第二十七章 親心故の決断
家族や家臣たちの絆、そして親としての苦渋の決断――。
この章では、危機を乗り越えた先に訪れる静かな朝と、それぞれの胸に芽生える新たな覚悟を描きます。
どうぞ、彼らの想いと歩みを見届けてください。
夜、秀頼の寝所。
灯火が静かに揺れ、外では夏の虫が声を潜めている。
信繁が膝を進め、深く頭を下げた。
秀頼は顔を上げ、静かに告げる。
「左衛門佐……余は決めた。国松を江戸へ送る」
信繁は一瞬黙し、やがて力強く頷いた。
「殿の決断、承知いたしました。ならば――阿梅も共に行かせとうございます」
秀頼の眉がわずかに動く。
「阿梅を……それでよいのか。あの子はまだ幼い。そして、国松を江戸に送る意味――そなたは理解しておるな」
信繁は迷いなく言葉を重ねた。
「存じております故、行かせるのでございます。
阿梅が幼きは事実。しかし、国松様はさらに若い。姉弟のように育ったお二人を共に置けば、心細さも和らぎましょう。
それに――殿が覚悟をもって下された決断に、家臣たる私が追随せずして何といたしましょう。
殿の御志を支えること、それが真田の忠義にございます」
秀頼はしばし黙し、灯火の影に沈む信繁の眼差しを見つめた。
やがて、静かに口を開く。
「……そなたの言葉を聞いて、心強くなるな。左衛門佐、余は必ずこの家を守る」
胸の奥に重いものが沈む。
国松を江戸に送る――それは幕府への誓いを果たすための一手であり、家を守るための唯一の道。
だが、その代償はあまりに大きい。
幼い息子を手放す痛み、母を縛る決断、そして幕府の冷たい視線。
もし、この策を誤れば、ここまで積み重ねた努力はすべて水の泡となり、大和松平家は歴史から消える。
秀頼は深く息を吐き、決意を胸に刻んだ。
灯火が揺れ、静寂が寝所を包んでいた。
朝の光が庭に差し込み、白砂が淡く輝いていた。
国松は裃を整え、小刀を腰に差し、幼いながらも背筋を伸ばしている。
その隣で阿梅は、年上らしい落ち着きと余裕を漂わせていた。
小袖の紐を結び直す手つきは静かで、時折国松の様子を気遣うように目を向ける。
その眼差しには、弟分を守る姉のような優しさと、どこか頼もしさが宿っていた。
千姫は二人の姿を見つめ、胸の奥が締めつけられるような痛みに耐えていた。
「国松……阿梅……本当に大丈夫なの?」
声はかすれ、袖で目元を押さえる。
その様子に、お奈津がそっと千姫の肩に手を置いた。
「姫様、どうかお心を強くお持ちくださいませ。
国松は殿のお子です。きっと務めを果たします。
阿梅も、年長として国松を支えるために一緒に行くのです」
千姫は唇を噛み、涙をこらえながら頷いた。
「わかっております……けれど、あの子たちはまだ若いのです」
お奈津は柔らかな声で続けた。
「幼いからこそ、互いに支え合うのです。姫様が案じるお気持ちは、殿も同じ。どうか、あの二人の背を見守ってあげてくださいませ」
庭から朝の光が差し込み、二人の影が長く伸びる。
国松は力強く裃の紐を締め、阿梅は静かにその袖を整えた。
阿梅の表情には、年上として国松を守り抜くという決意と、どこか余裕を感じさせる微笑みが浮かんでいた。
千姫は袖で目元を押さえ、国松と阿梅の旅立ちを見つめていた。
その傍らで、秀頼が静かに千姫の肩に手を置く。
「お千……つらい気持ちは、よく分かる。だが、これも家のためだ」
千姫は涙をこらえながら、かすかに首を振る。
「分かっております……けれど、あの子たちはまだ幼いのです」
秀頼は優しく微笑み、言葉を続けた。
「心配するな。国松も阿梅も、将軍様にお預けするのだ。江戸で大切に守っていただける。身の保障は、何より確かだ」
「それに、江戸ならば、会おうと思えばいつでも会いに行ける。遠い国へやるわけではない。お千が望めば、すぐにでも顔を見に行けるのだ」
千姫は袖で涙を拭い、秀頼の言葉に小さく頷いた。
「……はい、殿。私も、あの子たちの無事を信じております」
秀頼はそっと千姫の手を握り、静かに励ました。
「家を守るため、皆で力を合わせよう。国松も阿梅も、きっと立派に務めを果たしてくれる」
千姫は深く息をつき、もう一度、旅立つ二人の背を見守った。
秀頼は国松と阿梅のもとへ歩み寄り、自らその手を取り、江戸への旅路へと送り出した。
千姫は胸の奥で祈る――どうか、この旅路が無事でありますように。
江戸城の大広間には、張り詰めた静寂が満ちていた。
上座には将軍・秀忠が座し、その傍らには本多正純が冷ややかな視線を投げている。
広間の中央、秀頼は十一歳の国松の手を引き、ゆっくりと進み出た。
その手は、わずかに震えていた。いや、むしろ父としての覚悟を込めて、冷たく強く握りしめていたのかもしれない。
国松は幼いながらも、父の背中を見つめ、凛とした瞳で前を見据えている。
秀頼は深く頭を下げ、低く、静かに口上を述べた。
「松平大和守秀頼、本日、倅の国松を連れて参りました。母の不調法、もはや言葉での謝罪は無用と存じます。この国松を、家の誠実の証として江戸に留め置き、上様にお預けいたしたく存じます」
その声は震えていなかった。しかし、畳を掴む指先には、父としての情と打算が交錯していた。
――これは、息子を売るのではない。
家を守るため、最も大切なものを差し出す。
国松を徳川の檻に入れることで、命を救う。
父としての祈りと、主としての打算が、胸の奥でせめぎ合っていた。
国松は一言も発さず、ただ静かに頭を垂れていた。
その小さな背中には、幼さを脱ぎ捨てる覚悟が宿っていた。
上座の秀忠は、しばし沈黙のまま二人を見下ろしていた。
国松は千姫の実子ではないが、千姫もまた家族として国松を見守ってきた。
家のためとはいえ、幼い少年を人質として迎えることに、秀忠の胸にも苦い思いが去来していた。
やがて、秀忠は静かに立ち上がり、上座から段を下りてくる。
本多正純が驚きに目を見開く中、将軍は秀頼と国松の前に膝をついた。
「……秀頼、面を上げよ。国松もだ」
秀頼と国松は、ゆっくりと顔を上げる。
秀忠は国松の肩に大きな手を置き、低く、しかし温かな声で語りかけた。
「国松よ。今日よりそなたは、我が子も同然。この江戸城がそなたの家だ。案ずるな、父に代わり、この秀忠がそなたを立派な武士に育て上げよう」
国松は涙をこらえ、凛とした声で応えた。
「……この命、徳川の世を守るため、江戸に捧げます」
秀忠は静かに頷き、秀頼に目を向ける。
「秀頼、そなたの痛み、確かに受け取った。これほどの『実』を突きつけられて、疑う者などこの江戸にはおらぬ」
その言葉に、秀頼は深く頭を下げた。
「上様……この子は今日より、私の息子ではございませぬ。上様の、そして徳川の『忠義の盾』にございます。どうか、この者に新たな名を、そして徳川の未来をお預けください」
秀忠はしばし考え、やがて静かに言葉を紡ぐ。
「国松、今日よりそなたは『忠頼』と名乗るがよい。我が『忠』の一字を授ける」
国松――いや、忠頼は、涙をこらえながら深く頭を下げた。
「……忠頼、ただいま上様より過分な御名を拝領いたしました。この命、徳川の世を守る石杖として、江戸に捧げる所存にございます」
広間の隅では、本多正純が無表情に事態を見守っていた。
「これで豊臣の芽は摘まれた」と、冷徹な視線を投げる。
だが、秀頼の胸には、国松を差し出すことで家を守るという、父としての痛切な自己犠牲と、主としての打算が渦巻いていた。
――本当は、国松には大和で自由に生きてほしかった。
だが、家の存亡のために、その自由を奪い、江戸の檻へ入れるしかなかった。
謁見の後、秀頼は国松の手を取り、広間を後にした。
その手は、もう震えてはいなかった。
「国松……すまぬ。そなたは嫡男ではないゆえ、いつかはこの大和で、一人の武士として自由に生かせてやりたかった。だが、この家を救えるのは、もうそなたしかおらぬのだ」
国松――忠頼は、父を見上げ、静かに微笑んだ。
「父上、お気になさらぬでください。私はこの家の長子にございます。父上の駒になれること、これ以上の誇りはございませぬ」
秀頼はその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……ありがとう、忠頼。必ず、そなたの未来を守る」
江戸城の空は高く澄み、広間には新たな時代の息吹が静かに満ちていた。
秀頼が国松を連れて江戸へ発ったその日、禁足の身となった淀殿の狂乱は、もはや誰の手にも負えぬものとなっていた。
「秀頼は、我が子を売ったか!徳川の軍門に降り、愛しい子を差し出してまで命が惜しいか!あの狸が死んでも、結局はこの家は徳川の奴隷か!」
淀殿は叫び、手近な脇息を畳に叩きつけた。千姫の頬を風がかすめる。
その罵倒は止まらない。矛先は、夫をたぶらかした憎き「徳川の娘」へと向かう。
「そなただ……そなたが江戸の父と通じ、秀頼をたぶらかしたのだ!その清らかな顔の裏で、父と通じて豊臣を売ったに相違ない!
徳川の血を引く者が、この豊臣を内側から腐らせる!」
千姫は唇を噛み締め、震えていた。
けれど、淀殿が再び家を滅ぼしかねない不敬な言葉を口にしかけた瞬間――
千姫の瞳から迷いが消えた。
「……おやめくださいませ!」
その声は、奥御殿の空気を一瞬で凍りつかせた。
千姫は立ち上がり、淀殿を真っ直ぐに見据える。
「御袋様、まだそのようなことを仰るのですか。殿がどれほどのお気持ちで国松を江戸へ送られたか、御袋様にはお分かりにならないのですか!」
「誰よりも、父親である殿が一番苦しいのです。それでも家を守るため、己の心を殺して決断されたのです!」
千姫は一歩も引かず、淀殿の目を射抜くように言葉を重ねた。
「御袋様はいつも過去の幻に囚われ、今のこの家を見ておられません。このままでは、私がどれほど父上に頭を下げても、この家を守り抜くことはできなくなります!」
「私は、殿と共に歩むと決めた大和松平家の妻です。この家と運命を共にする覚悟は、とっくにできております。ですが――御袋様のくだらぬ過去の怨念のために、この家を、私の家族を滅ぼすことだけは、私は断じて許しません!」
千姫は淀殿の肩に手を伸ばし、強く掴むほどの勢いで迫った。
「これ以上、殿の背中を撃つような真似をされるなら……私はこの家の女主として、貴方様を誰の目にも触れさせぬよう、この座敷の奥へ閉じ込めておかなければなりません。それが、殿とこの家を守るために私が果たすべき役目です!」
淀殿は、千姫の気迫に押され、言葉を失った。
その肩がわずかに震え、目の奥に戸惑いが浮かぶ。
千姫は、もう一度だけ静かに言った。
「どうか、殿のため、家のため、私のためにも……これ以上、過去の呪いでこの家を壊さないでください」
そう言うと、千姫は自ら運んできた膳を、静かに淀殿の目の前に置いた。秀頼が江戸へ発つ際、千姫に託した「母を頼む」という言葉。彼女は、江戸で戦う夫の代わりに、せめてこの食事の間だけでも、家族としての平穏を取り戻したいと願っていた。
「殿の代わりとして、私がこれをお運びいたしました。御袋様……召し上がってくださいませ」
千姫は淀殿の前に手をつき、深く頭を下げた。それは大和の女主としての拒絶ではなく、江戸で孤独に戦う秀頼に代わって、母への孝行を尽くそうとする、静かな決意の姿であった。
朝早くから、江戸の大和藩屋敷の中は静かな緊張に包まれていた。
夏の陽がすでに高く、庭の青葉は眩しいほどに照り返している。
縁側を抜けて入る風は、どこか熱を含みながらも、旅立ちの気配を運んでいた。
秀頼は、旅支度を整えた忠頼の前に立ち、しばし黙ってその顔を見つめていた。
傍らには、幸昌と阿梅兄妹も控えている。
「忠頼――」
秀頼は、息子の肩に手を置き、ゆっくりと言葉をかけた。
「阿梅殿より年下とはいえ、そなたは男だ。江戸での暮らし、何かと心細いこともあろうが、しっかり阿梅を守ってやれ。それが武家の男子の務めだぞ」
忠頼は、きりりと背筋を伸ばし、明るく応じる。
「はっは、父上。必ずや、阿梅殿のこと、お守りいたします」
阿梅は少し照れたようにうつむきながらも、忠頼の横顔を見つめていた。
その様子を見て、幸昌が妹に声をかける。
「阿梅、忠頼殿のことをよろしく頼む。江戸の屋敷でも、武家の女子として恥じぬよう、しっかり責務を果たすのだぞ」
阿梅は小さく頷き、静かに答えた。
「はい、兄上。私も、忠頼様のお力になれるよう、精一杯努めます」
秀頼は二人のやりとりを見守りながら、穏やかに微笑んだ。
「……これで安心して大和へ戻れる。忠頼、阿梅、江戸での暮らしは決して楽なものではないが、互いに支え合い、立派に務めを果たしてくれ」
忠頼と阿梅は、同時に深く頭を下げた。
「はい、父上」
「はい」
庭の向こうでは、蝉が一層高く鳴き始めていた。
新たな時代の始まりを告げるように、風鈴が涼やかに鳴った。
夏の夕暮れ、大和の屋敷に戻った秀頼は、座敷で静かに佇む千姫の姿を見つけた。
薄明かりの中、千姫はどこか疲れた表情で、膝の上に手を重ねている。
その頬には、ここしばらくの苦労が色濃く刻まれていた。
秀頼は、胸の奥に申し訳なさが込み上げるのを感じた。
自分が江戸で奔走している間、千姫は淀殿の理不尽なわがままに、ずっと耐えてきたのだ。
「……お千」
声をかけると、千姫はゆっくり顔を上げ、微笑みを浮かべた。
「お帰りなさいませ、殿」
秀頼は千姫の傍に座り、しばし言葉を探した。
「……余は、もう生涯母上に会うことはできぬ。
これからは、お千に頼むしかない」
千姫は、静かに頷いた。
「知っています。だから、私は愚痴は言いません」
その声は、どこか凛としていた。
「確かに、御袋様のわがままには振り回されました。でも……家の安定のためと思えば、やりがいもございます。
殿が江戸で戦ってくださるなら、私はこの家を守ります」
秀頼は、千姫の手をそっと握った。
「……すまぬ。お千がいてくれるから、余は前に進める」
千姫は、優しく微笑んだ。
「殿も、どうかご自分を責めないでください。
私たちは、共にこの家を守る夫婦ですから」
外では、夏の風が庭の木々を揺らしていた。
静かな夕暮れの中、二人はしばし手を取り合い、
それぞれの場所で家を支える覚悟を、胸に新たにしていた。
夜の屋敷は静まり返り、虫の声だけが遠くで響いていた。
秀頼は、お奈津の寝所の前で一度だけ深く息をつき、そっと襖を開けた。
灯りの落ちた部屋の中、お奈津は静かに座していた。
その顔には、母としての寂しさと、どこか覚悟を決めた穏やかさが同居している。
秀頼は、お奈津の前に膝をつき、頭を下げた。
「……お奈津。このたびは、何の相談もなく、国松を江戸へ送り出してしまった。母親であるそなたの気持ちを思えば、どれほど詫びても足りぬ」
お奈津は、ゆっくりと首を振った。
「殿、どうかご自分を責めないでくださいませ。
これは、この家を守るために必要なこと――私も、よく分かっております」
「国松が将軍様のもとで、直々に育てていただけるのは、母としても光栄なこと。きっと、立派な武士にしていただけると信じております。
……それに、殿が決断されたことなら、私は何も迷いません」
秀頼は、お奈津の言葉に胸を打たれ、しばし言葉を失った。
やがて、静かに頭を下げる。
「……ありがとう。そなたの強さに、いつも救われている」
お奈津は、微笑みを浮かべて答えた。
「国松は、きっと大丈夫です。
殿も、どうかご自分を責めず、前を向いてくださいませ」
夜の静けさの中、二人の間には、家族を思う静かな絆と、母としての誇りが、そっと灯っていた。
翌朝、評定の間には、昨夜の余韻がまだ静かに残っていた。
秀頼は一歩前に進み、静かに頭を下げた。
「……このたびは、母の軽率な言葉によって、家が潰されかねない危機を招き、皆に多大な迷惑と心配をかけてしまった。本当に、申し訳なく思っている」
沈黙が落ちる。
信繁が、膝を進めて言う。
「殿、どうかご自分を責めなさらぬでくださいませ。この家のために心を砕いてくださったこと、私どもは深く感謝しております」
続いて、勝永が力強く頭を下げた。
「殿が苦しみ抜いて決断されたこと、我らは皆、よく分かっております。家を守るため、己を犠牲にしてくださるお姿に、むしろ誇りを感じております」
定信も、静かに声を添える。
「殿がいてくださるからこそ、我らは安心してこの家に仕えることができます。どうか、これからも変わらず、お導きくださいませ」
内記が、穏やかな声で続ける。
「殿のご決断があればこそ、家中は一つにまとまります。これからも、命を賭してお支えいたします」
綱家、守久、長実らも、それぞれに深く頭を下げた。
「殿のためなら、いかなる困難も乗り越えてみせます」
秀頼は家臣たちの言葉にしばし言葉を失い、やがて静かに顔を上げた。
「……ありがとう。皆の忠義に、余は何度も救われてきた。これからも、共にこの家を守ってくれ」
家臣たちは一斉に頭を下げ、声を揃えた。
「ははっ、殿。いつまでもお支えいたします!」
開け放たれた戸口から、夏の風が静かに吹き込む。
広間には、長い夜を越えた安堵と、これからの安定を信じる穏やかな希望が満ちていた。
家の中に、かつてない落ち着きと温もりが広がっていく。
危機を乗り越えた今、誰もが心の奥で、
「この家はもう揺るがない」と、静かに確信していた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
大きな試練を経て、家の中に新たな安定と希望が生まれました。
けれど、時は流れ、物語はまた新たな季節へと進みます。
次章では、それぞれの人生に新しい変化が訪れ、物語はひとつの区切りを迎えます。
ぜひ、引き続き見守っていただければ幸いです。




