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第十八章

 駿府城の大手門が夕陽に染まり、秀頼一行が到着した。門前には本多正純と供の者が控え、正純が一歩前に進み出る。


「秀頼公、ご到着、まことにご苦労にございます。大御所様は広間にてお待ちです。」

 秀頼は軽く頷き、千姫と千代姫を振り返った。千姫は侍女に囲まれ、金糸をあしらった輿に静かに座している。千代姫は母の腕に抱かれ、白絹の小袖に包まれていた。輿の簾越しに見える千姫の横顔は、緊張と誇りを帯びている。


 城門が静かに開かれ、石畳を踏みしめる足音が夕暮れの空気に溶けていく。廊下に入ると、障子越しに灯された行灯が淡い光を放ち、静謐な空気が漂う。足音だけが響き、家臣たちは息を潜めていた。


 やがて広間の前に到着すると、正純が深く一礼する。

「こちらでございます。」

 輿の簾が上げられ、千姫が静かに降り立つ。千代姫を抱き直し、衣の裾を整えると、秀頼の隣に並んだ。二人は広間へと進み、畳の上に膝をついた。

 奥には家康が正座していた。老将の眼差しは鋭くも、どこか柔らかな光を帯びている。秀頼は深く頭を下げる。

「大御所様にお目にかかり、光栄にございます。」

 家康は短く頷き、視線を千姫に移した。

「千か……久しいな。」


 千姫は千代姫を抱き、静かに一礼する。家康はその小さな顔をじっと見つめ、口元に穏やかな笑みを浮かべた。

「……これが千代か。太閤殿下の血が、こうして我が家に入るとは……世の巡り合わせとは、まことに不思議なものよ。」

 その言葉には、歴史を背負った者だけが抱く重みがあった。家康は千代姫の小さな顔を見つめ、静かに続ける。

「この子が生きる世が、争いなき世であるように……それが余の願いだ。」

 千姫は微笑みながら答える。

「祖父上、千代は健やかに育っております。どうぞご安心くださいませ。」


 家康は千姫をじっと見つめ、声を和らげた。

「千……幼かったそなたが、今や母となったか。あの頃は、余の膝で遊んでおったものよ。」

 千姫は頬を染め、静かに笑う。

「はい……あの頃が懐かしゅうございます。」

 家康はしばし昔話を語り、千姫の成長を喜んだ。



 やがて正純が促し、千姫は千代姫を抱いたまま侍女とともに宿へ向かった。

 広間には秀頼と家康、そして正純だけが残る。家康は立ち上がり、秀頼を奥の書斎へと案内した。


 障子を開けると、机の上には筆と硯、そして半ばまで書き進められた経文が置かれている。墨の香りが静かな空気に漂っていた。

 秀頼は目を留め、静かに問いかけた。

「大御所様……お経を筆写されているのですか。」

 家康は柔らかな笑みを浮かべる。

「そうだ。これは、天下泰平のために命を落とした者たちへの供養よ。そなたの決断がなければ、もっと多くの血が流れていた。余は……それに耐えられぬ。」

 家康の声がわずかに震えた。老いた将軍の胸の奥に潜む疲労と悔恨が、言葉の端に滲む。

「秀頼公、そなたが果断に動いたことで、余は救われた。戦で命を失う者を、もう見たくはない。」

 秀頼は深く頭を下げ、静かに答えた。

「大御所様のご苦労、察するに余りあります。私も、同じ思いでございます。」


 家康はしばし黙し、やがて声を上げた。

「そなたが天下普請を申し出たとき、余は驚いた。あれはただの土木ではない。諸侯を一つに束ね、力を削ぎ、秩序を築くための策よ。それを見抜いていたのだな。」


 秀頼は静かに微笑む。

「左様にございます。城を築くことは、力を誇るためではなく、天下の安定を示すため。西国の諸侯も、共に汗を流せば、心は一つになりましょう。」

 家康の眼差しが鋭く光る。

「よくぞそこまで見抜いた。そなたは、ただの若造ではないな。」


 家康は声を落とした。

「秀頼公、余は武家諸法度を定めるつもりだ。諸侯の私曲を防ぎ、泰平を保つための掟よ。」

 秀頼は即座に答えた。

「賛成仕る。我が家が存続する限り、西国の安定を維持してみせます。必ずや力を尽くしましょう。」

 家康は満足げに頷き、さらに言葉を重ねる。

「朝廷との折衝――その中間を担う役目、そなたに任せたい。」


 秀頼は深く頭を下げた。

「承知仕った。徳川と朝廷の間に立ち、調和を保つこと、必ずや果たしてみせます。」

 秀頼はさらに言葉を続けた。

「加えて、拙者には心残りがございます。父・秀吉が明国に戦端を開き、日ノ本の外交を破壊したこと……その傷を癒し、関係を修復したい。牢人どもを使い、海上の海賊を収め、早々に貿易を再開させる所存にございます。」

 家康は目を細め、深く頷いた。

「……よくぞ申した。余も以前、明国に申し出たが、中々進展がなかった。そなたがその役を担うなら、幕府としても力を貸そう。」

 秀頼は静かに頭を下げる。

「ありがたき幸せ。必ずや、日ノ本の名を正しき道に戻してみせます。」

 家康の眼差しは、満足と期待を込めて秀頼を見つめていた。

「そなたの志、余は喜ぶ。戦でなく、交わりで国を治める――それこそ、泰平の証よ。」



 駿府での面会を終えた後、秀頼一行は数日間、城下の屋敷に滞在した。千姫はその間、祖父・家康のもとを何度か訪れ、昔話に花を咲かせた。幼き頃、駿府で過ごした記憶が甦り、家康の穏やかな笑みを見るたび、胸の奥に温かなものが込み上げる。

 しかし、別れの日が近づくにつれ、千姫の心は揺れた。――このまま、祖父の庇護のもとに留まりたい。そう思う瞬間もあった。だが、彼女は秀頼の妻であり、松平家の女である。役目を果たさねばならぬ。


 出立の前夜、千姫は一人、障子越しに差し込む灯りを見つめながら、静かに唇を結んだ。

(私は、武家の女。情に流されてはならぬ。秀頼様と共に歩む――それが私の道。)


 翌朝、駿府城の門前に輿が据えられた。千姫は千代姫を抱き、秀頼の背を見つめる。家康は門まで見送りに出てきた。老将の眼差しは、孫娘への惜別と、天下を担う若き夫婦への期待を湛えていた。

「千、達者でな。」

「はい……祖父上も、どうかお健やかに。」

 千姫は深く頭を下げ、涙をこらえた。家康は秀頼に視線を移し、静かに言う。

「秀頼公、そなたに託したこと、忘れるな。」

「心得ております。」

 秀頼は力強く答え、輿が動き出した。駿府の城門が遠ざかる。千姫は簾越しに最後の一瞥を送り、心の奥で決意を固めた。

(もう迷わぬ。私は、秀頼様と共に――)



 数日後、江戸の町並みが視界に広がった。広大な城郭、白壁の天守が冬空にそびえ立つ。秀頼は馬上で息を整え、千姫の輿が後に続く。江戸城の大手門前には、将軍・秀忠とお江が待っていた。家臣たちが整列し、緊張と格式の空気が張り詰める。

「いよいよ、江戸か。」

 秀頼は低く呟き、視線を前へ向けた。千姫は輿の中で千代姫を抱き、胸の鼓動を感じていた。祖父との別れを胸に秘め、彼女は武家の女としての顔を整えた。

 輿の簾が上がると、江戸城の広間へと続く長い道が待っていた――新たな時代の幕開けを告げる道である。


 お江の顔を見た瞬間、千姫の胸に複雑な思いが走った。――久方ぶりに見る母は、以前よりも年を重ね、頬の線はわずかに細り、髪には白いものが混じっている。その変化に、千姫は胸が締め付けられた。

(母上も、時を重ねてこられたのだ……)

 だが同時に、千姫の心には誇りが湧き上がった。――自分は今、秀頼の妻であり、松平家の女。天下を担う夫と共に歩む立場にある。その重みを、母に示さねばならぬ。

 千姫は涙をこらえ、静かに微笑んだ。

「母上、千代は健やかに育っております。」

 お江は千代姫の小さな手を取り、震える声で言った。

「この子が……千代か。なんと愛らしい……」

 千姫は母の手を握り返し、心の奥で決意を固めた。

(私は武家の女。情に流されず、務めを果たす。それが私の誇り。)

「母上、これよりは江戸にて、秀頼様と共に務めを果たしてまいります。」

 お江は娘の覚悟を感じ取り、深く頷いた。

「千……誇りに思います。」

 秀忠が柔らかな声で言った。

「千、よくぞ母となったな。これからは、共に泰平の世を築こう。」


 広間には、家族の再会を祝う温かな空気が広がった。しかし、その奥底には、武家の女としての覚悟と、天下を担う者たちの重責が静かに息づいていた。


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