだけど、涼はそれに気付いているのかしら?)
彼女の姉である雪蓮はそう思い、
(シャオったら浮かれ過ぎよ。涼は別に深い意味があって言った訳じゃないのに。)
彼女のもう一人の姉である蓮華はそう思った。
三者三様の考えに当の小蓮が気付く訳も無く、今も涼と歓談している。その時間も、余り長くは無い。
「そう言えば蓮華。」
「な、何かしら!?」
急に話を振られた蓮華は思わず、言葉に詰まる。
「孫軍の事に口出しするのはいけないとは思うんだけど、亞莎は君の許につけてもらえないかな?」
「……どういう事?」
「彼女は何れきっと孫軍の中心に居る。それだけの才能がある筈だ。そして、その才を十二分に発揮するのは孫仲謀、君の軍師としてだと思う。」
「……それも貴方の、天の知識によるものかしら?」
「そうだよ。例によって追及は無しで。」
「……解ったわ。伯言!」
「は~~い♪」
逡巡の後、蓮華は自分の後ろを進んでいた陸遜こと穏を呼んでいた。穏はゆっくりと馬を進めて蓮華の隣につける。
「あの呂子明という子の教育係を貴女に頼みたいの。受けてくれるかしら?」
「勿論ですよ~。私もあの子は才能があると思ってましたから。」
「お願いね。」
は~い、という間延びした返事を聞きながら、蓮華は呂子明こと亞莎の事を考えていた。
彼女はこの場には居ない。幾ら涼の推薦とは言え、来たばかりの人物をこの巨大な宣伝戦、所謂プロパガンダに参加させる訳にはいかなかった。不測の事態が起きてからでは遅いのだ。
蓮華の一存としては、彼女の気持ちを考えれば参加させてやりたかった。姉や妹に比べて色恋に疎い彼女でさえ、亞莎の気持ちが誰に向いているのかは一目で解った。
その証拠に、彼女は既に真名を涼に預けている。これから仕える主である孫堅やその娘である孫策よりも先に、である。
更には、涼が今日揚州を離れると知った時の動揺振りからも彼女の好意が解る。尤も、亞莎自身は未だハッキリと認識していない様だが。
そんな彼女に対し、涼はまたの再会を約束して亞莎と別れた。彼も彼女の好意に気付いていないのが事態をややこしくしているのだが、それを教えた所で今から出立する涼に何が出来る訳でも無い。それを考えれば、約束を交わした事は最良の手段だったのかもしれない。
それにしても、この清宮涼という人物は何処迄知っているのだろうか。
先程、この出立式というべき行列が動く前に蓮華は訊いてみた。すると涼は、
『何でも知っている訳じゃないよ。俺は、自分が知っている事を知っているだけさ。』
と苦笑しながら返している。
そんなのは当たり前ではないのか、と彼女は思ったが、その時周りに居た冥琳や穏といった軍師、文官にとっては琴線に触れる何かがあったらしく、感心した様に頷いていた。
蓮華は考えた。涼の方が年上ではあるが、それ程差は無い。寧ろ、ここ数日での会話や行動を見る限り、彼の方が年下なのではないかと思うくらい、幼い面が目立った。
それに関しては仕方無いところだ。幾らこの世界で長く暮らしているとは言え、涼は基本的に現代で十数年間暮らしてきた。しかも、世界的にも治安が良い国である日本で。
そうした平和な世界で生きていれば、精神年齢が幼くなるのも当然だ。実際、半世紀前の十代と今の十代では、外見も考え方も大きく違う筈だ。蓮華が涼を幼いと思っても不思議ではない。
だが、そうかと思えば前述の様に様々な事を知っていたりする。お陰で、蓮華にとって清宮涼という人物はよく分からない、でも油断出来ないという評価になっている。
(姉様や母様が涼を評価している理由は解る。……けど、本当に彼を信頼して良いのかしら?)
元々、姉である雪蓮から、「真面目で堅物」という評価をされている蓮華である。周りが簡単に――実際はそうでもないのだが――涼を信頼し、同盟を組んだので、必然的に彼女は慎重にならざるを得ないのだ。
勿論、他にも冥琳などはそれなりに涼を警戒しているのだが、蓮華からすればそれは警戒しているとは言えない。彼女にとっての警戒とは、警戒に警戒を重ねるくらい慎重にという事である。
正史に於ける孫権は、その生涯で内政の手腕は高く評価されている。また、外交も時には劉備と、時には曹操と組む等、強かな面を見せている。それは、自身が先代の兄孫策、先々代の父孫堅より劣っていると思っていたからかも知れない。
勿論、孫権の実績を見れば決して劣ってはいないのだが、先の二人が武勇に優れていた事と比べれば孫権は少し劣るかも知れない。
孫権も合肥の戦い等で陣頭指揮を執るなどの武勇があるのだが、いささか血気に逸って死にかける事も多々有ったという。
また、晩年の孫権は猜疑心の固まりになって多数の肉親、部下を死に至らしめている。正史の著者である陳寿は、「万人に優れ傑出した人物」と評しつつ、晩年の行為については「子孫達に平安の策を遺して、慎み深く子孫の安全を図った者とは謂い難い」と切り捨てている。
そうした事が、この世界の孫権である蓮華にも影響しているのかも知れない。尤も、それについては蓮華は勿論、三国志を知る涼も知らない。
彼女がそんな悩みを抱えている時、一団の前方から一人、馬に乗った女性が近付いて来るのが見えた。
不審者か。暗殺者か。すわ集中する鈴々を始めとする徐州軍。だが、一方の孫軍は慌てる事無く、その人物の接近を待っている。
それを見た涼は鈴々達に、警戒したまま様子を見る様に厳命した。
やがて、その人物は涼達の、というより海蓮達の前に着くと即座に下馬し、平伏の姿勢をとった。
「海蓮様。諸葛子瑜、只今帰還しました。」
「荊州への長旅、御苦労であった。報告は後で良いから、取り敢えず婿殿に御挨拶だけでもしておきなさい。」
海連は彼女――諸葛瑾を労うと、後ろに居る涼を見る。
諸葛瑾は涼の姿を伺うと恭しく近付き、先程海連にしたように平伏し、名乗った。
「御初に御目に掛かります、清宮様。私は徐州琅邪郡陽県生まれ、漢の諸葛豊が子孫、諸葛珪が子。姓は諸葛、名は瑾、字は子瑜、真名は紅里と申します。どうかお見知り置きを。」
涼は、諸葛瑾の透き通る様な声から紡がれた丁寧な名乗りに驚きながら、自分もきちんと名乗り返した。
「子瑜さん、御丁寧にありがとう。俺は徐州軍州牧補佐の清宮涼。一応、天の御遣いなんて呼ばれているけど、そう気にしないで良いから。」
「そうはおっしゃいますが、清宮様の御活躍は妹から伝え聞いていますし、そんな訳には……。」
どうやら、彼女はかなり真面目な性格らしく、涼の気遣いに対しても畏まっていて中々その厚意を受け取ろうとしない。
それを見かねた海蓮が、諸葛瑾に言った。
「紅里、婿殿を余り困らせないで。彼が良いと言っているのだから、その通りにしなさい。」
「……成程。確かにそうですね。失礼しました、清宮様。」
「ううん、さっきも言ったけど気にしてないから。」
そう言われた諸葛瑾はホッとしたのか、安堵の笑みを浮かべる。
その際、涼はさり気なく彼女の容姿を観察した。
腰迄ある長い金髪、真名の様に紅い瞳、妹と同じ様に幼い顔。スラリと伸びた手足、出るとこは出て、引っ込む所は引っ込んでいて、女性にしては高い身長。やはり妹と似たデザインで、紺色を基調とした服裝、ベレー帽を被っている妹と同じ様に、彼女はストローハット、要は麦藁帽子を被っている。
姉妹だけあって雰囲気は似ているが、外見は結構違うな、というのが涼の感想だ。
「妹さんといえば、朱里には徐州の仕事で色々助けてもらっているよ。優秀な妹さんだね。」
「有難うございます。あの子は、私達姉妹の中でも特に優秀ですから。私なんか足元にも及びません。」
「ご謙遜を。子瑜さん……いや、紅里さんも相当な実力者でしょう。朱里が言ってましたよ。“お姉ちゃんは私達を助ける為に遠く揚州に仕官しに行って、そこで活躍しています。自慢の姉です。”って。」
「あ、あの子ったら、何だか恥ずかしいわね。」
涼から聞いた妹の言葉に照れているのか、紅里はその真名の様に顔を紅くする。
涼が言った様に、朱里こと諸葛亮は優秀な人物で、正史でも優れた人物で政治の腕が凄かったと伝わっている。
演義だとそこに「天才軍師」の肩書きが加わり、更に妖術やら祈祷やらが使える完璧超人みたいな扱いになっているが、実際は勿論そんな事は無く、軍事にもある程度精通した政治家というのが現代における諸葛亮の評価だ。
その兄である諸葛瑾は、現代日本では余り知られていないが、彼も優秀な人物だ。
「左氏春秋」「尚書」等を読んで学問を極め、孫権の許でその才能を発揮。様々な戦果を上げ、孫呉の大将軍に迄なっている。
また、諸葛亮の兄という事や、夷陵の戦いで講和の使者になっていたりするので勘違いされがちだが、諸葛瑾は武官である。政治家としての才能もあったが、「呉主伝」によると前述の事を理由に一度孫権の要請を黙殺している。
その様な事を涼は知っている為、この世界の「諸葛瑾」も優秀な人物だろうと思っている。
その考えは当たっている。紅里は先程の海蓮の言葉から、荊州へ行っていた事が解る。この世界では今荊州は袁術の統治下にある。そこに行ってきたというのは、当然ながら単なるお使いでは無い。その内容を涼が知る事は無いが。
まあ、涼もそんな事を気にする性格では無いので問題は無いが。
「と、兎に角、妹に会ったら私はいつも貴女達を想ってますよ、と宜しくお伝えください。勿論こちらからも手紙は出しますが。」
「構いませんよ。これから兗州に行くので、帰るのは未だ先になりますが、必ず伝えます。」
涼がそう言うと、紅里は再び平伏の姿勢をとり何度もお礼を言った。
その後、海蓮の計らいで紅里も行列に参加し、建業を出る涼達を見送った。徐州軍が全員建業から出ると、城壁に居た兵士達が、海蓮の指示によって様々な楽器による演奏を行い、壮大な送別となった。
尚、帰り際に涼が雪蓮に頬ではあるがキスされた事で、一悶着あったのだがそれは割愛する。どうせいつもの事なので。
そんなこんなで徐州軍が建業から離れ終わると、孫軍の一同は一仕事終えたからか大きく息を吐いた。
「……それで、母様は兵士達の選抜をどうする気なの?」
雪蓮は前を向いたまま、隣に居る海連に訊ねる。
「気が早いわね。未だ要請は来ていないわよ。」
「戦いの場所は青州か徐州になるのよ。要請が来てから準備していたんじゃ、間に合わないわ。」
「まあ、ね。かと言って、余り大軍を派兵する事は出来ないわよ。解っているでしょ?」
「解っているから訊いているのよ。荊州の袁術、南の南越、どちらも警戒を怠れない。どっちも、隙を窺っているのは明白。」
「そうね。……けど、だからこそ好機とも言える。」
「どういう事?」
雪蓮は海連が言いたい事が解らず、思わず訊き返した。
「あら、解っているんじゃなかったの?」
「ぐっ……解らない事もあるわよ。別に良いでしょ!」
「あらあら。」
ふくれる愛娘を見て、海連は子供をからかうのは楽しいと再認識した。とんでもない母親である。
「恐らく、海蓮様は将兵を鍛える好機とおっしゃいたいのでしょう。」
「鍛える?」
「流石ね、公瑾。伯符とは大違いね。」
「そりゃ、知力じゃ冥琳に勝てないわよ。冥琳が剣で私に勝てないのと同じ。それより冥琳、解り易く説明してよ。教えて冥琳♪」
「そうは言うが、ある程度は理解しているのだろう?」
「まあね。将兵を鍛えるには、先ず調練。けど、実戦に優るものは無い。だから、いざ戦いになり、それを生き残った将兵は自身でも考えられない程に成長している。」
「そう。どんな将兵も、始めは弱く名も知られていない。戦いの中で生き残り、経験を積み、強くなり、やがて歴史に名を残す名将となる。劉邦に仕えてその才を発揮した大元帥・韓信の様に。」
前漢の三傑の一人、韓信の名を挙げて説明をする冥琳。尤も、韓信は項羽に採り立てられなかった事以外は殆ど挫折しなかった様だが。
「そして、その実戦の舞台は今三つ在る。南越、袁術、そして青州・徐州。ここに若手将兵を投入し、経験を積ませるつもりなのよ。」
「それが好機? それくらいなら私も考えたけど……。」
「海蓮様のお考えはそこに付け足しがあるのよ。……蓮華様と小蓮様の指揮官としての経験を積ませるという、ね。」
「なっ!?」
「え?」
急に名前を呼ばれて慌てる蓮華と、呼ばれたけど何かな? というくらいに落ち着いている小蓮。そんな二人を見て、雪蓮は納得し、同時に何かに気付いた様だ。
「……成程ね。冥琳、理由ってそれにもう一つあるんじゃない?」
「ほう……? 雪蓮は何だと思う?」
「私達が徐州や青州に行く事で涼と過ごす時間を増やす、って事でしょ?」
「その通りだ。黄巾党の戦いで一緒だった雪蓮と違い、御二方は清宮と余り一緒には居られていないからな。」
「将来を考えて二人も涼と結婚出来る様にしたのに、シャオは兎も角、蓮華は殆ど話さなかったみたいだし。」
蓮華は、自分の事をまるで意気地無しか無愛想の様に言われて思わず口を出しそうになるが、当たらずとも遠からずというのが実情なので、結局言い返せなかった。
「まあ、蓮華様は雪蓮とは違うからな。慌てずとも良いが、少しでも慣れてもらわねば孫家の為にならない事も事実。……それはお解りですね、蓮華様?」
「……っ! わ、解っているわ、それくらい。」
「なら良いのです。」
「そ、それより、私は一つ気になったのだけれど。」
「何でしょう?」
蓮華が訊ねてきたので、冥琳は姿勢を蓮華に向けて話を聞く体勢にした。それを見てから連華は疑問をぶつける。
「さっき冥琳が言った事が正しいとすれば、私だけでなくシャオも指揮官の訓練もするという事でしょう? こう言ってはなんだけど、普段の勉強も四風から逃げているシャオには荷が勝ち過ぎていると思うわ。」
「お姉ちゃんの言い方には反論したいけど、シャオもちょっと無理だと思う。」
「まあ、それは私も思うわよ。シャオは私達に何かあった場合の最後の切り札なんだし、無茶はさせたくないわ。」
「ならば何故……。」
「今言ったでしょ? シャオは私達に何かあった時の切り札だって。けど、切り札なのに何も出来ない只のお姫様じゃ、これから先やっていけないわ。」
「けど、その時は涼と結婚すれば良いんじゃないの?」
「その時も涼が居るとは限らないでしょう? 元の世界に戻っているかも知れないし、死んでいるかもしれない。そもそも、生きていても同盟関係が続いているとは限らない。その時に、私達が居なくてシャオは何が出来るの?」
雪蓮に言われて、小蓮は何も言い返せなかった。
彼女は二人の姉と比べて決して劣っている訳では無い。只、年齢の所為か末妹だからか、彼女は自由奔放に生きている。自由奔放で言えば雪蓮も負けていないが、彼女は長姉という立場でもある為、一応自制が出来ている。それでも周りは大変な目に合うのだが。
自由奔放で余り勉強をせず、かと言って武芸に打ち込むという訳でも無い。演義では「弓腰姫」と渾名され、夫である劉備は勿論、孫呉の将兵達からも恐れられた孫夫人だが、この世界の孫夫人こと孫尚香こと小蓮は未だそれ程の実力は無い様だ。
「だから、今の内に経験を積んでおく必要があるのよ。勿論、きちんと護衛を付けた上でね。」
「本当ならば、護衛なんて要らないと言いたい所だけど……。」
「今のシャオ達じゃ、護衛無しは難しいかな。」
「そうそう、せめて私くらいにはならないと。」
「いや、雪蓮も護衛を付けてほしいのだがな。」
冷静にそう言った冥琳に対し雪蓮は文句を言ったが、彼女自身が孫家の跡取りの第一候補である事を改めて告げると言い返せなくなった。
「兎に角、要請が来たら私達が援軍に向かう、将兵は若手中心、って事ね。南越や袁術への備えは母様達がするの?」
「ええ。私達が一睨みすれば南越は震え上がり、袁術は漏らしてしまうかも知れないわね。」
そう言うと、海連は小さく笑った。周りに居る孫堅四天王もそれに倣って笑う。
実際に、この面子が前線に出れば味方の士気は大いに上がり、敵は恐れ戦くだろう。それだけの実績と実力、そして迫力が彼女達にはある。
「まあ、そうした戦いとか関係なく清宮と逢えれば一番だがな。」
「まったくね。」
冥琳と雪蓮はそう言って苦笑する。
涼との、徐州軍との同盟によって互いの背中を預ける事が出来た。当然それにより新たな責任が生じたが、それはこの際些細な事だ。
そう、敵を倒す事が出来るのならば。
漸く書き終わりました。
纏めようとしても纏まらず、時間がかかってしまい、申し訳ありませんでした。次はもっと早く書ける様にします。
さて、今回はオリジナル武将を沢山出しました。名前だけの武将も居ますが、そのキャラも何れ出るでしょう。このオリキャラを沢山出したのが遅れた要因の一つではありますが。
さて、次はいよいよ華琳編です。と、なると、原作のあのキャラが出てくるかも?既に大筋の話は出来上がっているので、そんなに遅れる事は無いと思います。多分。
今回のパロディネタ。
「みんな、鍛えてますから。」→「鍛えてますから。」
「仮面ライダー響鬼」の主人公、ヒビキの口癖より。主人公は明日夢かも知れないけど、やはり仮面ライダーなので、筆者はこの様に認識しています。
「肩から袖にかけて黒い線が三本引いてある。それを見た涼は片仮名五文字の某スポーツブランドを思い出した。」→「アデ◯ダス」
自分はこのスポーツブランドをよく使います。
「某戦闘民族の様に若い時代が長く、老化の時期が遅いのだろうか。」→「サイヤ人は戦闘民族だから、若い時期が長いんだ。」
最近、新作映画が公開されたドラゴンボールの原作最終回のベジータの台詞より。
若い時期長過ぎです(笑)
「何でも知っている訳じゃないよ。俺は、自分が知っている事を知っているだけさ。」→「知らぬさ!所詮人は己の知ることしか知らぬ!」
「機動戦士ガンダムSEED」のラウ・ル・クルーゼの台詞より。
色々言われた作品だけど、あの最終決戦は良かったと思う。
では、次回の華琳編でまた会いましょう。
2013年9月25日更新。