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第二十二章 明との駆け引き

帝都・北京、紫禁城の奥で交わされる言葉は、剣より鋭く、矢より重い。

皇帝不在の宮殿で、秀頼は老臣・方従哲と対峙する。

和睦か、拒絶か――その一手が、日ノ本と明国の未来を決する。

若き使者が示す「理」と「器」、そしてその背にある覚悟とは。

歴史の駆け引きが、静かに始まります。

 天津の港に船が着くと、陽射しが水面にきらめき、遠くには堅牢な城壁がそびえていた。

 町には張り詰めた空気が漂い、高い城壁の上には武装した兵たちがじっとこちらを見下ろしている。

 港の埠頭には、鮮やかな赤の官服をまとった文官と、黒い鎧に身を固めた武官が整然と並んでいた。


 赤衣の文官が一歩前に進み、慇懃に頭を下げる。

「礼部主事、林景鳳りん けいほうにございます。松平大納言閣下、遠路はるばる天子の地へようこそお越しくださいました。

 閣下の到着、内閣首輔・方従哲様も首を長くしてお待ちです。」

 秀頼は一歩前に出て、天津の水を背に、泰然と応じる。

「丁重なるお出迎え、痛み入る。

 この天津――“天子の渡りし津”と聞き及ぶ。かつて成祖皇帝がこの地で川を渡り、帝都を定められたと伝え聞く。

 余もまた、日ノ本と明国の新たな千年を築くため、これより北京へ参る所存。」

 林景鳳は誇らしげに微笑み、

「閣下、まさしくこの天津は、我が成祖皇帝が天下を定められた聖地。

 この地に立たれたこと、明国の礼をもってお迎えいたします。」

 その隣で、天津を守る武官は無言で秀頼を、そして後ろに控える全登の腰の刀を値踏みするように睨みつけていた。

 全登はその視線に気づき、静かに一歩下がりつつも、

「殿、ここはただの港ではございませぬ。帝都を守る要の地、警戒もまた当然にございます」と小声で進言する。


 秀頼は全登にうなずき、再び林景鳳に向き直る。

「天津の歴史と威厳、余も肌で感じております。

 この地を越え、北京へ向かうこと、まことに身の引き締まる思いなり。」

 林景鳳はさらに、

「閣下のご一行には、天津衛の守備隊が道中の安全をお守りいたします。どうぞご安心のうえ、帝都へお進みくださいませ。」

 秀頼は深く一礼し、

「ご配慮、かたじけなく存じます。」


 家臣たちも天津の空気と歴史の重みを感じながら、帝国の核心部へと一歩ずつ踏み込んでいく緊張感を、否応なく胸に抱いていた。



 官船は天津を離れ、ゆるやかな流れに乗って大運河を北へ進んでいた。

 両岸には柳の若葉が風にそよぎ、時折、白い帆の小舟が静かにすれ違う。

 空は高く澄み、遠くには水田や村落が点在し、川辺の家々からは人々の暮らしの気配が漂ってくる。

 船の上には、湿った風とともに、どこか帝都に近づく緊張感が満ちていた。


 船室の中、秀頼は林景鳳と向かい合っていた。

 林は赤い官服の袖をきちんと整え、やや伏し目がちに、慎重な面持ちで口を開く。

「松平大納言閣下……。通州に着く前に、どうしてもお伝えせねばならぬことがございます。」

 秀頼は静かにうなずき、林の言葉を待った。

「……実は、皇上は長らくご体調がすぐれず、臣下の前にお姿を見せられることがございませぬ。

 閣下が北京に入られても、拝謁は叶わぬ公算が極めて高いのです。

 ……まことに申し訳なく存じます。」

 林は深く頭を下げ、声を落とした。

 その肩には、明国の官僚としての責任と、異国の賓客に対する申し訳なさが重くのしかかっている。


 秀頼はしばし黙し、運河の外に目をやった。

 川面を渡る風が、船室の静けさをやわらげていく。

 やがて、秀頼はゆっくりと口を開いた。

「林殿、顔を上げられよ。貴殿の苦衷は察するに余りある。

 天子が奥に隠れ、表に出ぬ。それは、今の明国が抱える“病”そのものであろう。

 なればこそ、実務を預かる首輔・方従哲殿と語ることに、余は何の不足も感じてはおらぬ。

 むしろ、現実を動かす者と語る方が、日ノ本と明国の未来のためには良かろう。」

 林景鳳は驚いたように顔を上げ、

「閣下……そのように仰せいただけるとは、まことに恐れ入ります。」

 秀頼は微笑みを浮かべ、

「余は、父上の過ちを繰り返さぬためにこの地に参った。日ノ本に平穏をもたらすため、今ここでできることを尽くす所存なり。」


 船は静かに運河を進み、両岸の柳が風にそよぐ。

 遠くには通州の城壁がかすかに見え始めていた。

 秀頼は胸の奥で静かに願う。

『これは早めに平和になればよいが……

 戦火が広がれば、日ノ本も決して無縁ではない』

 林景鳳は、秀頼の言葉を胸に刻み、

「閣下のご誠意、必ずや方首輔にもお伝えいたします」と、改めて深く頭を下げた。


 秀頼を乗せた船は北直隷の豊かな平原を貫く運河を、帝都・北京を目指して北上していった。



 大運河の終点・通州に到着すると、官船を降り、陸路の準備が整えられた。

 秀頼には、八人担ぎの轎子が用意されている。朱塗りの枠に金の飾りが施され、緋色の布が風に揺れる。

 その姿は、まさに「天子の都」へ向かう使節にふさわしい威厳を放っていた。


 轎子がゆっくりと担ぎ上げられると、通州の街道沿いには、明国の兵士や役人が整列し、

「日本国正使、松平大納言様」と声を上げて敬意を示す。

 沿道には市井の人々も集まり、異国の使節団を一目見ようとざわめきが広がった。

 秀頼は轎子の中で静かに目を閉じ、胸の奥で思う。

『この道の先に、天子の都がある……。余は、父上の過ちを繰り返さぬためにここまで来た。必ずや和を結び、日ノ本に平穏をもたらす。』


 やがて、灰色の煉瓦で築かれた巨大な城壁が視界に入った。朝陽門――京師の東門である。その威容は、まるで山のようにそびえ立ち、上には旗がはためき、武装した兵士が整然と並んでいる。

 秀頼はその光景に圧倒された。大坂城の総構も広大なりと誇ってきたが、この城壁の壮麗さには及ばない。これこそが天下の中枢にふさわしい姿だと、彼は深く感じた。



 門前には荷車を引く商人、馬に跨る役人、そして異国の使節を迎えるために集まった群衆がひしめいていた。門をくぐると、秀頼は轎子を降り、徒歩で進む。

 石畳の広い街路がまっすぐに延び、両側には瓦屋根の店や屋敷が並び、香辛料の匂い、焼き菓子の甘い香りが風に乗って漂ってくる。絹衣をまとった人々が行き交い、遠くで鐘の音が響き、帝都の活気が肌に迫ってきた。

 秀頼は歩みを進めながら、異国の空気を全身で感じ取った。

『これが明国の都か……。日ノ本とはまるで異なる世界。ここでこそ、余の使命を果たさねばならぬ。』


 やがて、会同館に到着する。高い塀に囲まれた広い敷地、朱塗りの門、整然と並ぶ官員たち。庭には石灯籠と池があり、柳が風にそよいでいた。

 林景鳳が一歩進み、恭しく告げる。

「閣下、ここが会同館にございます。明日には、方首輔・方従哲様との会見の段取りを整えます。」


 秀頼は静かに頷いた。

『皇上には会えぬ。しかし、ここでこそ、日ノ本と明国の未来を決める話が始まる。』

 胸の奥で、重い覚悟を新たにした。



 翌朝、会同館の広間に柔らかな光が差し込んでいた。朱塗りの柱と緋色の帳が、帝都の格式を静かに物語っている。秀頼は文机の前に座し、林景鳳の来訪を待っていた。やがて、赤衣の官服をまとった林が姿を現し、深く頭を下げる。

「松平大納言閣下、恐れながら申し上げます。」

 秀頼は軽くうなずき、まずは儀礼を保つ。

「林殿、昨日は長途の案内、労であった。会同館、まことに見事な設えよ。帝都の威容、余も感服いたした。朝陽門の城壁など、大坂の総構も広大なりと誇ってきたが、及ばぬものと知った。」

 林はわずかに笑みを浮かべ、声を和らげる。

「閣下にそのように仰せいただけるとは、恐悦至極にございます。帝都の備えは、皇上の御威光を示すものにございますゆえ。」


 秀頼は頷き、しばし天候や街の賑わいについて言葉を交わした。

 林の緊張がわずかに解けたのを見て、秀頼は声を落とし、表情を引き締める。

「さて、林殿――余より一つ確かめたいことがある。」

 林の眉がわずかに動き、笑みが硬くなる。秀頼は間を置き、静かに続けた。

「朝鮮にて聞き及んだ話に、ヌルハチという者、もとは明の将軍・李成梁の麾下にあったと。これは真なるか。」

 林は一瞬、視線を伏せた。指先が袖の端をわずかに握り、呼吸が浅くなる。やがて、低く、慎重な声が広間に落ちた。

「……左様にございます。

 あ奴は、かつて李将軍の庇護を受け、官職を賜り、恩恵を得ておりました。

 李将軍亡き後、不運と野心が重なり、今の事態を招いたのでございます。」


 秀頼はその言葉を静かに受け止め、さらに問いを重ねる。

「ならば、余が問うことを許せ。

 もしや、父の戦が、この怪物を生むきっかけとなったのではあるまいな。」

 林の顔に一瞬、影が差した。唇がわずかに震え、声を絞り出す。

「……きっかけにはなったやもしれませぬ。

 倭乱により、北方の防備は手薄となり、李家の力も削がれました。されど、あ奴の野望はもとより胸に宿っていたもの。

 全てを日本の責に帰すことは、道理にございませぬ。」

 秀頼は深くうなずき、胸の奥で思う。

『なるほど……この炎は、もはや一国の過ちでは消せぬ。ならば、余がなすべきは一つ。』


 林は、声をさらに落とし、言葉を選ぶように続けた。

「今は、関係を正し、背後を固めることこそ肝要にございます。海を隔てて争う余力は、もはや双方にございませぬ。」

 秀頼は静かに立ち上がり、窓の外に広がる北京の空を見やった。

「林殿の言、余の胸に響いた。

 ヌルハチという火種は、もはや誰の手にも余る。

 ならば、日ノ本と明国が和を結び、互いの背を守ること――それが唯一の道よ。」

 林は深く頭を下げた。

「閣下の御志、必ずや方首輔にも伝えます。」

 広間に漂う沈黙は、重く、しかし確かな決意を孕んでいた。

 秀頼は心に刻む。

『父の過ちを贖うため、余はこの場で和を結ぶ。これこそが、日ノ本に平穏をもたらす唯一の策なり。』



 紫禁城の奥、文淵閣の一隅。

 皇帝不在の巨大な宮殿は静寂に包まれていたが、この小部屋だけは異様な熱気を帯びていた。

 壁際には奏章と帳簿が山のように積まれ、墨の匂いが重く漂う。

 その中央に座すのは、老政治家・方従哲。深紅の官服をまとい、白髪交じりの髷を結ったその姿は、疲弊の影を隠さぬまま、なお鋭い眼光を放っていた。

 彼の胸中には、元交戦国への不信と、背に腹は代えられぬ財政難の焦燥が交錯していた。北方ではヌルハチの旗が翻り、戦費は雪崩のように膨れ上がる。だが、面前の男に弱みを見せるわけにはいかぬ――それが明の矜持である。

 秀頼は、豪奢な礼服ではなく、松平家の正装で臨んでいた。絹の直衣に家紋を染め抜いた羽織、腰には儀礼の太刀。その立ち姿には、戦を望まぬ武家の威厳と、実務者としての覚悟が宿っていた。


 通訳が控え、秀頼は深く一礼し、静かに口を開いた。

「方首輔殿。この度の謁見、痛み入る。

 余が海を渡りしは、両国の長き戦の歴史を終わらせ、再び和睦を結びたきがため。

 日明の海に、永遠の泰平をもたらしたく、ご提案に上がった次第にございます。」

 方従哲は筆を置き、冷ややかな声を返した。

 その目は、秀頼を射抜くように細められている。

「……ほう、和睦とな。

 聞くところによれば、貴殿は日ノ本にて自ら『豊臣』の名を捨て、『松平』を名乗ったと。平和のために、かつての誇りすら捨てた男が、今さら我が大明に和を説くか。

 我が国は物産豊富、日ノ本よりの輸入品など、さして必要としておらぬ。この大明と組むことに、いかなる利がある。」


 秀頼は眉一つ動かさず、淡々と応じた。

 声は静かだが、その言葉には鋼の芯があった。

「貴国が必要としておらぬはずの銀と硫黄の貿易再開にございます。加えて、良質なる銅も。我が松平家が、その安定供給を保障いたしましょう。」

 通訳の言葉が広間に響いた瞬間、方従哲の表情がわずかにこわばった。

 北方の戦――ヌルハチとの戦いには、膨大な銀と火薬が不可欠であることを、秀頼は承知していた。

 老臣の胸中に、焦燥が走る。だが、顔には出せぬ。

「この男、我が急所を知っている……」方従哲は心中で呟き、指先が帳簿の端をわずかに叩いた。

 秀頼はさらに言葉を重ねる。

 声は柔らかく、しかし一語一語が重く響いた。

「……北方の戦にも、これらは肝要にござろう。

 我らは、貴国の命門を抑えたのではない。貴国が北の憂いに専念できるよう、背後の安寧を確保しに参ったのです。」


 方従哲は顔を上げ、秀頼を鋭く見据えた。

 その眼光には、警戒と苛立ち、そしてわずかな期待が入り混じっていた。

「お主は何を望む。これほどの利を供するとは、尋常ならざる。良からぬことを企むのではあるまいな。」

 秀頼は静かに息を整え、力強く言い放った。

 その声には、武家の誇りと、和を求める決意が宿っていた。

「ご存じのとおり、余は平穏のために、かつての父の誇り、すべてを捨てた。父・秀吉の起こした戦乱を、余の代で終わらせねばならぬという、松平家の信義が余をここに座らせております。

 今回の貿易再開も、日ノ本が明国より薬品や生糸などを得て、国内を安定させるため。この貿易は、戦を生まぬ富を生む。日明両国が、内と外から安定するための、確かな和の形にございます。」


 広間に沈黙が落ちた。

 方従哲は長く秀頼を見つめ、心中で計算を巡らせる。

「この男、誇りを捨てたと見せかけ、最も強き駒を握っている……。だが、背に腹は代えられぬ。」

 やがて、老臣は低く言った。

「……良かろう。」

 その声には、警戒と同時に、わずかな安堵が滲んでいた。



 会議が終わり、文淵閣の小部屋に静けさが戻った。

 方従哲は長く握っていた筆を置き、深くため息をついた。

 その峻烈な眼差しは、いつしか柔らぎ、老臣の顔にわずかな疲労と感慨が浮かんでいた。

「松平大納言殿……」

 声は低く、しかし先ほどまでの鋭さとは異なる温みを帯びていた。

「この若さにして、これほどの理と度量を備えられようとは。わが国に、そなたのような者が一人でもあれば……この北方の憂いも、朝廷の乱れも、今とは違う形で収まっていたやもしれぬ。」


 秀頼は静かに頭を下げ、言葉を選んだ。

「過分なるお言葉、痛み入る。余はただ、父の過ちを贖い、日ノ本に和をもたらすためにここにございます。

 それが、ひいては貴国の安寧にもつながると信じております。」

 方従哲はしばし黙し、秀頼を見つめた。

 その眼差しには、なお警戒の影が残りながらも、深い敬意が宿っていた。

「……そなたの言、胸に響いた。この和が、両国にとり真のやわらぎとなることを、我も願う。」

 老臣の声は、静かに広間に溶けていった。

 秀頼はその言葉を胸に刻み、深く一礼した。



 紫禁城の朝陽門前。

 初夏の空は澄み渡り、城壁の上には明の旗がはためいていた。

 文淵閣での和睦文書交換から数日、秀頼一行は帰路につくため、会同館を後にした。

 その門前には、明国の高官たちが整然と並び、深紅の官服が陽光に映えている。

 楽人が雅楽を奏で、太鼓と笛の音が広場に響き渡った。


 方従哲の姿もあった。

 老臣は、峻烈な眼差しを和らげ、秀頼に歩み寄る。

「松平大納言殿、此度の御志、我が胸に深く刻まれた。この和が、両国に真のやわらぎをもたらすことを、我も願う。」

 秀頼は静かに一礼し、力強く応じた。

「方首輔殿の御厚情、痛み入る。余は、父の過ちを贖い、日ノ本に平穏をもたらすためにここに参った。

 この和が、必ずや両国の安寧を築く礎となることを信じております。」

 広場には、絹衣をまとった役人、兵士、そして市井の人々が群れをなし、異国の使節団を見送ろうとざわめいていた。

 朱塗りの轎子が再び担ぎ上げられ、緋色の布が風に揺れる。

 その姿は、帝都の威容を背に、歴史の一頁を刻む使節の帰路を象徴していた。


 楽の音が高まり、太鼓が鳴り響く中、秀頼は胸の奥で静かに思う。

『この和が、戦を生まぬ富を生み、両国にやわらぎをもたらすことを――必ずや。』


 方従哲はその背を見送りながら、深く息を吐いた。

「若きにして、これほどの器を備えた男……。

 わが国に、そなたのような者が一人でもあれば――」

 その言葉は、老臣の胸に沈み、広場の喧騒に溶けていった。


 轎子がゆるやかに進み、朝陽門を抜ける。

 城壁の上で旗が翻り、雅楽が遠ざかる中、秀頼一行は帝都を後にした。

 その背には、日明両国の未来を託した和睦の誓いが、重く、しかし確かに刻まれていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

この章では、北京での交渉と、その裏に潜む緊張を描きました。

物語はここで一息つきますが、旅路はまだ終わりません。

帰路に待つのは、新たな出会いと、予期せぬ報せ――

そして、遠く日ノ本で芽吹く未来の兆し。

次章もぜひお楽しみください。

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