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第十二章 三度目の正直は要らぬ

慶長十九年、冬の大坂城。

秀頼は、かつての少年ではなかった。

背に家族と家臣の命を負い、理想を刃に変えて二条城へ向かう。

試される時は終わった――今こそ、己の言葉で未来を切り開く。

どうぞ、豊臣最後の交渉と、その覚悟を見届けてください。

 慶長十九年(西暦1614年)十一月 大坂城

 冷たい風が石垣を撫で、庭の木々はすでに葉を落としていた。


 障子越しの光は淡く、冬の気配が城内に静かに満ちている。

 秀頼は静かに息を吐き、腰の太刀に手を添えた。

 かつて二条城へ向かったあの日――

 胸にあったのは「戦わずして勝つ」という理想だけ。

 無邪気な光を宿した少年は、ただ試される者でしかなかった。

 だが今、その背には家族の命と、数多の家臣の運命が重くのしかかっている。

 理想はなお胸にある。けれど、それは夢ではなく、現実を貫くための刃となった。

 その重みこそが、二十二歳の若者を、一国を背負う当主へと変えたのだった。

「……参るぞ」

 その声は、かつての迷いを捨てた、覚悟の響きを帯びていた。

 城門の外には、わずかな供回りと、千姫が見送りに立っていた。

「殿……どうか、ご無事で」

 千姫の声は震えていたが、秀頼は静かに微笑んだ。

「お千、心配には及ばぬ。今度こそ、己の言葉で未来を切り開いてみせる」

 その背後には、真田信繁と有楽斎の姿があった。

 信繁は無言で頷き、鋭い眼差しに決意を宿す。

 有楽斎は扇を軽く打ち、柔らかな笑みを浮かべながらも、その眼には深い計算が光っていた。

「殿、道は険しゅうございますが、理を貫くならば、我らも共に」

 信繁の声は低く、確かな力を帯びていた。


 秀頼は馬に跨り、冬の風を受けながら二条城への道を歩み始めた――

 かつての孤独な駕籠ではなく、今は覚悟と策を共にする者たちとともに。



 二条城の石垣が視界に広がった。

 白壁は冬の光を受けてなお冷たく、巨大な門は沈黙のまま威圧を放っている。

 庭の松は霜を帯び、池には薄氷が張り、風が乾いた音を立てて枝を揺らした。


 かつて春の柔らかさに包まれていたこの城は、今や凍てつく静けさに沈み、

 その冷気が秀頼の頬を刺す。

 馬を降り、石畳を踏みしめる足音が乾いた響きを返す。

 背筋はまっすぐ、眼差しは澄んで鋭い。

 驕りの影ひとつなく、しかしその歩みには揺るぎなき威厳があった。

 太刀の柄に添えた指は、力を誇示するためではなく、己の覚悟を確かめるためにある。

 信繁と有楽斎が静かに続き、供回りの影が長く伸びる。

 障子越しの光が冷たく広間を照らす中、秀頼は一歩、また一歩と奥へ進む。


 その姿を、遠い高所から家康が見下ろしていた。

 黒の烏帽子に鋭い眼差し――老将の視線は、若き当主を射抜く。

『あの日の少年ではないな……』

 家康の胸に、わずかな驚きが走る。

 その影を映す障子が、静かに揺れた――。



 広間には冷たい光が差し、両側に徳川の重臣たちが並んでいた。

 秀頼は一歩進み、静かに座した。その眼差しには揺るぎがない。

『信繁の忍びが昨夜までに調べ上げた名と功績――一人も漏らさず、余の胸に刻んだ』


 まず、井伊直孝が鋭い眼差しを向け、口元に薄い笑みを浮かべる。

「戦もせず、降伏のような真似をなさるとは……豊臣殿も、ずいぶんとお急ぎにございますな」

 秀頼は微笑を崩さず、静かに礼を尽くした。

「井伊直孝殿――関ヶ原にて先鋒を務められし勇名、まことに見事にございます。

 降りるために参ったのではござらぬ。血を流さぬために、理を尽くす――それが武家の道と存ずる」

 直孝の眉がわずかに動き、皮肉を込めた笑みが驚きに変わった。

 次に酒井忠世が低く呟く。

「この年にして、ここまでの胆力……見事にございます」

 秀頼はすぐに応じる。

「酒井忠世殿――伏見城を守り抜かれた忠義、余も深く敬服しております。

 余はただ、愛する家族と、有能なる家臣たちの命が惜しいと思っただけにございます。

 幕府にも役立つ人材を、無意味な戦で散らすこと――それが心痛にて」

 忠世の眼差しに、感服の色が深まった。

 本多正純が扇を打ち、試すような声音で言った。

「さて、言葉だけで世が治まるものか……その理、拝聴仕りたい」

 秀頼は膝を進め、声を強めた。

「本多正純殿――政務における御才覚、余も学ぶところ多うございます。

 理なくして剣を振るえば、秩序は乱れ、天下は再び炎に沈む。

 我は、父の過ちを繰り返さぬためにここにある」

 正純の眼に、わずかな敬意が宿った。

 その時、土井利勝が声をかける。

「豊臣殿、遠路ご苦労にございます」

 秀頼は即座に応じる。

「土井利勝殿――幕政における御手腕、余も常々耳にしております。

 この場にて御意を賜ること、まことに光栄にございます」

 利勝は目を細め、わずかに驚きを隠せなかった。

 さらに永井尚政が低く言う。

「豊臣殿、御覚悟のほど、拝見仕りました」

 秀頼は深く頭を下げる。

「永井尚政殿――御忠勤、余も深く敬服しております。

 この和議が、天下の安寧に資することを願うばかりにございます」

 尚政の眼差しに、静かな感服が宿った。


 広間の空気がわずかに揺れた。

 皮肉を込めた眼差しが沈黙し、感服の色を帯びる者が増えていく。

 秀頼は最後まで平等に礼を尽くし、その姿には驕りも屈しもなかった。

 若き当主の声と所作は、もはや試される少年ではなく、一国を背負う者の威を放っていた。



 障子が静かに開き、家康が広間に入った。

 その顔には隠しきれぬ上機嫌が漂っている。

『見事よ……あの日の少年が、ここまで成長するとは』

 先ほどのやり取りを、家康は裏で聞いていた。

 秀頼の言葉と態度――富貴に媚びず、威武に屈せぬその気迫に、老将の胸にわずかな誇りが芽生えていた。

 家康はゆるやかに席に着き、低い姿勢で秀頼に言葉をかけた。

「豊臣殿、遠路ご苦労にござる。こうしてお目にかかれたこと、余にとっても喜びにございます」

 その声音は柔らかいが、眼差しには鋭い光が潜んでいる――試す意図を隠さぬ視線。

 秀頼は深く頭を下げ、静かに答えた。

「大御所様にこのようなお言葉を賜るなど、この秀頼には過ぎたる栄にございます。

 天下人にこんなお礼を受ける資格は、豊臣返上を決した今の余にはございませぬ」

 広間に一瞬、静寂が落ちた。

 家康の眼が細くなる。

『よい……言葉に曇りなし。誇りを捨てて媚びるのではなく、理を貫くために頭を垂れるか』

 老将の胸に、わずかな笑みが宿った。

『見事よ……あの日の少年が、ここまで成長するとは。理想を掲げるだけの無邪気さは消え、言葉に重みがある。己の家を守るためだけではない――天下の秩序を見据えている。

 その重みこそが、二十二歳の当主を、理想を掲げる少年から、現実を担う男へと鍛え上げたのだった。だが、試さねばならぬ。この覚悟が本物か、ただの飾りか』

 その笑みを隠すことなく、家康はゆるやかに姿勢を正し、広間に響く声で言った。

「秀頼よ、今は豊臣なきお主は、何の苗字を乗るか?」

 広間に一瞬、緊張が走る。

 秀頼は深く頭を下げ、静かに答えた。

「まだございませぬ。大御所様が下されれば、喜んで受け入れる所存にございます」

 家康はしばし考えるように視線を落とし、やがて言った。

「では……『松平』はいかが?」


 広間の空気がわずかに揺れた。

 松平――それは徳川の本姓。苗字下賜は、臣従の証であり、

 過去の豊臣家が完全に徳川に飲み込まれることの象徴であった。

 だが、秀頼はその意味を理解しながらも、心の奥で別の炎を燃やしていた。

『これこそ、外交戦略の大勝利……豊臣の血を守り、家を存続させる道だ』

 秀頼は顔を上げ、喜びを隠さず言った。

「大御所様の御厚意、まことにありがたく存じます。この秀頼、深く感謝仕ります」

 その笑みを見て、秀頼の屈辱に歪む顔を期待していた者たちは、

 微妙な表情を浮かべ、わずかな失望を隠せなかった。


 障子越しの光が冷たく広間を照らす中、家康はゆるやかに視線を秀頼の背後へ移した。

「そちらは左衛門佐殿ではないか、久しゅうござるな」

 信繁は静かに膝を進め、深く頭を下げる。

「はっはう、大御所殿にお声掛けいただき、ありがたき幸せに存じまする」

 家康は扇を打ち、試すような眼差しを向けた。

「建前はよい。余のこと、さぞ恨んでおろう?なぜ秀頼殿に従い、この和睦を支持した?」

 信繁は一瞬、眼を伏せ、やがて顔を上げて静かに言った。

「確かに、大御所殿とは敵でございました。されど恨みではなく、我が妻の父・刑部少輔殿への人情と、太閤殿下の御恩を返すため、治部少輔殿の呼びかけに応じたまでにございます。

 余もこの歳になり、戦など望みませぬ。ただ、我が子らの未来を切り拓きたいのみにございます」

 家康の眼が細くなる。

「左様か……そなたが僅かな兵で、この難攻不落の大坂城を制するとは、かつて半兵衛でさえ成し得なかったこと。まさに『日ノ本一の兵』でござるな」

 信繁は深く頭を垂れた。

「恐縮にございます」

 家康は笑みを深め、声を落とした。

「よかろう。転封の折には、そなたは秀頼殿の家臣となるがよい。今回の功に見合う褒美だ」

 信繁は静かに頭を下げる。

「ありがたき幸せにございます」


 その時、秀頼が膝を進め、低い声で言った。

「大御所様、余より左衛門佐殿のために一つお願いがございます」

 家康は扇を止め、視線を秀頼に移した。

「申してみよ」

 秀頼は深く頭を下げ、言葉を選びながら続けた。

「亡き刑部少輔殿の名誉を回復していただきたく存じます。左衛門佐殿の妻が長く傷心にございます。どうかお取り計らいを」

 家康の胸に、わずかな感慨が走った。

『自らの安否を差し置き、家臣のことを思うか……一人前になったな。この人情、利用できる』

 家康はゆるやかに頷き、声を響かせた。

「よかろう。転封の折、そなたの領内にて供養を許す」

 秀頼と信繁は同時に深く頭を下げた。

「ありがたき幸せにございます」


 家康は満足げに笑い、広間に響く声で言った。

「これでよい……これで天下泰平が訪れる」

 障子越しの光が冷たく揺れ、広間に静寂が落ちた――。



 大坂城に戻った広間は、冷たい冬の光に包まれていた。

 秀頼が姿を現すと、千姫は駆け寄り、涙をこらえきれずに袖で拭った。

 和睦成立の報告に胸を撫で下ろしながらも、彼女の視線は秀頼の肩に残る重荷を追っていた。

 まだ終わりではない。

 その思いが、胸の奥で静かに疼いている。

 お奈津は深く頭を下げた。

 策が成った誇りを感じながらも、次に待つ嵐を思えば心は落ち着かない。

 牢人たちの処遇を誤れば、城は炎に包まれる。

 その現実が彼女の背筋を冷やしていた。

 お藤は微笑みを浮かべていたが、指先は衣の裾を強く握っていた。

 人の心は剣よりも難しい。

 一歩間違えば、これまで積み重ねた努力がすべて水の泡になる。

 その恐れが胸に潜んでいた。


 秀頼は二人に視線を向け、静かに言った。

「お奈津、お藤……余を支えてくれたこと、忘れぬ」

 その言葉に二人は深く頭を下げたが、心の緊張は解けなかった。

 広間に漂う空気は、安堵と緊張が入り混じっていた。

 秀頼の眼差しには曇りが差している。

「……されど、ここからが正念場にございます」

 声は低く、広間に再び張り詰めた気配が満ちる。

「牢人たちの処遇を伝えねばならぬ。一歩誤れば、反乱。その時は、これまでの努力がすべて泡沫と消ゆ」

 障子越しの光が冷たく揺れ、千姫は秀頼の背を見つめた。

 その背にかかる重みを思えば、胸の奥に祈りが芽生える――どうか、この嵐を越えて。



 冬の冷気が大坂城の石垣を撫でていた。

 城内の庭に牢人たちが整然と集められ、列を成して秀頼の前に並ぶ。

 名目は「戦支度のための御前召集」。

 彼らは徳川との決戦に臨む号令と思い、胸に熱を宿していた。

 しかし、甲冑も刀も禁じられ、城門は固く閉ざされ、親衛隊が四方を固めている。

 その異様な空気に、誰もがわずかな不安を覚えていた。


 秀頼が高台の縁に進み出る。

 背後には信繁、勝永、重成、全登、盛親が控え、無言の圧力を漂わせていた。

 秀頼の声が庭に響き渡った。

「諸卿、これまで豊臣家のために尽くしてくれたこと、余は生涯忘れぬ――」

 牢人たちは胸を張り、戦の号令を待つ心で耳を傾けていた。

 だが、次の一言が落ちた瞬間、空気がわずかに揺れた。

「必ずしも徳川と死闘を望むわけではあるまい。余も同じ思いにて候」

 牢人たちがざわめき始めた。

 戦の号令と思って集まった者たちが、今、別の現実を悟り始めていた。

 そのざわめきを、信繁が一歩前に出て無言で制した。

 勝永は腕を組んだまま、重成は顎をわずかに上げて威を示す。

 全登の扇が静かに打たれ、盛親の足音が地面を響かせる。

 言葉はない――ただ、その無言の圧力が、声よりも雄弁だった。

 庭に再び静寂が戻る。

 秀頼の声だけが、冷たい冬の空気を裂いて響いた。

「徳川殿も、これまでの戦を罪に問わぬと誓われた。

 もし徳川、あるいは諸大名に仕えたい者は、申してよい。

 望まぬ者には、別の道を用意した。

 この日ノ本の商いを守る海路、その護衛を担ってほしい。

 反乱や海賊を企てぬ限り、徳川は干渉せぬことを保証する。

 他に望む道があれば、余が聞き届ける。

 今まで黙して余のわがままに従わせたこと、心より詫びる」


 牢人たちの視線が秀頼に集まった。

「太閤殿下の恩を忘れるのか」

「豊臣の名を捨ててまで……」

「……戦わぬ、だと?」

「……徳川に仕えるか」

「海路の護衛……まことか」

「戦は、もう終わりか」

 誇りと葛藤、そしてわずかな安堵が入り混じっていた。だが、大勢は悟っていた。


 やがて、列の端で一人が頭を下げた。

 続いて、別の者が静かに頷く。

 その動きが連鎖し、庭に重い決意が広がっていった。

 牢人たちは、秀頼の指示に従う道を選んだのである。



 秀頼は静かに千姫の寝所へ足を運んだ。

  廊下の板が、夜気と共にひんやりと冷たかった。

 秀頼は床を鳴らさぬよう、爪先だけで進む。鎧の下でかいた汗も、鉄の臭いも、もはや戦の喧騒と共に遠のいていた。

 時折吹き上がる風の音だけが、この世にまだ動くものがあることの証左のように、かえって静けさを深くしていた。


 障子の向こう、灯火が薄く透け、人の気配が微かに揺れた。

  「……お千」

 声を押し出すと、間もなく戸が内側から引かれる。 灯りの芯が揺れ、秀頼の影が廊下に長く、歪んで落ちた。

 千姫は正座したまま、顔を上げた。 白い額に垂れた髪が、灯火を受けて淡く光る。

「御無事の御帰還、何よりに存じます」

 その言葉は、挨拶というより、密やかな祈りの続きのように響いた。

「……終わった。ようやく、な」

 秀頼が腰を降ろすと、喉の奥から零れた声は、己でも驚くほど細かった。

 千姫は膝でにじり寄り、その袖にそっと指を添える。

「お疲れで御座いました」

 一瞬、刻が止まった。 秀頼は天井を見上げ、深く息を吐く。

「余は……おぬしに、幾度救われたことか」

「殿……」

  千姫が伏せ目になり、睫毛が震えるのを秀頼は見逃さなかった。

「わたくしなどはただ、こうしてお傍に侍ることしか……」

「左様なことはない。それで、充分なのだ」

 秀頼が羽織を脱ぐと、千姫は立ち上がり、その背後に回って胸紐を解く。指先が小刻みに震えているのが、秀頼の背中へと伝わってきた。

「手が冷えているな」

 彼はそっとその手を包む。

「……もう、寒うは御座いませぬ」

 千姫の吐息が、秀頼の頸筋にかかる。熱かった。


 障子の外、侍女たちの私語が遠のき、廊下の端で小さな戸が閉まる音がした。

 灯籠の火が一つ、風に煽られて不意に消える。 部屋の影が、いっそう濃くなった。

 秀頼は振り返り、千姫の肩に手を置いた。

「お千……余は、恐ろしかったのだ」

「わたくしも……左様で御座いました」

「あの者たちが暴れ狂うた時、いかにしておぬしを守ればよいかと……」

 千姫は静かに首を振る。

「たとえ火の中、水の中なれど、わたくしは殿と共に。それだけに御座います」

 言葉の終わりに、彼女の額が秀頼の胸に触れた。

 ふたりの影が、灯りの芯を揺らすたびに畳に絡まり合う。

 秀頼は腕に力を込め、千姫の背を抱き寄せた。

 小袖は汗で体に張り、布越しに相手の鼓動が早鐘のように伝わる。

「もう、離しはせぬ」

「離さないで……たもれ。どうぞ……」

 千姫の返事は、震えながらも確かな響きを帯びていた。

 秀頼は彼女の額に唇を寄せる。 冷たい汗の味がして、それが妙に甘露のように感じられた。 千姫が小さく息を呑み、自ら腕を彼の腰に回す。

 灯火が、ぱちりと音を立てて爆ぜた。芯が短くなり、蝋の滴る音だけが密室に響く。

 秀頼は千姫の頬に手を滑らせ、耳の後ろで指を止めた。

「案ずるな」

「……はい」

「おぬしがここに在る限り、余は迷わぬ」

 千姫は瞬きを堪えるように目を閉じ、再び開いた時には、瞳に月の雫のような涙が浮かんでいた。

「殿の迷いも、苦しみも、すべてわたくしが受け止めましょう」

 その言葉に、秀頼の胸の奥が熱を帯びる。


 彼は千姫の肩を抱いたまま、ゆっくりと身を傾けた。 畳に倒れ込むようにして、ふたりは横たわる。

 乱れた小袖の裾から、千姫の白い足首が灯りに照らされた。

 秀頼はその足に指を這わせ、確かめるように握った。

「冷えるな」

「冷えてなど……おりませぬ。熱くて、壊れそうに御座います」

 千姫の声は、掠れて低く、夜の闇に溶けていった。

 灯火が、最後の蝋を滴らせて消えようとしていた。

 闇に呑まれる寸前、秀頼は千姫の唇を見つめた。

「お千……」

「……はい、殿」

 千姫が微かに顎を上げる。

 秀頼はその呼びかけに応えるように、ゆっくりと吸い寄せられた。 唇が重なった瞬間、千姫の体が小さく跳ねる。

 だが、すぐに彼女は両手を秀頼の背に回し、自分からその熱を求めた。

 灯火が、ぱちりと最後の光を散らして絶えた。

 部屋は完全な闇に包まれる。

 だが、その暗がりの中でこそ、ふたりの息遣いは高まり、衣の擦れる音が鮮やかに響く。

 千姫の指が秀頼の帯を探り、帯締めを引き抜いた。

「……殿」

「お千……」

 名を呼び合うたび、ふたりの境界が消えていく。

 障子を通して差し込む月の光だけが、畳の上に、重なり合うひとつの影を描き出していた。


 やがて、乱れた息を整えながら、千姫が秀頼の肩に額を押し当てた。

「もう……充分で御座います」

「いや、まだ足りぬ。一生をかけても、足りぬであろうな」

 秀頼は低く笑い、千姫の背を愛おしげに撫でた。

 ふたりは並んで横たわったまま、静寂に身を委ねる。

「月が……丸いな」

「はい。見事で御座いますね」

「明日も、明後日も、余はおぬしを離さぬ。この月が見守る限り」

「……わたくしも、片時も離れませぬ」


 月は雲を引き裂くように輝き、ふたりの体を一筋の白光で結んでいた。

 戦の音も、苦渋の日々も、今は遠い。

 ただ、重なった影と、重なり合う鼓動、そして満ちゆく月の光だけが、そこにあった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

本章では、秀頼が覚悟を示し、二条城での和議を成し遂げるまでを描きました。

戦を避けるための策と、家康との心理戦――その果てに訪れた静けさは、決して終わりではありません。

大坂城に戻った秀頼を待つのは、新たな選択と、思いがけない報せ。

物語はさらに深まり、運命の歯車が静かに回り始めます。

どうぞ次章もお楽しみに。

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