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第二十四章 秋に翳す静かなる影

秋の風が城を渡り、長き務めを終えた人々に、静かな安らぎが訪れます。

交わされる言葉には、誇りと絆、そして待ちわびた笑みが宿る――。

温もりに満ちたひとときを描く一章を、どうぞお楽しみください。

 京の宿にひとり留まる秀頼のもとへ、立て続けに吉報が届いた。

 まず、お奈津が女子を無事に出産したとの知らせ。続いて、お藤が男子を産んだとの報せも舞い込む。


 文を読み終えた秀頼は、しばし手紙を胸に当て、静かに目を閉じた。

 お奈津は、控えめで穏やかな物腰の中に、どこか芯の強さを秘めていた。

 大きなお腹を気遣いながらも、家族や侍女たちに優しく声をかけ、出立の朝も「殿、どうかご無事で」と静かに送り出してくれた。

 お藤は、几帳面で実直な性格。

 出産を控えても、侍女たちに細やかな指示を出し、家のことを気にかけていた。

 不安を隠しきれずにいる時も、秀頼の前では「大丈夫です」と小さく微笑み、気丈に振る舞っていた。

 帯の上からそっとお腹を撫でていた姿が、今も目に浮かぶ。


 秀頼の胸には、安堵とともに、深い感謝が込み上げてくる。

 自分はこの一年余り、家を守るため、国を守るため、ただ前だけを見て歩んできた。

 だが、こうして新たな命が無事に生まれたこと――

 それは、どんな勝利や和睦よりも、心の奥底を温かく満たしてくれる。

「……よくぞ、母子ともに健やかでいてくれた」

 声に出すと、思わず涙が滲みそうになる。

 家族の未来を守るために歩んできた道が、今、確かに実を結んだのだと、秀頼は静かに天井を仰いだ。


 静かな部屋に、秀頼の安堵と喜びが、そっと満ちていった。



 朝の京の宿。

 秀頼は支度を整えながら、どうにも口元が緩むのを抑えきれなかった。

 昨夜届いた吉報が、胸の奥で何度も温かく反芻されていた。

 これまで幾度となく戦や政の重圧に押しつぶされそうになったが、今だけは、心の底から湧き上がる幸福に身を委ねていた。

「……これほど嬉しいことが、あるものか」

 思わず独りごちると、胸の奥がじんわり熱くなる。

 出立前の二人の姿が、鮮やかに脳裏をよぎる。

 自分が守りたかったものは、まさにこの命の連なりなのだと、改めて実感する。


 廊下を通りかかった内記が、ふと足を止めて首をかしげる。

「殿、今朝はずいぶんご機嫌に見受けられますが……?」

 勝家も、馬の用意をしながらちらりと秀頼を見やる。

「珍しく、殿がにやにやされておりますな。何か良いことでも?」

 秀頼はしばし黙っていたが、ついに堪えきれず、にやりと笑った。

「実はな――昨夜、吉報が届いたのだ」

 家臣たちは一瞬きょとんとしたが、すぐに顔をほころばせた。

 内記が「それは、まことにおめでとうございます!」と声を弾ませる。

 勝家も「これでまた、家中が賑やかになりますな」と笑い、明石全登は「新たな命のご誕生、神のご加護としか申せませぬ」と深く頭を下げた。


 他の家臣たちも口々に「おめでとうございます」「これでますます家が栄えますな」と祝福の言葉を重ねる。

 秀頼は皆の顔を見渡し、感謝と誇りが入り混じったような表情で頷いた。

「皆の言葉、ありがたく思う。これほど嬉しいことはない。今日はどこまででも走れそうだ」

 内記が冗談めかして「殿、あまり飛ばされては我らが置いていかれますぞ」と言うと、勝家も「いや、今日は殿の後ろ姿を見失わぬよう、必死でついて参ります」と続ける。

 朝の光の中、祝福と笑いに包まれながら、一行は江戸への道を快活に進み始めた。

 秀頼の胸には、家族の未来への希望と、仲間たちとの絆が、これまで以上に強く灯っていた。



 京を発った秀頼一行は、秋の気配が色濃くなり始めた街道を東へ進んだ。

 野辺にはすすきが揺れ、空には高い雲が流れている。

 旅の一行の足取りも軽やかさを増し、やがて駿府へとたどり着く。


 駿府城の城下は、収穫を控えた田の香りに包まれ、城の濠には落ち葉が浮かんでいた。

 秀頼は家康のもとへと招かれ、静かな書院で二人きりの対面となる。

 障子越しに淡い陽が差し込む中、家康がゆっくりと問いかける。

「さて、秀頼。明の様子、どう見ておる。これから、どう動くつもりか」

 秀頼は一度、膝の上で手を組み直し、落ち着いた声で答えた。

「明は、表向きこそ平穏を装っておりますが、内実はどこか翳りが見え始めております。

 皇帝は政を人に任せ、朝廷の実務は重臣たちが取り仕切っている有様。

 とはいえ、我らがその行く末を案じて右往左往することもありますまい。

 今はこれまで通り穏やかに交わり、必要なものを欠かさず手に入れることが肝要かと存じます。

 北の動きについては、いずれ何かが起こるやもしれませぬが、今のところはまだ先が見えませぬ。

 下手に騒ぎ立てて敵を作るより、しばらくは静かに様子を見ておくのがよろしかろうと考えております」


 家康はしばし黙し、秀頼の言葉をじっと噛みしめていた。

 やがて、障子越しの秋の光を眺めながら、ゆっくりと口を開く。

「……明の帝も、政を人に任せておるか。だが、我らにとっては何の問題もない。

 我が国の帝も、政には深く関わられぬが、世はきちんと回っておる。要は、運転する者がしっかりしていればよいのだ」

 家康は秀頼の顔を見つめ、穏やかな笑みを浮かべる。

「見事なものだ、秀頼。そなたがこれほどの大任を、これほど冷静に、そして誠実に果たしてくれるとは、正直、余も胸を撫で下ろしておる。

 明のことも、北のことも、余計な波風を立てず、国のために最善を選んだ。そなたに任せてよかった――そう思える」


 その言葉を受け、秀頼は一瞬、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 家康の前では常に冷静であろうと努めてきたが、今だけは素直な思いがこみ上げる。

「過分なお言葉、痛み入ります。

 これもひとえに、上様のご信頼とご導きがあってこそ。

 余は、ただそのお心に応えるため、務めを果たしたまでにございます。

 ……千のことも、もったいないほどの良縁を賜りました。あの者は、余には惜しいほど優れた女子にございます。これからも、千を、そして家を、命にかえても守り抜く所存です」

 家康は満足げに頷き、

「千が、そなたのもとで穏やかに暮らしていると聞くたび、余も心安らぐ。これからも、千を、そして家を頼むぞ」

 秀頼は深く頭を下げた。

 静かな書院に、二人の間の絆が、より確かなものとして結ばれていくのを、秀頼ははっきりと感じていた。

 障子の外では、秋の風が庭の松を揺らしていた。



 江戸に戻った秀頼は、まず将軍・秀忠のもとを訪れた。

 広間には重臣の姿もなく、静かな空気が漂っている。

 秀頼は正座し、旅の報告を始めた。

「このたびは、日明和睦の大任、無事に果たして戻ることができました。

 また、帰路にて大金国大汗より国書を託されております」

 秀忠は国書を受け取り、慎重に封を切る。しばし黙読したのち、眉をひそめて言葉を発した。

「この『大金国大汗』と名乗る者――なかなかに尊大な書きぶりだな。

 さて、秀頼。そなたはこの国書、どう受け止めておる?」

 秀頼は一呼吸置き、落ち着いた声で答えた。

「北方の勢いは侮れませぬが、今は明と和を結んだばかり。軽々しく新たな盟を結ぶは下策と存じます。無闇に拒絶して刺激するのも避けるべき。

 しばし返答を保留し、大陸の行く末を静観するのが最善かと考えております」

 秀忠は国書を手の中で転がすように撫で、しばし黙していた。


 やがて、ふと話題を変える。

「江戸へ着いてすぐ、ここへ参ったようだが、千にはもう会うたか」

 秀頼は静かに頭を下げる。

「まずは将軍家への復命を優先し、まだお千には会っておりませぬ」

 秀忠は苦笑し、肩をすくめる。

「真面目が過ぎるぞ。娘を待たせておいて、まず政務とはな」

 秀頼は少しだけ表情を和らげ、

「古の賢王が治水のため、わが家の門を三度通り過ぎても入らなかったという故事もございます。

 もっとも、聖人君子の真似事ではなく、大陸の情勢は一刻の猶予も許さず、私情よりも公の務めを優先すべきと考えたまでにございます」

 秀忠はその理屈に呆れたように笑い、

「……秀頼、そなたの『理』は分かった。だがな、千はそなたの留守中、夜な夜な涙して『早く殿に会いたい』と余にまで文を寄越しておったのだぞ。懐妊の身でありながら、不安を抱えて夫を待つ妻を放っておくのは、いかに賢王の真似事とはいえ、感心せぬな」


 その言葉に、秀頼は胸の奥に痛みが走った。

 自分の「理」が、愛する者の犠牲の上に成り立っていたことを、今さらながら思い知らされる。

 しばし黙したのち、静かに頭を下げた。

「……申し訳ございませぬ。お千の心に思いを致す余裕もなく、ただ己の務めにかまけておりました。あの者がどれほど心細い思いをしていたかと思うと、言葉もございません」

 秀忠は苦笑し、

「理屈としては正しいが、千には通じぬぞ。重大な報せも済んだ今、そなたの『公』の務めは終わった。ここからは夫として、一刻も早く千の元へ駆けよ。四度目の門を過ぎることは許さぬぞ」

 秀頼は深く頭を下げ、

「ありがたきお言葉、肝に銘じます」

 静かな一室に、秀頼の誠実さと、秀忠の温かな情、そして両家の間に築かれた確かな信頼が静かに息づいていた。

 障子の外では、秋の風が江戸の庭を渡っていた。



 江戸での務めを終えた秀頼は、急ぎ大和への帰路についた。

 秋の風が街道を吹き抜ける中、一行は休む間も惜しんで馬を進める。

 駿府に立ち寄ると、秀頼は家康のもとを訪れ、簡潔に公務の完了を報告した。

「このたびの大任、無事に果たし、江戸での復命も済ませました。

 これより急ぎ大和へ戻る所存にございます」


 家康はじっと秀頼を見つめ、わざと不満げな声で言う。

「ようやく千のことを思い出したか。政も大事だが、妻を待たせておいて、そちらは後回しか」

 秀頼は思わず冷や汗を浮かべ、苦笑いを浮かべる。

「言い訳はいたしません。ですが、これもお千が平穏に暮らせる世を築きたい一心でございます。日ノ本をよりよくしたい、そのために務めてまいりました」

 家康はふっとため息をつき、

「それで妻を差し置いては、本末転倒というものだ。理屈も大事だが、情を忘れてはならぬぞ」

 秀頼は深く頭を下げ、

「肝に銘じます」

 家康は満足げに頷き、

「道中、気をつけて帰るがよい」とだけ言葉を添えた。

 秀頼は再び頭を下げ、静かに立ち上がり、家族の待つ大和へと急ぎ旅立った。



 駿府城を後にした一行は、秋風の吹き抜ける街道へと馬を進めた。

 空は高く澄み、野辺にはすすきが揺れ、遠く山並みが薄紫に染まっている。

 長い旅路の疲れを押し隠しながら、秀頼の胸にはただ一つ――家族の待つ郡山への思いが募っていた。

 日が西に傾くころ、城下の景色が見え始める。

 白壁の郡山城が夕陽に染まり、懐かしい屋根が視界に入った瞬間、秀頼は手綱を強く握った。

「……ようやく戻った」

 その呟きは、誰に聞かれることもなく、秋風に溶けて消えた。


 城門をくぐり、奥へ奥へと進む。

 侍女たちが深々と頭を下げる中、秀頼は寝所の障子を静かに開けた――。

 そこには千姫がいた。

 白き衣をまとい、身に宿した命を守るように慎ましく座すその姿は、どこか儚げで、頬には隠しきれぬ涙の跡が淡く光っていた。

 秀頼の姿を見た瞬間、千姫の肩が震え、かすれた声が漏れる。

「……殿」

 袖で目元を拭うも、涙は止まらない。

「無事に……帰ってきてくださって……よかった……」

 秀頼は言葉を失い、ただ歩み寄ると、そっと千姫を抱き寄せた。

 その細い肩に腕を回し、静かに力を込める。

「すまぬ、千……余の務めは、すべてそなたの安らぎのため。だが、その陰で、そなたを独りにしてしまった……」


 千姫は秀頼の胸に顔を埋め、しばし黙していたが、やがて涙の中に微笑みを浮かべ、少し拗ねた声を漏らした。

「そうでございますか……されど、寂しゅうございました。これほど長く離れたこと、ございませぬもの」

 秀頼は胸の奥が熱くなり、そっと千姫の頬に手を添える。

「余も同じだ。そなたを思わぬ日は、一日たりともなかった」

 千姫は袖で涙を拭いながら、唇をかすかに尖らせる。

「本当に? 文ばかりではなく、もっと早う戻ってほしゅうございました」

 秀頼は苦笑し、彼女の手を取り、指先に口づける。

「これよりは、そなたを待たせぬ。命にかえても守る」


 千姫はようやく笑みを見せ、秀頼の胸に身を預けた。

 秋の夜風が障子を揺らし、遠くで虫の声が響く。

 その音さえ、今宵は二人を包む安らぎの調べとなっていた。



 夜の郡山城。灯火が静かに揺れ、障子越しに秋の風がそよぐ。

 秀頼は長い旅路を終え、寝所でひと息ついたのち、お奈津とお藤を呼び寄せた。

 二人は慎ましく歩み入り、それぞれ腕に抱いた小さき命を秀頼の前に差し出す。


 秀頼はまず、お奈津に目を向け、柔らかな声で言った。

「よくぞ耐えてくれたな。余が遠くにある間、どれほど心細かったことか……。母子ともに健やかであると聞き、何より嬉しい」

 お奈津は深く頭を垂れ、声を震わせる。

「殿のお務めを思えば、ただ祈るばかりにございました。……この子に、どうかお名を授けていただけませぬか」

 秀頼は頷き、女子の顔を覗き込む。

 柔らかな頬に指先を添えながら、胸に温かなものが広がる。

「和睦の証ともいうべきこの時に生まれた子……名は『明』としよう。明国との和を結び、秋に生まれたゆえ、明姫――よい名であろう」

 お奈津の目に涙が光り、深く頭を下げる。

「ありがたき幸せにございます」


 次に、お藤が抱く男子を見やる。

 秀頼は静かに言葉をかけた。

「お藤も、よくぞ耐えた。余が留守の間、家を守り、己の身を労わりながら……。母子ともに無事であること、余にとって何よりの喜びだ」

 お藤は声を震わせて願う。

「殿のお心で、この子に名を……」

 秀頼は男子の顔を見つめ、胸に熱いものが込み上げる。

「この子は、大和の地に生まれた証を名に刻もう。『大松』――大和の『大』と、松のごとく強く長く生きよとの願いを込める」

 お藤は目を潤ませ、深く頭を垂れる。

「殿のお心、ありがたく頂戴いたします」


 秀頼は二人の子を見つめながら、ふっと笑みを浮かべた。

「そういえば、国松と奈阿はどうしておる。余が遠くにある間、成長のほどを聞かせよ」

 お奈津が顔をほころばせ、誇らしげに答える。

「国松は剣術にも励み、勉学も人並み以上にございます。毛利殿も『殿に似て才覚あり』と褒めておりました」

 秀頼は目を細め、静かに頷く。

「そうか……余に似て、とは少し気恥ずかしいが、頼もしいことだ」

 続いて、お藤が言葉を継ぐ。

「奈阿は、武家の礼儀作法を見事に身につけております。大和松平家に恥をかかぬどころか、将来は良き縁組を望めると、皆が申しております」

 秀頼は深く息をつき、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。

「国松も奈阿も……よくぞ健やかに育ってくれた。余が遠くにある間、そなたらが支えてくれたおかげだ」


 二人の母は深く頭を垂れ、静かに答える。

「殿のお心を支えに、皆で力を尽くしてまいりました」

 秀頼は二人の子の名をもう一度口にしながら、心の中で誓った。

 ――この家、この命、この絆。余は必ず守り抜く。

 灯火が揺れ、秋の夜風が障子を撫でる。

 その音は、城に満ちる安らぎと希望を告げる調べのようであった。



 翌日の評定の場。広間に入る前、諸将が外で挨拶を交わしている中、秀頼は幸昌がどこか笑みを含んでいるのに気づいた。

「幸昌、何を笑んでおる」

 声をかけると、幸昌は慌てて姿勢を正し、秀頼の側に進み出る。

「実は……先日、お東が男子を産みましてございます」

 その言葉に、秀頼の顔がぱっと明るくなる。

「そうか!それはめでたい。母子ともに健やかか」

「はい、何の障りもなく、元気にございます」

 秀頼は幸昌の肩に手を置き、力強く頷いた。

「よくぞ知らせてくれた。家に新たな命が加わること、余にとっても何よりの喜びだ」

 幸昌は深く頭を下げ、声を震わせる。

「殿のお言葉、ありがたく存じます。これからも家のため、命を賭して精進いたします」

「その心、頼もしいぞ」

 秀頼は満足げに微笑み、二人は広間へと歩を進めた。


 やがて評定が始まる。秀頼は上座に着き、家臣たちを見渡した。

 旅での見聞を語り、明国との交渉の経緯を詳しく伝える。

 遠い異国で交わした言葉、和睦に至るまでの駆け引き――その一つひとつを、家臣たちは真剣な面持ちで聞き入った。

 やがて報告は終わり、場の空気は安堵と誇りに満ちる。

「殿のご尽力、まことに見事にございます」

 称賛の声が広がり、笑みが交わされる。

 長き緊張を解いた温かな雰囲気が、広間を包んでいた。


 しかし、その和やかさの奥で、誰も知らぬ影が静かに忍び寄っていた。

 ――この泰平に、ひそやかな不穏が迫っていることを、まだ誰も思っていなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

この章では、務めを果たした後の安堵と、家族や家臣との絆を綴りました。

物語は次なる節目へと進みます。

新たな季節が運ぶ出来事が、家を試し、心を揺らすことになるでしょう。

続きもぜひご期待ください。

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