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第十六章 真田を継ぐ者たち

晩夏の風が郡山を渡り、戦乱を越えた日々が静かに動き始めます。

新しい土地で芽吹く生活、交わされる言葉、胸に秘めた思い――

政略の影と淡い希望が交錯する中、真田家の子供たちそれぞれの未来が、静かに形を取り始めていました。

 郡山城の奥、夏の盛りの昼下がり。

 千姫の居間には、遠く蝉の声が幾重にも重なり、障子越しの光が白く揺れていた。


 竹林院が、侍女に手を取られながら静かに歩みを進める。

 几帳の内からその姿を見つけた千姫は、胸の奥に安堵の灯がともるのを感じた。

 竹林院の歩みは、どこか慎ましくも凛として、夏の光の中に溶け込むようだった。


 千姫は帯の上からそっと腹に手を添え、竹林院の前に座を正す。

「ようお越しくださいました。暑さ厳しき折、かたじけのうございます」

 竹林院は深く頭を下げ、静かに膝をつく。

「若御方様よりお声掛け賜り、恐悦に存じます。お加減、いかがにござりまするか」

 千姫は、わずかに俯きながら答える。

「……初めてのことにて、心細うございます。夜ごと胸が騒ぎ、眠りも浅く……

 御内室は、これまで幾度もお産をお済ませと聞き及び、心強く存じます。もしや、何かお心安らぐお話など……」


 竹林院は、柔らかな微笑を浮かべて千姫の手を包む。

「誰しも最初は同じにございます。わたくしも、初めての折はただただ恐ろしゅうございました。

 されど、いざその時が参れば、女は不思議と力が湧いてまいりまする。どうか、御身を信じて、静かにお過ごしくださりませ」

 千姫はその言葉に、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

「……ありがたきお言葉、胸に染み入ります。もしもの時は、どうかお力添えくださいますよう……」


 そのとき、竹林院の顔色がふと翳った。

 帯の下に手を当て、息を詰める。

「……いかがなされましたか?」

 竹林院は苦笑しつつ、低く告げる。

「若御方様、恐れながら……どうやら、わたくしの方が先に参りそうにございます」

 侍女たちが驚きの声を上げ、千姫も思わず身を乗り出す。

「まことに……今、ここで……?」

「はい、今朝より兆しはございましたが、御台様のお顔を拝し、安堵したのでございましょう。……しばし、この場をお借りいたしまする」

 千姫は竹林院の手をしっかりと握りしめ、侍女たちに声をかける。

「産所の支度を急ぎなさいませ。御内室のお傍は、わたくしが離れずお守りいたします」


 侍女たちが慌ただしく動き、竹林院は千姫に支えられながら、産所へと移された。



 産所の空気は、外の蝉しぐれとは対照的に、静かで張り詰めていた。


 竹林院は寝台に横たわり、浅く息を整えている。侍女たちが湯を運び、産婆が布を整える。

 千姫は竹林院の手をしっかりと握り、額に浮かぶ汗をそっと拭った。

「……若御方様、どうか……ご心配なさらず……女は、こうして命を繋いでまいりました……」

 竹林院は痛みに顔をしかめながらも、静かに言葉を紡ぐ。

 千姫はその横顔を見つめ、胸の奥で自分の鼓動が高鳴るのを感じていた。

『これが、命を迎える場なのだ。痛みも、恐れも、すべてを超えて、母は子を抱く。わたくしも、やがてこの道を歩む。逃げてはならぬ。命を守る覚悟を、今こそ胸に刻まねば――』

 竹林院は、痛みの合間に千姫の方を見やり、かすかに微笑んだ。

「……若御方様も、きっと……大丈夫にございます」

 千姫は、竹林院の手をさらに強く握りしめた。

「……わたくしも、必ず……」


 やがて、産婆の声が響く。

「もう少しでございます、しっかりお力を……!」

 竹林院は、最後の力を振り絞るように息を詰め、やがて大きく息を吐いた。

 その瞬間、産声が産所に響き渡る。

「……おめでとうございます、男児にございます!」

 侍女たちが小声で「ありがたや」と囁き合い、産所の空気がふっと和らぐ。

 竹林院は、疲れ切った顔で赤子を抱き、そっと頬を寄せた。


 千姫は、その光景を見つめながら、自然と涙がこぼれるのを止められなかった。

 命が生まれる、その瞬間の重みと、女たちの静かな連帯――

『わたくしも、やがて母となる。その時は、今日の竹林院のように、強く、優しくありたい。

 この手で、必ず我が子を抱きしめる。命を守る覚悟を、今こそ胸に刻む――』


 暫しして、秀頼が信繁を伴い産所へ姿を見せた。

 信繁は、妻の思いがけぬ出産に戸惑いながらも、千姫の前に膝をつく。


「若御方様、このたびは、我が内室が急に産気づき、さぞご迷惑をおかけいたしました。まことに申し訳なく……」

 千姫は首を振り、柔らかく微笑む。

「いえ、こちらこそ、わたくしのわがままでお呼び立てし、かえってご心労をおかけいたしました。

 けれど、こうして新しき命の誕生を共に見届けることができ、ありがたく存じます」

 二人が互いに頭を下げ合うのを見て、千姫の乳母がふっと笑い、間に入る。

「もうよろしゅうございますよ。お二人とも、これまで幾多の困難を乗り越えてこられた仲でございましょう。

 今さら他人行儀なことをなさることはありませぬ。こうして共に祝い合えることこそ、何よりのご縁にございます」

 その言葉に、千姫も信繁も顔を上げ、自然と笑みがこぼれた。


 秀頼は、竹林院と信繁に向き直り、穏やかな声で言葉を贈る。

「左衛門佐殿、御内室、まことにおめでとうございます。新しき命の誕生、我が家の喜びにございます。

 これよりも、皆で力を合わせて、この家を守り育ててまいりましょう」


 竹林院は、疲れた面持ちで深く頭を下げ、信繁もまた静かに礼を返した。

 産所には、安堵と祝福の空気が満ち、外では蝉しぐれが、命の誕生を祝うように鳴き続けていた。



 時は流れ、竹林院の出産から幾日か。

 郡山城には、祝言の日を迎える静かな緊張と華やぎが満ちていた。

 この日の主催は、家の長である秀頼が務める。

 朝早くから、城内の女たちは婚礼の支度に追われ、侍女たちが白無垢や色打掛を整え、髪結いが花嫁のお東の髪を結い上げていた。


 祝言は、まず本丸の奥に設けられた「婚礼の間」で執り行われる。

 床の間には季節の花が活けられ、屏風が立てられ、家紋入りの幕が張られている。

 幸昌は、父信繁の手で裃を正され、緊張した面持ちで控えていた。

 やがて、時刻が来ると、秀頼が正装で座し、家族と家臣たちが見守る中、婚礼の儀が始まる。

 花嫁のお東が、女たちに導かれて静かに入室する。白無垢に身を包み、顔を伏せて歩む姿は、凛とした美しさと初々しさを湛えていた。

 秀頼が厳かに口を開く。

「このたび、真田左衛門佐殿嫡男・幸昌と、お東殿の祝言を執り行う。両家の縁、末永く堅固なることを、皆々心より祝すべし」


 信繁は、息子の晴れ姿を見つめながら、胸の奥に熱いものが込み上げるのを感じていた。

 戦乱と流浪の果てに、こうして家族が新たな門出を迎える日が来るとは、かつて夢にも思わなかった。己が選んだ道が、ようやく実を結びつつあることを、静かに噛みしめている。

 竹林院は、産後の身体を気遣いながらも、わが子の成長と家の未来を見届けたい一心で席に着いていた。

 赤子を胸に抱きながら、家族の絆がこうして広がっていくことに、深い幸福と母としての祈りを感じていた。

 国松は、幼いながらも、家の晴れの儀に誇らしげな眼差しを向けていた。

 自分もいつか、家のために役立つ男になりたい――その思いが芽生えている。

 阿梅は、兄の裃姿と花嫁のお東の白無垢に、憧れと緊張を入り混じらせながら見つめていた。


 やがて、伊達家の代表として片倉小十郎が入室する。

 小十郎は格式と温かさを湛え、秀頼に深く礼をし、信繁、そして新郎新婦に向き直った。

「このたびは、真田家と伊達家の縁組、まことにめでたきことにございます。戦乱の世を越え、こうして新たな絆が結ばれること、両家にとりましても大きな慶事にございます。

 守信も、これより伊達家に迎えられまする。幸昌殿とお東殿の門出を心よりお祝い申し上げます。どうか、両家の縁が末永く堅固なることを、心より祈念いたします」

 小十郎は守信の肩にそっと手を置き、伊達家の一員としての誇りと責任を静かに伝えていた。


 秀頼が盃を注ぎ、幸昌とお東が三三九度の盃を交わす。

 千姫は花嫁の手をそっと握り、柔らかく微笑んだ。

 婚礼の間には、家族と家中の者たちの温かな視線が交錯し、夏の風が障子越しにそっと流れ込んでいた。


 三三九度の儀が終わり、婚礼の間には厳かさの中にわずかな和やかさが漂っていた。式はまだ続いていたが、盃が下げられた折、秀頼は信繁の席へと身を向ける。国松と阿梅は近くに控え、幼いながらも静かに場を見守っていた。


 秀頼は、声を低めて言葉を紡いだ。

「大助が祝言を挙げられ、さぞ嬉しかろう。この家の功労、そなたの働きに報いるため、余はこの式に力を尽くした。

 次は――阿梅を、国松に嫁がせる日であろう。左衛門佐殿も、いずれ孫の顔を見られよう。」

 信繁は深く頭を下げ、静かに答えた。

「この日が来るなど、夢にも思いませなんだ。某は、いろいろあって祝言をやれぬまま過ぎた身。

 本日、その遺憾を、ある形で償えたと存じまする。

 ただ――御館様、某は実は、ついこの間、孫に会い申した。」

 秀頼は驚き、眉を上げた。

「なんと……どういうことだ?」

 信繁は、少し言葉を選びながら続けた。

「実は、某が若き頃、女がござった。先日、郡山城に迎えた堀田の妹にございます。

 あの折に産まれた娘が京におり、先日会いに参った。

 彼女は既に何人もの子を持ち、一番年長のも、大助より数歳下にござる。」


 秀頼はしばし言葉を失い、やがて静かに笑みを浮かべた。

「知らなんだ……左衛門佐殿に、かような過去があったとは。」

 信繁は、深く頭を垂れ、声を低めた。

「かつて某は罪の身にて、彼女らを巻き込みたくなき故、あえて隠し申した。

 今はそうではなくなり、晴れた身分となりながら、彼女を放置するは、あまりに不義と存じまして。」

 秀頼は、盃を取り、静かに頷いた。

「左衛門佐殿は、流石に大義を重んずる御方。余が信頼してよかったと、改めて思う。」

 信繁は深く頭を下げ、短く答えた。

「もったいなきお言葉にございます。」


 婚礼の儀が滞りなく終わると、奥の間から広間へと場が移された。

 広間には、白木の膳が整然と並び、鯛の姿焼き、赤飯、昆布巻き、祝い酒が所狭しと並べられている。

 膳の中央には、紅白の餅と鶴亀を象った飾りが置かれ、祝言の華やぎを一層引き立てていた。

 秀頼は上座に座し、千姫がその隣に控える。信繁と幸昌は下座に並び、花嫁のお東は女房たちに囲まれながら、静かに盃を受けていた。

 伊達家の使者・片倉小十郎も席に着き、守信の肩に手を置きながら、若き者たちに笑みを向ける。


 盃が重ねられるたび、広間には柔らかな笑い声が広がった。

「めでたきこと」「ありがたや」と囁く声が、障子越しの夏の風に溶けていく。

 女房たちは、花嫁の衣装を直しながら、祝言の余韻を語り合い、男たちは盃を交わしながら、家の未来を静かに語っていた。

 千姫は、花嫁のお東にそっと声をかける。

「お東様、今日より真田の家を支える御方。どうぞ、幸昌殿と力を合わせ、末永くお幸せに」

 お東は深く頭を下げ、緊張の中にも凛とした声で応じた。

「若御方様のお言葉、ありがたく頂戴いたします。精一杯、務めを果たしてまいりまする。」


 広間の片隅では、国松と阿梅が並んで座し、幼いながらも晴れの席の空気を感じ取っていた。

 国松は、父の隣で背筋を伸ばし、阿梅は花嫁の姿に憧れの眼差しを向けている。

 二人の未来が、今この場で静かに語られたことを、幼い心に刻みながら――。


 障子の外では、夏の夕風が庭を渡り、遠くで蝉の声がまだ響いていた。

 祝言の宴は、戦乱を越えた家族の絆を確かめる、穏やかな時の流れに包まれていた。



 宴席が静まり、賑わいはもう遠く。

 提灯の列は片づけられ、広間から奥へ続く廊下には、新しい灯りが一つだけ置かれていた。

 その灯りを先に、お東の白無垢の裾が滑るように通る。帯の高さが背をぴんと立たせ、侍女たちは息を殺して見送った。


「こちらへ」

 老女房が襖を細く開け、中の匂いを洩らす。新しい畳の青さと、蝋の香り。

 幸昌は一歩遅れて従う。襟元に滲む汗を、自分でも恥じていた。廊下の窓から夏の夜風が忍び込み、灯りの芯を揺らす。虫の声が、銀の針を落とすように庭先で瞬いた。


 控えの間は、祝言の華やぎを一切排していた。鏡台一つ、火鉢一つ。白無垢を脱ぐための屏風が、月光を受けて鼠色に浮かぶ。

「お支度を」

 老女房の声に、お東の肩が小さく跳ねた。俯いたまま、帯の先を指で探る。震えは隠せない。

 帯が緩む音が、かすかに響く。

 白無垢が肩を離れ、襦袢の白が灯りに淡く透けた。背中の線はまだ幼さを残し、項には緊張の硬さがあった。

 幸昌は、そっと背を向ける。屏風の陰から、衣擦れと息遣いが続いた。


「……お待たせ致しました」

 振り返ると、お東は淡い藤色の寝間着に替えていた。帯は緩め、襟元を指で押さえている。頬が灯りを受け、内側から照らされるようだった。

 老女房たちが静かに下がり、襖が閉まる音が、ふたりを残した。


 間ができた。

 遠くで虫が一声鳴く。

 お東は畳の目を見つめたまま、膝を正した。

「本日は……」

 言葉が唇に絡む。

 幸昌は膝を進め、彼女の指先に触れる。震えが伝わる。

「汗ばんでおるな」

 掌で包むと、お東は息を吐いた。緊張が少し静まる。

「御身のお傍にて、務めを果たせること……ありがたく」

 声は細く、けれど凛としていた。

「こちらこそ」

 幸昌は目を伏せる。

「末永く、共に歩んでまいろう」


 灯りが二人の影を淡く重ねる。

 その間に、静かな鼓動がひとつ、またひとつと響き合う。

 若い二つの命が、同じ拍を刻み始めたかのように――

 息の音が揃い、空気がわずかに熱を帯びる。


 やがて幸昌が灯りを吹き消す。

 闇がふたりを包み、広間の賑わいはもう夢のように遠い。

 月だけが、白く、静かに、窓を照らしていた。

 その光は、二人の影をひとつに溶かし、夜の深みに沈めていった。



 同じ月の光が、廊下を隔てた奥の間に、静かに注いでいた。

 広間の賑わいは遠く、虫の声だけが夜を縫っている。


 秀頼と千姫は、すでに寝衣に替えていた。

 襖を開けたとき、千姫は帯の上から腹に手を添えていた。指の力が、わずかに入っている。

 秀頼は、それを見て、無言で自分の掌を重ねた。

 月光が障子を透き、ふたりの影をひとつに寄せる。


「……この一年、長き道であったな」

 秀頼の声は、低く、喉の奥から絞り出された。

 千姫は微笑んだ。目尻に、疲れの影があった。

「鐘の銘文の騒ぎから始まり、祖父上の御怒り……御身が奔走なされし日々を、忘れませぬ」

 秀頼は頷き、声を低める。

「和睦を求め、牢人たちの処遇に心を砕いた。転封の決断も、容易ではなかった」

 千姫は静かに息をつき、言葉を重ねる。

「家中の不安を鎮め、領民の暮らしを守るために……一刻も休まれませなんだ」


 秀頼は、障子越しの月を見やった。

 白磁の盤のような月が、雲に擦れて、わずかに欠けている。

「それでも、戦なき世を築くため、余は歩みを止めぬ」

 彼は、千姫の手を握り返す。

「そなたと共に、この家を守り、子らに穏やかな世を渡したい」


 千姫は、目を閉じた。

 長い睫毛が、月光に透ける。

 その胸の奥で、静かな炎が灯る。

 ――この身に宿る命を、必ず守り抜く。

 母として、妻として、御身と共に、新しき道を歩む者として。

 恐れや不安を遠ざけ、穏やかな世を子に渡すために――。

 指先に、わずかな力がこもった。


「……御身と共に、未来を紡ぎまする」

 ふたりの声が、重なった。

 虫の音が、ぴたりと止む。

 月だけが、静かに傾いていく。

 その光は、過ぎし一年の重みと、これから紡ぐ命の希望を抱き、静かな夜に溶けていった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

本章では、新天地で始まる日々の中に、それぞれの行方や決意を描きました。

政略の重みを背負いながらも芽生える静かな誓い、過去に縛られた者たちの空虚な影、そして家族の談笑に滲む安らぎ――

戦乱を越えた世界で、真田を継ぐ者たちの心がどのように動き始めたのかを綴った一章です。

次章では、また新たな命と時代の節目が訪れます。どうぞ引き続きお楽しみください。

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