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真・恋姫†無双 ~天命之外史~  作者: 夢月葵
第二部・義勇連合軍編
10/30

第六章 戦いが終わり、戦いが始まる。

黄巾党との戦いは一先ず終わった。


だが、これで全てが終わった訳では無い。


寧ろ、これから始まるのだと、何人が気付いていたのだろうか。

気付いても気付かなくても、時は流れていった。




2010年2月15日更新開始。

2010年4月1日最終更新。

「皆、お疲れ様。」


 張宝(ちょうほう)率いる黄巾党(こうきんとう)を倒したその夜、連合軍の本陣では戦勝を祝した宴が開かれようとしていた。

 名目上とは言え総大将を務めた(りょう)が正面中央の席に着き、その右隣に桃香(とうか)、左隣には曹操(そうそう)が座っている。

 更に桃香の右隣には董卓(とうたく)が、曹操の左隣には盧植(ろしょく)が座り、連合軍の各指揮官が一列に座っていた。

 その他の武将や軍師達は、涼達から見て正面左右に在る席に座り、総大将である涼の言葉を聴いている。


「苦しい戦いの中、皆よく頑張ってくれた。残念ながら敵将張宝は捕り逃してしまったが、今回の敗戦で黄巾党の勢いは大きく失われるだろう。」


 愛紗(あいしゃ)鈴々(りんりん)雪里(しぇり)達が頷く。


「勿論、未だ黄巾党の全てを倒した訳では無いから油断は出来ない。けど、今日は皆で勝利を祝い、疲れを癒してくれ。」


 そう言うと涼は杯を手に取り、掲げながら宣言した。


「では、戦勝を祝して、乾杯!」

「乾杯!」

「御遣い様に乾杯!」


 涼の音頭をキッカケに皆思い思いの言葉を言いながら、杯に注がれていたお酒を飲んでいった。

 因みに、未成年の涼はお酒の代わりにお茶を飲んでいる。

 この世界ではお茶も高級品なので、宴で飲んでいてもおかしくはない。

 とは言え、こうした席では通常お酒を飲むものだから、お茶を飲むのは珍しい事でもある。


「涼、折角の宴なのだからお茶ではなくお酒を飲みなさいよ。」


 そう言ったのは曹操だ。

 手にはお酒が入った徳利を持っており、涼に勧めようとしている。


「有難う曹操。けど俺、未成年だし。」

「未成年って……確か、貴方は十七歳だって言ってなかったかしら?」

「そうだよ。この国じゃどうか知らないけど、俺の国では成人は二十歳からなんだよ。それ迄は飲酒も喫煙も禁止されているんだ。」

「だから飲まないと言うの?」

「ああ。」

「真面目なのね、貴方。」

「どうだろ? ただ、ルール……規則を破って迄する事じゃ無いと思っただけさ。」


 涼は苦笑しながらそう言うと茶碗を手にし、グイッとお茶を飲み干す。


「ここは貴方が居た世界では無いのに?」


 曹操はそう言いながら、いつの間にか持っていた水差で涼の茶碗にお茶を注いだ。


「あ、有難う曹操。それじゃ……。」


 涼はお茶のお返しとして曹操の杯にお酒を注ぐ。


「有難う、涼。」


 その杯を丁寧に口に運び、静かに飲み干していく曹操。

 片手でグイッと飲む涼とは対照的に優雅な仕草だ。


「例え住む場所が変わっても、それ迄の習慣ってそう簡単には変わらないだろ? お酒に関してもそれと同じさ。」


 涼は先程の問い掛けに答えながら、宴の為に振る舞われた料理を口にする。

 肉料理も野菜料理もバランス良く配膳されているが、皆肉が好きらしく出席者の大半は肉ばかりを食べている。

 因みに涼も肉料理を少し多く食べていた。


「まあ、一理有るわね。」


 曹操は笑みを浮かべながら料理に手をつけた。

 やはり静かに優雅に食べていく。

 因みに涼は普通の食べ方なので、特に優雅でも無いし、また汚くも無かった。


清宮(きよみや)様。」

「何ですか、盧植さん?」


 そんな中、盧植が涼に声をかけてきた。

 涼は一旦箸を休め、口の中に有る食べ物を胃の中に送り込んでいく。


「先程も言いましたが、改めて戦勝おめでとうございます。」

「有難うございます。けど、さっきも言った通りこれは俺だけの手柄ではありません。皆さんのお陰で手にする事が出来た勝利です。」


 盧植の祝辞を素直に受けつつ、同時に盧植達を労う涼。

 因みに二人が言っている「先程」や「さっき」とは、涼が張宝を保護した後、山頂で盧植達と合流した時の事を指している。

 山頂での戦いが一段落した頃、真っ先に涼と桃香の(もと)にやって来たのは雪里だった。

 雪里は涼の顔やコートに着いた血を見て一瞬驚いたが、直ぐに落ち着いて涼に手拭いと羽織を手渡した。


『この場に居る黄巾党は、その殆どが討ち取られるか投降しています。ですから顔に着いた返り血を拭き、お召し物を着替えても宜しいかと思います。』


 そう言って促された涼は、雪里の言う通りに返り血を拭い、コートを脱いで代わりに羽織を羽織った。

 その後、愛紗と鈴々が部隊を引き連れて合流すると、涼は自分の考えを三人に打ち明けた。

 当然の如く驚き反対されたが、共に戦い始めて約一ヶ月。涼の性格を熟知している三人は意外と簡単に同意した。

 それから、愛紗は雪里が戦術の為に手に入れていた情報に有った道の確認に行き、鈴々と雪里は各部隊の状況確認をし、涼と桃香は張宝の探索に向かった。

 その後、無事張宝を保護した涼は桃香や(せい)達に張宝を預け、部隊に戻った。

 その時には完全に戦闘が終わっており、曹操達が部隊に合流していた。


『清宮様、戦勝おめでとうございます。』


 そこで涼に対して祝辞を述べたのが盧植であり、また、曹操達もそれに倣っていった。


「けど、貴方や劉備が奇襲攻撃を仕掛けなければ勝つ事は難しかったし、例え勝てても甚大な被害を被っていた筈。だから、今回の一番の功労者は貴方よ。」


 二人の話を聞いていた曹操がそう言うと、涼は照れながら言った。


「それなら、桃香達もその中に加えてくれよ。俺なんかよりずっと頑張ってくれたんだから。」

「確かに、関羽(かんう)張飛(ちょうひ)、そして徐庶(じょしょ)の活躍には目を引くわね。でも……。」


 曹操は涼の顔を、そして手を見つめると、顔を近付けて小さな声で言った。


「人を斬った事が無かった貴方が人を斬った。それだけでも、やっぱり貴方が功労者だと思うのだけど?」

「……俺が人を斬った事が無かったって、何故解ったんだ?」

「そりゃ解るわよ。貴方にはそんな雰囲気が無かったし、それに……。」

「それに?」

「それに、戦場で白い服を着るなんて普通しないしね。」


 返り血を浴びる可能性が高いのだから、その意見はもっともだ。

 現代でも、白い服は汚れが目立つという理由で敬遠される事が有る。


「まあ、あの服は俺が違う世界から来たって証みたいなものだしなあ。」


 涼はそう言うと再びお茶を飲む。因みに、理由はそれだけでは無いのだが。


「それに、人を初めて斬ったのは俺だけじゃない。桃香……劉備(りゅうび)も同じだしね。」

「どうやらその様ね。あの娘も少し雰囲気が変わったみたいだし。」


 そう言うと、涼の右隣に居る桃香を見る。

 桃香は隣に居る董卓と話が弾んでいるらしく、笑顔を浮かべながら食事をしていた。

 だが曹操は気付いていた。その笑顔の中に有る「陰」に。


(まあ、これは戦いに身を投じた人間全てにかかる病気みたいなもの。これに勝てないのなら、戦場に身を置くべきではないわ……。)


 戦いを続ける以上、これからも人を斬る事が有るだろう。

 その度に落ち込んでいては、何れその心身を壊してしまう。


(劉備……そして清宮涼。貴方達はどうなるかしらね。)


 それとなく二人を見ながら、曹操は思った。

 どうせなら、強くなってその姿を私に見せろ、と。

 何れ敵対するかも知れない相手に対してついそう思ってしまうのは、曹操の悪い癖である。

 曹操がそんな事を思っているとは涼や桃香は露程にも思っておらず、曹操は勿論、董卓や盧植、更には愛紗達と飲み交わしている。

 そこに、二人の少女がやってきた。


「清宮、見回り終わったぞ。」

「今の所、異常は有りません。」


 涼の前に並んで立つ二人は、対照的な外見と雰囲気を持っていた。


「二人共お疲れ様。ゆっくり休みながら宴の料理を堪能していってね。」

「有難うございます、清宮様。」

「よしっ、俺もう腹ペコなんだよな。(しずく)、早く食いに行こうぜ。」

「ちょっと時雨(しぐれ)ちゃんっ、ちゃんと清宮様達に挨拶しないとっ。……ああもうっ!」


 丁寧に挨拶した少女――雫に対し、もう一人の少女――時雨は挨拶もそこそこにして空いている席に向かった。

 残された雫は、困りながらもきちんと涼達に挨拶してからその後を追った。


「あの……清宮さん、あの人達は?」


 そんな二人を見ていた董卓が、涼に向き直りながら尋ねる。


「ああ、彼女達はさっき仲間になった娘達だよ。」

「さっきって事は……投降した黄巾党の兵なのかしら?」


 曹操も董卓と同じく気になっていたらしく、推測を述べてみる。


「いや、二人は桃香の友達なんだ。」

「劉備の? ならあの二人は義勇軍に入ったの?」


 曹操のもっともな疑問を受け、涼と桃香は説明を始めた。

 時雨達は、黄巾党の殲滅と桃香との合流を目的として旅をしていた事。

 戦場となったあの山に、連合軍とは反対側の小道から登った事。

 そして戦いの最中に偶然出会い、そのまま仲間になった事等を簡潔に説明していった。


「……それじゃあ、その方達全員が義勇軍に参加したって事ですか?」


 説明が終わると、董卓が確認の為の質問をした。


「いや、少なくとも三人は未だ旅を続けるらしいよ。仕える主を見極めたいってさ。」

「つまり、私達じゃ仕えるに値しないって事かしら?」


 涼が董卓にそう答えると、曹操が不満そうに言った。


「そうじゃないと思うけど。多分、簡単に決めたくないんじゃないかな?」

「ふうん……。まあ良いわ。それで、その残りの娘達はどこに居るのかしら?」

「皆この中に居る筈だよ。……ああ、さっきの二人と一緒みたいだね。」


 涼が時雨達の居る方を指差すと、曹操だけでなく董卓や盧植も目を向けた。

 そこには確かに時雨と雫が並んで座っていた。

 そして、時雨の右側にセミロングの茶髪の少女と水色の髪の少女、雫の左側に眼鏡の少女と長い金髪の少女が同じ列に並んでおり、仲良く食事をしていた。


「皆さん仲が良いんですね。」

「一緒に旅する様になって、それなりの時間が経っているみたいだからね。けど、何だかずっと前からの知り合いみたいだ。」


 時雨達の様子を見た董卓が、微笑みながら言った。それは涼も同じ感想だった。

 何よりも驚いたのは、“その場に居る張宝”迄もが何の違和感無く時雨達と接していたからだ。


(まあ、変にビクビクして怪しまれるよりマシか。)


 張宝を宴に参加させるのは流石に反対意見も多かったが、「木を隠すなら森の中」という理由から最終的には皆納得した。

 勿論、涼の性格から仕方無くといった感じもあったが。


「成程ね……。後で勧誘してみようかしら。」

「するのは勝手だけど、彼女達の意思も尊重してやりなよ?」

「解っているわよ、それくらい。」


 当然の事を注意されたからか、曹操は少し機嫌を悪くした様だ。

 なので涼は話を変える事にした。


「ところで、これからの事なんだけど。」

「何?」

「張宝の部隊は倒せたけど、黄巾党には未だ張角(ちょうかく)張梁(ちょうりょう)の部隊が残っている。だからこれからも戦いは続く筈だよな?」

「そうね。」


 曹操は涼の話に乗ってくれたのか、真剣な表情になって聞きだした。


「なら、俺達はこれからどう戦うかの指針を決めないといけない。」

「……つまり、このまま連合を続けるかどうかという事かしら?」

「ああ。」

「私としては、このまま連合を組んでも良いのだけど……。」

「何か問題でも有るの?」


 口籠もった曹操に違和感を感じた涼は、曹操を見つめながら尋ねる。

 曹操は暫く間を置いてから答えた。


「私の軍の兵数は連合軍の中で二番目に少ない。このままでは、余り戦力になりそうも無いわ。」

「そんな事言ったら、義勇軍の数は三千弱だから連合軍の中で一番少ないんだけど。」

「けどそっちには関羽と張飛という武将に、徐庶という軍師が居る。それに比べたら、こっちは軍師の桂花(けいふぁ)くらいしか連れてきていないから、どうしても見劣りするわ。」


 そう言うと曹操は杯を口に着け、お酒を飲み干した。


「……だから、一旦連合軍から離れて部隊を再編成し、それから改めて合流したいのだけど……どうかしら?」

「良いんじゃない? 連合軍としても、戦力が増強されるのは心強いし。」

「有難う、助かるわ。」


 涼から了承を得た曹操は笑みを浮かべながら再びお酒を飲み、そして左隣に居る盧植に向き直った。


翡翠(ひすい)様はどうなさいますか?」


 話を振られた盧植はお酒を飲んでいたので、一旦杯を置いてから質問に答えた。


「私はこのまま連合軍に残る予定ですよ。……董卓さんはどうします?」


 盧植は、曹操の問い掛けに簡潔に答えると、続けて董卓に質問を投げかけた。

 急に話を振られた董卓だが、慌てる素振りは全く無く、常の静かな口調で答えていった。


「……元々、連合軍は私達の軍と清宮さんの義勇軍が手を取り合って出来たものです。その結果、この様な大勝に繋がったのですから、私達はこの共闘を止めるつもりはありません。」

「なら、後は涼がどうしたいかで方針は決まるわね。」


 董卓が答え終わると、曹操が涼を見ながら言った。

 それにより、皆の視線が自然と涼に向けられる。


「さっき曹操にも言ったけど、連合軍の中では俺達義勇軍が一番兵数が少ない。だから(むし)ろ、連合軍に参加し続けるのをこちらから求めたいくらいだよ。桃香も、それで良いよね?」

「うん。私も、涼兄さんと同じ考えだよ。」

「なら、決まりですね。」


 涼や桃香の言葉を聴いた董卓が、両手を合わせながら微笑む。

 曹操は一時的に離脱するものの、最終的には戦力を増強して合流する。

 なら、負ける事は無い筈。

 董卓の笑みは、戦いの終わりが見えた為の笑みだった。

 連合軍の指針が定まると、涼達は再び宴会モードに戻っていった。

 そうして宴は夜更け迄続き、やがて解散した。


「うーん、頭が痛いよー。」

「飲み過ぎだよ、桃香。」


 顔を紅らめ、フラフラになりながら歩く桃香を支えながら、涼は自分達の天幕に向けて戻っていた。

 途中迄同じ道なので、董卓や曹操、盧植も同行している。


「フフ……玄徳(げんとく)は昔からはしゃぎ過ぎる傾向にありましたが、今も変わらない様ですね。」

「うう……面目無いですぅ……。」


 盧植に言われてうなだれる桃香。それを見て笑う涼達。

 宴の余韻もあって、皆朗らかな気分になっていた。 そんな中、一人の兵士が息を切らせて涼達の許にやってきた。


「どうかした?」


 一応、今日一杯は未だ連合軍の総大将である涼が兵士に尋ねる。

 兵士は息を整える事もせずに答えた。


「はっ! さ、先程っ、洛陽(らくよう)から官軍が参りまして、盧植将軍に話が有るとの事でしたっ。」

「私に?」


 突然の事に盧植は少し戸惑いながら声を出した。


「ひょっとして、今回の勝利に対する恩賞かな?」

「まさか。今日の勝利の報が洛陽に届いたとしても、その返事がこんなに早く来る筈が無いわ。」

「それに、もし今回の勝利に対する恩賞なら、盧植さんだけというのはおかしいです。」


 桃香は笑みを浮かべながら推測するも、曹操と董卓によってそれは否定された。

 涼が居た世界なら、情報の伝達は数秒も有れば可能だが、この世界にはインターネットといった便利な物は疎か、電話すら無い。

 交通の手段にしても、飛行機は疎か電車も自動車も無い。

 そんな世界では遠くの街に情報が届くのに時間が掛かるし、当然ながら返事も遅くなる。

 因みに、現在涼達は広宗(こうそう)の南西に居るが、ここから洛陽迄はどんなに馬を飛ばしても一日で往復出来る距離では無い。

 また、黄巾党との戦いに勝利した事による恩賞だとしても、盧植だけというのは確かにおかしい。

 少なくとも、奇襲部隊を率いた涼や劉備に無いのは変だし、盧植と共に本隊を率いた董卓と曹操に無いのも不自然だ。

 なので、洛陽から来たその官軍が恩賞を届ける為に来た訳では無いのは確実だ。


「一体何の用かしら……? 皆さん、済みませんが私は一足先に帰らせてもらいますね。」

「解りました。では盧植さん、お休みなさい。」

「お休みなさい。」


 そう言って涼達は盧植と別れ、各々の天幕へと戻っていった。

 翌朝、昨日の疲れもあって天幕の中に在るベッドで熟睡していた涼は、桃香に強引に起こされようとしていた。


「ん……あと五分……。」


 未だ寝足りない涼はそんな呑気かつ定番の言葉を口にする。

 だが、この後に桃香が言った言葉によって、そんな眠気は一瞬にして吹き飛んだ。


「涼兄さん、早く起きて下さい! 先生が……盧植先生が捕まりそうなんですっ‼」

「……何っ!?」


 予想外の事に驚いて飛び起きた涼は、桃香に詳しい事情を訊こうとするも、慌てている所為か説明がよく解らなった。


「と、兎に角早く来て下さいっ‼」


 そう言って桃香は涼の手を引っ張って天幕から連れ出そうとするが、寝間着姿の涼は着替える時間をくれと言って天幕から出るのを躊躇った。


「直ぐ着替えて下さいねっ!」


 桃香はそう言って天幕を出て行った。流石に着替えの最中迄天幕の中に居るつもりは無かった様だ。

 桃香が出て行った後、涼は急いで着替えを済ませた。時間がかかっては桃香が戻ってくるかも知れなかったし、何より涼自身も焦っていたからだ。

 着替えを終えた涼が天幕を飛び出すと、直ぐ側で桃香が待っており、彼女に案内されて盧植の許に向かった。

 桃香に連れられてやってきたのは、それぞれの陣からの合流地点となっている広場。

 そこには各陣営の武将や軍師、兵士達が多数集まっていた。


「ですから何故、盧植将軍が捕まらないといけないのですか‼」


 そんな中、洛陽から来た官軍の兵士達に向かって、一人の少女が凄い剣幕でまくし立てていた。

 膝迄有る長い銀髪に野球帽の様な橙色の帽子を被り、黄色いワンピースを着ているその少女は、涼がよく知る人物だった。


「雪里、落ち着け。」


 そう言って雪里――徐庶に声をかける涼。

 だが雪里の怒りは一向に治まる気配は無い。


「これが落ち着いていられますかっ‼」


 雪里は振り向き様に涼に向かって大声をあげる。その形相は普段の冷静な雪里とは、余りにもかけ離れていた。

 涼はその迫力に圧されるも、何とか平静さを保ちながら尋ねる。


「そう言っても、俺はさっき起きたばかりで事態を把握していないんだ。済まないが説明してくれないか?」


 涼がそう言うと、雪里は怒りを治めないまま説明を始めた。


「どうもこうもありませんっ! 洛陽の連中は、盧植将軍を職務怠慢という有り得ない容疑で逮捕するつもりなんですっ‼」

「先生が職務怠慢だなんて、絶対に有り得ません‼」


 雪里の説明を聴いていた桃香が否定の声をあげる。すると、その場に居た連合軍の人間全てが頷いた。


「ですが、洛陽の連中はそう思っていない様です。彼等を派遣したのがその証拠!」


 雪里は視線だけを洛陽からの兵士達に向けた。その視線には明らかに殺意が籠もっており、眼力だけで人が殺せそうな感じだ。


「落ち着きなさい、徐庶。」


 そんな彼女に、一人の女性が優しく、かつ諫める口調で話し掛けてきた。


「先生!」

「盧植殿‼」


 桃香と雪里を始めとして、その場に居た連合軍の人間全てが盧植に目を向けた。

 盧植はストレートヘアに常の服装である和服とドレスを足して二で割った感じの服を着ていたが、その手には枷が填められていた。

 その姿を見た桃香達は嘆きの表情を浮かべ、ある者は涙を流し、またある者はいたたまれなくなって視線を逸らした。


「先生……!」


 桃香と雪里、そして涼が盧植の許に向かう。盧植の周りには洛陽からの兵士が居て、彼等を疎んでいる様だった。

 その直後に董卓や曹操迄も現れると、尚更その雰囲気は強くなったが、誰もそんな事を気にはしなかった。


「玄徳、そう嘆く必要は有りません。」

「でも……。」


 盧植に心配されるも、やはり表情は曇ったままの桃香。そんな桃香の手を握りながら盧植は続ける。


「私は何も(やま)しい事はしていません。ですから、何れ誤解は解けるでしょう。」


 そう言われて少しだけホッとした表情になる桃香。

 勿論、そう簡単にいかない事は桃香もよく解っていたが、それは表情に出さない様にしている。


「ですが、この状況で盧植殿が居なくなっては、兵達の士気に係わります。」

「でしょうね。でも、それを解決する為の手は有ります。」


 雪里に指摘された盧植は、そう言うとゆっくりと涼を見据えた。

 急に視線を向けられた涼は、何事かと思い緊張する。


「清宮様、貴方に私の軍全てを委ねます。」

「えっ!?」


 突然の事に驚く涼。

 それは桃香達も同じだったらしく、皆驚きながら涼と盧植を交互に見つめた。


「貴方は天の御遣いであり、昨日の戦いではその知略と行動力を私達に見せてくれました。そんな貴方になら、安心して兵達を預けられます。」

「……解りました。未だ未だ若輩者ですが、謹んでその申し出をお受け致します。」

「有難うございます、清宮様。」


 安心した盧植は頭を下げて感謝を示した。


「でも、一つだけ良いですか?」

「何でしょう?」

「俺はあくまで盧植さんの兵士達を預かるだけです。盧植さんが戻ってきたら、その時はきちんと兵士達をお返しします。」

「……解りました。これ以上は気を使わせるだけの様ですし、それで構いませんよ。」


 今度は逆に、涼からの申し出を受ける盧植。

 盧植はその優しさに微笑み、口を開いた。


「では、清宮様には兵達だけでなく私の真名(まな)も預けましょう。」

「良いのですか?」

「ええ。これは私の信頼の証と思って下さい。」

「解りました。」


 涼が承諾すると、盧植は姿勢を正してから改めて自己紹介を始めた。


「私は、姓は“盧”、名は“植”、字は“子幹(しかん)”、真名は“翡翠”。この真名、貴方に預けます。」

「丁重にお受けします、翡翠さん。俺には真名が無いので、これからは名前の“涼”でお呼び下さい。」

「解りました、涼様。」

「あの、“様”は別に付けなくて良いですから……。」

「フフ……これも私なりの信頼の証ですから、お気になさらぬ様に。」

「わ、解りました。」


 悪戯っぽく微笑む盧植――翡翠に対して、涼は苦笑しながら承諾した。

 一連の話が終わると、洛陽からの兵士達が翡翠を急かし始めた。一応今迄待っていた様だ。


「解っています。……董卓さん、連合軍を頼みますね。」

「はい、盧植様。どうか御安心下さい。」


 董卓は表情を引き締めて翡翠に応える。


「華琳ちゃん、皆さんと力を合わせ、この戦いを一日でも早く終わらせてね。」

「解っています、翡翠様。……今暫くの辛抱ですから。」


 曹操は怒りを押し殺した表情のままそう言った。


「徐庶さん、貴女は軍師です。ならばその本分……忘れてはなりませんよ。」

「はっ……しかと心に刻み付けておきます……っ。」


 雪里は必死に涙を堪えながら頭を下げた。


「玄徳……涼様や皆と力を合わせるのですよ。そうすれば、皆が望む平和な世の中に必ず戻るのですから。」

「はいっ……先生……っ‼」


 桃香は涙を堪える事が出来ず、遂に翡翠に抱きついて声をあげて泣いた。

 抱き締める事が出来ない翡翠は、優しい言葉をかけて桃香を宥めていった。


「では涼様……後を頼みます。」

「はい、翡翠様。」


 涼は恭しく頭を下げて返事とした。

 その後、翡翠は洛陽からの兵士達に連れられて連合軍から去っていった。

 翡翠が連合軍を去った後、兵士達は動揺していたが、涼達の指導によって何とか落ち着きを取り戻した。

 また、翡翠から涼に託された盧植軍の兵士達は前もって伝えられていたらしく、大きな混乱は無くそのまま義勇軍に組み込まれた。

 本来なら大軍である盧植軍に義勇軍が組み込まれそうだが、その辺りも翡翠がちゃんと指示していた様で、盧植軍の兵士達は誰一人として不満を口にしなかった。

 その後、曹軍は軍備増強の為連合軍から離脱するも、周辺地域に住む若者達が参加した為、兵の数はさほど変わらなかった。

 こうして再編成と休息を終えた連合軍は進軍を再開した。

 広宗に残る旧張宝軍と対峙していた皇甫嵩(こう・ほすう)将軍や朱儁(しゅしゅん)将軍率いる部隊と合流し、旧張宝軍を撃破。

 その後、皇甫嵩将軍と朱儁将軍が豫州(よしゅう)に向かうと、連合軍は荊州(けいしゅう)南陽(なんよう)へ向かった。

 連合軍はそこで張曼成(ちょう・まんせい)趙弘(ちょうこう)韓忠(かんちゅう)孫夏(そんか)といった黄巾党南陽部隊と交戦。四ヶ月もの長き戦いの末、これに勝利する。

 これ程時間がかかったのは、敵が苑城(えんじょう)に立て籠もって籠城戦に持ち込んだ為である。

 だが、孫堅(そんけん)を始めとした部隊が朱儁将軍から派遣されると、彼等の活躍もあって均衡が崩れ、遂に勝利を収めたのだった。

 その後、各地での官軍の勝利が伝えられる様になった。黄巾党の勢いは完全に無くなっていたのだ。

 そんな中、荊州・苑城にて周辺地域の安定に努めている連合軍に、ある一報が届いた。


「どうやら曹操が、張角・張梁を討ったらしい。」


 その報せを受けた涼が、連合軍の軍議で発表した。

 因みに、翡翠や曹操が連合軍を去ってからも涼が連合軍の総大将を務めている。


「では、黄巾党は壊滅したという事かしら?」


 先の戦いから連合軍に参加している孫堅が尋ねる。涼の予想通り、孫堅も女性だった。

 孫堅は、桃色の長髪を結い上げた所謂ポニーテールの髪型をしており、服装は深紅のチャイナドレスを大胆に加工した物を着ている。

 年齢は涼より一回り以上上の筈だが、その美貌や色香は年齢を感じさせない程若々しい。

 その隣には孫堅と似た姿と服装の少女が座っている。

 彼女の名は孫策(そんさく)。孫堅の娘であり、後継者と目されている人物。孫堅の若い頃はこんなだったのかなと思わせる程、二人は良く似ていた。


「実質的にはそうなるね。張角と張梁が討たれ、残る張宝は依然として行方不明だ。もし張宝が再起したとしても、以前の様に混乱が広がる事は無いだろう。」


 涼は孫堅達を見ながら言った。

 百戦錬磨の豪傑と言われるが、今はそんな雰囲気を微塵も感じさせず、柔らかな物腰の孫堅と、常に殺気立たせている孫策。

 二人は良く似た姿をしているが、印象は全く違っていた。


「けど、残党は居るんでしょ? だったら戦いは未だ終わらないわ。」


 孫策は刺々しい口調でそう言った。

 確かに残党は居る。涼達連合軍が苑城に留まっているのも、先の戦いで投降せず逃げ出した黄巾党を討伐し、地域の治安回復を図る為だ。


「確かにね。だから今情報収集をしている所だよ。それが終わったら作戦を練って……。」

「遅い! それでは奴等を逃がすだけよ‼」


 涼の言葉を遮って孫策が叫んだ。

 その瞬間、その場に居た全員に緊張が走る。

 因みにここには、上座に涼と桃香、雪里が、涼から向かって左側に董卓と賈駆(かく)、そして旧盧植軍の武将と軍師が一人ずつ。右側に孫堅と孫策、そして孫堅の右腕たる武将、程普(ていふ)といったメンバーが居た。

 その程普が孫策に言った。


「若君様、少し落ち着かれると宜しいかと存じます。」


 孫策を見ずに静かな口調で言った程普を、孫策はキッと睨み付ける。

 因みに、やはり程普も女性だった。


「何よ、泉莱(せんらい)は私より清宮の味方をするつもり?」


 程普の真名と思われる名前を呼びながら、孫策は程普の前に立った。

 場の空気がより一層張り詰めていく。

 涼を始めとしたメンバーは皆どうするべきか悩んでいるが、孫堅は悩むどころか一向に動こうとしなかった。


「そうですね……今の若君様よりかは、総大将の味方をするでしょうね。」

「……孫家を裏切るつもり?」

「ふむ……若君様はもう少し言葉の勉強をなされた方が宜しいようですな。私は、若君様よりは総大将と言いましたが、殿より総大将とは一言も言っておりませぬよ。」


 段々と語気が強くなっていく孫策に対し、相変わらず冷静な口調と態度のままの程普。

 その態度が気に障ったのか、孫策は益々苛立っていく。


「……つまり、私は清宮より劣っていると言うの?」

「さて、それくらいは御自身でもお分かりになるのでは有りませんか?」


 程普のその一言で、孫策の堪忍袋の緒がバッサリと切れた。

 程普の真名を叫びながら、孫策は座ったままの程普の左側頭部に向けて右足を蹴り上げた。

 だが、程普は左手を瞬時に動かして孫策の右足首を楽々と掴んだ。お陰で孫策は動けなくなった。

 すると、程普がそのまま立ち上がったので、足を掴まれたままの孫策はバランスを崩して床に倒れた。

 孫堅と同じく大胆な露出が有るチャイナドレスを着ている孫策は、倒れた際に下着を露出させている。

 幸い、この場に居る男は涼一人だったので、恥ずかしさは少ないかも知れない。


「二人共、そこ迄よ。」


 そう言ったのは、今迄静観していた孫堅だった。

 途端に程普は手を離し、孫策もハッとして孫堅を見た。

 孫堅の表情は先程迄とは打って変わって、厳しく険しいものになっている。


「これ以上軍議を乱し、私の顔に泥を塗るつもりなら……幾ら愛娘や戦友とは言え、容赦はしないわよ。」

「承知致しました。」

「わ、解ったわよ……。」


 孫堅は氷の様に冷たい口調で喋り、まるで見た者を射殺す様な眼を二人に向けた。すると、先程迄あれ程怒っていた孫策が、瞬時に大人しくなった。

 孫策が席に戻るのを確認すると、孫堅は涼に向き直って口を開いた。


「お騒がせしたわね。軍議を続けてちょうだい。」

「あ、ああ。」


 そう言った孫堅の口調と表情はとても穏やかなものだった。激昂していた孫策を瞬時に萎縮させた人と同一人物とは、とても思えない。

 その後再開された軍議では、情報収集を進める事、食糧危機に陥っている民の為に食糧を分け与える事、そして、治安回復の為に連合軍の各部隊を周辺に配置する事が決まった。

 軍議終了後、孫策が軍議中の振る舞いについて涼に謝罪した。

 勿論涼は許したが、孫策は簡単に許された事を意外に思ったらしく、暫く涼を見つめていた。


「……貴方、変わってるわね。」


 孫策はそう言って退室した。


「……変わってるかなあ?」


 涼のそんな呟きに対し、雪里と賈駆は「変わっている」との評を下したのだった。

 その後、各部隊の視察や街の様子の確認等をした涼は、疲れながら城へと戻った。

 城に在る広場の一つに足を運ぶと、そこでは孫策と程普が斬り合っていた。

 軍議中の事もあったので一瞬仲間割れかと思った涼だったが、直ぐ傍で孫堅が二人の戦いを見ていた為、それが模擬戦だと解った。


「随分本格的な鍛練だね。」


 涼がそう声をかけながら近付くと、二人は一旦手を止めて涼に挨拶をする。

 忘れてるかも知れないが、涼は連合軍の総大将なので、彼女達の上官なのだ。


「これぐらいやらないと身に付かないからね。」


 孫堅が涼に近付きながら言った。


「孫堅さん。」

「私は今貴方の部下なのだから、さん付けは要らないと言った筈だけど?」

「済みません。けど、これが俺のやり方なんで。」


 苦笑しながら涼が言うと、つられたのか孫堅も笑った。


「やっぱり貴方、変わってるわ。」


 孫策に言われた事と同じ事を孫堅にも言われた涼だった。

 その為改めて苦笑していると、孫策が近付きながらこう言った。


「丁度良いわ。私と手合わせしてくれないかしら?」

「えっ!?」


 突然の申し出に涼は困惑した。


「幸い今はあの五月蠅い関羽も居ないし……良い機会だと思ったんだけど?」

「そうかも知れないけど、わざわざ手合わせしなくても結果は見えてるよ。」


 涼は自分より孫策の方が強い事を解っていたので、苦笑しながらそう言った。

 だが、孫策はそれを違う意味にとったらしい。


「ふうん……そんなに腕に自信が有るのなら、尚更手合わせしたいわね。」

「……え?」


 全く想像していなかった言葉を聞いた涼は、苦笑する事さえ出来ずに思考が停止してしまった。

 そして思考が再び活動を始めると、涼は現状を理解した。


(もしかして孫策さん、すっごい誤解をしているのか!?)


 どうやら孫策は、涼が言った「結果は見えてるよ」を「自分(涼)が勝つ」という意味に捉えたらしい。


「いや、俺は別に強くないから。」

「強くもないのに連合軍の総大将をやれる訳無いじゃない。」

「それがやれてるんだよなあ……。」


 慌てて否定するも、孫策は全く信じようとしない。それどころか、総大将である以上はそれなりの実力が有ると考えている様だ。


「それに、本当に実力が無いのなら、私は貴方に従うつもりは無いわ。」

「困ったなあ……。」


 急に冷たい口調になった孫策は、殺気立った雰囲気になって涼を見据える。

 凄まじい殺気が涼を襲うが、数ヶ月間戦場に居るだけあって、涼はたじろぐ事すらしなかった。

 だが、それが却って孫策に戦う興味をそそらせる事になってしまった。


「三つも剣を持っているんだし、それなりに強いんでしょ? だったらその実力を私に見せてよ。」

「うーん……多分見せる間も無く終わっちゃうと思うよ。」


 涼はあっという間に自分が負けるだろうという意味で言った。

 だが、またも孫策は違う意味に捉えてしまった。


「つまり……私なんか簡単に倒せるって事かしら?」

「何でそうなるんだっ!?」


 二度も勘違いされて、思わずツッコミを入れる涼。

 だが、そのツッコミすら今の孫策の耳には届いていない様だ。


「ゴチャゴチャうるさいっ! そっちが来ないなら、私から行くわよっ!」

「ええっ!? ちょっと、二人共見てないで孫策さんを止めて下さいよっ!」


 剣を構える孫策を見た涼は、慌てて周りで静観している孫堅と程普に助けを求める。

 だが孫堅は、


「頑張りなさい♪」


と言って手を振り、また程普は、


「お気をつけ下さい。」


とだけ言って、助けようとはしなかった。


「ちょっと二人共ーっ!」

「余所見するとは余裕ねっ!」


 涼が孫堅と程普に文句を言おうとしていると、孫策が剣を構えたまま走ってきた。

 涼は慌てて雌雄一対の剣の一振り、「紅星(こうせい)」を抜いて構える。

 その間にも孫策は剣を右上に振り上げながら近付き、やがて振り下ろした。


「くっ!」


 キィン! という金属音が辺りに響き渡ると、そこには剣と剣を交えている涼と孫策の姿があった。


(何て重い一撃だよ……普通に受け止めてたら剣が折れたんじゃないか?)

(へえ……受ける際に剣を斜めにして衝撃を逃がした……。やっぱり、結構楽しめそうね。)


 涼は、孫策が振り下ろした剣に対して自分の剣を垂直に構え、更に剣と剣が当たる瞬間に斜めに倒した。

 そうする事で剣や自分に対する衝撃を和らげる事が出来る。まともにぶつかるのは、体にも剣にも良くないのだ。

 暫くそのままの姿勢で互いに剣を押し合い、次の一手を探っていた両者だったが、先に動いたのは孫策だった。


「はあっ!」

「ぐっ……!」


 孫策は剣を押し付けたまま蹴りを放ち、涼の左脇腹を抉った。

 内蔵が揺れる感触を初めて感じる。斬られる痛みより、ある意味苦しい痛みが涼を襲った。

 痛みの余りバランスを崩して倒れそうになる涼。そしてそんな涼に向かって剣を振り下ろす孫策。

 涼は痛みを堪えながら倒れ込む様に前に進み、孫策の足下に転がり込む。

 そうやって孫策の一撃が涼では無く地面に直撃すると同時に、涼は孫策の左足を掴んで力任せに引っ張った。


「きゃあっ!?」


 突然の事に立つ事が出来なくなった孫策は、剣を掴んだまま後ろに倒れた。

 だが、流石は孫策と言うべきか、この突然の事態にも孫策はきちんと受け身をとってダメージを最小限に抑えている。

 更に、掴まれていない右足を動かして涼を蹴りつけようとしていた。

 だが、その蹴りは目標に当たる事無く空を切った。


「……っ!」

「……っ。」


 涼は仰向けに倒れた孫策に馬乗りになり、その喉元に剣を突き付けていた。

 孫策を地面に倒した直後、涼は孫策がどう反撃するか予測した。

 倒れている人間が立っている相手に対してとる攻撃手段は限られている。

 テレビで観た総合格闘技等では、倒れた選手が立っている選手の足を蹴ってダメージを与えていた。涼はそれを思い出し、先に動いたのだ。


「……斬らないの?」

「仲間を斬る必要は無いだろ。」


 孫策の問い掛けにそう答えると、涼はそのままの体勢で剣を納め始めた。


「……未だ終わってないわよ。」

「え?」


 涼が疑問符を口にすると、孫策は涼の服の襟を掴んで力一杯投げ飛ばした。いつの間にか自分の剣を手離していた様だ。


「うわああっ‼」


 投げ飛ばされながらそんな悲鳴にも似た声をあげた涼は、孫策と違って上手く受け身を取れなかった。その為、固い土の上に叩きつけられた涼は一瞬呼吸が出来なくなり、やがて咳き込んだ。


「戦いは、相手を殺すか完全に屈服させる迄続くものよ。そんな事も解らないのなら貴方……死ぬわ。」


 そう言って孫策は立ち上がり、剣を掴んだ。

 涼は漸く立ち上がるが、剣を抜こうとはしない。


「……そんな事は解ってる。けど、今は殺し合いをしていた訳じゃないだろ。」

「まあね。……けど、私は言ったわよね? 自分より弱い相手に従う気は無いって。」

「……確かに、そんな事を言ってたね。」


 痛むのか、蹴られた左脇腹を右手で押さえながら会話を続ける涼。

 孫策が言っている事は間違っていない。寧ろ正しいだろう。

 この世界は乱世の兆しを見せている。そんな中では強い者が民や兵を率いるのが普通だ。

 それなのに、弱い者が“天の御遣い”というだけで総大将になっている。それが孫策には気に入らないのだろう。


(まあ……部隊の指揮は上手いし、ちゃんと自らも戦っている姿勢は認めるけど。)


 孫策は涼を睨み付けながらそうも思う。


(けど、だからといって今のままじゃ私の気が収まらないのよね。)


 認める所は有っても納得出来ない事も有る様だ。


(……だから、少し怪我するかも知れないけど、我慢しなさいよね。仮にも貴方は、私達の総大将なんだからっ!)


 心の中でそう語り掛けながら、孫策は涼に向かって走り出した。

 その頃城の廊下では、董卓が軍師であり親友である少女に話し掛けていた。


(えい)ちゃん、街の様子はどうだった?」

「大分安定してきたわ。これなら、近い内に洛陽に凱旋出来そうね。」


 それに対し、「詠」という真名を呼ばれた親友、賈駆は簡潔に感想を述べた。その顔には少し疲れが見えている。


「詠ちゃん、少し休んだ方が良いよ。何だか顔色が悪いみたい……。」

「有難う、(ゆえ)。けど、これくらいで休んでいたら、アイツに何言われるか解ったもんじゃないし。」

「アイツって……雪里さんの事?」


 董卓を真名である「月」と呼んだ賈駆は、「アイツ」と言いながら顰めっ面になった。そんな賈駆に対して、董卓は疑問符を浮かべながら徐庶の真名を口にした。


「そう! アイツったら、連合軍の筆頭軍師だからか知らないけど大きな顔してるし、何だか癇に障るのよ。」

「けど詠ちゃん、筆頭軍師を決める時に辞退したのは誰だったかな?」

「それは……ボクだけど……。けどそれは、月が連合軍の総大将じゃないから辞退しただけだし……。」

「けど辞退しちゃったんだよね?」

「う、うん……。」


 笑顔のまま確認する董卓に、賈駆は口ごもりつつ答える。


「だったら少しは我慢しないとね。それに、雪里さんは悪い人じゃ無いよ。」

「月は優し過ぎるのよ。……あの男にだって優しいし……。」

「あの男?」


 賈駆の言葉が誰を指すのか解らない董卓は、賈駆の言葉を繰り返した。


「うちの総大将の清宮涼の事よ。」

「あ、ああ……。」


 言われて漸く気付いたらしく、董卓は途端に焦りの表情を見せる。

 そんな董卓を複雑な表情で見つめながら、賈駆は話を続けた。


「……確かにアイツはうちの総大将だけど、実績で言ったら未だ未だ月の方が上なんだからね。今からでも役職を取り替えたって良いと思うわよ?」

「だ、駄目だよ詠ちゃんっ。そんな事したら連合軍が分裂しちゃって大変だよぅ。……それに、私より清宮さんの方が指揮は上手いじゃない。」

「……そうなのよねぇ。徐庶が上手く補佐しているからだろうけど、指揮や鼓舞に無駄が無い。」

「あと、私と違って一人でも戦える。」

「総大将が自ら前線に赴くのはどうかと思うけど、実際、意外とやるのよね。これも関羽や張飛のお陰かしら。」


 この会話から察すると、どうやら董卓と賈駆は涼を認めている様だ。

 まあ、賈駆は何だか釈然としていない様だが。


「愛紗さんと鈴々ちゃん、それに今は時雨さんも清宮さんの武術の先生だもんね。」

「天の国じゃ武器を持った事すら無かったらしいけど、今じゃ黄巾党みたいな賊くらいなら簡単に倒せる腕前になってるみたいよ。」


 董卓が笑顔のまま話すと、賈駆もつられて微笑みながら応えた。

 二人が言う通り、涼は義勇軍結成以来ずっと愛紗と鈴々に武術の稽古をつけて貰っている。また、最近では時雨も稽古に加わっており、涼の実力は飛躍的に向上している。

 因みに、桃香も一緒に稽古をしているのだが、涼の様には強くなっていなかったりする。


「うん。だからやっぱり私より清宮さんが総大将に合ってるんだよ。」

「……まあ、月がそう言うなら良いけどさ。」


 相変わらず笑顔のままの董卓にそう言った賈駆だったが、暫く考えてから話し出した。


「そう言えば、月は関羽達とは真名を預け合ってるんだよね?」

「うん。皆さんとはもう長い付き合いだしね。」


 董卓達が涼達と出会い、義勇軍を結成してから、間も無く五ヶ月になろうとしていた。

 その間に兵士達は勿論、武将や軍師、指揮官も皆交流し、親交を深めていた。

 董卓が関羽達の真名を呼んでいるのがその証だ。


「……それなら、ね。」

「……何?」


 賈駆が歯切れが悪そうに話した事に気付いたのか、董卓は不安な表情になって聞き返した。

 賈駆はそんな董卓の眼を見ながら言葉を繋ぐ。


「……何で清宮には真名を預けていないの?」

「え……ええっ!?」


 思いも寄らない質問だったのか、董卓は大声をあげて驚いた。

 何故か顔が真っ赤になっている董卓は、焦りながら賈駆の問いに答える。


「そ、それは……っ。」

「それは?」

「えっと……ほら、清宮さんは“天の御遣い”だから、畏れ多いし……。」

「けど、関羽達は真名を預けているわよ?」

「へぅ……けどほら、愛紗さん達は義勇軍結成時からの仲間だし……。」

「張宝軍との戦いの後に仲間になったあの二人は真名を預けているみたいだけど?」

「へぅぅ……。」


 賈駆に言い負かされた董卓は、焦りと落ち込みを同時に表した器用な表情になって俯いた。

 それを見て意地悪し過ぎたかと感じた賈駆は、董卓の髪を軽く撫でると、優しく、それでいて複雑な気持ちを内包した声で言った。


「……何が有ったか知らないけど、ボクはいつだって月の味方だよ。だから、もし相談したくなったら遠慮無く言ってね。」

「うん……有難う、詠ちゃん。」


 董卓はそう言って笑顔を見せた。

 だが、それを見た賈駆は表面上は笑顔を返したものの、心の中では董卓に謝っていた。


(……ゴメンね、月。本当は、貴女の悩みが何なのか判ってるんだ。)


 賈駆は董卓と知り合って長い。それだけに彼女の事は誰よりも理解している。ひょっとしたら、董卓の家族より理解しているかも知れない。

 だから、賈駆は董卓が涼に真名を預けていない「本当の理由」にも、何故そうなったかも見当がついていた。

 だが、賈駆はそれを董卓に言うつもりは無い。


(いつか月が自分から言ってくれる迄待つ。それが、ボクの答え。……まあ、複雑な心境なのは変わりないんだけどね。)


 自分の為、そして何より親友の為に、今は深く追及しない事にした。

 そんな賈駆と董卓の耳に、一人の少女と一人の少年の声が聞こえてきた。


「はああああっ‼」

「くうっ!」


 しかもその声は、話し声という類のものでは無い。


「な、何よ今の!?」

「今の声……孫策さんと清宮さん!?」


 まるで戦っているかの様な二人の声に驚き、戸惑いながらも、董卓と賈駆はその声の許へと向かった。

 涼と孫策の声は、城の中に在る広場の一つから聞こえている。

 その広場に着いた二人は、見たくない光景を目にした。


「なっ!?」

「清宮さん! 孫策さん‼」


 二人の目に映ってきたのは、涼に斬りかかる孫策と、それを紙一重で避け続ける涼という光景だった。


「邪魔しちゃ駄目よ、董卓さん、賈駆さん。」


 慌てて止めようとした二人にそう言ったのは、孫策の母であり孫軍の大将である孫堅だった。

 更に孫堅の正面約十五メートル先には程普が座っており、二人共、涼と孫策の「戦い」を静観している。

 そんな二人に対し、董卓は困惑しながらも出来るだけ毅然とした態度で尋ねた。


「孫堅さん、これは一体どういう事なんですかっ!?」

「どういう事って……見ての通り、うちの孫策と総大将殿の模擬戦よ。」


 だが、孫堅はそんな董卓に微笑みながら答えた。

 続けて、賈駆が尋ねる。


「とても模擬戦には見えないんだけど?」

「うちはいつもこんな感じよ。ねえ?」

「はい。」


 孫堅と程普が平然とそう言った事で董卓は困惑し、賈駆は疑惑の目を向けた。

 現状を把握しきれない董卓は、オロオロしながら孫堅達と涼達を交互に見るしか出来なかった。

 そんな董卓の両肩を掴みながら、賈駆は励ます様に言葉を紡いだ。


「月、落ち着いてっ! 混乱するのは解るけど、今はボク達に出来る事をしましょう!」

「私達に出来る事……?」


 未だ困惑している董卓だが、賈駆が何度も励ましていくと落ち着きを取り戻していった。


「……私は邪魔しちゃ駄目って言った筈だけど?」


 そんな二人に、孫堅は涼達の「模擬戦」を見ながら再び忠告する。

 だが、賈駆はその忠告を毅然とした態度ではね退けた。


「悪いけど、ボク達が貴女の言う通りにする必要は無いわ。」

「ふうん……どうしてかしら?」


 強気な賈駆に孫堅は視線だけを向けたが、その口元は少しだけ綻んでいた。

 賈駆が孫堅のそんな表情の変化に気付いたかは解らないが、先程の孫堅の問いには答えていった。


「月……董卓は連合軍の副将で、ボクは副軍師。一方、貴女達は一軍の将とは言え、立場は劉備・清宮軍や董卓軍より下になっている。解っているでしょうけど、指揮系統の確立や軍律の遵守は、組織を保つ為に必要不可欠なもの。なら、立場が上であるボク達が貴女達に従う必要は無いわ。違う?」


 そこ迄言うと、賈駆は孫堅と程普を交互に見据えた。

 だが孫堅も程普も表情や姿勢を崩さず、静かに賈駆の次の言葉を待っていた。

 どんな組織にも役職が有る様に、連合軍にもまた役職が有る。

 連合軍結成当初は、総大将以外は各部隊毎に動いていたが、盧植や曹操の離脱や連合軍の規模の拡大、戦いの長期化といった経緯を辿った結果、明確な役職や厳格な軍律が決められた。

 その結果決まった主な役職は次の通り。


『総大将・清宮涼(きよみや・りょう)

『副将・董仲穎(とう・ちゅうえい)

『副将補佐・孫文台(そん・ぶんだい)

『筆頭軍師・徐元直(じょ・げんちょく)

『副軍師・賈文和(か・ぶんわ)

『副軍師補佐・簡憲和(かん・けんわ)

『部隊統括・劉玄徳(りゅう・げんとく)

『第一部隊隊長・関雲長(かん・うんちょう)

『第二部隊隊長・張翼徳(ちょう・よくとく)

『第三部隊隊長・田国譲(でん・こくじょう)

『第四部隊隊長・劉徳然(りゅう・とくぜん)

『第五部隊隊長・孫伯符(そん・はくふ)

『第六部隊隊長・程徳謀(てい・とくぼう)


 勿論、未だ役職は有るが今回は割愛する。

 因みに部隊の数字が小さい順に立場が上になっており、緊急時等の指示の優先順位も上になっている。

 その為、愛紗は部隊長の筆頭であり、孫策や程普の立場は愛紗より低い事になる。


「……軍律を乱したらどうなるか、孫文台ともあろう者が解らない筈無いわよね?」

「まあね。」


 賈駆の質問を、孫堅はやはり視線だけを向けて答えた。


「なら、副軍師として警告するわ。今直ぐ孫策を止めないと、貴女達全員の命が無いわよ。」

「うーん、未だ死にたくは無いわねえ。」


 状況は決して良いと言えないのに、何故か孫堅は軽く答える。程普に至っては先程から微動だにしていない。


「けどまあ、折角だから最後迄続けましょうよ。」

「……本気で言ってるの?」

「勿論本気よ。」


 そう言った孫堅は満面の笑みを浮かべていた。


「……仕方無いわね。」


 賈駆は孫堅の真意を測りきれないまま嘆息し、眼鏡の位置を整えながら言った。


「このまま見過ごす訳にはいかないわ。……月、ボク達は関羽達を探しに行くわよ。」

「う、うん。でも……。」


 董卓は、依然として孫策の攻撃を避けている涼を見ながら躊躇う。


「……残念だけど、ボク達じゃあの二人を止められない。アイツを助けたいなら、少しでも早く関羽達を見つけないと。」

「うん……っ。清宮さん、もう少しだけ待っていて下さいっ!」


 董卓と賈駆はそう会話を交わすと、今来た道を引き返し、やがて二手に分かれた。

 邪魔しちゃ駄目と言っていた孫堅はそんな二人を止めようとはせず、只静かに見送っていた。


「……良いのですか?」


 じっとしたままの程普が、姿勢を崩さずに尋ねる。


「良いんじゃない? あの娘達が関羽達を連れてくる頃には決着してるかも知れないし。」

「……了解しました。」


 孫堅の答えを聞いた程普はそう言って再び沈黙した。

 それが程普の常なのか、孫堅は何も言わない。

 孫堅はそのまま涼と孫策の「模擬戦」に目を向ける。

 相変わらず、涼は孫策の攻撃を避け続け、孫策は避けられても追撃し続ける。両者共に体力が尽きてきたのか息が荒くなっているが、それでも動きは止まらない。

 また、涼は先程納刀して以来一度も抜刀していない。つまり反撃してもパンチやキックしかしていない事になる。


(……抜刀して反撃しないのは、雪蓮が本気じゃないと思っているから? それとも、さっき言った様に戦う必要が無いと思っているから? ……どちらにしても、この時代にそぐわない甘い考えね。)


 避け続ける涼を見ながら、孫堅はそう思った。


(けど……その信念を貫き通せるなら、それは大きな力になる。そうなったら、私達にとって吉となるか凶となるか……楽しみね。)


 将来敵対するかも知れないと思いながら、孫堅は笑みを浮かべていた。


「何だと!?」

「お兄ちゃんが孫策に殺されるかも知れないのか!?」

「そんな……涼兄さん……っ。」

「わっ! 桃香様、お気を確かにっ!」


 不測の事態に驚き戸惑う面々。因みにこれ等の台詞は、愛紗、鈴々、桃香、雪里のものだ。

 愛紗達を見つけたのは賈駆だった。

 愛紗と鈴々は城の西に在る広場で兵士達の調練に勤しんでいて、桃香と雪里は街の視察から帰った序でに愛紗達の調練の様子を見に来ていた。

 その後休憩していた愛紗達を賈駆が見つけ、今起きている事を伝え、冒頭の台詞に繋がる。


「孫堅達め……義兄上(あにうえ)を手にかけようとは、一体どういうつもりだ……!」

「お兄ちゃんに何かあったら、鈴々がぶっとばしてやるのだっ!」


 愛紗と鈴々は自身の得物を手に怒りを露わにしている。この場に孫堅達が居たら、間違い無く斬りかかっているだろう。


「冷静に……と言っても無駄の様ですね。なら、早く清宮殿の許に向かいましょう。」


 そう言って冷静に努めようとする雪里ですら、こめかみがピクピクと動いていた。


「涼兄さん……!」


 桃香は先を行く愛紗達の後ろ姿を見ながら、胸の鼓動が速くなるのと、その奥がチクリと痛むのを感じていた。

 途中で、時雨達を連れた董卓と運良く合流した賈駆は、そのまま涼の許に向かった。

 だがそこには、賈駆達が思いも寄らなかった光景が広がっていた。


「なっ……!?」

「清宮さん……!?」


 その光景を見た賈駆達は思わず立ち止まる。


「ぐっ……!」

「……今度こそ勝負有りだね?」


 悔しそうな声を出す孫策と、勝ち誇っている涼。

 涼は地面に倒れている孫策の体に跨り、その首筋に手刀を添えている。

 また、孫策の右手に有った剣は孫策の後方の地面に垂直に突き刺さっていた。

 先程迄劣勢だった涼が何故優位に立っているのか解らない董卓と賈駆は、その光景を見て唖然としている。それは、賈駆から「涼が殺されそう」と聞いていた桃香達も同じだった。


「……何だか、話が違うみたいだけど。」

「う、うん……ボクも驚いてる。」


 戸惑いながら答えた賈駆は、さり気なく孫堅と程普に目をやった。

 二人共先程と同じ場所に居たが、その表情は明らかに驚いている。彼女達もこの状況は予期していなかった様だ。


「……孫堅さん、一体何があったんですか?」


 そんな中、董卓が孫堅に近付き尋ねる。

 その問いに孫堅は自分の髪を触りながら答えた。


「伯符が清宮殿に対して一方的に攻撃していたのは見ていたわよね?」

「はい。」


 董卓は孫堅を見ながら頷いた。


「それはほんの少し前迄続いていたの。だけど……。」

「突然、総大将殿は避けるのを止め、若君様に向かって行ったのです。」


 孫堅が言葉に詰まると、代わりに程普が説明しだした。


「それって、抜刀して向かったって事ですか?」

「いえ、納刀したままでした。」

「無茶するわね……。」


 董卓の問いに程普が答えると、説明を聞いていた賈駆は額を押さえながら呟いた。

 だが、桃香達は賈駆とは違う反応を見せていた。


「そっかあ、だったらこうなったのも解るね。」

「ええ。」

「解るのだー。」

「確かに。」


 桃香達は皆納得した表情で感想を述べ、それは董卓と一緒に来た時雨達も同じだった。

 その事を疑問に思いながらも、董卓は程普に説明を続ける様に促した。


「総大将殿がそう動くと、若君様は一瞬戸惑いました。」

「何故ですか?」

「元々、若君様は総大将殿を斬るつもりが無かったからです。」

「あんなに殺気立っていたのにですか?」

「若君様は戦の天才です。殺気だけを発する事くらい、雑作もありません。」


 程普がそう断言すると、董卓は依然として涼に手刀を突きつけられたままの孫策を見た。

 先の黄巾党南陽部隊との攻城戦で、孫策はその類い希なる戦闘能力を敵味方問わず見せ付けていた。

 たった一人で五十人以上の黄巾党を瞬時に斬り伏せ、遂には当時の敵将・韓忠を一刀の許に斬り捨てた。

 その後、黄巾党は新たに孫夏を大将に据えると、今度は孫堅と共に孫夏を討ち取る等、その武勇は瞬く間に連合軍全体に広がっていった。

 そんな孫策なら、実際に斬る気が無くても殺気を発する事が出来るかも知れない、と、董卓はそう結論付けた。


「それで、どうなったのですか?」

「斬るつもりが無い相手が接近してきたので、若君様の剣は止まりました。すると、総大将殿は若君様の懐に飛び込んでその剣を蹴り飛ばし、その勢いのまま身を屈め、若君様の足を蹴り、地面に倒したのです。」

「そして、倒れた孫策に清宮が馬乗りになり、首筋に手刀をあてがった、と言う訳ね。」

「はい。」


 程普の説明が終わりに近付いたとみて賈駆が結末を先に言うと、程普はそれを肯定した。


「……正直言って、伯符が負けるとは思わなかったから、この結果に驚いているわ。」


 孫堅は涼と孫策を見ながら言った。

 その言葉は嘘偽りの無いものだろう。表情に驚きを隠せていない。

 そんな孫堅の心中を察しているかどうかは知らないが、涼は未だに孫策に馬乗りになったままだった。


「どうするんだ、孫策?」

「……解ったわよ。」


 涼の問いに孫策は観念した様に呟き、それを聞いた涼は手刀を離した。


「やれやれ……。」


 涼はホッとした様に呟き、孫策から離れようと立ち上がりかけた。


「ちょっと待って。」

「ん?」


 だが、孫策が引き止めた為、涼はその動きを止めなければならなくなった。


「私を倒せる力が有るなら、何故最初から見せなかったの?」

「見せたくても、俺にそんな力は無いよ。」

「なら、今私が地に倒れているのは何故かしら?」


 孫策の問いに涼は正直に答えたが、孫策は納得していない。

 仕方無く、涼は説明を続けた。


「先ず、君が俺を斬る気が無かったのが勝因の一つかな。」

「……気付いていたの?」

「最初は気付かなかったけどね。俺が君の攻撃をあんなに避けられる筈無いから、そこで気付いたんだ。」


 戦い始めて数ヶ月の人間が、ずっと昔から戦ってきた人間に勝つのは難しいだろう。

 今迄涼が勝てていたのは、相手である黄巾党が元農民の集まりで、一人一人はそれ程強く無かったからだ。


「だから、俺が君の攻撃範囲にわざと入ったら、間違い無く動きが止まる。そこが狙い目だったんだ。」

「……成程。そうして動きが止まった時に接近して攻撃、って訳ね。」

「そういう事。」


 孫策が分析すると、涼は軽く笑みを浮かべて肯定した。


「けど、それは危険な賭けじゃない? 私が剣を止められなかったら、貴方は死んでいるわよ。」

「そうだね。けど、俺は余り不安に思わなかったよ。」

「どうして?」


 孫策が疑問に思うと、涼は殆ど間を置かずに答えた。


「孫伯符が失敗するとは思わなかったから、かな。」

「……っ!」


 涼は他意も無く正直に答えた為、自然と笑顔になって孫策を見つめていた。

 涼と目が合った孫策は何故か言葉に詰まり、涼から目を離せないでいる。

 だが、涼は孫策の様子に気付かず、尚も見つめ続けていた。


「……どうした?」

「な、何でも無いわ。」


 漸く気付いた涼が尋ねるも、孫策は目を逸らしながらはぐらかす。


「……変なの。」


 暫く考えてからそう呟き、涼は今度こそ孫策から離れようとした。


「……待って。」

「未だ何か有るのか……っ!?」


 孫策が再び呼び止めた為、涼はまたも動きを止めなくてはならなくなった。

 すると、孫策は涼の顔を両手で掴み、自分の顔に近付けた。


「な、何……?」

「……そんなに信頼してくれるのなら、私もそれに応えないとね……。」


 そう言って孫策は目を瞑り、自分の唇を涼の唇に重ねた。


「……っ!?」


 突然の事にどう反応して良いのか解らない涼は、全く動けずに只されるがままでいる。

 周りに居た桃香達は皆呆気にとられたまま二人の口付けに見入り、孫堅と程普もまた驚きながらその様子を眺めていた。

 やがて、孫策は唇をゆっくりと離した。


「……っ。異性にはこれが初めてなんだから、少しは喜びなさいよ。」

「あ……うん。…………異性には初めて……?」


 顔を赤らめながらそう言った孫策を見ながら、涼は疑問符を浮かべた。


「それはまた後で話すわ。それより、もう退いて良いわよ?」

「あ、ゴメンっ。」


 そう言われて涼は慌てて孫策から離れた。

 よくよく考えてみれば、年頃の女性に馬乗りになっていたなんて、かなり大胆だったなと、今更ながらに照れている。


「雪蓮よ。」

「え?」


 立ち上がり、服や髪に着いた土や砂を払いながら、何気なく孫策は言った。


「私の真名、“雪蓮(しぇれん)”を貴方に預けるわ。」

「良いのか?」

「当然よ。貴方の力量は解ったし、何より、私達は接吻した仲だしね♪」


 そう言うと孫策――雪蓮は涼に抱きついてきた。

 涼はまたも突然の事に戸惑い、されるがままになっている。


「ちょっ……孫策っ、苦しいって……っ。」

「ちゃんと真名で呼ばないと離さないわよ♪」

「しぇ、雪蓮……苦しいから少し離れて……。」

「うーん、涼が初めて真名を呼んでくれたから、もう少しこのままで♪」

「おいこら、話が違……っ。」


 反論しようとした涼だったが、その口は雪蓮の胸で塞がれてしまった。

 雪蓮は母親である孫堅同様、抜群のスタイルを誇っている。

 やはり抜群のスタイルを誇る桃香や愛紗でさえも、つい魅入ってしまう程のプロポーションだ。

 そんな彼女に抱き締められるとは、何て羨ましいんだ。

 まあ、そんな状況だと、


「涼兄さんっ!」

「総大将なのですから、もう少ししっかりして下さいっ‼」


当然ながら、桃香や愛紗といった義妹達がしゃしゃり出て来る訳だが。

 その後、一悶着あったものの何とか事態は終息した。

 敢えて言うなら、桃香や愛紗は涼が女性にだらしないと叱ったり、

 雪里や賈駆は自業自得と呆れていたり、

 雪蓮や孫堅はそんな風に言われる涼を、面白そうに見ていたりしたくらいだ。


「疲れた……。」

「孫策の色香等に惑わされているからです。」

「それは関係無いんじゃ……。」


 定時会議の時間が迫っていたので、皆一旦自室へと戻る事になった。

 その最中、涼は尚も愛紗から諫められている。

 そんな中、桃香は自身の胸の内に生まれた気持ちに戸惑っていた。


(何なのかな……このモヤモヤとした感じ……。)


 そう思いながら桃香は自身の豊かな胸に手を当てる。


(涼兄さんの周りに女の子が居るのは、今に始まった事じゃ無いのに……。私、心が狭いのかな……?)


 そう自己嫌悪しながら、桃香は涼の後ろ姿を見続けていた。

 一方、董卓と賈駆は桃香達の少し後方を歩きながら話している。


「……先、越されちゃったわね。」

「うん……。」


 一体何の先を越されたのか、主語や述語を言わなくても解る二人だ。


「それで……どうするの?」

「……言うよ。もう決めたから。」

「そっか……。」


 親友の決意に、賈駆は一瞬複雑な表情を浮かべるも、直ぐに表情を引き締め、先程と同じ様に応援する。

 先程の会話と今の会話の両方共、何をするのかはハッキリ言わなかったが、最早言わなくても解る事だった。


「……頑張ってね、月。」

「有難う、詠ちゃん……。」


 賈駆が最後に改めて言葉をかけると、董卓は笑顔を浮かべて応え、そして視線を移す。

 その視線の先に居るのは、連合軍の若き総大将の姿だった。

 その夜、涼は自室で仕事を片付けていた。

 連合軍の総大将ともなると、報告書の類の処理だけでも膨大な時間が掛かる。

 昼間は雪里や賈駆といった軍師達に手伝ってもらったりしているが、流石に夜中に呼びつける訳にはいかない。

 涼は男で雪里達は女だから、有らぬ噂が立ったり間違いが起こってはいけないからだ。

 但し、今からこの部屋に来る人物だけは例外だ。

 部屋の扉が二度ノックされる。

 本来この世界にノックという風習は無いのだが、涼は総大将という立場を利用し、天界の風習として全員に徹底させていた。

 結構好評なのか、今では皆違和感無くやっている。


「どうぞ。」


 涼の声を合図に、ゆっくりと扉が開いた。


「劉徳然、入ります。」


 そう言って入ってきたのは、水色の髪の少女だった。

 少女は扉がきちんと閉まったのを確認してから、ゆっくりと涼の前に進んだ。

 因みにこの部屋には机とベッドとテーブルと箪笥が在り、涼は今机に向かって仕事をしている為、少女とは机を挟んで対峙している。


「いつもこんな時間に呼び出して悪いな。」

「いえ、事情は解っていますから。」


 そう言葉を交わした後、涼は椅子を勧め、少女はそれに従った。

 それから暫くは取り留めない会話をしていたが、やがて涼は腕時計に目をやり、時間を確かめてから言った。


「……そろそろ良いかな。いつも通りに戻って良いよ、“地和(ちいほう)”。」

「ふーっ。やっと楽出来る〜。」


 そう言って両手を組んで上げ、伸びをする劉徳然。

 そんな彼女を、涼は「地和」と呼んだ。


「ゴメンな、いつも堅苦しい思いをさせて。」

「ううん、気にしないで。これも、ちぃを守る為に涼がしてくれてる事だから、そんなに堅苦しくないわ。」

「そっか。流石に、連合軍内で張宝って名乗る訳にはいかないからな。」

「まあね。」


 そう、先程劉徳然と名乗った少女の正体は、張三姉妹の次女、張宝だったのだ。

 涼が張宝を匿うと決めた後、外見は髪型を変えたり服装を整えたりして何とか誤魔化す事が出来たが、名前をどうするかは決めていなかった。

 すると桃香が、


『じゃあ、“劉徳然”って名乗ったら良いよ♪』


と言ってきた。

 桃香によると、劉徳然という名前は桃香の従姉妹の名前で、現在は桃香の生まれ故郷である楼桑村(ろうそうそん)の隣村に住んでいるという。

 その者の名を借り、時雨達と共に桃香に会いに来たという設定にすれば、張宝がこの場に居ても不自然じゃないという事だ。

 因みに本物の劉徳然の真名は「梨香(りか)」と言うが、流石に真名迄借りるのは気が引けたらしいので、涼が張宝の真名である「地和」と、本物の劉徳然の真名「梨香」から一字ずつとって、「地香(ちか)」という真名を作って与えている。


「……それで、話は何?」

「うん……。」


 張宝――地和が尋ねると、涼は一瞬目を逸らしてから言った。


「……今日、広宗の官軍から報告書が届いた。……曹操が黄巾党広宗部隊を征伐したらしい。」

「え……。」


 そう聞かされた地和は、まるで言葉を失ったかの様に絶句した。

 やがて、手や体が震えだし、目の焦点も定まらなくなっている。


「嘘……よね……?」


 地和は声を震わせながら、絞り出す様にそう言った。

 瞳は潤んでおり、いつ決壊して涙が零れ落ちてもおかしくない。


「……こんな嘘を言う程、俺は意地悪じゃないよ。」

「……っ!」


 涼の言葉によって、地和の瞳の堤防は呆気なく決壊した。

 涙はとめどなく流れ出し、地和が両手で抑えても塞ぎきれない。


「……お姉ちゃんや……人和(れんほう)はどうなったの……?」


 涙を流しながら地和は尋ねる。

 因みにお姉ちゃんとは張三姉妹の長女である張角の事で、人和とは張三姉妹の末妹である張梁の真名だ。


「……報告書には、張角・張梁共に討ちとったとあった。そうして指揮官を失った広宗の黄巾党は、呆気なく全滅したらしい……。」

「そう……なんだ……。」


 涙の量が更に増える。

 血を分けた姉妹を失ったのだから、その悲しみや辛さは相当なものだろう。


「どうして、こんな事に……ちぃ達は、只三人で歌っていたかっただけなのに……。」

「地和……。」


 涼は泣き続ける地和に近付いて、まるで子供をあやす様にそっと抱き締める。

 髪や背中を撫で、落ち着かせようとするが、その優しさが却って地和の涙腺を緩くし、泣き声は激しい嗚咽へと変わった。

 どれだけの間泣き続けただろうか。

 地和の嗚咽は漸く沈静化し始めていた。


「……落ち着いた?」

「うん……。」


 涼の胸元に顔を埋めたまま、地和は力無く答えた。

 そんな地和を、涼は優しく撫で、更に落ち着かせていく。


「ゴメン……。」

「……どうして涼が謝るの?」

「……俺が部隊を広宗に残していれば、張角と張梁も匿えたり逃がせたり出来たかも知れないから……。」

「有難う……。けど、あの状況じゃそれは出来なかったでしょ?」

「うん……。」


 涙を拭きながら地和が言うと、涼もまた力無く答えた。

 広宗の旧張宝軍を倒した後、涼達連合軍は南陽に向かった。

 涼はそのまま残って張角と張梁を探したかったが、南陽黄巾党が依然として勢力を誇っていた為、その討伐に連合軍があてがわれた。

 南陽は広宗からかなり離れた場所の為、涼は皇甫嵩将軍と朱儁将軍に頼もうとしたが、二人は豫州に向かう事になっており、また、広宗に残っていた張角軍と張梁軍には洛陽から派遣された何進の部隊が対処する事になっていた。

 実はこれは、張宝を討った連合軍に張角や張梁迄討たれては大将軍としての立場が危ういと考えた何進(かしん)による措置だった。

 何進とは、洛陽の街を取り締まる大将軍という役職を務める女性だ。

 元々は洛陽に在る肉屋の女主人だったが、何進の妹が時の帝である霊帝(れいてい)の后に召し抱えられた為、その威光によって大将軍に任命された。

 その様な経緯から、何進は実績を欲していた。

 今のままでは、妹――何后(かごう)の存在だけで大将軍という地位に居るだけである。

 それでは何れ、帝や何后に何か有った場合に追いやられてしまうだろう。

 何進が広宗に来たのは、張宝が討ち取られて士気が落ちているであろう張角軍・張梁軍を討つ事で実績を得ようとしていた訳だ。

 だが、張宝を討たれたと思っていた張角軍・張梁軍は弔い合戦と意気込んでおり、何進は苦戦を強いられた。

 そこに、軍を再編した曹操軍が援軍として現れ、何進を援護。遂には張角・張梁を討ち取ってしまった。

 何進は大将軍としての面目を潰してしまったが、かと言って曹操を非難する訳にはいかず、曹操に恩賞を与えている。

 この様な経緯があった為、涼達連合軍は南陽に進軍しなければならなかった。

 大将軍である何進の命に従わなかったら、逆賊として討たれる危険性も有った。それだけは、どうしても避けなければならかったのだ。


「……涼は連合軍の総大将。だから、連合軍を危険に曝す訳にはいかなかったでしょ?」

「それはそうだけど……他に何か出来たんじゃないかって……。」


 地和を抱き締めながら、涼は自らを非難していく。

 この世界に来る迄は、こんなに考え込む事は殆ど無かったのだが、今や一軍の指揮官を務める身。そんな状況では、考え込まない方がおかしいだろう。

 地和はそんな涼を見つめると、今迄とは逆に涼を抱き締めた。


「確かに、何か方法は有ったかも知れない……。けど、涼が頑張っていたって事、ちぃは知ってるよ。」

「地和……。」

「だから……余り考え込まないで。涼が辛そうにしてると、ちぃはもっと辛くなるから……。」


 そう言いながら、地和は涙を流した。

 だがそれは、先程の様な沢山の大粒の涙ではなく、頬を伝う一筋の涙だった。


「地和……解った……。」


 涼はそう言って地和を抱き締め直す。すると、地和も再び涼を抱き締めた。

 気がつけば、互いの首に手を回し、互いの呼吸が感じ取れる距離に二人は居る。

 地和の、それ程大きくない胸も涼の体に当たっている。

 当然ながら、涼がそれに気付かない訳が無い。

 心臓の鼓動が自然と速くなる。

 地和の翡翠色の瞳は、涙によるものとは違う潤いに満ち溢れていた。

 涼はその瞳に惹き込まれ、目を離せなくなった。

 それと同時に、昼間の雪蓮とのキスを思い出す。

 突然の事だったとは言え、あの時の感触は今でもハッキリと覚えている。

 柔らかい唇と、透き通る様な蒼い瞳。

 思い出すと、心臓の鼓動は更に速くなった。

 雰囲気としては、このまま地和とキスしてもおかしくない。

 地和もその雰囲気を感じているらしく、頬に紅が差している。


(……こんな時に、良いのかな……。)


 涼は雰囲気や地和の態度から、キスしても良い様な気がしていた。

 だが、キスとは本来恋人同士がするものであり、涼と地和は恋人同士ではない。

 雪蓮とも恋人同士ではないのだが、何故かキスをされた。


(だから、俺と地和がキスしてもおかしくはないけど……。)


 一日の内に二人の女の子とキスをして良いのか、それに何より、地和の姉と妹が討たれたと告げた時にキスをして良いのだろうか。

 そう迷っていると、地和が尋ねてきた。


「……涼は、ちぃを一人にしないわよね?」

「そんなの、当たり前だろ。」

「だったら……ちぃにその証拠を見せて……。」

「えっ……!?」

「……ちぃは、寂しいのが一番嫌い……。だから、涼はちぃを寂しくさせないで……。そうしたら、きっと地和は頑張れると思うから……。」

「地和……。」


 再び、涙を流す地和。

 そんな地和を見て、涼は気付いた。

 地和は姉妹の死から立ち直っていない。そんな当たり前の事に、気付いていなかった。

 泣き止んだから大丈夫だとでも思ったのか、自分を異性として意識していたから大丈夫だとでも思ったのか。

 どちらにしても、人は身内を亡くして直ぐに立ち直れる程強くはない。

 そう、強くはないのだ。

 だったら、少しでも強くなれる様、力になりたい。

 涼はそう思った。


「地和……。」

「涼……。」


 涼は地和を抱き寄せ、その瞳を見つめる。

 暫くの間二人は見つめ合っていたが、やがて地和はゆっくりと瞳を閉じた。

 それに合わせて、涼は唇を重ねようと顔を動かしながら目を閉じる。

 そうして唇と唇が重なろうとした瞬間、


ギシッ。


と、いう、床が軋む音が部屋の入口付近から聞こえてきた。

 意外と大きな音だったので、涼は動くのを止めて目を開け、地和もまた閉じていた瞳を開けた。

 触れ合う程近い距離で見つめ合う二人。

 二人はそこで、今しようとした事を思い出し、瞬時に顔を真っ赤に染めた。


(……今、絶対にキスだけで終わる雰囲気じゃ無かったよな……。)

(……ちぃったら、な、何考えてたんだろ……っ。)


 涼も地和も、あのままだったらキスより先の事をしただろうと確信した。

 互いにチラチラ見ながら、更に紅く染まる二人の顔。

 暫くの間そのままジッとしていたかったが、先程の音の正体を確かめなければならなかった。

 涼がゆっくりと立ち上がると、地和も立ち上がろうとしたが、もしもの事が有ったらいけないという涼の説得を受けてその場に留まった。

 涼は入口に近付いた。

 今は真夜中で殆どの人間が眠りについている。

 起きているのは涼の様に仕事をしているか、見回りをしている兵士くらいだ。

 だから、本来なら気にする必要は無いのだが、足音が一度しか聞こえなかったのが気になった。

 近付く音なら聞き逃した可能性が有るが、立ち去る音を聞き逃した可能性は低い。

 何故ならあの音に気付いてからは、赤面しながらもずっと集中したので、僅かな物音も聞き逃していないのだ。

 だから、音の主が未だ居る可能性が高い。

 涼はそっと扉に手をかけた。

 同時に剣の柄に手を置き、不測の事態に備える。

 自然と息を潜め、生唾を飲み込む。

 地和も同様に息を殺し、扉を見ながら護身用の剣の柄に手を置いた。

 涼は一拍だけ息を吐くと、一気に扉を開けた。夜中なので大きな音を立てない様にしながらという、何とも器用な開け方だった。

 瞬時に辺りを緊張感が包む。

 が、また瞬時に緊張感が消えていった。

 何故なら扉の先に居たのは、不審者等では無かったからだ。


「こ……こんばんは……。」

「あ、ああ……こんばんは。」


 そこに居た人物の一人が慌てながらも挨拶してきたので、涼は丁寧に挨拶を返した。


「な、何挨拶してるのよっ。」

「だ、だって、私達見つかっちゃったし……。」

「えーっと……。」


 扉の先に居る人物達の会話を聞きながら、涼は現状の分析をした。

 また、地和も状況が変化しているのを理解しつつも、緊急事態では無い様なので涼の言い付け通りに待ち、微かに聞こえる声の主が誰か考えながら座っている。

 やがて、涼は目の前に居る人物達に声をかけた。


「取り敢えず、廊下に突っ立っているのも何だから、中に入らない?」

「えっ?」

「……変な事をするつもりじゃないわよね?」

「違うってっ。」


 涼は苦笑しながら答えた。

 つい数分前迄、地和と「変な事」をしようとしていた涼だが、当然ながらそれを言う訳は無く、平静に努めながら二人を招き入れた。


「あ……誰かと思ったら月と賈駆だったのね。」

「地香さん……。」


 二人の姿を見た地和は、二人の真名と姓名を言った。

 一方、董卓は地和を偽名である劉徳然の真名を呼んだ。地和として名乗っていないので当然だ。

 暫くの間沈黙が流れたが、やがて董卓は意を決して二人に尋ねた。


「あの……済みませんが、二人のお話を聞かせて貰いました。」

「……可愛い顔して盗み聞きとは意外とやるわね。」

劉燕(りゅうえん)……いえ、張宝! 貴女に月を非難する権利は無い筈よ!」


 董卓の問いに地和が皮肉を込めて言うと、賈駆が怒気をはらみながら言い返した。


「賈駆、今は夜中だから少し声を抑えて。」

「アンタねえ……!」

「取り敢えず、ちゃんと説明するから暫く我慢してくれ。頼む。」


 怒りを隠さない賈駆に対して、涼は頭を下げて事態の収拾を図った。


「し、仕方無いわね……。なら、ちゃんと話してもらうわよっ。」


 それが効いたのか、賈駆は瞬時に怒りを収めてくれた。


「ああ、ちゃんと話すよ。」


 そう言って、涼と地和はこれ迄の経緯を話し始めた。

 それによると、張三姉妹は元々、三人で歌を唄う事で生計を立てていた事。

 余り人気は無かったが、その最中、旅人から貰った「太平要術(たいへいようじゅつ)」という書に書かれていた術を使って興行をすると、たちまち人気が出た事。

 そうして集まった若者達がいつしか暴走し、「黄巾党」という集団になった事。

 彼等を止める為に三姉妹もそれぞれ将軍を名乗り、何とか暴走を止めてきた事。

 だが、遂には漢王朝に目を付けられてしまい、仕方無く戦っていた事。

 大義名分として、腐敗した漢王朝を打倒して新しい世の中を作るというスローガンを掲げていたが、本心では上手くいくとは余り思っていなかった事。

 そして遂に連合軍の前に敗れた時に、涼が助けた事。

 その後、桃香と涼から新しい名前と真名を貰い、連合軍に同行していたという事。

 簡単に言うとこの様な流れになる。


「……で、張宝がここに居るって訳ね。」

「ああ。もっとも、最初は隙を見て地和を張角や張梁の許に帰す予定だったんだけど……。」

「その機会が無くて、結局地香さんを連れているって訳なんですね?」

「そうなんだよ。あはは……。」


 涼は苦笑しながら答える。

 そんな涼に呆れつつ、賈駆は真面目な表情で言った。


「……けど、これってバレたら洒落にならないわよ。幾らアンタが天の御遣いでも、流石に問題になると思うんだけど。」

「解ってる。……だから、二人にも黙っていてほしいんだ。」

「……どうしようかしらねえ。」

「詠ちゃんっ。」


 賈駆が涼の頼みを意地悪な表情をしながら答えると、直ぐ様董卓が注意した。

 注意された賈駆は慌てながら答える。


「わ、解ってるわよっ。今のは冗談なんだから、そんなに怒らないでっ。」

「まったく……。清宮さん、地香さん、私達はこの事を口外しないので御安心下さい。」

「良かった〜。二人共、有難う。」

「月、賈駆、有難うっ。」


 董卓が秘密を守ると約束すると、涼が喜んだのは勿論の事ながら、渦中の地和は二人に抱き付く程に喜んでいた。


「じゃあ、今みたいに周りに誰も居ない時は、本当の真名の“地和”って呼んでね。」

「はい、解りましたっ。」

「勿論、賈駆もそう呼んでね。」

「ボクも良いの? なら、ボクも真名を預けないとね。」


 賈駆はそう言うと、董卓と涼をチラッと見た。


「そうだわ、(つい)でにアンタにも真名を預けてあげる。」


 賈駆は暫く考えた後にそう言った。すると、言われた涼だけでなく董卓も驚いていた。


「良いのか?」

「ええ。図らずも長い付き合いになったし、アンタの実力も認めないといけないからね。」


 賈駆はそう言いながら、隣に居る董卓に目配せをした。

 董卓は、始めの内はその意味を理解していなかったが、賈駆が董卓と涼を交互に見ている事に気付くと、漸く賈駆が意図している事を理解した。


「あの……清宮さん。」

「ん?」


 直ぐ様董卓は行動に移った。

 だが、涼の顔を見ると言葉に詰まってしまう。

 それから何度か言葉を言おうとして、やはり言えないという状況が続いた。

 時間にして、二分弱。

 その間、涼は董卓の意図に気付かなかったが、地和は直ぐに気付いていた。

 だが、敢えて何も言わなかった。

 何故そうしたのかは地和にしか解らない。

 いや、ひょっとしたら地和にも解らないかも知れない。

 只、今はそうするのが一番だという確信は有った様だ。

 そうして地和や賈駆が見守る中、董卓は漸くその言葉を口にした。


「あの……清宮さんっ。私の……私の真名を貴方に預けます……っ。」


 そう言った董卓は、まるで告白した少女の様に顔を紅らめていた。

 いや、彼女にとって、これは正に告白と同じ事なのだろう。

 そして、その告白は未だ終わっていない。


「わ、私の姓は“董”、名は“卓”、字は“仲穎”、真名は“(ゆえ)”。……この真名を、貴方に預けます……。」


 董卓――月が涼の目を見ながらそう言うと、涼は笑みを浮かべながらその真名を受け取った。

 瞬時に月の表情が明るくなる。

 それは祝福すべき光景。それなのに、賈駆は何故か複雑な心境で見ていた。


「……じゃあ、次はボクの番ね。」


 そんな心境を払拭する様に、賈駆は居住まいを正して涼達に向き直り、言葉を紡いだ。


「ボクの姓は“賈”、名は“駆”、字は“文和”、真名は“詠”。この真名、アンタ達に預けるわ。」


 賈駆――詠は、涼と地和を見ながら自己紹介をし、自身の真名を預けた。


「最後はちぃの番だね。」


 地和は月と詠に向き直り、以前と同じ様に言った。


「ちぃの姓は“張”、名は“宝”、字は“明専(めいせん)”、真名は“地和”。この真名、月と詠に預けるわ。」


 地和は改めて本当の真名を二人に預けた。

 こうして、涼達は真名と秘密を共有する事になった。


「ふふ……♪」


 その帰り道、月はいつになく御機嫌だった。

 漸く想いを伝え、そして受け入れられた少女の様に、その表情は晴れ晴れとしていた。


「良かったわね、月。」

「うん♪」


 詠が声をかけると、月の明るい声が返ってきた。

 黄巾党の乱が起きて以来、乱の鎮圧に一生懸命だった月は、余り笑顔を見せなくなっていった。

 だが、涼と出会ってからは少しずつ笑顔を見せる様になり、今では以前と同じ様に笑える様になっている。


(……アイツのお陰ってのは癪だけど、月が喜んでくれるなら良しとするわ。)


 相変わらず複雑な表情と気持ちのまま、詠は月と並んで歩いていく。


「ねえ、詠ちゃん。」

「なあに、月?」


 月が詠を見ながら話し掛ける。その表情はやはり笑顔だ。


「色々有ったけど、今日は私達にとって良い一日だったね。」

「そうね。ボクもそう思うわ。」


 笑顔の月を見ながら、詠はそう言った。


(……ん? “私達”ってどういう事かしら?)


 詠は、月だけでなく自分にとっても良い一日だとも言われた事を疑問に思った。

 だが、幾ら考えても答えは出なかった。

 詠がその答えを知るのは、未だ先の事である。

 一方、涼と地和もそれぞれの自室に戻っていた。

 地和は未だ涼と居たがっていたが、月達の存在や良い雰囲気では無くなっていた為に、結局諦めた様だ。

 涼は、まるで確認する様に、月達に地和の事について念を押してから、三人に「お休みなさい。」と挨拶して自室のベッドに潜った。

 月や詠、そして地和にとって今日色々有った様に、涼にとっても色々有った。

 孫策との対決と突然のキス、そして孫策が雪蓮という自身の真名を預けた事。

 地和に彼女の姉妹の最期を伝え、慰めていたら良い雰囲気になってキスやそれ以上の事をしようとした事。

 劉徳然と名乗っていた地和の正体を董卓と賈駆に知られるも、彼女達が秘密を守ると約束してくれた事。

 更に、董卓は月と、賈駆は詠という自身の真名を預けてくれた事。

 どれも、涼にとって大きな出来事だった。


(地和とあんな風になるなんて、思いもしなかったな。……俺は、地和をどう思っているんだろう?)


 涼は考えた。

 地和を好きなのは間違い無い。だが、それは友達や仲間としてであり、恋人としてではなかった筈だ。


(それとも……本当はそうなのか?)


 涼は更に考えた。

 そしてそのまま眠りについていった。

 黄巾党の乱は、首領の張角と末妹の張梁が討たれ、残る張宝は行方不明という事で、終息に向かっていた。

 涼達連合軍は荊州の残党を制圧し、治安を回復させてから洛陽への凱旋の旅路についた。

 また、当然ながらそうした功績を挙げているのは連合軍だけでは無い。

 荊州刺史である丁原(ていげん)は、「神速」と謳われる張遼(ちょうりょう)や養子である呂布(りょふ)を引き連れ、連合軍の管轄外に居る黄巾党を討ち倒した。

 袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)といった、名門と謳われる袁家もまた、圧倒的な軍事力を以て乱を鎮圧している。

 また、張角・張梁を破った曹操は、その戦いの最中に従姉妹である夏侯惇(かこう・とん)夏侯淵(かこう・えん)を迎えており、更に残党や周辺地域の若者を引き入れて、軍備を増強していった。

 この様に、様々な武将達が黄巾党を討ち倒しており、その武勇は大陸全土に広がっていった。

 当然ながら、漢王朝は彼等に恩賞を与えていった。

 連合軍も恩賞を貰ったが、月達と違って劉備達は何の身分も無かった為、中々恩賞が与えられなかった。

 月や曹操、そして罪が間違いと判って解放された盧植達の取りなしが無ければ、更に時間が掛かっただろう。

 そうして皆に恩賞が行き渡ると、洛陽では黄巾党の乱鎮圧を祝って宴が催された。

 宴が催されて数日になるが、街では今日もまた花火が打ち上げられ、そこかしこで人々の歓声が上がっていた。


「綺麗……。」

「本当だな……。」


 次々と打ち上げられる花火を見ながら、桃香と涼はそう呟いた。

 今、涼達は洛陽に在る盧植の屋敷に居る。そこでは、街の宴を楽しみながら独自の宴が開かれていた。

 表向きは盧植の復帰祝いなのだが、実際には、余り朝廷に行きたくないという理由が有った。

 涼達は人々と漢王朝の為に戦ってきたが、現在の漢王朝には朝廷を我が物顔で歩いている十常侍(じゅうじょうじ)という者達が蔓延(はびこ)っており、彼等とは余り接したくないので極力出掛けていなかった。

 その思いは皆同じであるらしく、今この場には涼達以外にも沢山の武将達が居る。因みに連合軍の面々は皆ここに居る。


「皆の歓声を聞くと、私達が戦ってきた甲斐が有りますね。」

「ああ。皆、お疲れ様。」

「どうって事無いのだっ。」


 涼と桃香の周りには愛紗と鈴々も居り、酒やお茶を飲みながら歓談していた。


「随分と賑やかね。」


 そこにそう言って現れたのは曹操だった。

 一時的とは言え、曹操も連合軍に参加していた為に盧植の屋敷に来ているのだ。


「翡翠さんとの話は終わったのかい?」

「ええ。当たり前の復帰を祝っただけだから、そんなに時間はかからなかったわ。」


 曹操は涼の質問に答えながら、空いている席に座った。


「嘘の報告による冤罪だもんな。まったく、酷い事をする奴が居るもんだ。」


 涼がそう言いながらお茶をおかわりしようとすると、涼の代わりに曹操が注いでくれた。


「それが今の漢王朝の実状……いえ、未だこれは可愛い方かしらね。」

「……十常侍(じゅうじょうじ)の事か。」

「そうよ。奴等は帝を蔑ろにして、政治を自分達の思い通りに取り仕切っている。その結果、苦しむのは十常侍とそれに与する者以外の人間……つまり民達よ。」


 自らはお酒を飲みながら、曹操は深刻な顔をして話した。


「だったら、その十常侍さん達をやっつけちゃえば、問題は解決するんですよね?」


 桃香が尋ねると、曹操は静かに頷いた。


「けど、そう簡単に出来る事じゃないわ。奴等はこの国の実権を握っている……下手をすれば、間違い無く殺されるわね。」

「けど、曹操は諦めていないよな。」

「……どうしてそう思うのかしら?」

「曹操の眼は、諦めている人間の眼じゃ無いからな。」

「……流石は天の御遣いね。人をよく見ているわ。」

「いやいや、そんなに大した事はしてないよ。」


 誉められるのは素直に嬉しいが、実際に大した事をしていないと思う涼は思わず苦笑する。

 そんな涼に、突然誰かが後ろから抱きついてきた。

 抱きついてきたその人物は、イタズラっぽい笑みを浮かべながら明るく言った。


「お待たせ、涼♪」

「ビックリした……。遅かったね、雪蓮。何かあった?」

「ゴメンゴメン。母様達についていたら、結構時間がかかっちゃったのよ。」

「そっか。……まさか、抜け出してきたんじゃないよな?」

「そうしたいのはやまやまだけど、それやったらあの鬼婆に殺されちゃうし。」


 涼が苦笑しながら言うと、抱きついたままの人物――雪蓮は妖艶な笑みを浮かべながら話していった。

 そんな二人を見た曹操は暫くの間唖然としていたが、やがて平静さを取り戻すと小さく一つ咳払いをしてから尋ねた。


「……涼は、孫策を真名で呼んでいるのね。」

「ん? ああ、荊州で一緒に戦った仲だしね。」


 涼がそう言うと、雪蓮は不満げに言った。


「確かに一緒に戦った仲だけど……それだけじゃ無いでしょ♪」

「……へえ。」


 雪蓮がそう言うと、曹操は不敵な笑みを見せながら涼を見つめた。


「ひょっとして、二人は夜伽(よとぎ)をした仲なのかしら?」

「なっ!?」

「そうなの、涼兄さん!?」


 曹操の言葉に、涼より早く愛紗と桃香が反応する。

 涼は苦笑しながら桃香達を宥めた。そう言えばさっきから苦笑しっぱなしである。


「えっと……取り敢えず、夜伽はしてないから二人共落ち着いて。」

「本当に!?」

「本当だよ。」

「……良かった〜。」


 涼の言葉を信じたのか、桃香達はその豊かな胸を撫で下ろす。

 が、


「あら、私と涼が夜伽をしていないと何故“良かった”になるのかしら?」

「「どきっ!」」

「……どきって口で言う人、初めて見たよ。しかも一度に二人も。」


雪蓮に指摘された二人は慌てる。

 そして、そんな二人に冷静にツッコミを入れる涼。

 因みに曹操はそんな涼達のやりとりを面白そうに眺めている。


「桃香も愛紗も、涼の“義妹(いもうと)”じゃなかったかしら? 妹が兄の色恋に口出しするのはどうかと思うわよ?」


 雪蓮はニヤニヤと笑みを浮かべながらそう言った。

 その二人はというと、何か反論しようとするものの、結局反論出来ずに落ち込んでしまっている。

 そこに、翡翠や月達がやってきた。


「あらあら、ここも賑やかですね。」

「あ、翡翠さんに月、詠。あっちの方は良いんですか?」

「はい、一通りのお客様に挨拶しましたから、大丈夫でしょう。」

「そうですか。……って、そろそろ離れてよ雪蓮。」

「えー。」


 不満げな雪蓮は、渋々離れると直ぐ近くの席に着いた。

 続けて月達も空いている席に座り、最後に翡翠が座ると、彼女は桃香を見ながら言った。


「そう言えば玄徳、貴女にお客さんが来ていますよ。」

「お客さん、ですか?」


 桃香がそう言うと、翡翠達が来た方向から赤毛をポニーテールにしている少女がやってきた。

 少女は桃香に近付きながら声をかける。


「久し振りだな、桃香。」

「あっ、白蓮(ぱいれん)ちゃんだー。」


 少女の真名らしき名前を口にしながら、桃香は立ち上がった。

 その表情が明るく笑顔になっている事から、相手の少女は桃香にとって大切な人物なのだろう。


「白蓮ちゃんも、先生の復帰祝いに来たの?」

「それもだけど、一応黄巾党征伐の恩賞を頂きにな。」

「そっかあ。白蓮ちゃん、幽州(ゆうしゅう)の太守さんだもんねー♪」


 桃香は少女の活躍を心から喜んでいる様だ。


(幽州の太守で、桃香――劉備の知り合い……そうか、この子が以前桃香とお母さんの話に出て来た公孫賛(こうそんさん)なのか。)


 涼はそう思いながら、公孫賛と思われる少女を見た。

 長い赤毛は白い髪留めで纏めており、眼は金色。健康的で穏やかな表情はとても好感がもてる。

 紅いノースリーブの服に黒いヒラヒラのミニスカート、白を基調とした鎧には金色の線による模様が描かれている。

 腕には服と同じ紅い布を巻いており、その上にはやはり鎧と同じ材質と模様の篭手を付け、手には指が出せる黒い手袋をしている。

 白いニーソックスの上部には桃色のラインが有り、紅いロングブーツを履いていた。

涼が一通り少女の観察を終えると、少女と桃香は涼を見ていた。どうやら桃香が涼の事を話した様だ。

 それを察した涼は、ゆっくりと立ち上がって少女に向き直った。


「初めまして。俺は連合軍の総大将を務めていた清宮涼と言います。」

「ああ、今桃香から聞いたよ。私の名は公孫賛伯珪、真名は白蓮。桃香とは盧植先生の私塾で知り合って以来の仲だ。」


やはり少女は、涼の予想通り公孫賛だった。

少女――公孫賛はいきなり真名を預けてきた。


「いきなり真名を? 良いのか?」

「ああ、清宮殿の評判は聞いているし、何より桃香の義兄(あに)だし、それなら私も信頼出来るからな。」

「そっか。俺には真名が無いから、好きな様に呼んでくれ。」

「解った。」


 こうして涼と公孫賛――白蓮の挨拶が終わると、白蓮もまた空いている席に座った。

 それからは、皆で改めて盧植の復帰を祝ったり、各々の思い出や自慢話を語っていった。

 皆の話の合間も、夜空には花火が上がり続ける。

 街の人々の歓声もまだまだ止みそうにない。

 そうして夜は更けていき、宴は寝る迄続いた。

 翌日、涼と翡翠以外のメンバーは皆二日酔いだった。

 涼はお酒を飲んでいなかったから当然だが、皆と同じ様に飲んでいた翡翠がケロッとしてるのは凄いとしか言えない。


「曹操、大丈夫か?」

「だ、大丈夫よ……私がこれくらいで……うぅ……。」


 朝、食堂に現れた一同に声をかけている涼が曹操にも声をかけると、曹操は強がってみせるが、やはり二日酔いには勝てない様だ。


「はい、お茶。」

「あ、有難う……。」


 涼がお茶を渡すと、曹操は頭を押さえながらお茶を受け取り、一気に飲み干した。


「……私が二日酔いになるなんて不覚をとったわ……。」

「不覚って、そんな大袈裟な。」


 涼は苦笑したが、当の曹操は至って真面目な表情だった。


「……大袈裟ではないわよ。こんな状態では、刺客に襲われた時に応戦出来ないわ。」

「刺客って……狙われる覚えが有るのか?」

「当然よ。私は今回、黄巾党の人間を沢山を殺した。其奴等(そいつら)の仲間や遺族には、相当怨まれているでしょうね。」

「そうか……。」


 それなら自分も同じだと、涼は思った。

 そしてそれは自分だけではない。桃香も愛紗も鈴々も、この屋敷に居る武将や軍師達が皆、直接間接問わず黄巾党の人間を殺している。

 涼はそんな当たり前の事を忘れていた自分を、恥ずかしく思った。

 そして、常に身の危険を感じながら生きている曹操に、何か言わないといけないと感じた。


「……けどさ、ここは翡翠さんのお屋敷だよ。そんなに気を張らなくても良いんじゃないかな。」

「翡翠様が良い人なのは解っているわ。けど、翡翠様の仲間や知人が、私の事をどう思っているのかは解らない。」

「だから、気を張り続けるのか?」

「そうよ。」

「……なら、何か遭ったら俺が助けてやるよ。」

「えっ……?」


 涼のその言葉に、曹操は小さく声をあげて驚いた。


「そんなに驚くなよ。仲間なんだから当然だろ。」


 涼は微笑みながらそう言った。

 すると曹操は、


「仲間……ね……。」


と呟いた。


「どうかした?」

「いえ……考え方が甘いわ、と思ってね。」

「それは自覚してる。けど、これが俺のやり方だから。」

「……そう。」


 涼がそう答えると、曹操は思案顔になって暫く沈黙した。


華琳(かりん)よ。」

「え?」


 そして突然、涼に向かってそう言った。


「私の真名よ。翡翠様や孫策だけでなく、董卓や賈駆、それに知り合ったばかりの公孫賛も貴方に真名を預けている様だし、私だけ預けないのもおかしいでしょ。」

「そんな理由で良いの?」

「良いのよ。それに、天の御遣いに真名を呼ばれるっていうだけで、私にとっては充分過ぎるわ。」

「あー……成程ね。」


 天の御遣いと呼ばれる涼は、民だけでなく色んな武将や軍師達からも一目置かれている。

 今回恩賞を受け取る際にも、高官達は初め素っ気なかったのに、月達の進言で涼が天の御遣いと解った途端、手のひらを返して接してきた人物は一人二人では無かった。

 つまり、涼と親しく接している人物は「天の御遣いの威光」を得たも同然に見られるのだ。


「……案外、董卓や公孫賛達も同じ理由かもね。」


 曹操はニヤリとしながら言った。


「そう決め付けるのは良くないよ。それに、月達はそんな思惑を持ってないと思うし。」

「どうしてそう思うの?」

「どうしてって……勘かな?」


 反論する涼も確たる証拠は無く、只そう思っただけなので他に言い様が無かった。

 そんな涼を見ながら、曹操はクスリと笑う。


「本当に甘いわ。……けどまあ、それが貴方の良い所なんでしょうね。」


 誉めてるのか貶してるのかよく解らない物言いをする曹操だった。

 困惑する涼を後目に、曹操は居住まいを正して言葉を紡ぐ。


「では、改めて自己紹介をしましょうか。……私の姓は“曹”、名は“操”、字は“孟徳(もうとく)”、真名は“華琳”。この真名を、貴方に預けます。」

「ああ、確かに預かったよ。宜しく、華琳。」


 曹操から華琳という真名を受け取った涼は、微笑みながら手を差し出す。

 曹操――華琳はその手を見て戸惑ったが、やがてその手を握った。

 華琳と握手をした涼は、それから幾つか話しながら朝食に向かった。

 涼達の洛陽滞在も今日で終わる。

 皆で一緒にとる食事は、恐らくこれが最後になるだろう。

 朝食を終えると、涼達はそれぞれ旅立ちの準備を始めた。

 月と詠は涼州(りょうしゅう)、曹操は陳留(ちんりゅう)へ、孫策達は豫州へ戻り、盧植はこのまま洛陽で黄巾党の乱の事後処理をする様だ。

 涼達は恩賞を貰ったとはいえ、その中身は戦功に見合ったものでは無かった。

 涼が天の御遣いと解ると、高官達は慌てて恩賞を変えようとしたが、涼は辞退して最初の恩賞のままにした。

 只、その恩賞だけでは三千人の義勇兵を養っていく事が出来ない為、涼達は当初の予定通り幽州に行き、公孫賛の世話になる事にした。


「急な話でゴメンね、白蓮ちゃん。」

「気にするなよ、桃香。実は、数ヶ月前に桃香の母上から手紙が来ていてな、それで桃香達が何れ来るだろうってのは解っていたんだ。」

「そうだったんだ……。」

「ああ。けど、ちっとも来ないから心配したぞ。」

「ご、ゴメンね、白蓮ちゃんっ。」


 出発前、桃香達はこんな話をしてリラックスしていた。


「清宮さん、皆さん、また会いましょうね。」

「せいぜい死なない様にね。」

「次会う時は、敵かもね。」

「今度は負けないからっ。」

「皆さん、道中気を付けるのですよ。」

「皆、またなっ。」


 各々そう言って帰路についた。

第六章「戦いが終わり、戦いが始まる」をお読みいただき、有難うございます。


今回は、盧植の逮捕や孫堅の活躍以外はオリジナル展開が多くなっています。

また、修正中に文章が抜けている部分が有るのに気付き、即座に修正しました。御迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。


孫堅については、公式絵師さんのイラストの存在を知らなかった為、オリジナル設定となっています。知ってたら少しは違っていたでしょう。

孫策(雪蓮)については、基本的には原作そのままですが、未だ孫堅が存命していて家督を継いでいない為、幼さや経験の浅さからあんなキャラだという設定にしています。

程普はクールな副臣ってイメージです。因みにオリジナル武将の真名はイメージや語感の響きから付けています。


地和の設定はいきあたりばったりに決まりました。

前章を執筆後、この章を書くにあたり、無事に逃がすのは難しいんじゃないかと思い、偽名や変装して皆の中に隠れている事にしたのですが、その際にどんな偽名や立場なら比較的安全か考えた結果、劉備の従兄弟といわれている劉徳然の存在を思い出し、それを地和の変装に使おうと思い至りました。

この設定は個人的に良かったと思っているのですが、最近ウィキペディアを見直してみると、劉徳然は公孫賛の学友だったらしいんですよね。……どうしよ(笑)

因みに張宝は字が伝わっていない為、今作ではオリジナルの字を付けています。字の付け方とか解らないので、完全に直感ですが、どうか御了承下さい。次女だから、「仲」をつけるべきだったかな?ひょっとした変更するかも知れませんね。


次は短い章ですが、あのキャラが出て来ます。お楽しみに。



2012年11月27日更新。

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