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第十四章 大和へ続く未知

春風が街道を渡り、藤の花が静かに揺れる――

戦の影を遠ざけた人々の胸に、安堵と言葉にできぬ思いが交錯します。

新しき天地へ向かう列、その中に芽吹く絆と決意。

過ぎ去った嵐の余韻を抱えながら、未来へ続く道が静かに開かれようとしていました。

 城内に春の光が差し込んでいた。

 長き戦の影をようやく抜け、静けさが戻った大坂城。

 牢人たちはすでに新たな配属先へと散り、残るは秀頼一家と、最後まで主君に寄り添う者たちのみであった。


 しかし、その静けさの奥には、重く張り詰めた空気があった。

 退去の刻が迫る中、淀殿はなお強く抵抗していた。

 秀頼は深く息をつき、障子越しに藤の花を一瞥すると、静かに立ち上がった。

 襖を開けて座敷に入ると、春の光が差し込み、淀殿が座していた。

 その背筋は、戦を避けた和睦の決定をなお拒むかのように、凛としている。

 秀頼が一歩踏み出した瞬間、淀殿の声が鋭く空気を裂いた。

「……そなたは何のために参った? 行きたければ、勝手に行けばよい。わらわはここを離れぬ。」

 その言葉は、拒絶と誇りを込めた刃のようだった。

 秀頼は静かに頭を下げ、言葉を探す。

「母上……これは、血を流さぬための道にございます。未来のために――」

 淀殿は振り返り、冷たい眼差しで射すくめる。

「未来など知るものか。わらわはこの城と共にある。」


 秀頼が言葉を失ったその時、廊下から衣擦れの音が近づいた。

 お奈津とお藤が姿を現す。二人の姿を見た淀殿の目がさらに鋭くなる。

「……そなたたちを信じておったのに、裏切りおって。何もかも奪いおって。」

 お藤は一歩進み、震える声で言った。

「これも御袋様のためにございます……あのような悲しき最期を、決して迎えさせとうはございませぬ。」

 お奈津も続ける。

「国松の未来のために、こうするしかございませぬ。」

 淀殿は黙したまま、白梅の枝を見つめる。

 その横顔には、母としての執念と、深い孤独が影を落としていた――。


 さらに、信繁と勝永が静かに進み出る。二人は深く頭を下げ、淀殿の前に膝をついた。

 信繁が口を開く。

「まずは、先の戦にて騙し討ちの策を用いたこと、心よりお詫び申し上げます。……しかし、あれも御袋様への忠義ゆえにございます。」

 淀殿の目が鋭く光る。

「忠義?裏切りを忠義と申すか。」

 信繁は静かに首を振った。

「忠義とは、ただ一方的に従うことにあらず。命を賭して、殿下の過ちを正すことこそ、真の忠義にございます。」

 その声には揺るぎない信念があった。

「殿下は、誰よりも御袋様と若御方様、そして家臣の未来を思う御方。わが身を捨ててでも、血を流さぬ道を選ばれた。……その御心、かつての大閤殿下にも勝る器にございます。」

 淀殿は唇を噛み、視線を逸らした。

「……器など、わらわには関わりなきこと。」

 その声にはまだ棘があったが、先ほどまでの鋼の拒絶は、わずかに揺らいでいた。

 勝永が一歩進み、深く頭を下げる。

「御袋様、どうかお心をお鎮めくだされ。これは、殿下の御血筋を守るための道にございます。」


 その時、廊下の奥から、衣擦れの音が静かに近づいた。

 身重の千姫が姿を現した。六ヶ月ほどのお腹を抱え、ゆるやかな衣の下に膨らみが見える。

 その歩みは慎重でありながら、武家の正室としての誇りを宿していた。

 表情はまだ若さを残していたが、その瞳には母としての覚悟がすでにあった。

 未熟さと勇ましさが同居するその姿に、座敷の空気が一瞬で変わった。

 千姫は淀殿の前に進み、深く頭を下げる。

「御袋様……千は、殿下の妻として、そして大和松平家の正室として申し上げます。」

 声は柔らかく、しかし揺るぎない決意を帯びていた。

「どうか、この道をお認めくだされ。生きておれば、未来には何もかも待っております。

 ここで死んでしまえば、すべてが終わります。御家の未来も、名誉も……ただの時代遅れの負け組として、後の世に笑われるだけにございます。」


 淀殿は冷ややかに千姫を見つめた。

「……そなたまで、わらわを見捨てるか。」

 千姫は首を振り、さらに深く頭を垂れる。

「見捨てるなど、決してございませぬ。千は、御袋様と共に、この家を守りとうございます。

 お腹におりますは、御家の嫡子にございます。どうか、その命のためにも……御袋様のお力をお貸しくだされ。」

 その声は震えていたが、言葉には武家の女の誇りがあった。座敷に沈黙が落ちた。

 淀殿の視線が千姫の腹に移り、長い間、動かなかった。

 やがて、深い吐息がひとつ漏れた。


 言葉はなかった。

 ただ、淀殿はゆるやかに立ち上がり、袖を整えた。

 その仕草は、協力を示すものだった。

 しかし、歩みの中に、わずかな硬さが残っていた。

 廊下を進む淀殿の指先が、障子の縁を強く押す。

 その目は伏せられていたが、奥底に消えぬ炎がちらりと光った。



 外は春の光が大坂城の石垣を照らしていた。

 総構の外には、百姓や町人たちが遠巻きに並び、黙って頭を下げている。声はない。ただ、藤の花房が風に揺れ、静かな哀惜を語っていた。


 先頭には、信繁が護衛する千姫の乗り物。懐妊した腹を抱え、千姫は駕籠の中から小さく会釈した。

「……皆、顔を上げてくだされ。必ず、また。」

 その声は届かぬほど小さかったが、唇の動きに気づいた者が涙をぬぐった。

 続いて、お奈津の乗り物。お奈津は国松の小さな手を握りしめていた。

「母上……怖くないか?」

「怖くはない。……国松、しっかり前を見よ。」

 その声は震えていたが、必死に強さを装っていた。

 お藤の駕籠が続き、さらに信繁と勝永の家族の列。妻と娘たちは駕籠に乗り、若い息子たちは馬に跨り、鎧の光を春の日差しに反射させながら護衛の役を果たしている。馬蹄の音が石畳に響き、列の威容を際立たせた。


 最後尾には、幸昌が秀頼を護衛していた。秀頼は母・淀殿の駕籠の傍らに立ち、静かに周囲を見渡す。

「皆、これまでよく尽くしてくれた。まことに感謝いたす。」

 その言葉に、信繁と勝永が深く頭を垂れた。

 秀頼はわずかに微笑み、視線を前に向ける。

 淀殿は無言のまま、駕籠に身を沈めていた。袖の奥で指先が障子の縁を強く押す。その目は伏せられていたが、奥底に消えぬ炎がちらりと光った。


 列が総構を抜けると、見届け役の二人――本多正純と片桐且元が待っていた。

 秀頼は馬を降り、静かに二人の前に歩み寄る。

「この度は、数々のご苦労、痛み入ります。」

 片桐の顔に、わずかな陰が差す。秀頼は深く頭を下げた。

「……且元殿には、ことさらにご迷惑をかけ申した。和睦のために尽くされた御心、決して忘れませぬ。」

 片桐はしばし黙し、やがて静かに応じた。

「殿下……これからは、共に道を歩むことになりますな。」


 秀頼はわずかに微笑み、力強く頷いた。

「はい。これよりは、よろしくお願い申し上げます。」

 本多正純も一歩進み、礼を尽くす。

「この道が、血を流さぬための道であること、幕府も望むところにございます。」

 秀頼は二人に目を向け、言葉を結んだ。

「必ず、天下泰平のために力を尽くす所存にございます。」


 春風が藤の花房を揺らし、列は再び動き出した。

 未来へ続く道を、静かに歩み始める。

 秀頼は本多正純と片桐且元に深く頭を下げ、礼を尽くした。

「此度は、数々のご尽力、痛み入ります。……これよりは、よろしくお願い申し上げます。」

 二人が静かに頷くのを見届けると、秀頼は馬に歩み寄った。


 その足が、ふと止まる。

 振り返れば、大坂城の天守が春の光を浴びて、遠くにそびえていた。

 生まれてから今日まで、すべての時を過ごした場所――父の影、母の声、そして戦の影が落ちた日々。

 幼き頃に見上げた石垣、庭に咲いた花、笑い声が響いた広間。

 そのすべてが、今や遠ざかろうとしている。

 胸の奥に熱いものが込み上げる。だが、涙は見せぬ。

 武家の男として、最後の誇りを守るために。


 唇を固く結び、静かに馬に跨った。

 視線を前に向けると、列の先に千姫の駕籠が見えた。

 その中には、懐妊した妻と、これから生まれる命――御家の未来がある。

 お奈津やお藤も、国松も、ありふれた日常の笑顔を胸に抱いて、新しい天地へ向かっている。

 その温もりだけは、失わぬ。

 たとえ城を捨てても、家族と共に歩む道がある。

 ――それが、秀頼に残された唯一の希望だった。


 そして、彼は生涯、二度とこの城を振り返ることはなかった。



 夕刻、一行は街道を進み、宿場町の本陣に入った。

 瓦屋根の奥に広がる座敷は静かで、外には藤の花房が夕風に揺れている。


 千姫、お奈津、お藤は奥座敷に案内され、駕籠から降りて休息を取っていた。

 灯明がともり、障子越しに淡い光が差し込む中、秀頼が静かに入ってきた。

「……千、お奈津、お藤。」

 秀頼は三人の前に座し、しばし言葉を探した。

「実は、かつて悪夢を見たことがある。」


 三人が顔を上げる。秀頼の声はわずかに震えていた。

「城が炎に包まれ、余は切腹を余儀なくされた。

 千は引き離され、泣きながら江戸へ送られ……

 国松は、まだ幼き身で打ち首にされ……

 奈阿は髪を落とされ、出家させられた。」

 言葉が途切れ、秀頼は拳を握りしめた。

「その光景が、何度も胸に蘇る。……あの時から、影が消えぬ。」


 お奈津がそっと言った。

「殿下……今はもう、そのようなことはございませぬ。ここにおりますは、皆、守られております。」

 お藤も続ける。

「和睦が成り、こうして新しい道を歩んでおります。あれは、ただの夢にございます。」

 千姫は静かに秀頼の手を取った。

「殿は、私たちを守りたいからこそ、あんな夢を見てしまわれたのでしょう。……その御心、千は誇りに思います。」

 秀頼は深く息をつき、三人を見渡した。

「……何があろうとも、家族の皆を守り切る。命を賭してでも。」


 千姫は微笑み、お奈津とお藤も静かに頷いた。

 その瞬間、外から藤の花の香りが淡く流れ込み、夕風が障子を揺らした。

 過ぎ去った影は遠ざかり、未来への希望が静かに灯った。



 夜の宿場は静まり返り、庭先には藤の花が淡く香っていた。

 幸昌は縁側に腰を下ろし、月を仰いでいた。白い光が鎧の肩を照らし、その横顔に若き決意が浮かんでいる。

 お東がそっと隣に座り、灯明の明かりが二人の間に柔らかな影を作った。


「……余は、これから殿のお傍で力を尽くしたい。家を支える役目を果たす男になりたいのだ。」

 幸昌の声は低く、しかし真剣だった。

 お東は静かにその手を取った。

「その志、必ず叶えてくだされ。……わたくしは、そのために力を尽くしまする。」

 彼女の指先は温かく、幸昌の胸に熱が灯った。


 その様子を、障子の隙間から覗いていた阿梅は、頬を染めて息を呑んだ。

 兄と婚約者の静かな誓いに、幼い心が憧れを抱く。

 そっと国松の手を握り、小さな声で言った。

「国松様……わたしも、国松様のお力になりとうございます。」

 国松は驚き、やがて真剣な眼差しで阿梅を見つめた。

「……余は、父上のように阿梅を守る。何があっても。」

 その言葉に、阿梅の瞳が潤み、月光が二人の幼い誓いを優しく包んだ。


 庭に吹く夜風が藤の花を揺らし、香りが淡く漂う。

 その香りは、若き者たちの胸に、未来への希望を静かに刻んでいた。



 同じ時奥座敷で、淀殿は一人、障子越しに月を見つめていた。袖の奥で指先が微かに震えている。

 灯明の淡い光が座敷に影を落とし、外には藤の花が夜風に揺れていた。


 静かな足音が近づき、信繁が深く頭を下げて膝をついた。

「御袋様……お心、いまだ晴れませぬか。」

 淀殿は視線を外さず、低く答えた。

「晴れるものか。……わらわは、この城を離れとうはなかった。」


 信繁はしばし黙し、やがて柔らかく言った。

「御袋様を初めて拝したのは、まだ余が若き頃。亡き太閤殿下の御前にて、御袋様の御姿を遠目に見た日のこと、今も忘れませぬ。」

 淀殿がわずかに振り返る。

「……あの頃は、栄華の極みであったな。太閤様の御座敷、金襖に映る灯り……わらわも若かった。」

 その声に、かすかな懐かしさが混じった。


 そして、淀殿は唇を震わせ、絞り出すように言った。

「……わらわは、ただ家の名を守りたいのではない。わらわは、若き身を老いた太閤様に委ね、すべてを賭して、この座を得た。

 その御方は、わらわの父を討った仇でもあった。憎しみを抱えながら、その御手を取り、笑みを作り、わらわの若さを捨ててまで守ったもの……。

 それを今さら捨てよと申すか。わらわの生きた証を、無にせよと……?」


 信繁は深く頭を垂れ、静かに答えた。

「御袋様……その御覚悟、余も胸に刻んでおります。

 しかし、殿下は御袋様の誇りを汚すことなく、血を流さぬ道を選ばれた。

 それこそが、御袋様の御心を継ぐ道にございます。」

 淀殿は障子の向こうの月を見つめたまま、答えなかった。

 ただ、その横顔に、消えぬ炎と、わずかな陰りが揺れていた。



 翌日の正午前、一行は大和街道を抜け、郡山の城下に入った。

 春の陽光が瓦屋根を照らし、町には静かな活気が漂っている。遠くに見える城郭は、石垣を高く積み、白壁が光を受けて輝いていた。天守は空に映え、なお威容を誇っている。

 その城は、かつて太閤秀吉の弟・秀長が築き、豊臣政権の中枢を支えた地である。

 今、その城が、秀頼一家の新たな拠点となろうとしていた。


 列が城門前に整うと、秀頼は馬を降り、しばし城を見上げた。

「……ここが、余らの新しき天地か。」

 その声は低く、しかし胸の奥に決意の響きを宿していた。

 千姫の駕籠が門をくぐる。懐妊した身を気遣う家臣たちの手が、慎重に彼女を支える。

 お奈津は国松の手を握り、お藤は静かに簾の奥から城を見つめていた。

 幸昌と信繁、勝永らは馬上で列を守り、家族の未来を胸に刻む。


 淀殿の駕籠が最後に進む。障子越しに見える横顔は、なお硬く、炎のような執念を宿していた。

 その執念の奥には、若き日の記憶が絡みついている。

 浅井家が滅び、母を失い、恐れに震えていたあの頃――。

 太閤秀吉の御座敷で、秀長の穏やかな声が彼女に届いた。

「茶々様、ここはもう戦の世ではございませぬ。安心なされよ。」

 その一言が、彼女に庇護と安らぎを与えた。

 だが同時に、老いた秀吉の手を取り、笑みを作り、若さを捨ててまでこの座を得た。

 父を討った仇に身を委ね、誇りも未来も背負う覚悟をした――その代償を、今さら無にすることなどできぬ。


 しかし、その視線の奥に、わずかな陰りと、言葉にならぬ迷いが揺れている。

 守り抜いたものが、果たして本当に豊臣の未来を照らすのか――その問いが、胸の奥で静かに疼いていた。



 駿府城の奥書院。

 障子越しに春の光が差し込み、庭の藤が淡く揺れていた。

 本多正純が深く頭を下げ、報告を終える。

「上様、秀頼様、郡山城へ入城なされました。」


 家康は静かに頷き、文机に置かれた報告書に目を落とした。

「……そうか。」

 低く呟き、長い吐息をひとつ漏らす。


 正純が退いた後、部屋に静寂が戻る。

 家康は障子の向こうの空を見上げ、誰に聞かせるでもなく言葉を落とした。

「これで、大坂の火種は消えた……。

 秀頼よ、どうか秀忠を支えてくれ。

 余は天下泰平を成すために、すべてを費やしてきた。

 血を流す世は、もう終わりにしたいのだ……。」

 その声は静かだが、深い決意を帯びていた。



 こうして、かつて天下を制した豊臣家は歴史の表舞台から姿を消した。

 その血脈は、戦乱の世を終わらせるための新たな秩序に組み込まれ、江戸幕府を支える柱の一本――大和松平家として生まれ変わったのである。


 しかし、その道は決して平穏ではなかった。

 新しき天地、大和郡山で始まる日々は、希望と不安が交錯する新たな物語の幕開けであった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

この章をもって、第一部は幕を閉じます。

戦乱の影を越え、豊臣の名は新しき秩序の中で姿を変えました。

しかし、物語は終わりではありません。

大和郡山で始まる新たな日々――そこには希望とともに、まだ見ぬ波乱が待っています。

どうぞ、第二部「大和編」をお楽しみに。

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