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第九章 静かなる胎動

静かな城の奥で、決意が芽吹く。

表向きは泰平を装う大坂城――しかし、その奥で、若き当主は血を流さぬ道を探し、家族を守るための一手を打つ。

誰にも知られぬまま始まる策、その胎動はやがて歴史を揺るがす力となる。

これは、絆と理が交錯する中で紡がれる、静かな反撃の序章。

 冬の乾いた風が吹きすさぶ三方ヶ原。

 武田軍の赤備えが地を揺るがし、徳川の旗は土煙に消えた。

 その中に、若き真田昌幸の姿があった。鋭い眼光で戦場を駆け、武田の策を操る男。

 家康はその影を忘れたことがない。


 場面は変わり、上田城の堅牢な石垣。

 信幸が冷静に指揮を執り、信繁が俊敏に駆ける。

 その少年の眼差しは、未来の脅威を予告するかのように鋭かった。


 そして、炎が燃え広がり、銃声が轟く。

 鉄砲を構えた信繁が、炎の中から歩み寄ってくる。

 その眼差しは、冷たく、揺るぎない。

 引き金が引かれる――


「……!」

 家康は息を呑み、闇から現実へと引き戻された。

 額には汗が滲み、寝具は湿っている。

 枕元には、昨夜の報告書が積まれていた。

 ――真田信繁、大坂城に入城。

 その報せが、夢の元だった。


 家康は静かに報告書を手に取り、視線を落とす。

「真田……歴史は繰り返すか」

 低く呟いた声には、恐怖ではなく、最悪を想定する冷徹な響きがあった。

 ――戦は最後の手段だ。

『秀頼よ、余はそなたに期待しておる。

 このまま淀殿の束縛に酔い続けるなら、豊臣も、そなた自身も滅びるほかあるまい。

 だが、己の足元の毒に気づき、真に乱世を生き抜く力を示すなら――

 余は、そなたを徳川と共に天下を治める柱の一つとして遇する覚悟がある』

 家康は深く息を吐き、報告書を机に置いた。

 夜明けは近い。決断の時も、また。



 広間に静寂が落ちていた。

 障子越しに射し込む冬の光が、秀頼の横顔を淡く照らす。

 若き当主は深く息を整え、千姫の前に膝を進めた。

 その眼差しには、迷いを捨てた決意と、言葉にできぬ焦燥が宿っている。

「お千、よく聞き届けてくれ。」

 声は穏やかであったが、その奥底には燃えるものがあった。

「余はすでに、京のお初殿、北政所殿へ書状を遣わした。

 母上を諫めるため、叔母上方の御力を仰ぐつもりにてある。

 されど、それのみでは事足りぬ。」

 秀頼は視線を落とし、指先に力を込める。


 その沈黙が、言葉よりも重く千姫の胸に響いた。

「江戸におわすお江殿にも、我らが真の思いを伝えねばならぬ。

 家康公、そして父上を御納得いただくには、江戸の声が欠かせぬゆえ。

 そのためには、そなたの助けが要る。」

 千姫はわずかに身を乗り出した。

 その瞳が大きく見開かれ、唇が何度か動きかけては閉じる。

 ――言葉を挟みたい、けれど秀頼の必死な眼差しがそれを許さぬ。

「お千、お江殿への文、そなたの言葉にてしたためてほしい。

 豊臣の過去も、徳川の未来も、すべてを賭して母上を救い出す。

 ……余に、力を貸してくれ。」

 秀頼の手が、そっと千姫の前に差し出される。

 その掌には、血ではなく希望が宿っていた。


 千姫は一瞬、視線を落とし、唇を噛む。

 そして、ゆっくりとその手を握り返す。

「……はい、必ず。」

 声は静かだが、握る指に力がこもる。

 その瞬間、千姫の頬に淡い紅が差した。

 ――言葉にはしなかったが、その表情は語っていた。

『こんなふうにしなくても、私は初めからそなたの力になるつもりだったのに。』

 障子の向こうで、冬の風が微かに鳴った。

 その音は、二人の決意を遠く江戸へと運ぶかのようであった。



 高台寺の庭は、紅葉の名残をわずかに残し、枯れ葉が冷たい風に舞っていた。

 板敷きの廊下を渡る空気は鋭く、炉の火だけがわずかな温もりを与えている。

 晩鐘の余韻が遠くに消え、室内には静寂が満ちていた。


 北政所は、一通の書状を手にしていた。

 指先がわずかに震える。墨の香が、冷えた空気に淡く広がる。

 ――秀頼からの文。

 これまで「殻に閉じこもった雛」と思っていた若君が、記した言葉は――冷徹で、そして慈愛に満ちていた。

「……徳川の仕組みに合流し、母上を抑え込む、だと……」

 北政所は声を失い、しばし書状を見つめたまま動けなかった。

 その文には、戦を避けるための理が並んでいた。

 豊臣の看板を捨て、徳川と共に天下を治める覚悟。

 茶々――淀殿の強硬を、搦め手で封じる策。

「……あの子が、ここまで冷静に、そして非情に『理』を説くとは……」

 唇から漏れた声は、驚愕と戦慄に震えていた。


 北政所の脳裏に、かつての夫・秀吉の姿がよぎる。

 天下という針の穴に糸を通した、あの恐ろしいまでの知略。

 その閃きが、今、秀頼の中に宿っている――。

 長く胸を縛っていた絶望が、音を立てて崩れ落ちる。

「ようやく……茶々の呪縛から逃れたか」

 その声には、深い安堵と、決意の色が混じっていた。


 北政所は静かに立ち上がる。

 侍女が控えていた机には、すでに筆と硯が用意されている。

「阿茶へ文を……いや、家康殿へ直接届けさせよ」

 筆を取る手に、もはや迷いはなかった。

 彼女がしたためた文には、こう記された。

 ――「家康殿。秀頼が、太閤を超えた。

 あの子は今、自らの誇りよりも『民と家族の命』を選ぼうとしている。

 この若者の覚悟を、どうか天下の柱として受け入れてやってはくれぬか」


 障子越しに射す光は弱く、炉の火が小さく揺れた。

 北政所の瞳には、もはや滅びを待つ影はなかった。

 そこにあるのは、未来を繋ぐための、最後の戦いへの覚悟だった。



 火鉢の炭が赤く光り、冷えた空気に微かな熱を放っていた。

 常高院は、手にした一通の書状をじっと見つめていた。

 その指先が、わずかに震えている。

 ――秀頼からの文。

 そこに記されていたのは、母を「救うべき病んだ権威」として切り分け、徳川との和睦を成すために、過去を捨てる覚悟を示した冷徹な理。


「……あの秀頼様が、これほどまでに」

 声はかすれ、火鉢の熱に溶けるように消えた。

 彼女の脳裏に、姉・茶々の横顔が浮かぶ。

 誇り高く、しかし脆いその姿。

 小谷城で、そして北庄城で、共に地獄を見た姉。

 その姉が今、過去という名の棺桶に閉じこもり、豊臣のすべてを道連れに心中しようとしている。


 お初は、書状を火鉢の火にかざした。

 紙がぱちりと音を立て、炎が白い文字を呑み込んでいく。

 その光を見つめながら、彼女は静かに息を吐いた。

「お江だけでなく、私までを駒として使いこなすか……。

 秀頼様、あなたは――やはり太閤殿下の血を継いでおられる」

 燃え尽きた灰が、冷気に舞う。


 お初の瞳には、もはや迷いはなかった。

 秀頼が提示した『クーデターという毒』を、豊臣を救う唯一の『薬』として受け入れる覚悟が、今、彼女の中で固まった。

「茶々姉様……不肖の妹と、覚醒した息子が、あなたの意地を壊しに参ります。

 それが、あなたの命を繋ぐ唯一の道なれば」


 火鉢の炎が、静かに揺れた。

 その赤い光は、豊臣の過去を焼き払い、未来への道を照らす灯火のようであった。



 障子越しに射す光は弱く、庭の松に冷たい風が渡っていた。

 炉の火が静かに揺れる中、阿茶局は一通の文を両手で捧げ持ち、家康の前に進み出た。

「殿、北政所殿より御文、届きました」

 家康は眉をひそめ、文を受け取る。

 墨跡は力強く、そこに記されていたのは――

 秀頼が、母を「救うべき病んだ権威」として切り分け、徳川との和睦を成すために過去を捨てる覚悟。

 さらに、淀殿を説得するために北政所・常高院を動かす布石。

「……秀頼が、ここまで考えておるとは」

 低く漏れた声が、炉の火に溶ける。

 阿茶局が静かに言葉を添える。

「殿、これはただの願いにあらず。秀頼様は血を流さぬ天下を望み、淀殿を抑える策を講じております」

 家康は文を机に置き、深く息を吐いた。

「……淀殿さえ動けば、戦は避けられる。余は戦を最後の手段とする」

 阿茶局が一歩進み、炉の火に手をかざした。

「お江殿の名も記されております。もし、お江殿が説得に加わりたいと望むなら――」

 家康はその言葉を遮り、静かに頷いた。

「妨げることはいたさぬ。それもまた泰平への道だ」

 阿茶局は深く頭を垂れた。

「殿、今こそ徳川の寛容を示す時。秀頼様を敵ではなく、天下を支える柱として遇する――それが泰平への唯一の道でございます」

 家康は筆を取り、硯に墨を落とした。

 筆音が静寂を裂く。

 したためる文は短く、しかし重い。

『秀頼覚悟の旨、確かに承り候。

 徳川、血を流さぬ天下を望むこと、これまでと変わりなく候。

 淀殿御説得の儀、御尽力、忝く候。

 なお、お江も参ることあらば、妨げ申すまじく候。

 天下泰平のため、余もまた力を尽くす所存にて候』


 炉の火が小さく揺れ、墨の香が冷えた空気に淡く広がっていた。

 家康が筆を置いた瞬間、阿茶局は静かに一歩進み出る。

 机上には、短く、しかし重い言葉が記された返書。

 阿茶局は両手でそれを受け取り、深く頭を垂れた。

「御意、必ずや高台院殿へ届けさせます」

 家康は視線を炉に落としたまま、低く言う。

「阿茶、この文は余の心そのものだ。血を流さぬ天下――そのために、余も動く」

 阿茶局は返書を懐に収め、静かに立ち上がる。

 その眼差しには、ただの側室ではなく、家康の「影」としての覚悟が宿っていた。

「……殿の御心、必ずや伝わりましょう。

 そして、泰平の道を開くため、私もまた力を尽くします」

 襖が音もなく閉じる。


 阿茶局の足音が遠ざかると同時に、炉の火が小さくはぜた。

 その音は、歴史の歯車が静かに回り始めた合図のようであった。



 障子越しに射す光が淡く、庭の木々に冷たい風が渡っていた。

 お江は、娘・千姫から届いた一通の密書を胸に抱くように握りしめていた。

 そこには、秀頼が「不孝」の汚名を着てでも淀殿を抑え込み、徳川の秩序に合流するという、震えるような決意が記されていた。

「……千よ。そなたも、殿と共に地獄へ歩むつもりか」

 お江の瞳から、一筋の涙が零れた。


 その時、襖が静かに開く。

 大御所・徳川家康の命を受けた側近が、深く頭を垂れた。

「大御所様より伝言にございます。

『江戸の女房が、姉妹の縁を解きに大坂へ参りたいと言うなら、妨げはせぬ。

 ……雛が自ら殻を壊すというなら、その仕上げ、手伝うてやれ』と」

 お江は息を呑んだ。

 家康の「黙認」――それは、秀頼の反逆を徳川が公式に受け入れ、豊臣の看板を下ろすことを許したという、冷徹なまでの政治的合意であった。

「……大御所様、感謝いたします」

 お江は立ち上がり、既に用意させていた旅装を整えさせた。


 将軍正室という地位を脱ぎ捨て、一人の妹として、そして一人の母として、姉・茶々の「心中」を止めるための戦場へ向かう覚悟を固めた。

「茶々姉様。あなたは私を徳川の犬と蔑むでしょう。

 けれど、私はあなたの『意地』よりも、千と秀頼様の『命』を、そして浅井の血の『未来』を選びます」

 江戸から大坂へ――。

 史実の歯車が大きく外れ、徳川の「正義」を背負ったお江の輿が、西へと急ぎ始めた。



 大坂城の奥御殿。

 重苦しい静寂の中、障子越しに冬の光が淡く射し、広間には張り詰めた空気が漂っていた。

 秀頼が歩みを進める。その背後には二人の影――お初とお江。

 若き当主は深く息を整え、広間の扉を押し開けた。

「母上。叔母上方をお連れいたしました」

 その声は静かだが、奥底に燃える決意があった。

 淀殿は高座に座し、金屏風を背に、冷ややかな眼差しを向ける。

「……何のために」

 その一言が、広間の空気をさらに重くした。

 お初が一歩進み、深く礼を取る。

「姉上。話がございます」

 お江も続き、静かに座した。

 その所作には、血を分けた姉妹としての情と、歴史を変える覚悟が宿っていた。


 この場を整えたのは、京・高台寺に身を置く北政所である。

 彼女は知っていた。淀殿が抱える孤独な誇りが、どれほど深く豊臣を蝕んでいるかを。

 そして、その呪縛を解けるのは、同じ血を分け、同じ地獄を生き抜いてきた妹たちの「血の涙」しかないことを。

 北政所が家康へ送ったのは、冷徹な理ではなく、一人の母としての切実な願いだった。

 ――『家康殿。これ以上、あの子たちを泣かせないでほしい。秀頼が不孝者の汚名を着てでも母を救おうとしている今、どうかお江を行かせ、三人を会わせてやってはくれぬか』

 かつて夫・秀吉と共に天下を夢見た女性の、これが最後にして最大の「わがまま」であった。

 家康が、お江の大坂行きを黙認したのは、政治的な計算を超えた、この北政所の「祈り」に打たれたからに他ならない。

 秀頼が信繁と共に進める「生存の道」と、北政所が手繰り寄せた「家族の絆」。

 二つの想いが大坂城の奥深くで重なり、冷たい歴史の歯車を、温かな「救済」へと動かし始めていた。


 淀殿はまだ気づいていない。

 目の前に立つ妹たちが、自分を降伏させに来た「敵」ではなく、北政所と秀頼が、彼女を死の淵から引き戻すために差し伸べた、最後の一筋の光であることを。


 淀殿の視線が鋭く光り、唇が冷たく歪む。

「江か……徳川の犬となったお前が、何の用でこの戦場へ来た」

 お初が一歩進み、深く礼を取る。

「姉上、もう十分でございます。父上も母上も、戦の中で果てました。けれど、私たちは生き残った。

 生き残って血を繋ぐことこそが、浅井の、そして太閤殿下の願いではございませぬか。

 国松様や奈阿様の未来を、どうか閉ざさぬでくださいませ」

 お江が続き、静かに座す。

「姉上、私は徳川の妻として参りました。

 大御所様は、秀頼様の覚悟をお認めになりました。

 今、姉上が矛を収めれば、豊臣は松平として、徳川の柱の一つとして残されます。

 これは、最初で最後の救いにございます。

 国松様も奈阿様も、血を流さずに生きられる道が、今ここにございます」


 淀殿の瞳に炎が宿る。

「救いだと? あの古狸に這いつくばって生きるくらいなら、この城を枕に華々しく散る道を選ぶ!

 屈辱に生きるより、潔く死んだ方がマシ!

 秀頼も、それを望んでおるはずだ!」

 広間の隅で、秀頼は一言も発さず、ただ三人のやり取りを見つめていた。

 その背後、襖の向こうでは、信繁と勝永の精鋭が音もなく退路を封じ、大野治長らの側近を別室へ隔離していた。

 静かな包囲網が、広間を見えぬ檻に変えていく。

 淀殿の声が鋼のように響く。

「帰れ! 二度と私の前にその顔を見せるな!」

 二人の瞳から、熱い涙が零れ落ちる。

 その涙は、二十年余の歳月と、浅井の血の重みを映していた。



 襖が静かに閉じられ、広間の重苦しい空気が背後に遠ざかる。

 秀頼は無言のまま歩を進め、泣き崩れそうな二人の叔母を奥の渡り廊下へと導いた。

 冷たい冬の風が障子越しに流れ込み、三人の頬を撫でる。

 秀頼は足を止め、振り返った。

 その眼差しは、広間で見せた沈黙とは異なり、柔らかな光を宿していた。

「……お初様、お江様。お二方の御心、余はしかと受け取りました」

 お初が顔を上げる。涙に濡れた瞳が揺れる。

「秀頼様……私たちは……」

 秀頼は静かに首を振った。

「もう十分でございます。母上の意地、余は見届けました。

 この先は、余が決めるべきこと。どうか、心をお安めください」

 お江は唇を噛みしめ、震える声で問う。

「……秀頼様、どうなさるおつもりで」


 秀頼は一瞬だけ遠い空を見やり、低く答えた。

「必ず、道を開きます。お二方は、余を信じてお待ちください」

 その言葉は柔らかくも、奥底に鋼の響きを秘めていた。

 渡り廊下に冷気が満ちる中、二人の叔母は互いに視線を交わし、涙を拭った。

 そして、お初がそっと秀頼の袖に触れ、微笑んだ。

「……頼もしくなられましたな」

 お江も続けて、力強く頷く。

「秀頼様なら、必ず道を開かれます」

 秀頼は静かに微笑み返した。

 その背に、若き当主の覚悟と、家族の絆が確かに重なっていた。

静かな城の奥で交わされた言葉は、血を流さぬ未来を願う祈りでした。

母を想う心、家族を守りたいという切なる思い――その絆が、冷たい歴史の歯車に温もりを灯します。

嵐はまだ遠くに見えるかもしれません。けれど、今日芽吹いた決意は、必ず未来を変える力になる。

次章では、その静かな胎動が、やがて大きなうねりとなって動き始めます。

どうぞお楽しみに。

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