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第十七章 千の風が東へ

大和郡山城に新たな命が誕生し、家族は新しい時代への一歩を踏み出す。

しかし、祝福の影には、かつての誇りを失い、静かに壊れていく者もいる――。

歴史の大きなうねりの中で、それぞれが何を守り、何を手放すのか。

「家」と「時代」の狭間で揺れる人々の姿を、どうぞ見届けてください。

 郡山城の秋は、静かに深まっていた。

 朝晩の空気はひんやりと澄み、城下の田畑は黄金色に染まっている。

 城の奥、千姫の居室には、緊張と期待が入り混じった空気が漂っていた。


「若御方様、もう少しでございます。どうか、お力をお入れくだされ」

 産婆の声が響くたび、侍女たちの手が慌ただしく動く。

 千姫は額に汗を浮かべ、苦しげに息を吐きながらも、枕元に座る秀頼の手をしっかりと握っていた。

「殿……私は、きっと……」

「お千、余はそなたを信じておる。どうか、無事に……」

 秀頼の声は震えていた。

 彼の胸の奥には、ただ家族の無事を祈る思いしかなかった。


 部屋の外では、お奈津とお藤が固唾を呑んで待っていた。

 お奈津は帯の上からそっと腹に手を当てる。お藤もまた、時折自分の体を気遣うように帯を撫でていた。

 二人とも、最近になって新しい命を授かったことを知り、静かに千姫の無事を祈っている。


 やがて、産婆の声が高らかに響いた。

「お生まれになりました!姫君にございます!」

 その瞬間、部屋の空気が一変した。

 千姫は力なく微笑み、秀頼の手を握ったまま涙をこぼす。

「殿……この子が……」

 秀頼は千姫の額にそっと手を当て、優しく微笑んだ。

「よくやった、お千……よくぞ、無事に……」

 産婆が赤子を千姫の胸元に抱かせる。

 小さな命は、かすかに泣き声を上げ、千姫の指を握った。

 千姫は涙を拭い、赤子を見つめる。

「……この子は、私と殿、そして二つの家の願いを受けて生まれてきたのですね……」


 秀頼はしばし赤子を見つめ、静かに頷いた。

「千代――この子には、千代と名付けよう。

 千の世まで、平和が続くようにと願いを込めて」

 千姫は深く頷き、赤子をそっと抱きしめた。

「千代……ようこそ、この世へ」

 外で待っていた家族にも、喜びの声が伝わった。

 お奈津は涙を浮かべて手を合わせ、お藤はそっと胸を撫で下ろす。


 その夜、城内ではささやかな祝宴が開かれた。

 秀頼は家族を前に、静かに語る。

「千代は、私たちの新しい家の希望だ。

 この子と共に、これからも皆で力を合わせて歩んでいこう」

 お奈津がそっと千姫に声をかける。

「若御方様、千代様のご誕生、まことにおめでとうございます。どうかご自愛なされてくださいませ。」

 お藤も微笑みながら続ける。

「本当におめでとうございます。千代様が健やかにお育ちになりますように。」

 千姫は二人の手を取り、優しく微笑んだ。

「ありがとう。皆で、きっと賑やかな家にいたしましょう」

 秀頼はその様子を見守りながら、静かに決意を新たにした。

「お千、この子を連れて、江戸へ参ろう。

 大御所様にも、将軍様にも、御台様にも、この子を抱いていただきたい」

 千姫は赤子を抱きしめ、力強く頷いた。

「はい、殿。私も、千代と共に、江戸へ参ります」


 秋の夜風が、郡山城の障子を静かに揺らした。

 新たな命の誕生と、家族の決意が、静かに城を包み込んでいた。



 秀頼は、千姫と千代の眠る部屋をそっと後にし、母・淀殿の居間へと向かった。

 障子の向こうには、重く沈んだ静けさが漂っている。

「母上、今しがた、娘が無事に生まれました。名は千代と申します。母子ともに、健やかにございます」


 そう告げると、淀殿はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、どこか遠くを見つめているようで、祝福の色は微塵もなかった。

「……女の子か」

「はい、母上。お千も、よく耐えてくれました」

 淀殿はしばし黙し、扇を握る手に力を込める。

 その指先が、かすかに震えていた。

「国松は、どうしておる」

「国松も、元気にしております。妹ができたと聞いて、喜んでおりました」


 淀殿は、わずかに眉をひそめ、視線を障子の外へと向けた。

「国松さえおれば、それでよい……。あの子がいれば、他には何もいらぬ……」

 その声は、どこか怯えを含んでいた。

 幸福なはずの孫の誕生さえも、淀殿の心には恐怖と不安の影を落とす。

「女の子など、いずれ嫁に出すだけ。家を継ぐのは国松だけじゃ。……国松を、決して手放してはならぬ……」


 秀頼は、母の言葉を静かに受け止めた。

 その胸の奥で、何かが静かに崩れていくのを感じる。

「母上……千代も、国松も、余にとっては等しく大切な子にございます。どうか、千代のことも見守ってやってくだされ」


 淀殿は何も答えず、ただ扇を握りしめたまま、遠くを見つめていた。

 秀頼は、母の背中を見つめながら、心の奥で静かに決意する。

『母上は、もう救えぬのかもしれぬ。だが、余は家を守らねばならぬ』

 母の葛藤と恐怖を目の当たりにしながら、

 秀頼の胸には、冷たい理が静かに灯った。

『母を救うことはできずとも、家を救うことはできる――』

 秋の夜、郡山城の奥には、祝福と孤独、そして新たな覚悟が静かに満ちていた。



 駿府城の一室。

 家康は静かに机に向かい、筆を走らせていた。


 墨の香が漂う中、老いた手で写しているのは、法華経の一節。

 戦に勝つためではなく、ただ静かに死者を弔うために筆を動かす時間は、今の家康にとって何よりの救いであった。

『……この筆で、どれほど多くの魂を供養してきたことか』

 目を閉じれば、今もまぶたの裏に、かつて断ち切った絆が蘇る。


 天正七年。織田との同盟を守り、徳川の家を存続させるために、妻・築山殿を斬らせ、長男・信康に切腹を命じた、あの酷暑の夏。

 あるいは、三方ヶ原の冬の午後。雪混じりの風の中で、武田の猛攻にさらされながら、己を逃がすために死地に残った家臣たちの顔。

 それらすべての「非情な決断」の積み重ねこそが、今のこの静かな部屋を支えている。


 そこへ、廊下を歩く衣擦れの音が響き、本多正純が静かに控えた。

「上様。大和より早馬にて報が届きました。

 松平秀頼公、千姫様の間に、女子ご誕生とのことにございます。母子ともに、健やかとのこと」

 家康は筆を止め、報せを見つめた。

 表情は動かない。だが、経文の余白を見つめる眼差しには、言葉にならぬ陰影が広がっていく。


 秀頼と千姫の子。

 自分が守り抜こうとした徳川の家が、かつて秀吉と約束した「共存」の形を、ようやく孫たちの代で成し遂げた。

 信康を失い、多くの家臣を失った。それらすべての「理不尽なまでの犠牲」の果てに、ようやく辿り着いた、戦う必要のない世代の誕生。

『すべては、この瞬間のためであったのか……』

 家康は、そっと文を閉じ、筆を置いた。

 勝者の誇りではない。ましてや、豊臣への恨みでもない。

 ただ、自分が命をかけて整えた「天下」という器の中に、ようやく次代を担う無垢な命が宿ったことへの、静かな安堵があった。


「……そうか。健やかであるか」

 声は誰にも聞こえぬほど低く、

 老いた将の胸に去来するのは、孤独な闘いの終わりと、曾孫へ託す初めての祈りだった。

 家康は再び経文に目を落とす。

 墨のにじみの向こうに、冬の淡い陽光が、静かに差し込んでいた。



 江戸城の奥、静かな書院。

 駿府から届いた家康の書状を読み終えた秀忠は、ふっと肩の力を抜き、側に控えるお江に向き直った。

「……千が無事に、女子を産んだそうだ。駿府の父上も、大層お喜びの様子であった」

 お江が、弾かれたように顔を上げる。

「まあ……。千が、母に……」

 その瞳には瞬く間に涙が溜まり、安堵の微笑みがこぼれた。

「よかった……。神仏のご加護にございますな。あの子の無事を、どれほど案じておりましたか」

 秀忠は深く頷き、窓の外の冬枯れた庭に目をやった。


 かつて、上田の城下で足止めされ、関ヶ原の戦場に遅れたあの日。その失態、その悔恨があったからこそ、自分は誰よりも泰平の維持に、そして家族の平穏に執着してきた。

 千姫を大坂へ送り、大和へ移らせたのは、すべてはその泰平を盤石にするための、父としての非情な「理」でもあった。

「千も、よくぞ務めを果たしてくれた。……千代の誕生、誠にめでたい」

 お江は、震える手で涙を拭った。

「殿。千代が江戸へ参る日には、どうか盛大に迎えてやってくださいませ。あの子が、どれほどこの日を待ち望んでいたか……」


 秀忠は妻の肩に手を置き、力強く頷いた。

「無論だ。大和の者たちが江戸へ参る折には、秀頼の格式にふさわしい、万全の支度を整えさせよう。千代の誕生は、我が家にとっても、天下にとっても大きな意味を持つ。……皆で、心より祝うのだ」

 お江は、再び静かに手を合わせ、遠い大和の空へ祈りを捧げた。

「千代が、健やかに育ちますように。そして、千も、どうか幸せでありますように……」


 江戸城の奥には、駿府の静謐とはまた異なる、家族としての熱を帯びた喜びが満ちていた。



 郡山城の大広間。千代姫誕生の一報を受け、松平家の宿老から実務を担う奉公人までが、水を打ったように静まり返り、端座していた。


 秀頼が姫の誕生を告げると、筆頭に控える信繁が、一糸乱れぬ所作で平伏した。

「殿、姫君のご誕生、誠に慶賀に存じます。これぞ家の礎、皆々、この寿ぎを胸に、いよいよ忠勤に励む所存にございます」

 信繁の声に合わせ、並み居る家臣たちが地鳴りのような唱和を響かせた。

「おめでとう存じます!」

 その声には、単なる慶祝を超え、大和に移って初めて得た「正統な血」への安堵と、この家を守り抜くという猛々しいまでの覚悟が籠もっていた。

 秀頼は家臣たちの面面をゆっくりと見渡す。

「礼を申す。千代の誕生は、我が家が徳川と、そしてこの大和の地と結ばれた証。この命の重みを皆が分かち、泰平の先駆けとなることを切に願う」


 秀頼は言葉を切り、まず信繁に向き直った。

「左衛門佐殿。余が江戸へ参る間、城のすべてを其方に託す。……母上と大野のこと、頼んだぞ。あれらもまた、我が家の一部である」

 信繁は拳を畳に沈めるほど深く頭を下げ、低く、しかし熱の籠もった声で応じた。

「ははっ。殿の御留守、この左衛門佐が命に代えても。家中、寸分の揺らぎも出さぬよう、心して務めまする」

 秀頼は次に、その隣に座す勝永へ視線を移す。

「摂津守殿。治安と防衛を一任する。万一の備え、怠るな」

 勝永は鋭い眼光を宿したまま、岩のように微動だにせず答えた。

「承知仕りました。大和の山河、一木一草たりとも外敵に触れさせぬよう、厳命を下しおきます」

 実務を担う者たちへも、次々に下知が飛ぶ。

「内記。家政と人事を差配せよ」

 九度山以来の苦楽を共にした高梨内記は、慈しむような笑みを一瞬だけ見せ、恭しく一礼した。

「ははっ。奥向きのこと、家中のお納め、抜かりなく務めさせていただきまする」

「主税助。監査と江戸への繋ぎを任せる」

 河原綱家は真っ直ぐに秀頼を見つめ、実直な性格そのままに短く応じた。

「御意。江戸との往復、一刻の遅滞も出さぬよう、早馬を整えおきまする」

「定信。農政と開墾を急げ」

 毛利家の土木を支える定信は、日焼けした顔を引き締め、力強く頷いた。

「ははっ。大和の土を豊かにし、民に松平の情を染み渡らせるよう、尽力つかまつります」

「隆匠。城代として寺社交渉に当たれ」

 旧豊臣の格式を知る速水守久は、背筋を凍るほど正し、静かに拝礼した。

「承知いたしました。古都の寺社、その礼法を弁え、家の威信を保ちつつ和を成してまいります」

「備中守。財務と貿易の管理、其方に一任する」

 算勘の才に長けた伊東長実は、静かに伏せっていた目を上げ、落ち着いた声で答えた。

「ははっ。財の理、法の道。淀みなく流れるよう、誠心誠意、差配いたしまする」


 秀頼は最後に、もう一度一同を誇らしげに見渡した。

「この姫の誕生は、我らが選んだ『共存』という道が、間違っていなかったことの証だ。皆、己の職分を全うし、この大和を泰平のかがみとせよ」

 家臣たちは再び一斉に頭を下げた。

「ははっ!」

 広間には、新たな命を祝福する温かさと、それを守り抜くという鋼のような決意が、静かに満ち満ちていた。



 冬の気配が色濃くなり始めた大和郡山。

 二か月にわたる千姫の産後休養と、入念な旅支度を経て、秀頼の一行はついに江戸への旅路に就く日を迎えた。


 城下の通りには、朝早くから人々が集まり、松平家の大名行列を一目見ようと息を潜めている。

 城門前には、槍持ち、旗持ち、裃姿の家臣たちが整然と並び、馬上の武士たちが静かに出発の時を待っていた。

 先頭には、家紋を染め抜いた大きな旗が風にたなびき、太鼓の音が低く響く。


 秀頼は、正装に身を包み、馬の手綱を静かに握っていた。

 その隣には、産後の体を気遣いながらも凛とした面持ちの千姫が、千代姫を抱いて輿に乗り込む。

 千代姫はまだ幼く、母の腕の中で静かに眠っている。


 家臣たちはそれぞれの持ち場に就き、

 信繁は留守居役として城門の前で一行を見送り、勝永は防衛の備えを最後まで確認していた。

 内記、綱家、定信、守久、長実らも、主君の旅立ちを見守るべく、膝を正して頭を垂れる。

「殿、道中のご無事を――」

「若御方様、千代姫様、どうかご自愛くだされ」

 家臣や侍女たちの声が、行列の出発を祝福する。

 行列は、先頭の槍持ちから始まり、旗持ち、馬上の家臣、輿、荷駄隊、そして最後尾の警護役まで、百人を超える壮麗なものだった。

 沿道の人々は、松平家の新たな時代の始まりを見つめ、静かに頭を下げる。


 秀頼は、輿の中の千姫にそっと声をかける。

「お千、いよいよ江戸へ参る。千代も、しっかりと見守ってやろう」

 千姫は微笑み、千代姫の小さな手を包み込む。

「はい、殿。皆で、必ず無事に江戸へ参りましょう」

 太鼓の音が高まり、行列がゆっくりと城門をくぐる。

 冬の澄んだ空気の中、松平家の大名行列は、静かに、しかし確かな歩みで東へと進み始めた。


 城の高みから見送る家臣たちの胸には、新たな命と家の未来を託す誇りと、主君の無事を祈る切なる思いが、静かに満ちていた。


 郡山城の最上階。冬の凍てつく風が吹き抜ける高台の縁に、淀殿は立っていた。

 彼女の数歩後ろには、二人の年配の女房が石像のように控えている。主の身を案じる侍女を装いながら、その実、淀殿の振る舞いひとつ、呟きひとつを漏らぬ秀頼の「目」であった。高台の入り口には、刀を差した武士が二人、背を向けて立ち、無言の檻となって彼女を囲んでいる。


 眼下を流れる行列。

 整然と歩む武士たちの中心、一際立派な馬上に、我が息子・秀頼の背中があった。振り返ることも、立ち止まることもなく、その背は真っ直ぐに、陽の昇る東――徳川の地へと向かっている。

 秀頼が自らの意志で、千代姫を連れて江戸へ、駿府へ向かう。

 それは世間から見れば、徳川の曾孫を披露し、両家の絆を深めるための「親族の旅」に過ぎない。だが、淀殿の目には、それが何よりも無惨な「敗北」の儀式に映った。


『……秀頼。お前は、自らその手を汚しに行くのか

 曾祖父に見えるだと?……。あの子は、和睦の証などではない。豊臣の血を徳川という海に溶かし、薄め、最後には消し去るための毒よ。それを、お前は自ら差し出しに行くというのか……。

 お前はもう、私の息子ではない。……徳川の、良き傀儡よ』


 行列の足音が遠ざかり、街道の砂埃が静かに沈んでいく。秀頼は一度も城を振り返ることはなかった。

 その潔いまでの決別が、淀殿の心に深いくさびを打ち込む。自分の守りたかった「豊臣」という夢幻ゆめまぼろしが、息子の手によって一つ、また一つと解体されていく。

 背後の女房が「大方様、冷え込みます。奥へ」と、恭しく、しかし拒絶を許さぬ声で促した。


 淀殿はその声を無視し、ただ横目で去りゆく列の残像を見つめていた。

 彼女の瞳に宿るのは、母としての未練ではなく、もはや誰にも共有されることのない「孤高の絶望」と、緩やかに壊れゆく心の軋みであった。

この章では、新たな命の誕生と家族の決意、そして去りゆく者と残される者の静かな心の揺れを描きました。

次章では、旅の先に、それぞれの思惑が交錯する場面が描かれます。

時代の転換点に立つ人々の選択と歩みを、引き続き見守っていただければ幸いです。

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