第十九章 新しい時代の開き
静かな季節の移ろいの中で、登場人物たちの心にも新たな波が広がります。
旅路の空気や、遠くから届くかすかな変化――
物語の節目となる章を、どうぞゆっくりとお楽しみください。
江戸城の広間には、冬の夜を彩る灯りと、諸大名の華やかな衣装が集う。
秀頼は、千姫、和姫とともに、徳川家の厚遇のもと格式ある席に列していた。
その席に、最上家当主・最上義親が静かに進み出る。
義親は正装の裾を正し、秀頼の前で深く一礼した。
「秀頼公、この度は、亡き姉上・駒姫の供養に格別のご配慮を賜り、まことに忝く存じます。先祖も、きっと安らかに眠っておりましょう。」
秀頼は、若き当主らしい初々しさを残しつつも、誠実な眼差しで義親を見つめ、丁寧に応じる。
「最上殿のご心痛、拙者も胸に沁みております。
この江戸の地で、こうしてご挨拶いただけること、何よりの喜びにございます。」
義親は、秀頼の率直な言葉にわずかに目を細め、柔らかな声で続けた。
「秀頼公のご誠意、最上家一同、深く感謝しております。これからも、どうか変わらぬご交誼を賜りたく存じます。」
秀頼は静かに頷き、杯を差し出した。
「こちらこそ、末永くよろしくお願い申し上げます。」
義親は杯を受け取り、和やかな空気が二人の間に流れた。
一方、広間の一角では、幸昌が若き武士たちと談笑していた。
その輪の中に、伊達政宗が現れる。政宗は幸昌の前に進み、鋭い眼差しで見据えた。
「そなたが左衛門佐殿の嫡男、幸昌か。江戸での働き、耳にしておる。」
幸昌は緊張しつつも、礼を正して応じる。
「はっ、伊達殿にお目にかかり、光栄にございます。」
政宗は杯を掲げ、にやりと笑った。
「そなたと我が家は、縁組によって新たな絆ができた。お東は、婚姻に際して我が家の養女となったが、これは武家の慣例に過ぎぬ。縁というものは形だけではなく、心が大切だ。
幸昌、あの娘をどうか大切にしてやってほしい。
そして、真田の名に恥じぬよう、これからも江戸で存分に力を振るってくれ。若い者が新しい時代を切り開く――それがこの江戸の面白さよ。」
幸昌はその言葉に深く頭を下げ、力強く答えた。
「身に余るお言葉、ありがたく頂戴いたします。
お東のこと、必ずや大切にいたします。伊達家とのご縁を胸に、精進してまいります。」
政宗は満足げに頷き、杯を干した。
その場には、家同士の新たな絆と、若者たちの未来への希望が静かに広がっていく。
宴もたけなわの頃、秀忠は静かに席を立ち、秀頼に目配せをした。
「秀頼公、少し話がある。こちらへ。」
秀頼は緊張した面持ちで秀忠の後について、奥の控えの間へと進む。
障子越しに灯りが揺れる静かな空間で、秀忠は穏やかに口を開いた。
「今年は、転封や大坂城の普請――さぞ骨の折れる一年であったろう。」
秀頼は深く頭を下げる。
「はっ、将軍家のご配慮のおかげにて、何とか務めを果たすことができました。
大坂城の普請も、家中一同、力を尽くして取り組んでおります。」
秀忠は頷き、秀頼の若さを見つめる。
「そなたの働き、父上もよく見ておられる。大坂の地を離れ、新たな国を治めること――容易なことではなかったはずだ。
だが、そなたが泰平のために尽くしてくれること、我ら徳川家も大いに頼みにしている。」
秀頼は、少し戸惑いながらも、真摯な眼差しで応じる。
「身に余るお言葉、痛み入ります。これからも、天下泰平のため、微力ながら力を尽くす所存にございます。」
秀忠は柔らかく微笑み、杯を差し出した。
「来年も、変わらず頼むぞ。そなたのような若き力が、この国の未来を支えるのだ。」
秀頼は杯を受け取り、静かに頭を下げた。
「はっ、将軍家のご期待、決して裏切りませぬ。」
二人は杯を交わし、静かな決意がその場に満ちた。
宴が終わり、江戸城の静かな接客の間。
障子越しの灯りが、畳に淡い影を落としている。
お江は、秀頼が入ってくるのを静かに待っていた。
「秀頼、今宵は少し、お話ししたく存じます。」
お江の声に、秀頼は膝を正し、深く頭を下げる。
「御台様、私などにお声がけいただき、恐れ入ります。」
お江は、しばし言葉を選ぶように目を伏せ、やがて静かに語り始めた。
「まずは、姉上のこと。姉上が、どれほど苦しみ、心中をも覚悟していたか、妹として痛いほど分かっておりました。それを、秀頼様が止めてくださった。姉上が今も生きているのは、あなた様のおかげにございます。」
秀頼は、静かに首を振る。
「御台様、母は私にとって唯一の母にございます。どれほど苦しみ、時に道を違えようとも、子として母を死なせることなど、決してできませぬ。」
お江は、そっと微笑みを浮かべて続ける。
「そして、千のこと。あの子が、これほど穏やかな顔で日々を過ごせるのは、秀頼のおかげにございます。母として、これほどありがたいことはございません。」
秀頼は、千姫のことを思い浮かべ、柔らかな声で応じた。
「お千は、私にとって妻であると同時に、幼き頃より妹のように大切に思う者にございます。彼女を悲しませることは、私自身の心を裂くに等しゅうございます。
ゆえに、お千のためにも、家族のためにも、私はこの世の安寧を守らねばならぬと、強く思っております。」
お江は、秀頼の言葉に静かに頷き、さらに言葉を重ねた。
「また、秀頼様が幕府の安定のために尽くしてくださったこと――
転封も、大坂城の普請も、決して容易なことではなかったでしょう。それでも、天下泰平のために力を尽くしてくださった。徳川家の一員として、心より感謝しております。」
秀頼は、謙虚に首を振った。
「御台様、私がしたことは、すべて家族を守るためにございます。母を守り、千を守るためには、徳川家の安定が何よりも大切と存じております。
それが、私に与えられた務めと信じております。」
お江は、秀頼をまっすぐに見つめ、誇りを込めて語った。
「あなた様のような方が、私の婿であり、甥であること――
私は、これを心から誇りに思っております。」
秀頼は、しばし言葉を失い、やがて深く頭を下げた。
「御台様、そのように仰せいただき、身に余る光栄にございます。これからも、千と家族、そして天下のため、力を尽くしてまいります。」
お江は静かに微笑み、
「どうか、これからも千を、そして皆を、よろしくお願いいたします。」
と、優しく言葉を結んだ。
障子の外には、冬の夜風が静かに吹き、
二人の間には、家族としての温かな絆と、未来への静かな決意が満ちていた。
数日後の朝、江戸の空は澄み渡り、冬の冷気が張り詰めていた。
秀頼は千姫、和姫、そして家族や家臣たちを伴い、帰路につく支度を整えていた。
屋敷の門前には、すでに馬や輿が並び、家臣たちが静かに控えている。
その門口に、秀忠とお江が自ら姿を現した。
秀忠は威厳を湛えつつも、どこか柔らかな眼差しで秀頼に歩み寄る。
「秀頼公、遠路ご苦労であった。この江戸での務め、よく果たしてくれた。これよりの道中、くれぐれも気をつけて参られよ。」
秀頼は深く頭を下げ、武家らしい慎みをもって応じる。
「はっ、将軍家のご厚情、身に余る光栄にございます。御台様にも、何かとお世話になり、心より御礼申し上げます。」
お江は、千姫のもとへと歩み寄り、そっと娘の手を取った。
千姫は母の前に膝をつき、静かに頭を下げる。
「母上、長らくご無沙汰いたしました。このたびは、何から何までお世話になり、ありがたく存じます。」
お江は、娘の手を包み込み、優しく微笑んだ。
「千、お前がこうして幸せそうな顔でいること、母は何より嬉しく思うております。これからも、秀頼様と力を合わせ、家を守り、子を育てていくのですよ。」
千姫は、母の温もりに目を潤ませながら、しっかりと頷いた。
「はい、母上。必ずや、御心に背かぬよう努めてまいります。」
お江は、和姫の小さな手をそっと撫で、孫の成長を祈るように目を細めた。
「和も、どうか健やかに。
また江戸に戻る日を、母は楽しみに待っております。」
秀忠は、秀頼にもう一度目を向け、
「これよりも、徳川と松平の絆を大切に、共に泰平の世を築いて参ろう。」
と、静かに言葉を結んだ。
秀頼は、家族と家臣を振り返り、
「皆、参るぞ。」
と声をかける。
門前には、見送りの家臣や女中たちが静かに頭を下げている。
千姫は最後にもう一度、母の手を握りしめ、
「母上、どうかご自愛くださいますよう。」
と、名残惜しげに言葉を残した。
お江は、娘の背をそっと押し、
「千、迷うことがあれば、いつでも母を頼りなさい。」
と、静かに送り出した。
やがて、秀頼一行は馬や輿に乗り込み、江戸の町を後にした。
冬の朝日が、旅立つ一行の背を照らし、
門前には、家族の絆と新たな決意が静かに残されていた。
旅の帰路、秀頼一行は再び駿府城に立ち寄った。
新年を迎えたばかりの冬の朝、書院には凛とした空気が漂っている。
家康は静かに秀頼を迎え入れた。
家康は秀頼の顔を見て、穏やかに微笑む。
「秀頼、江戸での務め、ご苦労であった。道中、変わりはなかったか。」
秀頼は深く頭を下げ、慎みをもって答える。
「はっ、大御所様。江戸では将軍家、御台様より過分なるご厚情を賜り、
千も和も、安らかに日々を過ごすことができました。
また、諸大名との交わりも多く、得難き経験となりました。」
家康は満足げに頷き、杯を手に取る。
「それは何より。昨年は転封や大坂城の普請、何かと骨の折れる年であったな。
だが、今年よりは、いよいよ武家諸法度を発令し、諸侯の規律を正し、天下泰平の礎とする所存である。」
秀頼は、家康の言葉に静かに頷き、意を決して口を開いた。
「大御所様、先般は外交の大役をお任せいただき、誠に痛み入ります。
帰国の後は、早速明国との交渉に着手する所存にございます。
具体には、かつて父・秀吉が“日本国王”の称号を受け、戦を起こしたこと――
その過ちを明国に対し明確に詫び、拙者は“日本国王”の称号を返上し、戦を起こした秀吉の子として、今の日ノ本は平和な貿易に専念する国であると、誠心誠意伝えるつもりにございます。」
家康は、秀頼の言葉をじっと聞き、しばし沈黙した後、静かに微笑んだ。
「……そなたがそこまで考えておるとは、頼もしい限りよ。戦の世は終わった。これからは、理と信の時代ぞ。
秀頼、その志、余も大いに期待しておる。明国との交わり、そなたに一任する。日ノ本の名を正しき道に戻してくれ。」
秀頼は深く頭を下げ、決意を新たにした。
「はっ、必ずや大御所様のご期待に応え、日ノ本の安寧と、天下泰平のために尽力いたします。」
障子越しに冬の光が差し、二人の間には、時代の転換を告げる静かな決意が満ちていた。
その頃、遥か大陸の北方にも、静かに歴史の歯車が動き始めていた。
雪解けの気配がまだ遠い、広大な森と川の地。
女真の諸部族が赫図阿拉の集落に集まっていた。
焚き火の煙が空に昇り、馬の蹄の音が凍てついた大地に響く。
その中央、ヌルハチが静かに立つ。
長い歳月をかけて女真諸部族をまとめ上げた彼は、
集まった首長たちを前に、ゆっくりと口を開いた。
「これより我らは、大金と名乗る。明の命に従うだけの時代は、今ここで終わる。
我らの道は、我ら自身で切り開くのだ。」
その言葉に、年老いた首長も、若い戦士も、誰もが静かに頷いた。
女真の民は、長い間、明の冊封体制のもとで生きてきた。
だが今、ヌルハチのもとに諸部族がまとまり、新たな国の名が、焚き火の煙とともに夜空へと立ち昇っていく。
やがて、この異変の報は、北京の紫禁城にも届いた。
だが、都の空気はどこか緩慢だった。
万暦帝は政務をほとんど顧みず、寵愛する鄭貴妃とその子を皇太子にしようと、「国本之争」と呼ばれる宮廷内の争いに心を奪われていた。
この日も、広間には王皇后の側近や鄭貴妃の取り巻き、東林党の官僚たちが集まり、「皇儲は誰にすべきか」と激しく論じていた。
そこへ、宦官がそっと報告書を差し出す。
「陛下、遼東の女真が“大金”と称し、国を興したとの報が――」
だが、万暦帝は広間には姿を見せず、奥の私室で鄭貴妃と静かに過ごしていた。
宦官が報告を伝えても、
「夷狄のことなど、あいつらの好きにさせておけ」と、手を振って一蹴するだけだった。
広間では、王皇后派と鄭貴妃派の官僚たちが、「皇儲の件こそ急務」「辺境の騒ぎなど後回しだ」と、互いに譲らず、女真の動きなど誰も本気で気に留めていなかった。
こうして、北方の新たな国の誕生は、宮廷の片隅に記録されるだけで、誰の心にも深く留まることはなかった。
この時、秀頼もまた、遠い北の地で始まった新たな物語が、やがて自らの運命に影を落とすことを、まだ知る由もなかった。
焚き火の煙とともに、新しい時代の胎動が、静かに夜空を駆けていった。
旅立ちの朝、駿府の空はどこまでも澄み渡っていた。
城の門前には、秀頼、千姫、和姫、そして家族や家臣たちが、旅支度を整えて静かに並んでいる。
冬の冷気が張り詰める中、家康は自ら門まで歩み出てきた。
家康の顔には、いつもの威厳とともに、どこか遠いものを見つめるような静けさがあった。
秀頼が深く頭を下げる。
「大御所様、長らくご厚情を賜り、誠に痛み入ります。これより帰国の途につきますが、今後とも変わらぬご指導を賜りますよう、お願い申し上げます。」
家康は静かに頷き、秀頼の肩に手を置いた。
「秀頼、道中、くれぐれも気をつけて参れ。
そなたの働き、余は常に見ておる。これからも、泰平の世を共に築いていこうぞ。」
そして、家康の視線は千姫へと移る。
千姫は母のように和姫を抱き、父祖の前に静かに膝をついた。
「祖父上、長らくお世話になりました。
このたびは、和ともども、温かくお迎えくださり、心より御礼申し上げます。」
家康はしばし千姫の顔を見つめ、その幼き日々、手を引いて歩いた庭の記憶を思い出していた。
やがて、ゆっくりと手を伸ばし、千姫の肩にそっと触れる。
「千……そなたがこうして立派に成長し、母となった姿、余は何より嬉しく思うておる。
和も、よい子に育ててくれ。
……また会える日を、楽しみにしておるぞ。」
その声は、どこか柔らかく、そしてほんの少しだけ、言葉の奥に名残惜しさが滲んでいた。
千姫は、祖父の手の温もりを胸に刻み、静かに頷いた。
その瞬間、胸の奥に、言葉にできぬ寂しさが広がる。
幼い頃、祖父の膝の上で聞いた昔話、手を引かれて歩いた庭の感触――
すべてが遠い日の光のように思い出される。
今はもう、母となり、妻となり、家を守る立場になった自分。
けれど、祖父の前では、ふと少女の心に戻る自分がいる。
「はい、祖父上。どうか、いつまでもお健やかに。」
家康は、千姫の手をしっかりと握りしめる。
その手を離すとき、彼の目はしばし千姫の姿を追い、まるで何かを心に刻みつけるように、じっと見送っていた。
千姫は、祖父の視線の重さに気づきながらも、それが別れの予感であることを、どこかで感じていた。
「これが、もう二度と会えぬ日なのかもしれない」
そんな思いが、胸の奥で静かに疼く。
けれど、涙は見せまいと、和姫をしっかりと抱きしめ、祖父の姿を心に焼き付けるように、深く一礼した。
やがて、秀頼が家族と家臣に声をかける。
「皆、参るぞ。」
門前には、見送りの家臣や女中たちが静かに頭を下げている。
千姫は最後にもう一度、家康の方を振り返り、
その姿を心に焼き付けるように、深く一礼した。
家康は、去りゆく一行の背を、いつまでも見送っていた。
冬の朝日が、旅立つ一行の背を静かに照らし、
門前には、家族の絆と、老将の胸に残る淡い未練が、静かに漂っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
江戸での宴、駿府での再会と別れ、そして遠い地で始まる新たな動き――
家族や仲間との絆、時代の転換点を描きました。
次章では、日常の中に芽生える新しい希望と、さらなる大きな決断が待っています。
これからもよろしくお願いいたします。




