第二十八章 一たび飛べば沖天せん
季節はめぐり、時代は静かに新たな節目を迎えようとしています。
家族の絆、別れ、そして旅立ち――
それぞれの胸に去来する想いと、変わりゆく世の空気。
新しい章の扉が開かれる、その静かな朝をどうぞお楽しみください。
元和六年(1620年)三月。
春の気配が静かに屋敷を包む夜、几帳の陰で淀殿は静かに横たわっていた。
白粉の頬はやつれ、かつての威厳も今は影のように淡い。禁足となってからというもの、淀殿の心身は日ごとに弱っていった。
物質的には何ひとつ不足のない生活が与えられていたが、希望と見ていた国松も、今は将軍・秀忠の一字を賜り、江戸で徳川の足元に置かれている。
孫の成長を見守ることも、声をかけることも叶わず、祖母としての役目も、豊臣の名も、静かに遠ざかっていく。その虚しさと孤独が、淀殿の心を深く蝕み、やがて身体の衰えとなって現れていた。
最初のうちこそ、淀殿は千姫が几帳の前に座るたび、苛立ちや恨みをぶつけることが多かった。
「徳川の娘が……」「そなたのせいで……」
そんな言葉が、夜ごと、春の闇に溶けていった。
けれども、千姫はどれほどきつい言葉を投げかけられても、決して声を荒げず、静かに頭を下げ、変わらぬ敬意と誠意をもって応じ続けた。
日が経つにつれ、淀殿の言葉は、どこか力を失っていった。
怒りや怨みを口にしても、返ってくるのは、ただ静かな優しさばかり。
それが、千姫の忍耐によるものだったのか、それとも、淀殿自身の心の疲れだったのか――
その境は、いつの間にか曖昧になっていた。
やがて、淀殿は千姫を前にしても、声を荒げることも、強い言葉を投げつけることも、次第に少なくなっていった。
几帳の陰で横たわる淀殿は、ただ静かに、千姫の問いかけに微笑みを返すだけになった。
かつての激しさは、春の夜の風に紛れて、どこか遠くへ消えていったようだった。
千姫はそっと膝を進め、几帳の前に座す。
「御袋様……お加減、いかがにございますか」
淀殿はかすかに笑みを浮かべ、かすれた声で言う。
「……わらわのこの様を見て、笑いたいであろう?」
千姫は深く頭を下げ、静かに答えた。
「滅相もございませぬ。御袋様は殿の母君、私にとりましても母にございます」
淀殿は、声を立てて笑った。
「あはは……大した器じゃ。そなた、わらわのことを恨まぬか?」
千姫は一瞬だけ視線を落とし、やがて柔らかな声で返す。
「苦手には存じますが、恨みはございませぬ。私は殿をお慕い申しております。その母君と、心通わせたく思うておりましたが……私が嫌われたようで」
淀殿の眼が細くなり、低く呟く。
「わらわが嫌うのは、そなたではない。徳川の娘じゃ……徳川が豊臣を奪った、その血が憎いのだ」
千姫は静かに息を吸い、言葉を絞り出す。
「御袋様、私は徳川の娘にございます。されど、殿の妻でもございます。殿をお守りするためなら、この命、惜しみませぬ」
淀殿の眼に、一瞬だけ涙が光る。
「……そなた、強き女よな」
しばし沈黙が流れる。
やがて、淀殿はかすかに微笑み、声を落とした。
「徳川への怨み、わらわの胸に消えぬ。されど、そなたには背負わせぬ。
お千……そなたは秀頼を守り、泰平を結べ。わらわの怨みなど、風に流してよい……」
千姫は涙をこらえ、深く頭を下げる。
「御袋様……殿のお心を守るためなら、この命、惜しみませぬ。怨みは背負いませぬ。ただ、殿と泰平をお守り申します」
淀殿は、どこか安堵したように微笑んだ。
「……強き女よな。秀頼を……頼む……」
几帳の向こう、春の夜の風が静かに吹き抜けていた。
幽閉先から戻った屋敷には、静寂が満ちていた。
障子越しに月明かりが差し、庭の木々が淡い影を落としている。
千姫が静かに襖を開け、秀頼のもとへ歩み寄る。
秀頼は御用部屋で机に向かっていたが、千姫の気配に顔を上げる。
千姫は、そっと膝をつき、低い声で告げた。
「殿……御袋様が、今宵、静かに息を引き取られました」
その言葉が落ちた瞬間、秀頼の脳裏に何かが弾けた。
思考が一瞬、白く途切れ、手にしていた筆が畳に落ちる。
膝をつき、肩を震わせて泣き崩れる。
「母上……余は……」
言葉が続かない。
ただ、胸の奥に残るのは、
“母を幸せにしたい”と願いながら、何一つ叶えられなかったという、どうしようもない後悔と空虚だけだった。
「……余が選んだ泰平の道は、正しかったのか……」
千姫はそっと秀頼の背に手を添え、静かに寄り添う。
「殿……御袋様は、殿を恨んではおりませぬ。
最後まで、殿のお心を信じておられました」
秀頼は、涙に沈みながら、かすれた声で問う。
「……本当に、母は余を許してくれたのか……」
千姫は、秀頼の肩に手を置いたまま、優しく、しかし力強く答える。
「はい。御袋様は、殿の選んだ道を見届けて逝かれました。
殿が苦しみ、悩み、家を守ろうとされたこと――
きっと、すべて分かっておられたはずです」
しばし、二人の間に静寂が流れる。
やがて千姫は、涙をこらえながらも、
秀頼の傍らに寄り添い続けた。
「殿……どうか、ご自分を責めないでくださいませ。
これからは、私が殿をお支えいたします」
月明かりの中、秀頼はただ静かに、母の面影を胸に刻み続けていた。
葬儀の日、春の雨が大和郡山城下を静かに濡らしていた。
城下で最も格式の高い寺院――養徳寺の本堂には、白木の棺と香の煙が静かに漂う。
秀頼は喪主として、正装のまま祭壇の前に座し、深く頭を垂れていた。
諸大名を江戸から呼び寄せるような華美な公葬は避けられたが、真田家、毛利家、里見家をはじめとする大和松平家の家臣たちが一堂に会し、静かでありながらも、国葬に等しい荘厳な儀式となった。
読経の声が堂内に響き、家臣たちはそれぞれの思いを胸に、豊臣の終焉と新たな時代の始まりを静かに見つめていた。
「母上を、徳川を呪い続けた狂人のまま葬りはせぬ。……これよりは罪人としてではなく、ただ浅井の家に連なる一人の娘として、一族が眠るあの静かな地へ還っていただく。
それが、この家に残る戦国の火種を消し、母上をあの忌まわしい過去から解き放つ、唯一の道なのだから」
秀頼は、母の最期を思い返しながら、その決意を胸に刻んでいた。
葬儀が終わると、遺髪と遺骨は慎重に包まれ、
京都・養源院へと送られる手配が整えられた。
「母上……どうか、安らかに」
秀頼は静かに手を合わせ、母の尊厳と誇りを守るため、最後の務めを果たした。
春の雨は、やがて止み、寺院の庭には新しい季節の光が差し始めていた。
幸昌が家督を継いだ後、大和松平家には新たな落ち着きが生まれた。
信繁は政務の表から退き、隠居の身となったが、領内の治安や民政については引き続き助言を求められ、若い当主を陰から支えていた。
ある日、庭先で孫たちが遊ぶ様子を、信繁は縁側から静かに見守っていた。
長男はすでに数えで五歳。木剣を振り回し、時折転びながらも、元気に駆け回っている。
信繁はその姿に目を細め、かつての幸昌や自分自身の幼い日々を思い出していた。
やがて幸昌が庭に現れ、息子の頭を撫でながら、信繁の方を振り返る。
「父上、こうして孫たちの成長を見ていただけるのは、私にとっても何よりの励みです。
これからも、どうか変わらず見守っていてください」
信繁は穏やかに頷き、
「幸昌、お前ならきっとやり遂げられる。困った時は、遠慮なく頼るがよい。
家も領地も、皆で守るものだ」
幸昌は深く頭を下げ、
「はい。父上の背中を見て学んだことを胸に、これからは私が殿をお支えしてまいります」
信繁は微笑み、孫たちの方へ視線を戻した。
「この子らが、いつか家を背負う日が来る。その時まで、元気でいなければな」
春の風が庭を渡り、家族の笑い声が静かに広がっていった。
信繁は隠居の身となっても、家族と家中の者たちに囲まれ、
穏やかな日々の中で、次の世代の成長を見守り続けていた。
秋の朝、郡山城の石垣に淡い陽が差し、空気は澄み渡っていた。
淀殿の四十九日を終え、城内には静かな安堵と、旅立ちを前にした緊張が漂っている。
秀頼は千姫、和姫、徳松を伴い、城門前に立つ。
千姫は旅支度を整え、和姫の手をしっかりと握る。
和姫は、江戸で兄に会えることを楽しみに、母の袖を離さぬ。
徳松は幼く、父の手に導かれ、無垢な瞳で門出の景色を見上げている。
見送りの列には、お奈津とお藤、そしてその子供たちの姿もあった。
お藤の長女・奈阿姫は、すでに少女から大人へと成長しつつあり、静かに和姫の肩に手を添えている。
お藤の息子・大松と、お奈津の娘・明姫は、まだ幼さを残したまま、旅立つ兄姉を見上げていた。
お奈津は徳松の姿を見つめ、そっと手を合わせる。
お藤は和姫に優しく微笑みかけ、明姫と大松の手をしっかりと握っている。
奈阿姫は、和姫に小さな声で「江戸でも元気で」と囁き、和姫はうれしそうに頷いた。
千姫は、これより父・秀忠に孫たちを見せ奉ることに、ほっとしたような笑みを浮かべていた。
和姫の頬も、どこか明るい。
秀頼は家族の姿を見つめ、静かに口を開く。
「和、徳松、母上のそばを離れてはならぬぞ」
千姫は和姫の肩を抱き寄せ、優しく声をかける。
「和、江戸にて兄上に会う日を楽しみにいたしましょう」
和姫は元気よく頷き、徳松は小さな手で父の指を握りしめる。
家臣たちが一斉に頭を下げる。
幸昌が一歩前に進み、
「殿、ご道中、くれぐれもご油断なきよう。大和のことは、拙者どもにお任せくだされ」と、力強く申し上げる。
秀頼は静かに頷き、
「頼んだぞ、幸昌。皆も、しばし留守を頼む」
お奈津は徳松にそっと声をかける。
「徳松、江戸でも元気でな。母はここで祈っております」
お藤も和姫に微笑みかける。
「和姫様、どうかご無事で。江戸でのこと、またお聞かせくださいませ」
和姫と徳松は、見送る家族に手を振り返した。
秋風が城下を渡り、新たな時代への一歩を告げるように、旅立ちの一行をやさしく送り出していた。
この時、誰もがただ家族で江戸へ向かうことのみを胸に抱いていた。
だが、この門出が、やがて思いもよらぬ未来を呼び寄せることになるとは、まだ誰も知る由もなかった。
数日後の夕暮れ、品川宿に一行が到着した。
旅の疲れを帯びた秀頼と千姫、和姫、徳松の姿が、街道のざわめきの中に現れる。
その一行を待ち受けていたのは、本多正純、真田信之、そして忠頼であった。
正純は礼を正し、秀頼の前に進み出て深く頭を下げる。
「殿、ご到着、誠にご苦労にございます。
将軍家より、江戸入りの段、万事整えてお待ちしております」
信之も、穏やかな笑みを浮かべて秀頼に挨拶する。
「久方ぶりにお目にかかります。ご道中、いかがでございましたか」
忠頼は、成長した面持ちで父と母、妹弟の姿を見つめていたが、和姫の前に立つと、どこかぎこちなく、少し距離を取って頭を下げた。
和姫は、兄の姿を見つけて一瞬目を見張るが、母の袖の陰に隠れるようにして、じっと忠頼を見つめている。
初めて会う兄――その存在に、期待と戸惑いが入り混じったまま、和姫は小さな声で「……兄上」とだけ呟いた。
千姫は、そんな子供たちの様子に目を細め、秀頼もまた、静かに安堵の息をついた。
品川の空には、江戸の町の灯が遠くに瞬き始めていた。
新たな暮らしの始まりを告げるように、秋風がやさしく一行を包み込んでいた。
秀頼一行は、屋敷へ向かう道すがら、かつてない賑わいに包まれた江戸の町を目にした。
街道沿いには、明国からもたらされた色鮮やかな絹の反物や、青花の大皿、精緻な茶器が店先に並び、薬種屋の棚には見慣れぬ丸薬や香木、乾果や香辛料が積まれている。
茶屋では明の流儀で淹れた茶が振る舞われ、町人や旅人がその香りを楽しんでいた。
行き交う人々の衣装もどこか華やかさを増し、明の流行を取り入れた髪飾りや帯留めが、娘たちの間で密かな人気となっている。
書肆には明の書巻や木版画が並び、通りには異国の言葉も混じって聞こえてくる。
秀頼は、馬上からその光景を静かに見つめていた。
『もし余が大坂に留まりおれば、この繁栄は大坂の城下のみのものにて終わったであろう。
されど今は、かくも遠き江戸の町にまで、明国の品々と人々の賑わいが満ちておる。日ノ本の隅々に至るまで、豊かさと新しき風が行き渡っているのだ。あの折、恐れを押し殺し、一歩を踏み出したこと』
それが、今のこの光景につながっているのだと、秀頼は胸の奥で静かに思った。
『……決して、誤りではなかったと、今はそう思う。』
秋風が、明の香りを運びながら、江戸の町を吹き抜けていった。
数日後、江戸城・西の丸。
秋の澄んだ空気が、白砂の庭と長い廊下を静かに包んでいた。
広間には、将軍・秀忠が正装で座し、側近や諸役人が控えている。
秀頼は裃に身を包み、定められた位置に進み出て、深く頭を下げた。
秀忠は、家光の元服を思い返しながら、ゆっくりと口を開いた。
「秀頼公、我が長男もこの年の年始に元服を果たし、家光と名乗るようになった。
幼き頃より手元で育ててきたが、いざ大人の名を持ち、これからは自らの足で歩むこととなった。
しかし、名が変わったからとて、すぐに人の器が備わるものではない。
父として、あの子の行く末を思うとき、ただ学問や武芸を教えるだけでは足りぬと痛感する。
そなたには、これより御側衆として家光の傍らに控え、その才も学びも、そして何より人としての誠を、あの子に伝えてやってほしい。
そなたのような者が側にいてくれること、これほど心強いことはない」
秀頼は、秀忠の真意を受け止め、静かに頭を下げる。
「御意にございます。元服したての家光様は、まだ荒削りの原石にございます。
これよりは西の丸にて家光様の傍らに控え、任されたお役目、わが力のすべてを尽くして全ういたします。
家光様を、この国の泰平を背負って立つ立派な将軍へと育て上げることこそ、私に課せられた最大の務めにございます」
秀忠はその言葉を聞き、静かに頷いた。
その胸には、家康亡き後も自分を支えてくれる唯一の家族としての絆が、さらに強くなったのを感じていた。
『秀頼がいれば、家光は迷わぬ。この者ならば、私が見落とすような隙すらも、その誠実さで埋めてくれるだろう』
こうして、秀忠の切なる願いに応え、全力で尽くそうとした結果として、西の丸での新たな役目を担うこととなった。
海の向こう、明国の大地は、この三年のあいだ、絶え間なく激動の渦に呑まれていた。
北方では、ヌルハチが「七大恨」を掲げて明に反旗を翻し、後金の旗のもとに諸部族を糾合した。
その勢いは凄まじく、明軍はサルフの戦いで大敗を喫し、北辺の防衛線は音を立てて崩れた。
遼東の地には、かつての明の威光はもはやなく、後金の軍勢が新たな秩序を築きつつあった。
敗走した明の将兵たちの影は、都にまで不安の色を濃く落とした。
そのさなか、北京の紫禁城では、長きにわたり朝政を顧みなかった万暦帝が病に伏していた。
宮廷の奥では、後継を巡る思惑が静かに渦巻き、誰もが帝の行く末を案じていた。
やがて帝が崩じると、長男の朱常洛が新たな皇帝となる。
だが、即位の重圧と心労により、泰昌帝の身体は日ごとに衰えていった。
新帝の病床には、礼部の官僚が献じた赤い丸薬が運ばれた。
薬を口にした夜、帝の容態は急変し、朝を迎えることなく崩御する。
即位からわずかひと月足らず、帝位は再び空白となった。
宮廷は混乱に包まれた。
寵妃・李選侍は幼い皇子を盾に権力を握ろうとし、官僚たちは武力をもって世子を救い出し、強引に即位の儀を進めた。
こうして、十五歳の朱由校が天啓帝として新たに即位する。
だが、若き帝は政を嫌い、木工細工に没頭する日々。
朝廷の実権は、宦官や外戚、官僚たちの手に委ねられ、国の行く末はますます混迷を深めていった。
都の街角では、紅丸の真偽や李選侍の野心について、さまざまな噂が飛び交った。
役人たちは新帝の命を受けて、次々と宮廷の奥へと消えていく。
紫禁城の高い瓦屋根を秋の風が渡り、
その風は、かつての栄華の残り香と、新たな時代の不穏な気配を、静かに運んでいた。
明国は、いまや大きな転換点に立たされていた。
帝位の連続した空白、宮廷の混乱、北方の戦火――
誰もが、次に何が起こるのかを、ただ息をひそめて見守るしかなかった。
この一連の出来事が、やがて江戸に移った秀頼の運命に、思いもよらぬ影響をもたらすことを、
その時の秀頼はまだ知る由もなかった。
ここまで「大和の辺」をお読みいただき、誠にありがとうございました。
母を見送り、家を守り、家族と共に江戸へ向かう秀頼たち――
その静かな決断と、時代の転換点に立つ人々の姿を描きました。
次章からは、いよいよ「江戸の編」が始まります。
新たな地で、彼らを待ち受ける運命とは――
第三部の開幕を、3月1日にお届けいたします。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




