世界救済の凡骨
一
「――要するに、君は昨日も書類の山をすべてシュレッダーにかけた上に、給湯室の蛇口を全開のまま帰宅したと。そういう認識でよろしいかね、レオン君」
薄暗い執務室。
重厚なマホガニーの机の向こうから、冷ややかな声が飛んできた。
声の主は、世界最高峰の魔導技術と武力を誇る『王国特務防衛局』の局長、ガルドである。
その机の前に直立不動で立っている男――レオン・ハワード(二十五歳)は、びっしりと冷や汗をかきながら、しかし顔だけはなぜか凛々しく胸を張っていた。
「はっ! お言葉ですが局長! シュレッダーにかけたのは『昨日の書類』であり、明日への未練を断ち切るという前向きな意味が込められております。また、給湯室の蛇口につきましては、常に潤いのある職場環境を維持するための局長へのサプライズ演出でございます!」
「やかましいっ!」
ガルドの怒号が執務室の天井を揺らした。
血管の浮き出た拳が机を叩く。本来であれば、これほどの失態を犯した職員など即座に地下牢行きか、さもなくば最前線の囮部隊行きである。しかし、ガルドの目は怒りだけでなく、深い疲労と、ある種の「恐怖」に彩られていた。
(なぜだ……なぜこの男をクビにできん……!)
ガルドは内心で頭を抱えていた。
レオンは入局以来、数々の伝説的な無能さを発揮してきた。魔法の才能は皆無、剣術の腕は素振りで自分の足の親指を叩くレベル、知能指数はカブトムシと同等かそれ以下。仕事を与えれば完璧に失敗する。
だが、奇妙なことに――この男が関わった重大事件は、なぜか「すべて最良の結果」に着地しているのだ。
去年のテロリスト潜入事件では、レオンが「なんとなくカッコいいから」と適当に投げ捨てたリンゴの芯が、潜入犯の鼻の穴に完璧に嵌まり、酸欠で気絶したところを取り押さえられた。
半年前の古代遺跡暴走事件では、レオンが「お腹が空いた」と壁のレリーフにサンドイッチの具を塗りたくったところ、数百年隠されていた隠し扉のロックが偶然解除され、世界を滅ぼす魔王の復活を未然に防いでしまった。
結果だけを見れば、レオンは『人類の救世主』である。
しかし中身はただの、救いようのないアホなのだ。ガルドにとって、この男を処罰することは、組織の理不尽なジンクスと運の女神を敵に回すことを意味していた。
「……いいだろう」
ガルドは深い、深いため息をつき、頭痛薬を口に放り込んだ。
「処分は保留だ。だが、これ以上我が局の面汚しを続けるわけにはいかん。本日から、君に極秘の重要任務を言い渡す」
「はっ! お任せください局長! 私の知略と武勇で、世界を震撼させてみせます!」
「……世界を震撼させるな、平和に保て。いいか、耳の穴をかっぽじってよく聞け」
ガルドは一枚の羊皮紙を突き出した。
「我が国の地下深くには、かつて先代の王が封印した『災厄の魔石』が眠っている。その封印が、今、魔導の乱れによって劣化しているのだ。君の任務は、その魔石の収められている最下層の封印の間へ行き、この『絶対安定の魔法陣プレート』を床の指定の場所に設置することだ」
「ほう……『絶対安定の魔法陣プレート』でありますか」
レオンは、なぜか片目を隠すように前髪をかき上げ、キザな笑みを浮かべた。
「ふっ、我が右腕に宿る漆黒の波動が、そのプレート共鳴しておるわ……。お任せくだされ、局長。ものの数分で、世界を安泰の眠りに誘って進ぜましょう!」
「……頼むから、余計なことは一切するな。ただ歩いて、ただ指定の場所にそれを置け。いいな? 足し算も引き算もするな。ただ置くだけだ」
「ハッハー! このレオン様にお任せあれ!」
レオンは豪快に敬礼すると、背筋をピンと伸ばして執務室を飛び出していった。
その後姿を見送りながら、ガルドは神に祈るように両手を組んだ。
(頼む……今度ばかりは、あのバカの運も尽きてくれ……。いや、もしあいつが失敗したら私が滅びる……!)
二
王都防衛局の地下迷宮、その最下層。
そこは通常であれば、熟練の特務官たちが命がけで警護する、人類の防衛の要であった。
――しかし。
「えーっと……右かな? 左かな? それともまっすぐかな?」
レオンは、分岐点に立ち尽くしていた。
手には『絶対安定の魔法陣プレート』(ずっしりと重い金属製の板)を抱え、もう片方の手には、さっきまでポケットに入っていたカツサンドの包み紙を持っている。
「うーん、道に迷ったな。まあいいか。我が方向音痴スキルは、常に真実の道へと導くからな!」
全く導いていない。
レオンは適当に左の通路へと足を踏み出した。
その直後、背後でごうっ、と地響きが起きた。
「おや? 地震かな? 最近の若い地震は挨拶もできなくて困るぜ」
呑気にヘラヘラしながら歩き続けるレオン。
だが、彼が選んだその通路こそが、実は『世界征服を企む悪の秘密結社・ネクロニア』が密かに掘り進んでいた地下トンネルと直結していたのだ。
数分前。
ネクロニアの最高幹部である『闇の魔導師ドルゴス』は、邪悪な笑みを浮かべて部下たちに指示を出していた。
「ククク……ついに我らの悲願、王国中枢の地下深くへ至る抜け穴が完成したぞ! このまま最下層の封印の間に突入し、『災厄の魔石』を強奪、そして世界を我が手中に収めるのだ!」
ドルゴスの背後には、精鋭の暗殺部隊や、改造魔獣たちがずらりと並び、その不気味な咆哮が洞窟に響き渡っていた。まさに、世界が危機材に瀕した瞬間である。
その時だった。
「――おっと、失礼。ちょっと通りますよっと」
暢気な声とともに、通路の壁を突き破って、一人の男がひょっこり現れた。
ドルゴスは我が目を疑った。
抜け穴のセキュリティは完璧だったはずだ。それなのに、なぜ壁が内側から、いや、まるで紙細工のようにぶち破られて部外者が侵入してきたのか?
「なっ……貴様、何者だ!?」
ドルゴスが杖を構え、威圧的な魔力を放ちながら怒鳴りつけた。
しかし、レオンはビビるどころか、フン、と鼻をならした。
「ふっ、私に問うか。我が名はレオン・ハワード。この世界の美と秩序を守る、孤高の貴公子さ……って、なんだお前ら。コスプレの撮影会か? いい趣味してるじゃないか、そのタコみたいな頭のやつとか、かなりリアルだな」
「タコだと……!? 我らを愚弄するか! この愚鈍な人間め、その軽口を叩けぬように、我が黒き業火で骨の髄まで焼き尽くしてやろう!」
ドルゴスが呪文を唱え始め、周囲の空気が激しく歪み、灼熱の炎の球が渦を巻き始めた。周囲の部下たちも一斉に武器を抜く。
絶体絶命のピンチ。普通の人間であれば、この瞬間に心臓が止まっているところだ。
しかし、レオンは違った。
「ん? なんか暑くなってきたな。もしかして、冷房の温度が高すぎたか? おい、そこのタコ、ちょっとそこのスイッチ下げといてくれよ」
「死ねええええ!!」
ドルゴスが全魔力を込めた超大型の火球を放った。
それは直撃すれば、周囲一帯を吹き飛ばすほどの威力を持っていた。
「っと危ねえ!」
レオンは、飛んできた火球を避けようとして、手元にあった「カツサンドの包み紙」を、反射的に全力で投げつけた。
「くらえ! 特製・ソース攻撃!」
もちろん、ただの紙くずが魔法を防げるわけがない。
……普通は。
だが、奇跡はここで起きた。
投げられた包み紙に付着していた濃厚なデミグラスソースが、運悪く(あるいは運良く)ドルゴスの開けっ放しだった口の中に、ミリ単位の正確さで直撃したのだ。
「ぶぇっ!? ぺっ、ぐほっ!?」
あまりの濃厚さとソースの熱さに、呪文の詠唱が完全に狂った。
ドルゴスは激しくむせ返り、自分で放った火球のコントロールを失う。
「ぐわっ、まぶしっ、しょっぱいっ!?」
暴走した火球は目標を失い、洞窟の天井へと激突した。
――ゴゴゴゴゴ……!
「「「あっ」」」
ドルゴスとその部下たちが絶望の声を漏らした。
レオンが投げたソースによって詠唱が歪み、天井を直撃した爆風は、ネクロニアが数ヶ月かけて掘り進めた地下トンネルの『もっとも構造的にヤバい支柱』を綺麗に粉砕したのである。
「あー、なんか天井が崩れてきたぞ。おいおい、安全管理どうなってんだこのスタジオは!」
レオンは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
その上から、数千トンの岩盤が凄まじい轟音とともに崩落してきた。
「ぎゃああああっ!?」
「撤退だぁーーっ!!」
「ボス、置いてかないでくだs――」
ネクロニアの精鋭たちは、自分たちが掘った自慢のトンネルの下敷きになり、文字通り「自業自得」の形で全員まとめて生き埋めとなった。
岩煙がもうもうと立ち込める中、奇跡的にレオンの頭上だけは、頑丈な岩の隙間(奇跡の三角地帯)が形成され、レオンは無傷でその場にポツンと取り残されていた。
三
静寂が戻った。
ホコリをパタパタと払いながら、レオンは立ち上がった。
「ふう、危うく日焼けするところだったぜ。……っと、いかんいかん、任務を忘れるところだった」
レオンは足元に転がっていた『絶対安定の魔法陣プレート』を拾い上げた。
どういうわけか、その場所は、ガルドから指示されていた「最下層の封印の間」の、まさに指定された中心地そのものだった。
天井が崩落した衝撃で、分厚い鉄の扉や障害物がすべて吹き飛び、最短距離でそこへたどり着いていたのだ。
「えーっと、これをここに置けばいいんだな?」
レオンは鼻歌交じりに、プレートを床にドン、と置いた。
その瞬間。
床に刻まれた古代の魔法陣とプレートが共鳴し、眩い黄金色の光が地下室全体を包み込んだ。
劣化していた『災厄の魔石』の封印が、幾重にも強化され、世界中に満ちていた魔力の乱れが一瞬でピタリと安定した。
地上。
王都の空に浮かんでいた不吉な黒雲がサーッと晴れ渡り、穏やかな青空が戻ってきた。
防衛局の観測モニター室では、魔力の数値が正常値に戻ったことを見て、職員たちが歓声をあげて抱き合っていた。
「魔力値、完全に安定! 封印の完全修復を確認しました!」
「やったぞ! 世界が救われた!」
その中心で、ガルド局長だけは顔を青ざめさせ、ガタガタと震えていた。
「うそだろ……あのバカが……あのレオンが、世界を救っただと……? いや、待て、どうやってだ? あの男のことだ、きっと地下を全滅させて、あまつさえ王国を崩壊させるような真似を……!」
ガルドは居ても立ってもいられず、全速力で地下の封印の間へと駆け下りた。
四
地下最下層。
そこには、かつての厳重な封印の間ではなく、なぜか広大な「瓦礫の山」と、その中央でなぜか誇らしげに胸を張るレオンの姿があった。
周囲には、気絶して白目を剥いた悪の組織の幹部や戦闘員たちが、行儀よく並べて埋められている。
「はっはっは! 見たか局長!」
レオンは駆けつけてきたガルドに向かって、親指を立ててウィンクした。
「私の華麗なる手腕によって、潜伏していた不審者グループを全員まとめて更生させ、ついでに床の模様替えも完璧に完了させておきましたぞ!」
ガルドは言葉を失った。
目の前の光景を脳内で処理しようとするが、情報量が多すぎてCPUが焼き切れそうだった。
崩壊した天井、気絶した悪の組織、完璧に修復され、むしろ以前より輝いている魔法陣。そして、汗一つかいていないレオンの笑顔。
「き、貴様……一体、地下で何をした……?」
ガルドの声がかすかに震えている。
レオンはフッ、と遠い目をした。
「ふっ、男には、語らぬ美学というものがあります。言えるのはただ一つ――世界は今日も、私の手のひらの上で平和だということですな」
「…………」
ガルドは天を仰いだ。
怒りも、呆れも通り越して、もはや神々しさすら感じさせるその態度に、彼は敗北を認めざるを得なかった。
この男を処罰することはできない。なぜなら、彼は『結果』を出してしまうからだ。世界は救われ、悪党は勝手に自滅し、平和が訪れた。
「……レオン君」
ガルドは絞り出すような声で言った。
「はっ!」
「……明日から、君を『特務防衛局・最高顧問』に昇進させる」
「おおっ! 昇給はありますか!?」
「……倍にしてやる。だから、頼むから、明日もいつも通り……適当に生きてくれ」
「ははっ! お任せくだされ局長! 私のラッキーと実力にかかれば、世界平和など朝飯前であります!」
満面の笑みで敬礼するレオンの背後で、なぜか奇跡的に、崩れかけた天井の隙間から一筋の美しい日の光が差し込み、彼の姿を神々しく照らし出していた。
世界は今日も、このどうしようもない男の圧倒的な幸運によって、平和に守られているのだった。




