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第十一章 鳴けば天下を驚かす

静かな策が、ついに歴史を揺るがす。

言葉と決断が連鎖し、誰もが予想しなかった転機が訪れる――。

「鳴かずんば則ち已む」から「鳴かば人を驚かす」へ。

沈黙を破る一手が、戦雲を裂き、運命を動かす瞬間を描きます。

どうぞ、彼らの覚悟と策謀の行方を見届けてください。

 大坂城、夜明け前の静寂。

 千姫は、膝の上の脇差を強く握りしめていた。

 夫・秀頼を見送った後も、胸の奥には重い不安が渦巻いている。


 ふと、遠い日の記憶がよみがえる――

 あれは、まだ自分が六つの春を迎えたばかりの頃。

 江戸から大坂へと輿入れし、見知らぬ人々と、見上げるほど高い天井に囲まれて、心細さと緊張で胸がいっぱいだった。

 障子の向こうから、そっと現れたのは、豊臣秀頼。

 自分より四つ年上の、けれどまだ幼さの残る少年だった。

 大人びた威厳はなく、どこか不安そうな、けれど優しい目をしていた。

「ようこそ、お越しくださいました」

 秀頼は、ぎこちなくも丁寧に頭を下げた。

 千姫はうつむいたまま、声も出せず、ただ小さく会釈を返すのが精一杯だった。

 しばらくの沈黙の後、秀頼は庭に咲く梅の枝を手折り、千姫の前にそっと差し出した。

「お千、京の春は江戸よりも早い。梅の香りで、少しでも心が和らげばよいのだが」

 その言葉に、千姫は思わず顔を上げた。

 秀頼の眼差しは、どこまでも優しく、幼い自分の不安を包み込むようだった。

 梅の花の淡い香りが、緊張で固まっていた千姫の心に、静かに染み込んでいく。

 その瞬間、千姫は初めて「この人の傍で生きていきたい」と、幼いながらも強く思った。


『あの日、殿が差し出してくれた梅の花の香り――

 私は、あの香りと共に、殿の傍で生きると決めたのです』

 今、膝の上の脇差を握る手に、あの日の温もりがよみがえる。

『どうか、殿が無事でありますように――』

 祈るように目を閉じるが、不安は消えない。


 その時、廊下の向こうから、急ぎ足の気配が近づいてきた。

 千姫の全身が強張る。脇差の鞘を半分抜き、冷たい刃を首筋にそっと当てる。

『もし、失敗の報せなら――』

 襖が静かに開く。その瞬間、千姫の手元に視線を落としたお藤が、思わず息を呑み、愕いた表情を浮かべた。

 千姫が脇差を自らの首に当てている――その覚悟の強さに、言葉を失う。

「……お千様、奥の制圧、すべて終わりました。御袋様と大蔵卿局は隔離。鼠一匹、外へは通しませぬ。成功にございます」

 その言葉を聞いた瞬間、千姫の肩から力が抜ける。

 脇差をそっと納め、震える手で鞘ごと胸に抱きしめた。

「……お藤の方……よくやってくれました……」

 声はかすかに震えていた。

 千姫は脇差を抱いたまま、しばらくその場に座り込む。

 頬を伝う涙は、恐怖でも絶望でもない。

 ただ、夫と共に生きる未来が、ほんの少しだけ近づいたことへの、静かな祈りだった。



 一刻も早く次の一手を打つべく、秀頼は保守派指導者の面々から指揮権を回収した。

 夜が明ければ、城主名義で「徳川を迎え撃つための防備強化」を掲げ、大坂城の普請や真田丸の築造を命じる――その名目で、主戦を声高に主張する牢人たちを城外へ動員する策である。


 広間に集まった信繁と勝永に、秀頼は静かに言葉を落とした。

「真田丸の築造、そして城外の普請を急げ。牢人どもには『戦支度』と思わせよ。

 城内は静けさを保て――その意味を、忘れるな」

 信繁は深くうなずき、勝永と視線を交わす。

「承知仕った。殿の御心、必ずや果たし申す」

 その声には、戦場で鍛えられた武士の覚悟が宿っていた。

 二人が下がろうとした時、秀頼はふと信繁を呼び止める。

「……信繁、もう一つ頼みがある」

 信繁が振り返る。

「何なりと」

 秀頼は、誰にも聞かれぬように身を寄せ、声をさらに潜めた。

 その言葉は、広間の空気を一瞬で張り詰めさせるほどの重みを帯びていた。

 信繁の眼差しが鋭く光り、深くうなずく。

「……承知。殿の策、必ずや通してみせましょう」

 秀頼は小さくうなずき、視線を落とした。

 広間に漂う沈黙が、次第に冷たい緊張へと変わっていく。

 その奥で、何かが静かに動き始めていた――。



 夜明け前の薄明かりが、障子越しに差し込む。

 秀頼が寝所に入ると、千姫は立ち上がり、ためらうことなくその胸に飛び込んだ。

「殿……!」

 声は震えていた。

 秀頼は、その細き肩をしっかりと抱き返す。

 千姫は、秀頼の胸に顔を埋め、深く息を吸った。

『この温もり……また感じられる……』

 胸の奥に張り詰めていた恐怖が、静かにほどけていく。

 頬に触れる衣の香りが、遠い日の梅の花を思い出させた。

 襖の陰で控えていたお藤は、二人の抱擁を見て、そっと目を伏せる。


 秀頼は、腕の中の妻に低く語りかける。

「お千……幾度も、幾度も心労をかけてしまった。まことに済まぬ」

 秀頼が膝をつき、深々と頭を下げる。

「本当に申し訳なく思う。されど、どうしても頼みがある」

 千姫はすぐにその腕を取り、立ち上がらせた。

「殿……そのようなこと、なされますな。

 殿の御望みなら、何事も遠慮なくお申し付けくだされ」

 千姫は涙を拭い、微笑みながら続ける。

「殿……お願いなど申されずともよろしゅうございます。

 殿のお心のままに、何でもいたしまする」


 秀頼の瞳がわずかに揺れる。

「……そう言ってくれるか」

 一瞬、言葉を選ぶように沈黙し、やがて絞り出すように告げた。

「我が命を代価にしてでも、牢人たちの処遇を願いたいのだ」

 千姫の表情が凍りつく。

「殿……命を代価に、など……」

 声が震え、胸の奥に冷たいものが走る。

 お藤は息を呑み、視線を落とした。

 だが、秀頼の眼差しに宿る決意を見た瞬間、千姫の震えは静かに鎮まった。

 千姫は深く息を吸い、ゆっくりと頷く。

「……殿のお心、しかと受け止めました。

 その願い、必ず果たしてみせまする」

 その言葉に、秀頼の瞳が潤む。


 二人は再び抱き合った。

 千姫は、秀頼の背に腕を回しながら、心の奥で静かに誓う。

『殿と共に――生も死も、離れぬと決めておりまする』

 お藤は、二人の抱擁を見つめながら、静かに頭を垂れた。

 その胸には、豊臣家の運命を背負う二人への深い敬意が宿っていた。



 几帳の陰、文机に向かう千姫の指先はわずかに震えていた。

 墨を含ませた筆を握りしめ、深く息を吸う。

(殿のお心を、必ず届けねば……)

 障子の外では、夜が白み始めている。

 千姫は静かに筆を走らせた。


『御祖父様、御父様へ 恐れながら申し上げ候

 秀頼様、天下泰平の御ために母御を御軟禁なされ候。』


 筆先が止まる。千姫は唇を噛み、目を伏せた。

(母上を……敵に回すことになろうとも……殿は泰平を選ばれた)

 袖口で涙を拭い、再び筆を進める。

『誠に親不孝の御所業にて候えども、御覚悟を支え奉るため、我もまた覚悟仕り候。

 秀頼様は大坂城の御退去を受け入れ、更には御身をも惜しまず、家臣並びに牢人衆の御助命を願い奉り候。』

 千姫は障子の外を見やり、明け始めの空に目を細める。

(殿……命を惜しまず、皆を救おうと……)

 胸の奥に冷たいものが走り、指先がわずかに震えた。

『幕府に再び御奉公仕りたき者は諸大名へ御預け賜り、望まぬ者は海外へ遣わし、通商路の護衛に当てる策を御示しなされ候。

 母御は敵対仕り候えども、既に権を奪われ、ただ老いたる身にて候。

 秀頼様、せめて穏やかなる最期を過ごさせたく、子としての御情を捨ててはおられず候。

 また、御子らに罪はござりませぬ。反乱に利用されぬよう、豊臣の苗字並びに五七桐紋を返上仕り候。

 彼らは豊臣の後継にあらず、ただ秀頼様の御子にて候。』

 千姫は筆を置き、深く息を吸った。

(ここまで書けば……殿のお心も伝わる)

 しかし、最後の言葉が胸を締めつける。

 再び筆を取り、震える手で書き始める。

『最後に、我が身のわがままをお許し下され候。

 千は既に秀頼様と心身ともに一緒にあると決めて候。

 秀頼様がこの世におられぬ時は、我も共に参る覚悟にて候。

 何卒御慈悲を賜り候はんこと、伏して願い奉り候。

 御祖父様も御父様も、天下の御ために健やかにあらせられ候こと、心より祈り奉り候。

 恐れながら申し上げ候 千』


 千姫は筆を置き、文を丁寧に折り、封をする。

 侍女に手渡し、静かに言った。

「急ぎ、江戸へ……頼みまする」

 侍女が去り、千姫は障子を開けた。

 明け始めの空が淡く染まり、遠くで鳥の声がした。

 その光を見つめながら、心の奥で言葉を紡ぐ。

(殿……この願い、必ず叶えてみせまする)

 頬に冷たい風が触れ、千姫は静かに部屋へ戻った。

 その背筋には、少女ではなく、豊臣を支える正室の覚悟が宿っていた。



 一方、奥御殿の座敷に、秀頼は静かに腰を下ろした。

 障子越しに差し込む朝の光が、まだ淡く、冷たい空気が張り詰めている。

 几帳の陰からお奈津が進み出ると、秀頼は膝の上で指を組み、しばし沈黙した。

 その手はわずかに震え、爪が畳に食い込むほど力がこもっていた。

「お奈津……頼みがある」

 声は低く、夜を越えた疲労と決意の重みが滲む。

 お奈津は膝をつき、深く頭を下げる。

「何なりと……」

 その声にも緊張が走り、胸の奥で鼓動が早まるのを感じていた。

 秀頼は一息置き、視線を畳に落としたまま言葉を選ぶ。

「此度の騒動、両家の誤解にて起こりしものと、朝廷へ弁明してほしい。

 我が身より、徳川へお詫びの意を伝えたい。

 その仲立ちを、朝廷に願うのだ」

 お奈津の眉がわずかに動き、視線が揺れる。

『殿が……自ら詫びを』

 胸の奥に冷たいものが走るが、秀頼の眼差しは揺るがぬ。

 その瞳には、若き当主の誇りと、血を流さぬ天下への切なる願いが宿っていた。

「さらに……」

 秀頼は声を潜め、指先で畳を押しながら言葉を絞り出す。

「豊臣の名と、五七桐紋を返上する。

 このことも、朝廷を通して徳川へ伝えてほしい。

 牢人どもに知られてはならぬゆえ、扱いは極めて慎重に。

 ――これも、国松たちのために」

 その一言に、お奈津の胸が強く震えた。

 視線がわずかに揺れ、唇を噛む。

『国松……わが子を、戦の渦に巻き込ませてはならぬ……』

 母としての恐れと、安堵が入り混じり、目の奥に熱がこみ上げる。

 指先が畳を押し、力がこもった。

 お奈津は深く頭を垂れ、声を震わせぬように努めながら答えた。

「御意……必ずや、朝廷を通じてお取り次ぎ仕ります」

 秀頼は静かに頷き、遠く障子の向こうを見やった。

 朝の光が淡く差し込み、二人の間に張り詰めた沈黙が落ちる。

 お奈津は、その横顔に一瞬、言葉を失う。

『殿……ここまでの覚悟を』



 朝の光が大坂城の石垣を淡く染める頃、城外の野面には人足と牢人たちが集まり始めていた。

 槍を担ぎ、鎧の紐を締め直す音が響く。

「いよいよ戦支度よ!」

「殿の御心に応える時ぞ!」

 牢人たちの顔には血が沸き立つような笑みが広がり、声は空を震わせるほど高まっていた。

 彼らは、真田丸の築造こそ決戦の前触れと信じて疑わない。

「徳川など恐るるに足らず!」

「この城を死守し、豊臣の誇りを示すのだ!」

 その熱気は、冬の冷気をも押し返す勢いであった。

 少し離れた場所で、信繁は静かにその光景を見つめていた。

 槍の穂先が朝日にきらめき、牢人たちの笑い声が風に乗って耳に届く。

(殿……この者たちを、戦わせずに治める策を巡らせるとは)

 胸の奥に、熱いものが込み上げる。

 秀頼の策は、ただの小細工ではない。

 牢人たちの戦意を利用しながら、城内の火種を外へ誘い、血を流さぬ道を切り開こうとしている。

(若き当主にして、この覚悟……)

 信繁は拳を握り、静かに空を仰いだ。

 その瞳には、秀頼への忠義と深い敬意が宿っていた。



 伏見城の本陣に、冷たい朝の光が差し込む。

 家康の前に、千姫の手紙が静かに置かれた。


 封を切り、正純が声を低くして読み上げる。

「……秀頼様、天下泰平のため母御を御軟禁なされ候……」

 その文言に、正純の眉が険しく寄る。

 読み終えると、紙を畳に置き、冷笑を浮かべた。

「殿、この文、明らかに秀頼の策にございます。卑怯者め、戦を避けるための芝居に過ぎませぬ。千姫様も、哀れにございますな……人質として縛られているやもしれませぬ」


 その言葉は鋭く、広間の空気を冷たく裂いた。

 家康は黙したまま、手紙を見つめる。

 指先が紙の端をゆっくり撫で、視線は動かぬ。

『人質……千姫が……』

 胸の奥に、冷たい刃が突き立つような感覚が走った。

『余の孫が、あの城で……秀頼の策に巻き込まれておるのか』

 老将の心に、祖父としての情が激しく波打つ。

 だが、その波を表に出すことは許されぬ。

『ここで迷えば、天下は乱れる……』

 正純がさらに言葉を重ねる。

「殿、ここで情を見せれば、天下は乱れまする。御決断を誤られませぬよう」

 家康は深く息を吐き、手紙を静かに畳んだ。


 短い沈黙の後、低く一言。

「……進軍を続けよ」

 その声は冷徹でありながら、わずかな影を帯びていた。

 伏見城の本陣に、再び緊張が走る。

 老将の眼差しには、天下人としての冷酷な理と、祖父としての情が、静かにせめぎ合っていた。



 進軍継続の報が大坂に届いたのは、朝の冷たい風が城を撫でる頃だった。

 千姫は報せを聞いた瞬間、顔から血の気が引いた。

 障子越しに差し込む光が、やけに遠く感じる。

『お祖父様は、もはや我を信じてはくださらぬのか……

 裏切り者と思し召しておられるのであろうか……』

 胸の奥が締めつけられ、息が苦しい。

 自分の手紙は、何の力にもならなかった。

『我が筆は、ただ紙を汚しただけ……殿の御ためにと願いながら、何一つ果たせぬ』

 指先が膝の上で震え、悔しさが込み上げる。

『お祖父様にとり、我は徳川の姫にあらず、豊臣に染まった裏切り者……』


 その時、襖が静かに開き、秀頼が姿を現した。

 千姫は立ち上がる間もなく、その腕に飛び込み、声を震わせた。

「殿……私は……何の役にも立てませぬ……」

 涙が頬を伝い、袖を濡らす。

 秀頼は驚きながらも、しっかりと抱きしめた。

「お千……そんなことを申すな」

 その声は低く、温もりに満ちていた。

「手伝ってくれただけで、我には十分嬉しい。お前のせいではない。これは我が選んだ道だ……」

 千姫は秀頼の胸に顔を埋め、嗚咽をこらえながら震える声で答えた。

「殿……我は……」

 秀頼は彼女の髪に手を添え、静かに言葉を重ねる。

「お千……我は、お前がいてくれるだけで力を得る。何も悔いることはない」

 千姫の涙は止まらなかったが、その胸の奥に、わずかな温もりが戻り始めていた。

『殿……我は、殿と共に……生も死も、離れぬ』



 だが、家康本陣は思わぬ時で大坂への進軍を止めた。

 信繁の報告によると、途中で二条城へ引き上がったという。

 奥御殿の一室。

 信繁が静かに膝をつき、秀頼に報告した。

「殿、政宗公へ御意、確かに届け候」

 秀頼は深くうなずき、声を低くした。

「よくぞ……そなたに託した策、果たしてくれたな」

 信繁の脳裏に、あの夜の光景がよみがえる――。


 灯火が揺れる座敷。

 秀頼は人払いを済ませ、信繁を呼び寄せた。

「信繁……一つ頼みがある」

「何なりと、殿」

「伊達政宗へ、密かに伝えてほしい。

 ――『大坂城は、すでに我が掌中にあり』と。

 その証を、徳川に届けさせるのだ」

 信繁は深く頭を垂れた。

「御意……必ずや果たしてみせ候」


 宇都宮城の本陣。

 冷たい朝の空気が障子を揺らし、墨の香りが静かな座敷に漂っていた。

 政宗は密書を手に取り、信繁の筆跡をじっと見つめる。

 その眼差しは鋭く、やがて口元に笑みが浮かんだ。

「……信繁、やはり只者ではないな」

 声は低く、愉悦を含んでいた。

 片倉小十郎が膝を進め、静かに答える。

「その英雄を活かす秀頼様も、尋常ならざる器量にございます」

 政宗は指先で密書の端を撫で、遠くを見やった。

 障子越しに差し込む光が、硯に映り、墨の黒が深く沈む。

「面白い……この二人、戦を避けるためにここまでの手を打つとは。

 血を流さぬ天下を目指す胆力、見事よ」

 小十郎が息を呑む。

 政宗はゆるやかに筆を取り、硯に浸した。

 墨が筆先に絡み、黒い滴が紙に落ちる寸前で止まる。

「ならば、我も一手添えよう」

 筆が走り始める。

『――秀頼公、すでに城を掌握し、和睦の意あり』

 政宗の筆跡は力強く、紙を切るように進む。

 その横顔には、冷徹な武将の計算と、若き当主への敬意が交錯していた。

「小十郎……この書状、急ぎ家康公へ」

「御意」

 小十郎は深く頭を垂れ、政宗の眼差しに宿る炎を見た。

『殿……この戦、ただの戦ではない。天下の形を変える一手にございます』

 政宗は筆を置き、静かに笑った。

「信繁……英雄よ。そして、その英雄を使いこなす秀頼……面白い世になったものだ」


 伏見城の本陣。

 冷たい朝の光が障子を透かし、広間に重苦しい空気が漂っていた。

 家康の前には三つの文が並ぶ。

 一つは朝廷から届いた「豊臣返上」の報。

 一つは千姫の筆による切なる願い。

 そして最後に、伊達政宗の書状――「秀頼公、すでに城を掌握し、和睦の意あり」。

 家康は指先で紙の端を撫で、深い沈黙を落とした。

 視線は動かぬまま、胸の奥で理と情がせめぎ合う。

『秀頼……本気で動いたか。

 母を押さえ、家紋を捨て、命を賭して和睦を望むとは……』

 正純が膝を進め、低く言う。

「殿、ここで情を見せれば、天下は乱れまする」

 その言葉を聞きながら、家康はふいに笑った。

 低く、やがて広間に響く大笑いとなる。

「ははは……秀頼、見事よ!

 わしを欺く策かと思えば、ここまでの覚悟とはな」

 笑い終えた家康は、筆を取り、命を記した。

「進軍を止めよ。二条城にて和睦の席を設ける」


 伏見城の本陣に、緊張が解ける音が走る。

 老将の眼差しには、天下人としての冷徹な理と、祖父としての情が、静かに交錯していた。

 その笑みは、戦の嵐を鎮める一手を告げるものだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

本章では、積み重ねられた策と想いが、ついに歴史を変える力となりました。

血を流さぬための戦いは、言葉と信念の連鎖となり、家康の決断を揺るがします。

次章では、和睦の席へ向かう豊臣と徳川――

その道の先に待つものは、果たして安寧か、それとも新たな嵐か。

どうぞお楽しみに。

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