第十五章 新天地に芽吹く日々
初夏の風が郡山を渡り、戦乱を越えた日々が静かに動き始める。
新しい土地で芽吹く生活、交わされる言葉、胸に秘めた思い――
政略の影と淡い希望が交錯する中、それぞれの未来が静かに形を取り始めていた。
初夏の陽光が郡山の田畑を照らしていた。
青々とした苗が風にそよぎ、遠くには山並みが霞んでいる。
秀頼は軽装に身を包み、畦道を歩いていた。護衛は幸昌と若き家臣たちのみ。
秀頼は足を止め、土を指先でつまみ、じっと見つめた。
「……よい土だ。水も行き届いておる。」
その声には、戦場ではなく、この地を育てる者の眼差しがあった。
農夫たちが驚きながらも深く頭を下げる。
「殿下にお目にかかれるとは……ありがたき幸せにございます。」
秀頼は手を振り、柔らかく笑んだ。
「余はただ、この地を知りたいだけだ。皆の力で、よき国にしてゆこう。」
彼はさらに歩を進め、用水路の流れを確かめる。
「この流れを整えれば、稲はもっと育つ。……幸昌、記しておけ。」
幸昌は慌てて筆を走らせる。まだ十四歳の少年だが、その眼差しは父の忠義を継ぐ決意に燃えていた。
秀頼は遠くの郡山城を見上げた。白壁が陽光にきらめき、空に映えている。
胸の奥に去来するのは、大坂に残した領民への思い――
彼らの暮らしは、今や江戸幕府の直領となり、乱世の不安から解き放たれた。
その事実に、秀頼は静かな安堵を覚える。
「争いは避けられた。これからは、余がこの地を守り、育てる。」
その言葉は誰に聞かせるでもなく、初夏の風に溶けていった。
郡山城の庭に、初夏の風が吹き抜けていた。
稽古場には木刀を握る少年たちの姿。中央に立つのは国松、その前で毛利勝永が鋭い眼差しを向けている。
「まずは構えだ。腰を落とせ、足を開きすぎるな。」
勝永の声が庭に響く。国松は必死に足を踏みしめるが、まだ不安定だ。
「殿下、剣は腕で振るものではござらぬ。腰で打つのだ。」
勝永が木刀を取り、ゆるやかに振り下ろす。
「この重みを感じよ。力は下から上へ、足から腰へ、そして腕へ。」
国松が真似をする。木刀が空を切り、乾いた音が庭に響いた。
「よし、その調子だ。」
勝永が頷くと、側で見守っていた信繁が静かに口を開いた。
「国松様、剣は敵を斬るためだけのものではござらぬ。人を守るためにある。……その心を忘れぬことだ。」
国松は息を整え、深く頷いた。
「はい、必ず心に刻みます。」
やがて稽古が終わり、少年たちが木刀を置いたとき――
庭の端から、侍女に付き添われた阿梅が現れた。手には白布に包まれたおにぎりの籠。
その背後には竹林院の姿。ゆったりとした衣に身を包み、慎重な足取りで歩みを進めている。
その仕草には、新しい命を迎える身の重みを感じさせる静かな気配が漂っていた。
竹林院は柔らかな笑みを浮かべ、声をかける。
「阿梅、せっかく拵えたのだから、国松様にお渡しなされ。」
阿梅は頬を染め、視線を伏せた。
「……はい。」
小さな声で答え、国松の前に膝をつく。
「国松様、お疲れ様にございます。少しでも力をお付けくだされ。」
国松は一瞬、驚いたように目を見開き、やがて照れくさそうに笑った。
「ありがとう、阿梅。」
阿梅はさらに赤くなり、籠を差し出す。
その様子を見て、兵太郎が口を尖らせる。
「殿下ばかりずるいな!」
文吉が笑いながら囁く。
「数字で勝てるなら、俺にもくれないかな。」
勝永は苦笑し、信繁は静かに目を細めた。
竹林院はその光景を見守りながら、腹にそっと手を添え、穏やかな笑みを浮かべた。
畑の視察を終え、土の匂いを纏ったまま城に戻った秀頼が庭に入ると、稽古を終えた少年たちと家臣たちが一斉に膝をつき、深く礼を取った。
「顔をお上げくだされ。」
秀頼の声は柔らかく、しかし威厳を帯びていた。
少年たちが顔を上げる中、秀頼の視線は木陰の床机に腰を下ろす竹林院に留まった。
彼女は、勝永に投げ飛ばされては食らいつく国松の姿を、祈るような、しかし誇らしげな目で見守っていた。その手は、慎重に膨らんだ腹を撫でている。
秀頼は幸昌を伴い、静かに彼女の傍らへ歩み寄った。竹林院が驚いて立ち上がろうとするのを、秀頼は柔らかな手つきで制した。
「案ずるな、真田の奥。そのままにて。……その身で若君の稽古を見守ってくれること、余もうれしく思う。」
そして、声を落とし、特別な言葉を添えた。
「身重の身にて、余に礼など不要にございます。むしろ、余はそなたに詫びねばならぬ。
そなたの仇とも申すべき大御所様と和睦を結んだこと、まことにかたじけなく思うておる。」
竹林院は静かに首を振り、深く頭を垂れた。
「いえ、殿のお言葉、恐れ入ります。
確かに、父上は大御所様との戦にて討ち死にいたしました。されど、それは戦の理にございます。恨みなど、もはやございませぬ。
それに、殿のおかげで父上の名誉は回復され、我が家も救われました。わたくしにとりまして、殿は大恩人にございます。」
秀頼はその言葉にしばし黙し、やがて深く頷いた。
「……そなたの言葉、余の胸を救うものなり。
これより国松も、そなたの御娘を迎えることとなろう。幸昌もまた、我が家の未来を担う重き役目を負う。くれぐれも、よろしく頼み申す。」
竹林院は穏やかな笑みを浮かべ、静かに答えた。
「はい、殿。身命を賭してお支えいたします。」
秀頼の目も自然と細まった。彼は、竹林院が九度山の極貧の中で信繁を支え、子供たちを育て上げ、そして自分を救うために夫を送り出してくれた「恩人」であることを忘れていない。
「九度山の寒風に耐え抜いたそなたが、今、この大和の暖かな陽光を浴びている。……それこそが、余が和睦という道を選び、勝ち取りたかった『景色』なのだ。
左衛門佐を独り占めにして済まぬな。もうすぐ生まれる子は、大和で生まれる松平の最初の宝だ。余が、その未来を必ず守り抜こう。」
竹林院の瞳に、わずかな涙が滲んだ。それは真田の妻として、家族の生存を認められた安堵の雫であった。
「……恐悦至極に存じます。殿の御慈悲、この子が生まれました折には、必ずや左衛門佐と共に語り聞かせましょう。……殿が守ってくださったこの命、決して無駄にはいたしませぬ。」
千姫の部屋には、初夏の光が障子越しに差し込み、香炉の淡い香りが漂っていた。
お奈津とお藤が並び、柔らかな笑みを交わしている。
「国松、近頃はますますしっかりして参りましたな。」
お奈津が声を弾ませると、お藤が頷いた。
「左様にございます。許嫁が定まりてより、言葉遣いも落ち着き、顔つきまで変わりました。」
千姫は微笑み、二人に問いかける。
「そう……国松がそのように頼もしくなって。郡山に参ってから、暮らしにも慣れましたか?」
お藤が笑みを深める。
「ええ、奈阿も憂いなく遊んでおります。庭を駆ける姿を見ておりますと、わたくしも心穏やかにございます。」
お奈津も続ける。
「転封の折は案じましたが、こうして和やかに過ごせるのは、殿と御台様のおかげにございます。」
かつては、子を巡りて互いに自慢や牽制もあった。
されど、大坂の危き折を共に越えた今、三人の間には柔らかな絆が芽生えていた。
千姫は頷き、そっとお腹に手を添えた。
「国松も奈阿も、こうして健やかに育ってくれて……ありがたいこと。この子は、男ならば国松のごとく家を守る柱となりましょう。
女ならば、奈阿のように笑みを絶やさぬ優しき娘に育ってほしい。」
お藤が柔らかく笑う。
「どちらにございましても、殿と御台様の御心を継ぐ御方にございます。」
お奈津も頷き、声を弾ませる。
「いずれ三人で庭を駆ける日が参りましょうな。」
千姫の瞳に、未来を思う光が宿った。
「……その日が来るのを、心待ちにしております。」
三人の笑みが重なり、部屋に柔らかな空気が満ちていった。
その時、障子が静かに開き、秀頼が姿を現した。
「何やら楽しげな声が聞こえたが、何の話をしておる?」
三人は一瞬戸惑い、やがて笑みを交わした。
千姫が柔らかく答える。
「殿にはお聞かせできぬ、女同士の内々にございます。」
秀頼は眉を上げ、冗談めかして言った。
「ほう、余の知らぬところで恐ろしき評議がなされておるな。さては、余の首を討つ策でも練っておるか?」
お奈津が笑いながら返す。
「殿、かような場にては、御言葉をお慎みくだされませ。」
お藤も微笑み、言葉を添えた。
「女の心は、戦より深きものにございますぞ。」
秀頼は肩をすくめ、笑みを浮かべた。
「それは余が最も苦手とする戦場よ。」
四人の笑い声が重なり、部屋に和やかな空気が広がった――。
秀頼は妻たちとの挨拶を終え、静かに淀殿の居間へと歩みを進めた。
障子の向こうに座す母の姿は、なお硬く、冷ややかな影を帯びている。
「まだ母のことを覚えているか。」
淀殿の声は低く、拗ねた響きを含んでいた。
秀頼は一瞬言葉を探し、やがて柔らかく答えた。
「何事を申されますか、母上。忘れるわけがございませぬ。
そして、大坂を離れたとは申せ、普請を含める管理は、なお我が家が担っております。
それも、我が家のかつての誇りがこの世に残り続ける証にございます。」
秀頼は言葉を選びながら、母の機嫌を取ろうとした。
淀殿はふっと笑みを浮かべたが、その目は冷たかった。
「ほう、左様でございますか?ならば、母が戻っても良いということか?」
秀頼は言葉に詰まり、視線を伏せた。
「それは……」
淀殿の唇に冷笑が走る。
「豊臣家の富で、徳川の城を修繕するなど、何が誇りだ。
金を出しておきながら、自ら住むこともかなわぬとは、笑止千万。」
秀頼は静かに首を振った。
「母上、そう申してはなりませぬ。
せめとも、我が家が築いた繁栄の証と、領民たちの幸が残された。
それは良きことではございませぬか。」
淀殿の声はさらに低くなり、怒りを孕んだ。
「秀頼よ……母がそれを手に入れるため、どれほどの犠牲を払ったか、知っておるか?」
秀頼は深く息をつき、静かに答えた。
「存じませぬ。」
淀殿は視線を遠くに投げ、言葉を絞り出すように続けた。
「わらわは、父を討たれ、母を失い、屈辱に耐えた。老いた太閤様に身を委ね、笑みを作り、若さを捨ててまで、この座を得た。
その代償に、誇りも血も、未来も背負う覚悟をしたのだ。それを今さら捨てよと申すか……わらわの生きた証を、無にせよと?」
秀頼は黙してその言葉を受け止めた。
初めて母の胸に秘められた苦しみを知り、自らの甘さを痛感する。
だが、その決断に後悔はなかった。
愛する人々を守り抜いた――その事実が、秀頼の心を支えていた。
彼は静かに母を見つめ、深く頭を垂れた。
「母上……余は必ず、この家を守り、皆を幸せにいたします。」
淀殿は答えず、ただ障子越しの光に目を細めた。
その横顔には、消えぬ炎と、言葉にならぬ影が揺れていた――。
秀頼は静かに屋敷の敷居を跨いだ。
そこに広がっていたのは、かつて大坂城の中枢を担った者たちの「余生」ではなかった。
畳の上、大野治長は南蛮渡来の目鏡をかけ、古びた帳簿に指を走らせていた。
墨の匂いが漂う中、彼の手は絶えず数字を追い、離散した家臣の名を一枚一枚書き写している。
「兵糧、銀子……」
その声は、誰に聞かせるでもなく、過ぎ去った戦の影を反芻する呟きに過ぎなかった。
「治長、いかが致しておる?」
秀頼が声をかけると、治長は目鏡越しに一瞬だけ視線を上げた。
その目には光がなく、ただ帳簿へ戻る。
「……はい、殿。兵糧の勘定を整えておりまする。」
言葉は礼を失わぬが、声は乾いていた。
指先は止まらず、紙をめくる音だけが虚ろに響く。
庭の隅では、大野治房が黙々と刀を研いでいた。
鋼に映るのは敵ではなく、己の空虚な眼差し。
やがて木刀を取り、案山子に向かって無言で打ち込む。
「治房、稽古は怠りなきか?」
秀頼の問いに、治房は木刀を振りながら低く答えた。
「……はい、殿。斬るべき時に備えておりまする。」
その刃が案山子を打つ音だけが、庭に乾いた響きを残す。
顔には怒りも笑みもなく、ただ無機質な動きが繰り返される。
奥から現れた大蔵卿局は、淀殿の世話を終えたばかりの手で、息子たちの屋敷を細かく掃き清めていた。
「母上も、よく働いてくださるな。」
秀頼が言うと、大蔵卿局は微笑みを作ったが、その笑みは張り付いたように動かない。
「……はい、殿。奥向きの乱れは、わらわが整えまする。」
その声は、かつての権勢を幻のように追い続ける、終わらぬ奉公の響きであった。
三人の動きは止まらない。
帳簿をめくる音、刃を研ぐ音、箒の擦れる音――
それは生きるための営みではなく、過ぎ去った誇りに縋る反復だった。
怒りも嘆きも、言葉になることなく、沈黙の中に溶けていく。
秀頼はその光景を見つめ、胸の奥に重い影を落とした。
そこにあるのは、救われた安堵でも、隠居の安らぎでもない。
ただ、動力を失っても止まれぬ歯車のように、空虚な反復を続ける人々の姿であった。
秀頼は静かに立ち上がり、何も言わず屋敷を後にした。
背に感じるのは、張り詰めた沈黙と、言葉にならぬ重さ――
それは、余が与えた「生存」という名の、最も残酷な処遇の影であった。
夕刻、郡山の屋敷に柔らかな光が差し込んでいた。
幸昌は一日の公務を終え、静かに座敷へ戻った。
秀頼に付き従い、領地の視察や帳簿の確認を見習う日々――その緊張と充実が、まだ幼い肩に重くのしかかっていた。
障子越しに庭の藤が揺れ、香炉の淡い香りが漂う中、彼は袴の裾を整え、深く息をついた。
その傍らには、お東が控えめに座している。頬にわずかな紅を差し、視線を伏せながらも、指先は袂をそっと握りしめていた。
近づきつつある、祝言への静かな期待と重み――その思いが、二人の胸にひそやかに灯っていた。
政略の重みを背負いながらも、その日を思うたび、胸の奥に淡い熱が広がっていく。
幸昌は静かにお東を見やった。
父の影を背負い、殿を支える男になりたい――その夢を、彼女と共に歩む日が近づいている。
お東もまた、視線を伏せたまま、心の奥でその日を描いていた。
武家の妻としての覚悟と、まだ幼い心に芽生えた憧れが、静かに交錯していた。
やがて、幸昌が口を開いた。
「……お東。」
その声に、お東はわずかに肩を震わせ、顔を上げる。
「はい、幸昌様。」
幸昌は言葉を選びながら、静かに続けた。
「余は、父のように忠義を尽くし、殿をお支えする男になりたい。
そのために、学び、鍛え、己を磨いてゆくつもりだ。」
お東の瞳に、わずかな光が宿った。
「……その志、必ず叶えてくださいませ。わたくしは、そのために力を尽くします。
幸昌様が殿をお守りするなら、わたくしは幸昌様をお守りいたします。」
その言葉に、幸昌の胸に熱が走った。
政略の枠を越え、そこにあるのは一人の女の真心。
父の影を追う自分に寄り添う覚悟――その眼差しに、幸昌は言葉を失った。
沈黙が落ちる。
障子の外で、初夏の風が庭を渡り、藤の花が淡く揺れる。
幸昌はふと、手を伸ばしかけて、ためらった。
武家の礼儀が、その距離を縛っている。
だが、お東の指先がわずかに動き、袂の陰で二人の手が触れ合った。
その瞬間、言葉にならぬ誓いが交わされた。
使命感と憧れ、重みと温もり――すべてが静かな光となって、二人の胸に灯っていた。
障子の外では、初夏の風が庭を渡り、藤の花が淡く揺れていた。
夕陽が白壁を染め、遠くで鶯の声が響く。
静かな屋敷に満ちるのは、政略の重みと、若き二人の胸に芽生えた淡い光――
その光は、やがて大和の空に新たな物語を描き始める予兆であった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本章では、新天地で始まる日々の中に潜むさまざまな姿を描きました。
政略の重みを背負いながらも芽生える静かな誓い、過去に縛られた者たちの空虚な影、そして家族の談笑に滲む安らぎ――
戦乱を越えた世界で、それぞれの心がどのように動き始めたのかを綴った一章です。




