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第二十三章 使命をもたらす帰還

ご訪問ありがとうございます。

今回の章では、旅路の終わりに近づく中で、主人公がさまざまな人々と向き合い、思いがけない出会いや別れを経験します。

静かな夜の気配、家族や仲間への想い、そして新たな使命――

物語の節目となる一幕を、どうぞゆっくりお楽しみください。

 通州の夜は静まり返っていた。

 明日には大運河を下る官船に乗る――その前夜、秀頼は旅籠の一室で、明かりを落とし、書簡を整理していた。


 ふと、障子の向こうに、わずかな気配が走る。

 秀頼は筆を置き、静かに立ち上がる。

 腰の刀に手をかけ、低く声をかけた。

「誰だ」

 障子がゆっくりと開き、月明かりの中に一人の男が現れる。

 その後ろには、通訳の若者が緊張した面持ちで控えていた。

 男は、明の官服に身を包み、髪もきちんと結い上げている。

 どう見ても、北方の者には見えない。

「名は龔正六。大金国の大汗、ヌルハチの命を受けて参った」

 秀頼は男の目をじっと見据え、刀の柄から手を離さずに言う。

「こんな夜更けに、何の用だ」

 龔正六は、通訳に短く言葉を投げ、さらに声を落とす。

「明の都は、すでに北風に揺れている。我が主――大汗は、日ノ本の考えを知りたがっている。

 “北の盟友”となる気はあるか、それが主の問いだ」


 秀頼は、しばし黙した。

 胸の奥に、かすかな緊張が走る。

 一年余りの親政で、数々の難題に向き合ってきた。

 だが、こうして異国の密使と夜中に対峙するのは、やはり容易なことではない。

 ――ここで軽々しく返事をすれば、家を危うくする。

 自分の言葉一つで、国の行く末が変わる。その重みを、秀頼は痛いほど知っていた。

「……そのような話、余ひとりで決められるものではない」

 声は静かだが、わずかに呼吸が深くなる。

 未熟さを自覚しつつも、背筋を伸ばして続ける。


「今の日本は幕府のもとにある。どんな盟約も、まず幕府の許しが要る。余には、その権限はない。

 この話は、しかるべき手順で幕府に伝えることになるだろう」

 龔正六は深く頷き、懐から小さな包みを差し出した。

「これは、主からの贈り物だ。北の地の銀と薬草。いずれ、そなたの選択が北風を呼ぶ時、また会うこともあろう」


 秀頼は包みを受け取る。

 刀から手を離し、相手の目をまっすぐに見据えた。

「言葉、しかと受け取った。だが、余の道はまだ定まらぬ。

 北風がこの世の安寧を乱すなら、余は必ず立ち向かう。それだけは忘れるな」

 龔正六は夜の闇に紛れるように、通訳を伴って静かに部屋を後にした。


 秀頼はしばらくその場に立ち尽くした。

 手のひらには、贈り物の重みと、異国の風の冷たさが残っている。

 ――自分はまだ若い。だが、もう迷うだけの子供ではない。

 ふと、脳裏に浮かぶのは、和姫を抱いて微笑む千姫の姿だった。

 あの穏やかな笑顔と、幼い娘の温もり――

 守るべきものが、確かに自分の手の中にある。

 家を守るため、国を守るため、どんな問いにも、逃げずに向き合う覚悟だけは、確かに胸にあった。

 宿場町の静寂の中、遠く大運河の水音だけが響いていた。



 天津への航路は、驚くほど穏やかだった。

 昨夜の密使との対話がまるで夢だったかのように、船は順調に大運河を下り、やがて天津の港へと滑り込む。

 港には明の役人たちが待ち受けていたが、形式的な挨拶が交わされるだけで、特別な詮索もなかった。

 秀頼は、朱印船への乗り換えを指示されると、静かに荷をまとめ、家臣たちとともに新たな船へと移った。


 朱印船の甲板に立ち、天津の町並みを遠くに眺める。

 風は穏やかで、空には雲ひとつない。

 秀頼は、昨夜の出来事を胸の奥にしまい込み、ただ静かに仁川への帰路を見つめていた。

 船はやがて港を離れ、何事もなく、再び朝鮮の仁川を目指して進み始める。

 波の音と帆のきしむ音だけが、旅の終わりを静かに告げていた。



 漢城に戻ると、王宮では朝鮮国王が秀頼一行を再び迎えた。

 秀頼は、王の前に進み、深く頭を下げる。


「このたびは、明国との和睦と貿易再開のため、貴国のご協力を賜り、まことに感謝しております。

 朝鮮の助力なくして、この道は開けなかった。

 この恩、決して忘れませぬ」


 国王は静かに頷き、秀頼の誠意を受け止める。


 その場に控えていた明国の使者が一歩進み出て、王に向かって言葉を述べた。

「大明皇帝より、日明間の貿易再開を認める旨、正式に伝えるよう命じられております。

 今後は、朝鮮を通じての交易も、これまで以上に盛んになることでしょう」


 王宮の空気は、安堵と新たな時代への期待に包まれた。

 秀頼は、朝鮮国王と明の使者に深く礼をし、静かにその場を辞した。



 船が釜山の港を離れると、甲板には潮風が吹き抜けた。

 遠ざかる朝鮮の町並みを見送りながら、秀頼はしばらく無言で海を眺めていた。

 やがて、内記がそっと近づく。

「殿、これでようやく、すべてが終わりましたな」

 その声には、長い旅路を共にした者だけが分かる安堵が滲んでいる。

「……ああ」

 秀頼は小さく頷いた。

「皆の働きがなければ、ここまで辿り着くことはできなかった。よく支えてくれた」

 勝家が、珍しく笑みを浮かべて言う。

「殿のおかげでございます。明国も朝鮮も、皆が殿の誠意に動かされた。拙者、これほど誇らしい思いは初めてにございます」

「誇らしいのは、俺だけじゃない。お前たちも同じだ」

 秀頼は、家臣たち一人ひとりの顔を見渡した。

「この旅で、余も多くを学んだ。未熟なままでは、誰も守れぬと痛感した。だが……今は、少しだけ自信が持てる」


 明石全登が、静かに口を開く。

「殿、これからは平和の世が続きます。家族のもとへ、胸を張ってお帰りください」

 その言葉に、秀頼の胸が熱くなる。

 思い浮かぶのは、郡山の屋敷で待つ家族の姿――

 千姫と和姫の柔らかな笑顔、お奈津やお藤の落ち着いたまなざし、国松や奈阿姫の無邪気な声、そして淀殿の厳しくも温かな存在。

 それぞれの表情や気配が、波の音に重なって心に広がっていく。

「……早く、皆に会いたい」

 思わず漏れた本音に、家臣たちが微笑みを交わす。

「殿のお帰りを、皆が待っております」

 内記がそう言い、勝家も力強く頷いた。

 船は静かに波を切り、日本へ向かって進み続ける。

 秀頼は甲板に立ち、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。

 平和を成し遂げた興奮と、家族に会える期待――

 その両方が、今の自分を支えている。

「……もう迷わぬ。これからは、余が皆を守る」

 海の彼方に、故国の影がうっすらと見え始めていた。



 壱岐の沖合に差しかかると、案内役のひとりが小舟の準備を始めた。

 長い航路を共にした男たちが、甲板で最後の見送りに立つ。

 潮風に吹かれながら、彼らの顔には旅の無事を祈る静かな誇りが浮かんでいる。

「ここでお別れだな」

 秀頼は案内役たちに歩み寄り、ひとりひとりに目を向けて感謝の言葉をかけた。

「おかげで、ここまで無事に来ることができた。皆の働き、忘れぬ」

 案内役たちは深く頭を下げ、静かに小舟へと乗り移る。

 やがて船が対馬の近海に差しかかると、対馬の案内役たちも同じように下船の支度を整えた。

 短い別れの気配だけが残り、彼らはそれぞれの島へと戻っていった。

 甲板に残った秀頼は、遠ざかる小舟をしばらく見送っていた。

 その背中には、旅の節目を迎えた静かな余韻が漂っていた。



 やがて船は博多の港に滑り込む。

 岸には長政の家臣たちが整然と並び、秀頼一行の到着を待ち受けていた。

 黒田家の旗がはためき、役人や警護の武士たちがきびきびと動く。

 町の人々や商人たちも、異国帰りの一行を一目見ようと遠巻きに集まり、ざわめきが広がっていた。


 船が着岸すると、長政の重臣が一歩前に進み、深々と頭を下げる。

「松平殿、ご帰国、まことにおめでとうございます。長政より、旅のご無事を心よりお慶び申し上げます」

 秀頼は静かに頷き、家臣たちとともに船を降りる。

 港の石畳には、用意された駕籠や荷車が並び、黒田家の家臣が休息所や荷の運搬を手際よく案内する。

「この博多の地にて、しばしご休息を。何かご入用のことがあれば、何なりとお申し付けください」と、丁重な言葉が続く。


 久しぶりの日本本土の賑わいと、長政のもてなしに、家臣たちもどこか安堵した表情を浮かべていた。

 港の喧騒、町人たちの好奇の視線、そして武家の格式ある出迎え――

 それらが、帰国の実感を強く胸に刻ませていた。


 博多に到着した秀頼一行は、長政のもてなしを受けながら数日を過ごした。

 その間、秀頼は長政と膝を交え、明国での見聞や異国の風土、和平交渉の裏側について語り合った。

「大陸の空気は、やはり我らの国とは違うものだな」

 長政は時に驚き、時に深く頷きながら、秀頼の話に耳を傾けた。

 町の賑わい、港の喧騒、そして久しぶりの日本本土の空気――

 家臣たちもそれぞれに羽を伸ばし、旅の疲れを癒していた。


 やがて支度が整うと、秀頼一行は再び船に乗り込んだ。

 博多の賑やかな町並みが遠ざかり、船は西へと進路を取る。



 下関の港に近づくと、空気が一変する。

 関門海峡の潮流は速く、海の色も深い。

 岸辺には毛利家の旗が控えめに掲げられ、家臣たちは静かに間隔をあけて立っていた。

 その姿は、博多の華やかさとは異なり、慎ましさと緊張感が漂っている。


 秀就は港の石畳に立ち、秀頼の姿を見つけると静かに歩み寄った。

「ご無事で何よりです」

 声を抑えた挨拶が交わされ、秀頼もまた、旅の疲れを感じさせぬよう背筋を伸ばして応じる。

 港には町の人々も遠巻きに集まり、潮風とともに静かな期待が流れていた。

 秀頼と秀就は、互いの無事とこれからの道について、言葉少なに確かめ合う。

 その間にも、海峡の潮騒が絶え間なく響いていた。



 鞆の浦に夕暮れが訪れる頃、秀頼一行は港近くの宿に落ち着いていた。

 長旅の疲れを癒す湯の香りが廊下に漂い、障子越しには瀬戸内の静かな波音が聞こえてくる。


 その夜、正則が秀頼のもとを訪れた。

 宿の一室、灯りの下で向かい合うと、正則は大きな声で笑いながら言った。

「いやあ、若殿、見事なものだ!あの明国で、これほどの大役をやり遂げるとは。

 異国の地で堂々と振る舞い、和平を成したと聞いて、わしも胸が熱くなったぞ」

 秀頼は正則の熱意に少し照れながらも、静かに頭を下げる。

「過分なお言葉、痛み入ります。

 これもひとえに大御所様のご信頼とご後援があってこそ。

 余はただ、そのお心を形にする役目を果たしただけにすぎませぬ」

 正則は満足げに頷き、杯を手に取る。

「謙虚なところもまた、若殿らしい。だが、やはり大したものだ。

 これからの世は、そなたのような者が支えていくのだろうな」


 障子の外では、港の灯がちらちらと揺れている。

 宿の静けさの中、二人の言葉は、旅の達成感と新たな時代への期待を静かに響かせていた。



 兵庫港に船が着くと、岸には本多重次と河合道臣が待っていた。

 二人は変わらぬ丁寧さで秀頼一行を迎え、港町の屋敷へ案内する。

 瀬戸内の潮風と町の賑わいの中、秀頼たちはしばし旅の疲れを癒した。


 その夜、屋敷に静けさが戻った頃、本多重次が控えめに秀頼のもとを訪れる。

「実は……」と切り出し、池田利隆の訃報を伝えた。

「殿はつい先日、ご逝去なさいました。家中はただいま喪に服しております」

 言葉を受けた瞬間、部屋の空気が静まり返る。

 秀頼はしばし黙し、やがて静かに息を吐き、重次に向き直る。

「……そうか。池田殿が……」

 その声には、深い哀惜が滲んでいた。


 しばらく沈黙が続いた後、秀頼は家臣たちに目を向ける。

「このまま船旅を続けるわけにはいかぬ。池田家のご遺族に弔意を伝えたい。陸路で姫路へ向かう支度を整えてくれ」

 家臣たちは無言でうなずき、それぞれ静かに動き始めた。

 秀頼はもう一度、重次に深く頭を下げた。

 翌朝、秀頼一行は兵庫を発ち、夏の陽射しの中を姫路へと急いだ。



 姫路の町に入ると、通りはどこか沈んだ空気に包まれていた。白壁の屋敷や商家の軒先には喪の札が掲げられ、行き交う人々も静かに頭を垂れている。

 城下を抜け、姫路城の大手門が見えてくると、門前には池田家の家臣たちが控えていた。


 秀頼一行が到着すると、重次が静かに進み出て、深々と頭を下げる。

「ご足労、痛み入ります。どうぞお入りくださいませ」

 馬を降り、城内へと進む。

 天守は青空に映えながらも、どこか寂しげに見えた。案内されて石畳の廊下を抜け、奥へ奥へと進むにつれ、空気はさらに張り詰めていく。

 障子の向こうからは、遠く蝉の声と、控えめな話し声がわずかに聞こえてくる。


 やがて、奥座敷の前に案内される。

 襖が静かに開かれ、秀頼が一歩踏み入れると、督姫、鶴姫、幸松丸、池田忠雄、重次らが静かに控えていた。

 秀頼は進み出て、深々と頭を下げる。

「このたびはご愁傷のほど、謹んでお悔やみ申し上げます。往路にてお見舞いできなんだこと、悔やまれてなりませぬ。

 池田家には、これまで幾度もお力添えを賜りました。そのご恩、決して忘れ申さぬ」

 督姫は袖で目元を押さえ、気丈に口を開く。

「松平様、このような折に、わざわざお越しくださり、かたじけのう存じます。亡き利隆も、殿のお働きを陰ながら誇りに思うておりました。

 このように弔いのお言葉を賜り、さぞや喜んでおりましょう」

 秀頼は督姫に向き直り、静かに頭を下げる。

「播磨御前のお気持ち、余も胸に沁み入ります。亡き殿のご冥福、心よりお祈り申し上げます」


 鶴姫が、静かに言葉を継ぐ。

「松平様がこうしてお越しくださり、池田家一同、これほどの慰めはございませぬ。

 幸松丸も、殿のお言葉を励みに、これから家を守ってまいります」

 秀頼は鶴姫に目を向け、

「御前様のご心労、余も察しております。幸松丸殿も、これよりは御身の御代。困りごとあれば、遠慮なく申しつけられよ」

 幸松丸が、不安げな面持ちで秀頼を見上げる。

「松平様、父の代わりに、これからは私が家を守ります。至らぬことも多いかと存じますが、今後ともご指導賜りますよう、お願い申し上げます」

 秀頼は優しく頷く。

「幸松丸殿、そなたの志、余も頼もしく思うておる。池田家のご繁栄、余も願ってやまぬ」

 池田忠雄が一歩進み、深く頭を下げる。

「松平様のご訪問、家中一同、これほどの慰めはございませぬ。亡き殿も、さぞや安堵しておりましょう」

 秀頼は池田忠雄に向き直り、

「淡路殿、皆々のご厚情、ありがたく思います。池田家の安泰と、皆さまのご平安、これよりも祈り続ける所存です」

 重次もまた、静かに頭を下げた。



 奥座敷での弔問がひととおり済むと、督姫はふと柔らかな表情を見せ、秀頼に向き直った。

「松平殿――。わが姪、千のこと、なにとぞよしなにお頼み申し上げます。あの子は幼き頃より、私にとっても格別に愛おしい姪にございました。この遠き播磨の地にあっても、案じぬ日はございませぬ」

 秀頼は静かに頷き、真摯な声で応じた。

「播磨御前のお心遣い、恐悦に存じます。余が今、こうして異国にまで足を運び務めを果たしておりますのも、すべては千や子らの安寧のため。これからも、あの者たちが戦火を知らず健やかに暮らせるよう、この身を賭して力を尽くしてまいる所存です」

 督姫はその言葉に満足げに微笑み、

「左様なお言葉を賜り、心より安堵いたしました」

 と、そっと袖で目元を拭った。

 静寂に包まれた姫路城の奥座敷には、家を越え、家族を思う温かな気配が満ちていた。



 数日後、秀頼は姫路城を発ち、京を経て江戸への旅路に踏み出すこととなった。

 出立の日、城の玄関先には督姫、鶴姫、幸松丸、池田忠雄、重次らが揃い、見送りのために並んでいた。

 督姫が静かに進み出て、

「松平様、道中ご無事をお祈りしております。どうか千のこと、これからもよろしくお願いいたします」と、改めて頭を下げる。


 鶴姫も「このたびはご厚情、忘れませぬ」と言葉を添え、幸松丸は緊張した面持ちで「またお目にかかれる日を楽しみにしております」と小さく頭を下げた。

 池田忠雄、重次らもそれぞれ深く礼をし、家中一同、秀頼の旅立ちを見送った。

 秀頼は一人ひとりに目を向け、

「皆々のご厚情、ありがたく思う。池田家の安泰と皆さまのご平安、これよりも祈り続ける所存です」と静かに返し、馬に乗った。


 夏の朝の光の中、姫路城を後にする秀頼の背を、池田家の人々はいつまでも見送っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

主人公は旅路の中で多くの出会いと別れを経験し、心に新たな使命を刻みました。

次章では、これまでの歩みを胸に、さらなる試練と新たな局面が待ち受けます。

物語の続きも、どうぞ楽しみにお待ちください。

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