第六章 鳴かずんば則ち已む
晩夏の駿府城、静かな広間に張り詰める空気。
言葉ひとつが、家の命運を左右する――そんな場面に立つ者たちの胸には、重い覚悟と迷いが交錯していました。
静けさの奥で、運命の歯車がゆっくりと回り始めています。
駿府城の広間。
片桐且元は、家康との面会を前に、静かに座していた。
障子越しの光が畳を淡く照らし、晩夏の空気は重く張り詰めている。
膝の上の手は、知らず知らずのうちに汗ばんでいた。
『この使い、果たして無事に務まるものか――』
ふと、昨夜の淀殿の言葉が脳裏に甦る。
「且元、よく聞け。徳川殿の疑いを、何としても晴らすのだ。
鐘銘文の件は、豊臣家に何ら不穏な意図はないと、はっきり申せ。
家康の誤解を解き、時を稼ぐこと――それが、そなたに課せられた務めぞ。
決して、豊臣の威を損なうことなく、言葉を尽くして、事を穏便に収めよ」
その声は冷静でありながら、豊臣家の命運を託す母の執念が滲んでいた。
『疑いを晴らし、時間を稼げ――だが、徳川の威はあまりに強い。
一言の誤りが、家の命運を左右するやもしれぬ』
さらに、出発の朝の秀頼の姿も、鮮やかに思い出される。
秀頼は千姫を傍らに呼び、静かに語りかけてきた。
「且元、此度の使い、余の心を託す。
徳川殿には、豊臣家が泰平を願い、民の安寧を守りたいだけであることを、どうか伝えてほしい。
そなたならば、余の思いを正しく届けてくれると信じておる。
どうか、無事に戻ってきてくれ」
千姫は秀頼の袖をそっと握り、優しく微笑みながら片桐に言葉を添える。
「片桐殿、どうか殿のお心を、祖父様・家康様にもお伝えくださいますよう。
豊臣家は、和をもって世を治めたいと願っております」
『淀殿の厳命と、秀頼様の真心、千姫様の願い――
この二つを胸に、己が一言で家の運命が決まる。
……この身を賭して、徳川の前に立たねばならぬ』
広間の静けさの中、且元は深く息を吐き、障子の外では、晩夏の風が庭を渡っていた。
その時、襖が静かに開き、家康がゆるやかな足取りで進み出る。
束帯姿の老将は、晩夏の光を背に受け、威厳と温かさを同時に纏っていた。
家康は片桐の前に座し、その眼差しは鋭くも、どこか情熱を帯びている。
「おお、片桐殿。遠路はるばる、よく参られた。
この駿府まで足を運んでくれたこと、余は心より嬉しく思うておるぞ」
声は朗らかで、笑みさえ浮かべている。
だが、その奥には、相手の心を探る鋭い光が潜んでいた。
「豊臣家のご様子はいかがかな?
殿も、御台様も、皆健やかに過ごしておられるか。
この世の泰平を守るため、余も日々心を砕いておる。
片桐殿、何かあれば遠慮なく申してほしい。
余は、そなたの言葉を楽しみにしておるのだ」
家康の言葉は情熱的で、まるで旧知の友を迎えるかのような温かさがあった。
しかし、その空気はあまりにも家康主導で、片桐は自分の言葉を切り出す隙を見失い、膝の上の手がさらに強く握りしめられる。
『この空気……家康公の情熱に呑まれぬよう、淀殿の指示も、秀頼様の願いも、決して忘れてはならぬ――
だが、言い出すのは、あまりにも難しい……』
片桐は静かに息を吸い、一度だけ目を閉じて心を落ち着かせる。
やがて、ゆっくりと顔を上げ、家康の眼差しを正面から受け止めた。
「大御所様――」
声はかすかに震えていたが、その奥には確かな覚悟が宿っていた。
「このたびは、方広寺鐘銘の件につき、豊臣家より申し開きのため、参上仕りました。
殿も、御台様も、日々泰平を願い、民の安寧を第一と考えておられます。
鐘銘の文言につきましても、決して不穏な意図や、徳川家への不敬など、微塵もございませぬ。」
家康の表情をうかがいながら、片桐はさらに言葉を重ねる。
「豊臣家は、和をもって世を治めたいと願い、大御所様のご厚情に深く感謝しております。
どうか、今回の件につきましては、殿の真心をお汲み取りいただき、ご寛恕賜りますよう、伏してお願い申し上げます。」
言い終えた片桐の額には、うっすらと汗がにじんでいた。
広間の空気は一瞬、静まり返る。
家康はしばし沈黙し、片桐の顔をじっと見つめていた。
その眼差しは穏やかでありながら、底に鋭い光が潜んでいる。
「……左様か。豊臣家に不穏な意図なし、泰平を願う心――その言葉、しかと承った。」
家康は微笑みを浮かべ、声を柔らかく保ちながらも、言葉の端々に主導権を滲ませる。
「片桐殿、そなたの誠意はよく伝わった。されど、世の中は言葉だけでは動かぬもの。鐘銘の件、世間の目も厳しき折、余としても、万事慎重に見極めねばならぬ。」
家康は一呼吸置き、扇を静かに膝の上に置いた。
「殿も、御袋様も、皆が泰平を願うこと――それは余も同じ思いにてある。しかし、真に世を治める者は、己の言葉を自らの口で申すもの。使者の言葉も大切なれど、主君自らが、余の前に立ち、その心を語る時こそ、世の理が定まるのではないか――そう思うておる。」
家康は、片桐の苦しい胸中を察しながらも、あえて秀頼自身の出馬を促す言葉を選ぶ。
「この件、余としては、殿ご自身が、十月の前に、余のもとへお越しくださり、その真意を直接お聞かせ願いたい――それが、余の願いにございます。」
家康は、あくまで主導権を手放さず、片桐に言い出す隙を与えぬまま、静かに言葉を重ねる。
「片桐殿、遠路ご苦労であった。この件、余もよく考え、改めて返答を致そう。まずは、ゆるりと休まれよ。」
家康は微笑みを浮かべながらも、その眼差しの奥には、『秀頼よ……そなたが殻を破り、己の意志でこの難局に立ち向かう日が来るのか――余は、まだその時を待っている』という静かな期待が、消えることなく宿っていた。
片桐は深く頭を下げ、「大御所様、誠にありがたきお言葉、痛み入ります。この上は、殿にもしかと申し伝え、豊臣家の誠心を尽くして参る所存にございます。」その声には、重圧と安堵、そして新たな覚悟が滲んでいた。
広間の空気は、家康の威厳と情熱に満ち、片桐は静かに退席した。
障子の外では、晩夏の風が庭を渡り、新たな運命の兆しが、静かに城を包み込んでいた。
「――ということでございます。大御所様は、十月の前に殿ご自身が駿府へお越しになり、直接お心をお伝えくださるよう、強くご所望でございました。」
片桐の報告が終わると、広間にはしばし静寂が満ちた。秀頼は膝の上で手を組み、俯いたまま言葉を探していた。
「……大御所様は、余の覚悟を見ておられるのだな。」
低く呟き、指先に力がこもる。家康の真意が胸に重くのしかかり、秀頼の呼吸は浅くなる。
『余が動かねば、家の命運が大きく揺らぐ。母も、お千も、皆を守るためには、余が……』
責任の重さに押しつぶされそうになりながらも、幼き日から母の庇護のもとで育った自分の弱さが、心の奥で疼く。
『本当に、余に務まるのか……』
千姫がそっと袖を握る。
「殿……ご無理はなさらぬでくださいませ。」
その柔らかな声に、ほんの少しだけ心が和らぐ。秀頼は顔を上げ、千姫と片桐を見つめた。瞳の奥には迷いと恐れが揺れている。
「余が……余が決めねばならぬのか。」
小さく呟き、遠くを見つめる。家康の意図も、時代の流れも、すべてが自分に決断を迫っている。しかし、心のどこかで、その現実を受け入れることを拒む自分がいる。
「……いや、きっと大事にはならぬはずだ。家康公も、天下の安寧を望んでおられる。これほどのことで、戦が起こる道理はなかろう……」
自分に言い聞かせるように、静かに言葉を重ねる。千姫はその言葉に、さらに不安を募らせ、唇をそっと噛みしめて俯いた。彼女の手は、秀頼の袖を離さず、静かに震えている。
秀頼の心は、家康の本気を察して不安と責任に押し潰されそうになりながらも、最後には現実から目を背け、根拠のない楽観にすがろうとしていた。
晩夏の大坂城の蒸し暑い空気が、三人の間に静かに流れていた。
家康からの返答が奥御殿に伝えられると、淀殿は蒼白な顔で書状を握りしめ、やがて烈火のごとく声を上げた。
「何という無礼!あの狸め、どこまで我らを愚弄すれば気が済むのじゃ!」
淀殿の怒りは、ただの感情ではなかった。
家康が「十月の前に秀頼自ら駿府へ参れ」と命じたことは、豊臣家の威信を踏みにじり、秀頼を家康の前に引きずり出して屈服させようとする、あからさまな圧力に他ならない。
『豊臣家は徳川の下風に立つものではない。秀頼は、天下人の子。なぜ家康ごときに頭を下げねばならぬのか――』
淀殿の胸には、母としての誇りと、豊臣家を守り抜こうとする執念が渦巻いていた。
さらに、家康の返答には「豊臣家の真意を直接聞きたい」と言いながら、実際は豊臣家を追い詰め、戦の口実を探しているのではないかという疑念もあった。
『あの男は、最初から我らを滅ぼすつもりなのだ。どこまでも狡猾に、我らの誇りを奪おうとしている……』
淀殿は部屋の中を行き来し、時に机を叩き、時に袖で涙を拭った。
「許せぬ……許せぬぞ……!」
大野治長は、淀殿の怒りが頂点に達するのを見て、静かに膝を進めた。
「御袋様、どうかご気を鎮められませ。大御所様のご意向は、確かに無体にございます。しかし、ここで感情を露わにしては、敵の思う壺。今は、冷静に策を練ることこそ肝要にございます。」
治長は、あえて声を低く、穏やかに語りかける。
淀殿の前で決して反論せず、まずはその怒りと悲しみを受け止めるように、ゆっくりと頷きながら言葉を重ねた。
「御袋様のお気持ちは、皆、痛いほど分かっております。ですが、殿もご心労が重なっておられます。御袋様がここでお心を強くお持ちくだされば、家中もまた落ち着きを取り戻しましょう。」
片桐も控えめに口を添える。
「御袋様、殿も、家臣一同も、皆、御袋様のお力を頼りにしております。どうか、今はご自愛くださいますよう。」
治長はさらに、淀殿の傍に膝を寄せ、そっと扇を差し出した。
「御袋様、どうかお水を一口。深く息をお吸いになりませ。」
その仕草は、母をいたわる子のように優しく、また家臣としての誠意に満ちていた。
淀殿はしばし治長の顔を見つめ、やがて大きく息を吐いた。
「……分かっておる。だが、豊臣の誇りを踏みにじるような真似、決して許してはならぬ。治長、片桐、そなたら、しっかりと策を練るのじゃ。」
大野治長は深く頭を下げ、
「御袋様、必ずや皆で知恵を絞り、豊臣家をお守りいたします。」
淀殿はなおも唇を噛みしめながら、静かに座に戻った。
その背には、豊臣家を守ろうとする母の執念が、ひときわ強く滲んでいた。
夜の静けさが千姫の部屋を包んでいた。
秀頼は千姫の膝に頭を預け、まるで幼子のように静かに目を閉じている。千姫はそっと秀頼の髪を撫でながら、その横顔を見つめていた。
やがて、秀頼がかすかに震える声で呟いた。
「……千姫、余は、夢の中で、お千が余の傍から引き離され、国松が……奈阿が……皆、余の手の届かぬところへ行ってしまうのだ。」
言葉は途中で途切れ、秀頼は膝の上で手を強く握りしめる。その肩が小さく震えているのを、千姫はそっと感じ取った。
『殿が、これほどまでに弱さを見せてくださるのは、初めて……』
胸の奥に、驚きと戸惑いが波のように押し寄せる。けれども、それ以上に、殿が自分だけに心を委ねてくれたことが、千姫にはかけがえのない喜びとなった。いつもは家のため、母のため、強くあろうと努めていた殿が、今、私の膝の上でだけは素直に心を預けている――その事実が、千姫の胸に熱いものをもたらしていた。
『殿がこれほどまでに苦しみを抱えておられたとは……私にだけは、弱さも悲しみも、すべて打ち明けてくださったのだ。私は、殿の支えにならねばならぬ。どんなことがあっても、殿を守りたい――』
千姫は、涙がこぼれそうになるのを堪えながら、そっと秀頼の頭を抱き寄せ、優しく髪を撫でる。その手には、殿への深い愛しさと、決して離れまいという強い決意が込められていた。
「殿、どのような夢であろうとも、私は殿の傍を離れませぬ。お千も、国松様も、奈阿様も、きっと皆、殿を思っております。どうかご無理はなさらず、今宵はこのまま、私にお預けくださいませ。」
千姫の声は震えていたが、瞳には揺るぎない覚悟が宿っていた。
殿の重荷を少しでも分かち合いたい――その一心で、千姫は夜の静けさの中、秀頼の傍に寄り添い続けていた。
豊臣家が徳川からの勧告を黙殺したまま、ひと月余りが静かに過ぎていった。
大坂城の中では、日々の不安と緊張が積み重なり、外の世界では秋の気配が忍び寄る。
しかし、城の内外を隔てる空気は、次第に張り詰めたものへと変わっていった。
駿府城の奥書院。
家康は、方広寺鐘銘文を巡る豊臣家の反応を伝え聞き、静かに眉をひそめていた。
障子越しに夏の光が揺れる中、家康はしばし沈黙し、遠く京の方角を見やる。
『やはり、秀頼は殻を破れぬ雛か……』
胸の内に、失望の色が静かに広がる。
豊臣の若き当主が、己の意志でこの難局を打開することを、どこかで期待していた。
だが、返ってきたのは、母の影に隠れ、己の言葉を持たぬ姿――
家康の心には、天下人としての冷徹な判断と、老父としての哀しみが交錯していた。
『されど……まだ、余は見限ったわけではない。このまま雛のまま終わるのか、それとも――』
本多正純が控えめに進み出る。
「いかがなさいますか」
家康はゆっくりと顔を上げ、厳しい口調で命じた。
「諸大名に伝えよ。いかなる時も出陣の支度を怠るな。天下の行く末、今こそ見極める時ぞ」
「ははっ!」
家臣たちは緊張した面持ちで頭を下げ、書院の空気は一変し、静かな戦の気配が漂い始めた。
家康は再び遠くを見つめる。その眼差しには、冷徹な決意とともに、
「秀頼よ、そなたが真に覚醒する日が来るのか――」
という、消えぬ一縷の望みが、静かに宿っていた。
夜の九度山。
囲炉裏の火が静かに揺れる中、信繁は高梨内記と堀田作兵衛を前に、声を潜めて語り始めた。
「高梨、近頃の京の様子、何か聞き及んでおるか。」
高梨は膝を正し、低く答える。
「はい、御屋形様。徳川方が方広寺の鐘銘文に難癖をつけ、豊臣家へ異議を申し立てたとのこと。城下にも牢人が増え、都の空気はどこか張り詰めております。」
堀田も、静かに頷く。
「駿府では、諸大名に出陣の支度を命じたとも聞き及びます。いよいよ徳川が爪を露わにし始めたようにございます。」
信繁はしばし黙し、囲炉裏の火を見つめる。
やがて、静かに、しかし力強く口を開いた。
「……関ヶ原で敗れし我ら、身が朽ち果てようとも、もはや悔いはないと思うておった。だが、今は違う。子が生まれ、家族ができ、守るべきものが増えた。己一人の命ならば惜しくはない。されど、子らや妻、家臣たちまで道連れにすることだけは、どうしても忍び難い。」
信繁は囲炉裏の火に手をかざし、その炎に己の決意を映すように言葉を続ける。
「このまま朽ち果てることは、もはや我らの生きる道ではない。かつて忠義を誓いし豊臣家のため、そして未来のために、余はこの命を賭して道を切り開く覚悟だ。たとえこの身が滅びようとも、子らに恥じぬ生き様を示したい。それが、余の、我らの誇りである。」
高梨と堀田は、信繁の言葉に胸を打たれ、
「御屋形様、いかなる時もお供仕ります。」
と、深く頭を垂れた。
囲炉裏の火は、静かに夜を照らしていた。
その炎は、信繁と家臣たちの胸に灯る、静かなる決意の証であった。
広間に満ちる沈黙、その中で交わされた言葉は、やがて大きなうねりとなって時代を揺らします。
胸に秘めた誇りと不安、そして決意――。
次章、静けさを破る影が、ついに姿を現します。




