第二十一章 朝鮮での見聞
異国の空と人々の暮らし――。
日本を離れ、朝鮮の地で見聞を広げる秀頼たち。
新たな出会いと歴史の記憶、そして未来への静かな決意。
旅の続きを、どうぞお楽しみください。
初夏の光が海面にきらめき、空はどこまでも澄み渡っていた。
秀頼一行を乗せた船は、壱岐の勝本浦を発ち、対馬の厳原で最後の補給と祈祷を済ませ、いよいよ朝鮮海峡を渡る航路へと進んでいった。
潮風は心地よく、帆は大きく膨らみ、船上には旅の高揚感が満ちていた。
船上には、壱岐や対馬の案内役――長年、海を知り尽くした老練な水主が控えている。
朝もやの向こう、水平線の彼方に、うっすらと陸地の影が浮かび上がった。
案内役は、船縁に立つ秀頼に静かに声をかける。
「権大納言様、あれに見えまするは、朝鮮の地――釜山にございます。」
潮風を受けながら、秀頼はしばし遠くの陸影を見つめていた。
胸の奥に、これまでの道のりが静かに去来する。
「……余は、幼き頃より大坂の城に閉じこもっておった。勇気を出して一歩を踏み出したのは、ほんの一年余り前のこと。
あの時、もし臆して城を出なかったなら、余はきっと一生、大坂の石垣の中で終わっていたであろう。
今こうして異国の地を目の当たりにできるとは、まこと夢のような心地がする。」
内記は、潮の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、しみじみと呟いた。
「某も、この齢にて異国の海を越える日が来ようとは、思いもよりませなんだ。
殿のおかげにて、また新たな景色を見ることが叶いました。」
勝家は、興奮を隠しきれず、目を輝かせて陸地を見つめている。
「拙者、生まれてこの方、これほど遠くまで参ったは初めてにございます。胸が高鳴ってなりませぬ!」
明石全登は、静かに港の景色を見渡しながら、
「この釜山の港、かつて従軍の折にも幾度か目にいたしました。朝鮮の役人は礼儀に厳しく、また言葉や作法にも独特のしきたりがございます。
殿、ここより先は、細やかな配慮が肝要にございます」と、経験者らしい落ち着きで進言した。
やがて、船が桟橋に着くと、朝鮮側の役人たちが静かに列を整え、その中央に東莱府使が進み出た。
彼は威厳を保ちつつ、礼を尽くして秀頼一行を迎える。
東莱府使は、通訳を介して、格式ある口調で言葉を紡ぐ。
「松平権大納言殿、朝鮮国王よりご来訪の旨、すでに承っております。本日は国王の命により、礼をもってお迎えいたします。
まずは倭館にて、しかるべき手続きを取らせていただきます。」
柳川調信が秀頼に向き直り、
「権大納言様、朝鮮国王よりのご配慮にございます。以後、朝鮮の法と礼に従い、進めてまいりますれば、何卒ご理解を。」
秀頼は一歩進み、堂々とした声で応じた。
「ご丁寧なるお迎え、かたじけなく存じます。過日の戦乱により貴国に多大なご迷惑をおかけしたこと、余より深くお詫び申し上げます。今は和をもって新たな時代を開くため、海を渡った次第。
どうか、両国が手を携え、平和を築くことができますよう、誠心誠意努める所存にございます。」
東莱府使は秀頼の言葉を静かに受け止め、
「そのお心、しかと承りました。
以後、朝鮮の法と礼に従っていただきますが、我らもまた、誠意をもっておもてなし申し上げます。」
そのやりとりを見守っていた朝鮮側の接待役は、心の中で驚きを隠せなかった。
『……この松平権大納言、あの猿の息子とは到底思えぬ。言葉も態度も、まことに立派なものだ。』
秀頼一行は、威厳ある行列を組み、釜山の倭館へと向かった。
初夏の青空の下、日本と朝鮮、二つの国の歴史が、いま新たな一歩を踏み出そうとしていた。
釜山を発った秀頼一行の行列は、初夏の陽射しの下、緑濃い田畑の間をゆっくりと進んだ。
道端には麦や稲が青々と伸び、畦道には紫陽花や野の花が咲き誇っている。
遠くには山並みが霞み、川沿いには水車が回る音が静かに響いていた。
村々を通るたび、農民たちが鍬を止めて行列を見送り、子供たちは遠巻きに、あるいは好奇心に駆られて近くまで駆け寄ってきた。
秀頼は馬を止め、畑の様子をしばし眺める。
「よく手入れされた田であるな。皆、よく働いておる。」
農民の一人が恐る恐る頭を下げると、秀頼は穏やかに声をかけた。
「暑い中、ご苦労である。作柄はいかがか。」
農民は驚きつつも、
「はい、おかげさまで今年は水も豊かに、麦も稲もよく育っております」と、
素朴な笑顔を見せた。
その様子を見ていた内記が、
「殿、民の暮らしも、こうして少しずつ戻ってきておりますな」としみじみ呟く。
行列の脇に集まった子供たちに、秀頼は懐から小さな包みを取り出し、
「これを皆で分けて食べよ」と、金平糖や干し果物を手渡した。
子供たちは目を輝かせて「カムサハムニダ!」と礼を言い、その様子に勝家も思わず笑みをこぼす。
「拙者、こうして異国の子らと触れ合うのは初めてにございます。皆、素直で愛らしいものですな。」
明石全登は、村の古い石垣や焼け跡を見つめながら、
「この辺りも、かつては戦火に包まれておりましたが……今はこうして、子らの笑顔が戻っているのは何よりにございます」と、
静かに語った。
道中の邑城では、地方官僚が宴席を設け、
「この地も、かつては戦火に焼かれ、多くの者が家族を失いました」と、
遠回しに過去の悲劇を語ることもあった。
秀頼はそのたびに、深く頭を下げ、
「日本の非、余より深くお詫び申し上げます。
その悲劇を二度と繰り返さぬため、余はこの地を訪れたのです」と、
誠意をもって応えた。
日の光の下、秀頼一行は、戦争の記憶と和解への願いを胸に、村々の人々と触れ合いながら、ゆっくりと漢城への道を進んでいった。
漢江の水面にきらめき、遠くに南山の緑が霞む中、秀頼一行の行列はついに漢城の城門へとたどり着いた。
都の大路には、色とりどりの衣をまとった役人や兵士、見物の民衆が集まり、異国からの使節団を一目見ようと、ざわめきが広がっていた。
城門前には、朝鮮王朝の高官――礼曹判書・李徳馨が、深紅の官服に身を包み、銀糸の帯を締め、家臣たちを従えて整然と並んでいた。
李徳馨は、文官らしい穏やかながらも威厳ある佇まいで、その眼差しには長年の政務で培われた洞察と、外交の重責を担う覚悟が宿っている。
李徳馨は、通訳を介して秀頼に恭しく頭を下げる。
「松平権大納言殿、遠路はるばるのご来訪、朝鮮国王より厚くお迎え申し上げます。
王命により、これより王宮までご案内いたします。」
その声は柔らかくも、言葉の端々に格式と慎重さがにじむ。
彼は秀頼の一行をじっと見つめ、
『この使節、噂に聞くよりもはるかに威厳と誠意を感じさせる……』
と、心の内で静かに評価していた。
秀頼は家臣たちとともに深く一礼し、
「ご丁寧なるお迎え、かたじけなく存じます。
余もまた、両国の和を願い、この地に参りました。」
行列は、李徳馨の先導で都の大路を進む。
沿道には市井の人々が集まり、
「これが日ノ本の大名か」とささやき合いながら、威厳ある日本の使節団を見送っていた。
王宮の門が近づくにつれ、鼓手や楽人が雅楽を奏で、都の空気は一層厳かさを増していく。
秀頼は、陽射しの中、新たな時代の扉がいま静かに開かれるのを、胸の奥で確かに感じていた。
漢城の王宮、正殿前。
陽射しが白い石畳に反射し、宮殿の屋根瓦が青空に映えている。
秀頼一行は、朝鮮側の高官や通訳に導かれ、整然とした行列を組んで正殿の前に進み出た。
正殿の広場には、色鮮やかな官服をまとった文武百官が左右に並び、長い槍や戟を持った儀仗兵が、青と赤の礼服に身を包み、一糸乱れぬ姿勢で控えている。
彼らの甲冑や武具は磨き上げられ、陽光を受けて鈍く光っていた。
左右の壇上には、楽人たちが並び、笙や太鼓、琴、横笛などを手に、王の登場を待ち構えている。
その手元には、すでに静かな緊張が漂っていた。
やがて、正殿奥の高い扉がゆっくりと開かれる。
まず、金色の飾りをつけた扇を持つ内侍が静かに進み出る。
その後ろから、深紅の龍袍をまとい、冠に玉をいただいた国王・光海君が現れる。
王の衣には五爪の龍が刺繍され、歩みはゆっくりと、玉座へと向かう。
その瞬間、楽人たちが一斉に雅楽を奏で始め、太鼓の低い響きと笛の澄んだ音色が、正殿全体に厳粛な空気をもたらした。
文武百官は一斉に膝をつき、頭を深く垂れる。
儀仗兵は槍や戟を胸の前で直立させ、息をひそめて王の動きを見守る。
内侍や女官たちも静かに頭を下げ、その場にいるすべての者が、王の一挙手一投足に意識を集中させていた。
日本使節団も、所定の位置で深く礼を尽くし、秀頼は静かに頭を垂れたまま、玉座に進む王の気配と、場を満たす威厳を全身で感じ取っていた。
光海君の歩みはゆっくりと、玉座へと向かう。その静かな足音が石畳に響き、正殿の空気が一層張り詰めていく。
光海君の表情は、静かでありながらもどこか鋭さを帯びていた。その眼差しは、遠くからの使節を迎える慎重さと、国を背負う者としての威厳を湛えている。
唇はきゅっと結ばれ、顔には余計な感情を浮かべず、ただ玉座へとまっすぐに歩みを進める。
王が玉座に腰を下ろすと、一瞬だけ周囲を見渡し、百官や使節団の礼を静かに受け止め、そのまなざしには、相手の真意を見極めようとする冷静さと、この場の重みを深く理解する覚悟が宿っていた。
光海君はしばし静かに場を見渡したのち、低く、しかしよく通る声で言葉を発した。
通訳がその言葉を日本語に訳して秀頼に伝える。
「松平権大納言殿、遠路はるばる我が朝鮮の都までお越しくださったこと、王命により厚くもてなすよう命じている。
そなたの来意、まずはこの場で聞かせていただきたい。」
秀頼は深く頭を下げ、静かに、しかし誇りを持った声で応じた。
「この度は、過日の戦乱により貴国に多大なご迷惑とご苦労をおかけしたこと、日ノ本を代表し、余より深くお詫び申し上げます。
今は和をもって新たな時代を開くため、海を渡りこの地に参りました。
日ノ本と朝鮮が、互いに手を携え、平和を築くことができますよう、誠心誠意努める所存にございます。」
光海君は、わずかに眉を動かし、秀頼の一行をじっと見つめることなく、視線をやや下げて考え込む。
その横顔には、長年の政務で鍛えられた慎重さと、国を背負う者としての重圧がにじんでいる。
やがて王は、静かに口を開いた。その声は低く、しかしよく通る。
「日ノ本の権大納言殿、貴殿の言葉、しかと聞き届けた。
過去の戦乱は、我が国に深い傷を残したが、今こうして貴殿自らが和を求めてこの地を訪れたこと、その誠意を我が朝鮮も重く受け止める。」
王の表情は依然として厳しく、感情を大きく表に出すことはない。だが、その声には、相手の真意を見極めようとする冷静さと、新たな時代への期待が、かすかに滲んでいた。
「我が国もまた、民の安寧と国の泰平を何よりも願う。今後の交わりにおいて、互いに礼を尽くし、信を重んじることを望む。」
秀頼は、王の言葉を受けてさらに一歩踏み込み、
深く頭を下げて願いを述べた。
「聖上、余よりもう一つ、お願いがございます。
日ノ本は、過日の戦乱により明国との信義も損なってしまいました。
今、余は明国との関係も改めて修復し、四海の安寧と和を実現したいと願っております。
つきましては、朝鮮国王様より、余が誠心誠意、和を求めて明国を訪れることを、一言お取り成しいただければ、これほど心強いことはございません。」
王はしばし沈黙し、秀頼の言葉の重みを静かに受け止めていた。やがて、ゆっくりと顔を上げ、通訳を介して言葉を紡ぐ。
「松平権大納言殿の願い、しかと承った。過去の戦乱は、我が国にも明国にも深い傷を残したが、今こうして貴殿自らが和を求め、誠意をもってこの地を訪れたこと、我が朝鮮も重く受け止めている。
明国との和を望む貴殿の志、我が国王としても共感するところである。我が朝鮮より、貴殿の誠意と和の願いを明国に伝えること、やぶさかではない。ただし、明国の礼法と国情もまた複雑にして厳しきもの。
貴殿が今後も礼を尽くし、信を重んじるならば、我が国もまた、できうる限りの助力を惜しまぬ所存である。」
王の声には、慎重な信頼と新たな時代への希望が静かに込められていた。
正殿には、静かな緊張と、歴史の重みが満ちていた。
謁見の後、控えの間にて。
李徳馨は、深紅の官服の袖を静かに整えながら、秀頼の前に座した。
その顔には、長年の政務で鍛えられた慎重さと、どこか苦悩の色が浮かんでいる。
「権大納言様――」
李徳馨は一度、言葉を切り、秀頼の目を見ずに、やや伏し目がちに続けた。
「実は、今年の初めより北方にて大きな動きがございました。
明国の属民であったヌルハチがついに兵を挙げ、明国に矛先を向けております。その勢いは想像以上に激しく、明国の北辺は今や戦火に包まれております。
さらに、ヌルハチの軍勢は我が朝鮮にも圧力を強めており、国境の守りも苦しい状況です。」
李徳馨は、言葉を選びながら、秀頼の反応をそっとうかがった。
その声には、国を背負う者としての重みと、外交官としての誠実さがにじんでいる。
「このため、陸路で明国へ向かうのは今は叶いませぬ。王命により、権大納言様には海路で明国へ向かっていただくこととなりました。」
秀頼は、驚きと戸惑いを隠せず、しばし沈黙した。やがて、静かに息を吐き、深く頷いた。
「そのような大事が起きていようとは……。
余も年始に北方で反乱があったと聞き及んでおりましたが、まさかこれほどの勢いとは思いもよりませなんだ。
ただの反賊の騒ぎとばかり考えておりましたが、これほど事態が悪化していようとは……。」
秀頼は、李徳馨の表情に浮かぶ苦悩を見て、
『これは早めに平和になればよいが……
戦火が広がれば、日ノ本も決して無縁ではない』
と、胸の奥で静かに思った。
李徳馨は、秀頼の誠意を静かに受け止め、
「情勢は日々変わっております。どうか、くれぐれもご油断なきよう。」
と、やや声を落として言った。
秀頼は改めて事の重大さを胸に刻み、
「ご忠告、かたじけなく存じます。余も、いよいよ覚悟を新たにいたします。」
と、静かに応じた。
控えの間には、初夏の光が静かに差し込み、二人の間に、国を背負う者同士の重い沈黙が流れていた。
陽射しが仁川の港の水面にきらめき、秀頼一行を乗せる船が静かに出航の時を待っていた。
港には朝鮮の高官や通訳、見送りの役人たちが整然と並び、その手には朝鮮国王から託された国書がしっかりと握られている。
李徳馨が最後の言葉をかける。
「権大納言様、どうかご無事で。
この国書には、我が国王の誠意と、貴殿の和を求める心を記しました。明国の地にて、必ずや良き道が開かれますよう。」
秀頼は深く頭を下げ、
「ご厚情、かたじけなく存じます。」
船に乗り込む直前、秀頼は仁川の港の風景を静かに見渡した。
『余は、必ず父上の過ちを繰り返さぬ。
日ノ本に平穏をもたらすため、この身を賭してでも和を結ぶ。
この国書は、ただの紙ではない。日ノ本と朝鮮、そして明国の未来をつなぐ、重き誓いそのものだ。』
家臣たちも、緊張と期待の入り混じった面持ちで船に乗り込む。内記は「殿、いよいよでございますな」と静かに声をかけ、
勝家は「この旅路、必ずや無事に果たしましょう」と力強く頷く。
全登は港の空と海を見つめ、「この地を再び平和の港とせねばなりませぬ」と心の中で誓っていた。
船がゆっくりと仁川の港を離れ、秀頼は国書を胸に抱き、新たな決意とともに明国への航路へと漕ぎ出していった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この章では、釜山から漢城までの道中や王宮での謁見、朝鮮の人々との交流を描きました。
次章では、いよいよ明国への航路が始まります。
これからも秀頼一行の歩みを見守っていただければ幸いです。




