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第十章 動かされた運命

夜半の大坂城に、静かな嵐が忍び寄る。

血を流さぬための戦――その矛盾を抱え、秀頼は母上の寝所へ歩を進める。

「余は鬼となっても、こうするしかない」

理で泰平を守るための決断が、城の闇を裂き、歴史を動かす。

これは、誇りと情を断ち切り、大義に生きる者たちの物語。

 大坂城の奥深く。

 お藤の寝所の接客室は、一筋の灯明が揺れるだけの深い静寂に包まれていた。

 ろうそくの芯が小さく爆ぜる音が、張り詰めた空気を切り裂く。

 襖が静かに開き、真田信繁が足音を忍ばせて入ってきた。


 赤備えの具足を解き、黒羽織に身を包んだその姿には、十四年の蟄居を経てもなお鋭さを失わぬ武将の気迫が漂っている。

 信繁の視線が灯火に揺れる室内を走り、やがて二つの影に留まった。

 秀頼は几帳の奥に座し、その傍らにはお藤――正装を解き、動きやすい旅装に近い小袖を纏い、鋭い眼差しで控えていた。

 その姿は、奥御殿の守護者であると同時に、忍城を守り抜いた成田氏の血を引く冷徹な軍師の影を映していた。

 襖の向こうでは、侍女たちが息を潜め、誰一人としてこの場に近づけぬよう、お藤の指示で退路が封じられている。


 その鉄火の気配に守られ、豊臣秀頼と真田信繁は、膝を突き合わせた。

 秀頼が低く口を開いた。

「……信繁、呼び立ててすまぬ。だが、もはや猶予はない。

 叔母上たちの説得は不調に終わった。母上は、この城と共に果てることしか見えておられぬ」

 その声は、凍てつくように冷静であった。灯火の影が秀頼の横顔に複雑な陰影を落とし、瞳には迷いを捨てた鋼の光が宿っている。

「――母上の意地は、もはや揺るがぬ。叔母上たちの涙も届かぬ。

 このままでは、血の海を避けられぬ」

 お藤は静かに頷き、扇を閉じながら言葉を重ねた。

「左様にございます。母上は今、大蔵卿局らと『潔く散る』という甘い毒に酔っておられます。

 もはや、言葉でその酔いを覚ます手立てはございませぬ」


 信繁が膝を進め、声を潜めた。

「殿……ならば、どういうお考えを」

 秀頼は深く息を吐き、低く答えた。

「余は、自ら大御所様と和睦交渉を行おうと考えておる。

 家康公の期待に応え、余がこの手で城内の毒を断ち、豊臣を徳川の柱の一つとして再生させる。

 ……そのためには、どうしても、そなたの力が要るのだ」

 信繁は、白髪の混じった頭を低く下げたまま、慎重に言葉を選んだ。

「和睦……にございますか。それは、徳川の軍門に下る、ということでございましょうか」

「降伏」という剥き出しの単語を避けつつ問う信繁の声を、秀頼は静かに遮った。

「余を腰抜けだと思うか? それでよい。家族や家臣を守れるのであれば、余は股の下でも潜って見せよう。

 無意味な戦を止め、泰平を掴む――それが余の戦いだ。

 真田、そなたも家族の未来のために、九度山を捨ててここに来たのではないか」

 信繁はゆっくりと顔を上げ、秀頼の瞳を真っ直ぐに見据えた。

 そこには、かつて父・昌幸が家族の生存だけを賭けて戦った時と同じ、狂おしいほどの「理」が宿っていた。


 信繁は低く呟く。

「殿、そのお言葉は過ぎたるもの。……我らも殿と同じ想い。

 なれど、私の妻――刑部の娘は、かつて父である大谷刑部殿が、家康公の放った『問鉄砲』に突き動かされた金吾殿の裏切りに遭い、果てたと聞いております。

 殿の大義に従うとは言え、再び仇である家康公の望み通りに動くことは、妻にとって、あまりに過酷な仕打ち……」

 信繁の言葉には、十四年の苦楽を共にした妻への、痛切なまでの慈しみが滲んでいた。

 秀頼は、その荷の重さをすべて受け止めるように深く頷いた。

「余も耳にしたことがある。大谷刑部殿の最期は、この国の武士が語り継ぐべき悲劇であった。

 ……だが、信繁。亡くなった故人のために、今を生きる妻や、未来ある子供たちを殉じさせることは、あまりに酷なことだと思わぬか」

 秀頼は身を乗り出し、信繁の乾いた手を自らの手で包み込んだ。

「信繁、案ずるな。そなたの御内様の怨みは、余がすべて引き受けよう。

 和睦が成った暁には、名門・大谷刑部殿の名誉を必ずや回復させ、御内様を再び陽の当たる場所へお連れすると、この秀頼が命を懸けて誓う。

 ……だから、そなたの背負う荷を半分、余に預けてはくれぬか」


 沈黙が室内を支配した。灯火が揺れ、三人の影が畳に重なる。

 やがて、信繁の瞳に、かつて戦場を赤く染めた「戦神」の火が灯る。

「……負けました。殿のその『理』、そしてお覚悟。

 真田左衛門佐信繁、この命、今日より殿の家族の未来のために捧げましょう。」


 灯明一筋、淡き光に几帳の影が長く伸びる。

 お藤は扇を静かに置き、低く言葉を紡いだ。

「殿、まずは城中の力を見極めねばなりませぬ。強硬の声を上げるは、後藤又兵衛、塙団右衛門、大野治長――いずれも『戦こそ誇り』と申す者どもにございます」

 信繁は膝を進め、声を潜めて応じる。

「毛利勝永殿は誇りを重んじられますれど、理を解する御方。長宗我部盛親殿も同じにございましょう。

 ただ、又兵衛、団右衛門は血を求むる狼。これを評定より遠ざけねば、和睦の道は閉ざされまする」

 秀頼は深く息を吐き、灯火に揺れる影を見つめた。

「……治長は如何に」

 お藤の瞳が鋭く光り、扇を閉じて言う。

「御袋様の影そのものにございます。母上の御意を支える限り、和睦を阻む壁となりましょう。

 退けるには、奥を固め、治長を別室に留めるほかございませぬ」

 信繁は低声にて続ける。

「殿、味方となる者もおります。明石全登殿――沈黙を守りておられますが、心は血を嫌う御方。

 また、長宗我部、勝永、木村重成――いずれも家族を守りたい思い強し。理を説けば、必ず応じましょう」

 秀頼の瞳に鋼の光が宿る。

「……敵と味方を見極める。それが、余の戦にてある」

 お藤は深く頭を垂れ、静かに言葉を重ねた。

「殿、奥は私が守り申します。侍女どもの動き、殿の御意が定まり次第、速やかに心得させまする。

 評定の場を整えるは、真田殿の役目。嵐が来る前に、嵐を鎮めねばなりませぬ」

 信繁は欠けた歯を見せ、笑みを浮かべた。

「承知仕りました。嘴の用意、既に整っておりまする。殿の御心、必ず形にいたしましょう」


 灯火が揺れ、三人の影が畳に重なる。

 その影は、静かなる誓いを刻むがごとく、長く伸びていた。

 障子の外に冬の風が渡り、遠くで太鼓の音が微かに響く――嵐は、まだ遠し。されど、確かに近づいていた。



 大坂城、広間。

 澱んだ熱気と開戦論が渦巻く中、上座に鎮座する豊臣秀頼は、一言も発せず、「理」の瞳で座を見渡していた。

 その沈黙を破り、真田信繁が静かに立ち上がり、一巻の図面を広げる。

「――諸卿、聞き届けられよ。此度の戦、ただ籠もるのみでは、往時の北条氏、小田原殿の二の舞にござる。

 敵を引き寄せ、一網打尽にするための『牙』が要る。……大坂城の南、茶臼山を正面に据えた平地に、独立した出城を築き候。名は『真田丸』と致す」

 広間にどよめきが走る。後藤又兵衛が膝を乗り出し、声を張り上げた。

「真田殿、茶臼山は敵に取られれば格好の陣地。そこへ出城など、自ら餌を撒くがごとき策にござらぬか」

 信繁は不敵に笑みを浮かべ、図面の一点を指で叩いた。

「左様、そこが肝要にて候。茶臼山は敵の視線を遮る絶好の障壁となる。我らが出城にて徳川の先鋒を足止めし、殲滅いたす。

 その折、後続の部隊からは茶臼山が邪魔をして、前線の壊滅が見えぬ。……前方の状況を知らぬまま、徳川の兵は次々と真田丸という死の淵へ、己が意志にて飛び込むこととなりましょう」


 信繁の冷徹なる軍略に、主戦派の面々の顔色が変わった。

「視線を遮るか……」「敵は状況を掴めぬまま、次々と死ぬというわけか」

 戦に老練なる牢人衆にとり、この「情報の遮断」と「兵力の逐次投入」を強いる策は、反論の余地なき必勝の理に映った。

 信繁はさらに言葉を重ねる。

「治長殿、又兵衛殿。これより数日のうちに作事の命を。木材、石材、人足――すべてを南の野面へ集中させられよ。

 現場の差配は、勇猛なる貴殿らにこそお願い申し上げる。我ら真田も全力を尽くし、作事に没頭いたす所存ゆえ、城内の守りは暫時、お任せ仕る!」

 大野治長は、勝利の幻想が描かれた図面に身を震わせた。

「……見事なり。殿、いかがにござりまする。これこそ、豊臣の武を天下に示す一撃となりましょう!」

 秀頼はゆるりと瞬きをし、治長を見つめた。その瞳の奥には、憐れみにも似た冷徹な光が宿っていた。

「……真田がそう申すなら、異論はない。治長、これより城内の差配はすべて『真田丸』を最優先せよ。

 そなたも、今日より南の現場に張り付き、指揮を執れ」

「ははっ! 畏まりました!」

 治長たちは、図面を奪い合うようにして広間を去っていった。彼らの頭の中は、まだ杭一本打たれていない「最強の砦」で一杯であった。


 広間に残されたのは、秀頼と信繁、そして影のごとく控えるお藤のみ。

 秀頼が低く呟く。

「……信繁。彼の衆は今、南の野面で『真田丸』という名の夢を追いかけておるな。視線を遮断されるのは、大御所様ではなく、あの御方らの方であったか」

 信繁は静かに頷き、声を潜めた。

「左様にございます。作事の準備、人足の割り振り――あの喧騒は、城内のあらゆる『余計な目』を南へ釘付けにいたしましょう。……杭を打つ前に、すべてを終わらせまする」

 信繁は、畳に残された虚ろな図面を静かに巻き取った。

 真田丸という名の巨大な目隠しが、城中の狂気を吸い寄せていく。

 その隙に、秀頼の手は、城の内側という「真の戦場」へ伸ばされようとしていた。



 大坂城、奥御殿。

 昼間の評定を終え、広間には宴の支度が整えられつつあった。南の野面に築かれる「真田丸」の着工を祝う名目であるが、その裏には、城内の目を逸らすための策が潜んでいた。

 秀頼の居所には、選ばれし武将たちが静かに集められていた。

 灯火が揺れ、几帳の影が畳に長く伸びる中、真田信繁が膝を進め、低く告げる。

「諸卿、殿の御心を伝え申す。此度の策、血を流さぬ道を探し、家を守ることにございます。

 御協力を賜りたく存ずれど、強いてお求めするものにあらず。

 されど、事の性質上、言の葉一片たりとも外へ漏らすことは断じて許されませぬ。

 ゆえに、御身がこの策に加わらぬとお考えなされるならば、事の成就まで、この座を離れぬようお願い申し上げる。

 これは殿の御意にて候。諸卿、御覚悟を示されよ」

 武将たちは互いに視線を交わし、やがて一人、また一人と膝を進めた。

 毛利勝永が重き声を響かせる。

「殿の御覚悟、しかと承り候。毛利勝永、命を賭してお支え仕る」

 木村重成が若き声に力を込める。

「殿、木村重成、御意に候。泰平を乱さぬため、我が刃を尽くしまする」

 長宗我部盛親が低く言葉を紡ぐ。

「殿の御志、長宗我部盛親、心よりお支え仕る。家名を守るは理にて候」

 最後に、明石全登が静かに口を開いた。

「殿の御策、明石全登、信と刃をもってお守りいたす。血を避けるは神の御心にも適う」

 誓いの声が重なり、室内に静かな熱が満ちた。

 お藤はその様子を見届け、深く頭を垂れると、静かに広間を出た。


 障子が開き、香の匂いが淡く漂う中、お藤が秀頼の寝所に進み出る。

「殿、宴のご参加をお願い申し上げます」

 その言葉は、ただの儀礼ではなかった。奥に潜む策を知る者だけが理解する隠語――千姫の瞳がわずかに揺れた。

 秀頼が立ち上がろうとした刹那、千姫は静かに脇差を取り、その鞘が灯火に淡く光った。

 背後で千姫が膝を進め、深く頭を垂れる。

「殿……どうか御身をお守りくださいませ」

 白き指が懐に忍ばせた脇差を強く握る。

 秀頼が振り返り、低く問う。

「お千、察したのか」

 千姫は頷き、声を震わせぬまま言葉を紡ぐ。

「殿……私も覚悟を決めとうございます。殿が戦うなら、私も共にございます。

 万が一になるなら……殿と共に果てる覚悟にございます」

 その胸中には、言葉にせぬ誓いが燃えていた。

『もしこの策が破れれば、私は幽閉されましょう。殿と離され、二度とお顔を拝すること叶わぬ。

 その後、大坂城は必ず落ちる……殿は討たれ、私は生き恥をさらす。

 ならば、殿と離れるより、殿と共に果てる方がよろしゅうございます。殿が命を賭けるなら、私も命を賭ける。それが、私の誇りにございます』

 秀頼はその思いを受け止め、静かに頷いた。

「お千……そなたの言葉、余の心を決めた。

 そなたがそれを使う時を、絶対に来させぬ」

 秀頼は深く息を吐き、広間へと歩を進めた。

 灯火が揺れ、二人の影が畳に重なる――その影は、嵐の前の静けさに、密やかな誓いを刻んでいた。


 広間に入り、真田信繁が深く頭を垂れ、声を響かせた。

「殿、諸卿、御報告仕る。すべての将、殿の御意に従う覚悟を示されました」

 秀頼はゆるりと立ち上がり、信繁を見つめる。その瞳に鋼の光が宿る。

「……見事だ、信繁。幻の城――真田丸を築き、城中の狂気を手玉に取るとは。

 そなた、まさに昌幸殿の『表裏比興』の奥義を継いでおるな」

 信繁は一瞬、驚きに目を見開き、やがて深く平伏した。

「……恐れ入りまする。父が生きておれば、今の殿のお言葉を聞き、さぞや悔しがったことにございましょう」

 秀頼は静かに歩み寄り、信繁の肩に手を置いた。

「顔をお上げよ、信繁」

 その声は柔らかくも、奥底に鋼の響きを秘めていた。


 信繁がゆるりと顔を上げると、秀頼は広間を見渡し、低く、しかし力強く告げた。

「皆、よく聞いてくれ。今、豊臣家は真っ直ぐに滅亡へと向かっている。

『誇り』や『栄光』という甘美な言葉で己を酔わせ、死の道へと狂乱している。

 母上も、治長も、それを『武士の誉れ』と呼ぶが、余にはそれが、未来を食い潰す呪いにしか見えぬ」

 広間に衝撃が走る。秀頼はさらに一歩、将たちの前へ踏み出した。

「余が皆に求めているのは、世の理から見れば『謀反』に等しい行いであろう。

 なれど、これは断じて謀反ではない。そなたたちの家族、家臣、そしてこの城に集まった数万の命を、無益な死から救い出すための『大義』である。

 余は、豊臣の旗印を捨ててでも、そなたたちの『明日』が欲しい」

 秀頼の瞳には、一切の迷いがなかった。

「この大業を成せば、そなたたちの名は、ただ死んでいくだけの敗残者としてではなく、歴史を塗り替え、泰平の礎を築いた不滅の勇者として、永劫に刻まれるであろう。

 ……余と共に、この『生存という名の反逆』に身を投じてくれぬか。

 合言葉は――『反逆にあらず、大義なり』」


 やがて、信繁が、勝永が、そして全登が、示し合わせたかのように深く、畳に額を擦り付けた。

「……殿。その不孝の汚名、我らがお引き受けいたしましょう」

 信繁の低い声が広間に響く。

「心中という名の夢は、今この時、終わりました。……我ら、生きて歴史の証人となりましょうぞ」

 灯明の火が大きく揺れ、秀頼という新しき「龍」の影が、広間の壁に巨大に映し出された。



 広場にそれぞれの兵力を集め、松明が揺れ、空気は張り詰めていた。

 秀頼は低く重い声で告げる。

「信繁、勝永……今宵、余は母上を押さえ、大坂城の権を奪う。牢人頭を拘束し、血を流すこと断じて許さぬ。

 されど、余を支持した諸卿を死なせることも許さぬ。何があっても、まずは己が身を守れ。

 無闇な殺生は避けよ、されど命を惜しむな。戦を避けるための戦、余が先に立つ。

 父上は武にて天下を取られた。余は理にて泰平を守る!」

 信繁は深く頭を下げ、声を潜めた。

「殿、勝ち戦などございませぬ。戦を避ける方が、我らの命を守る道にございます」

 勝永も膝を進め、力強く頷く。

「殿の御心、必ずや果たし申す」

 その背後で、木村重成が実行部隊を率いて待機していた。若き眼に炎が宿る。

「殿の御心、必ずや果たし申す。泰平こそ、豊臣を守る道にございまする」

 明石全登は静かに十字を切り、低声で言った。

「殿……血を流さぬこと、神の御心にございます。必ずや、説得いたしましょう」

 秀頼は一同を見渡し、最後に低く告げる。

「合言葉は――『反逆にあらず、大義なり』」


 城内は深い闇に沈み、灯火の影が畳に淡く揺れていた。

 寝所に響くのは、遠くの風音のみ――その静寂を裂いたのは、鋭い金属音であった。

 襖の向こうで、護衛の声が低く飛ぶ。

「押さえよ!声を上げるな!」

 次いで、刀が鞘を離れる音と、短い悲鳴が闇を裂いた。


 信繁は十数名の精鋭を率い、勝永と共に大野治長・治房の寝所へ踏み込む。

 襖が音もなく開き、灯火が揺れる中、信繁が低く告げる。

「治長殿、御無礼仕る。殿の御意にて、しばし御身をお預かりいたす」

 治長は寝具を払い、驚愕の眼で信繁を睨む。

「何を申すか……謀反か!」

 脇差に手を伸ばす治房を、勝永の家臣が押さえ込む。

「声を上げるな!」

 畳に響くのは、短い息と衣擦れの音のみ。刃は抜かれぬまま、二人は縄で縛られた。


 一方、団右衛門の寝所。

 襖が開いた瞬間、鋭い音が闇を裂いた。

「何者じゃ!」団右衛門は布団を蹴り飛ばし、脇差を抜く。灯火に刃が光り、盛親の家臣が受け止める。

「殿の御心に背く者、ここで止める!」木村重成が指揮を飛ばす。

 団右衛門は怒声を放ち、畳を蹴って間合いを詰める。

「豊臣を売るか!恥を知れ!」

 刃が交わり、鋭い金属音が広間に響く。

 盛親が脇差を捌き、重成が腕を押さえた瞬間、刀が床に落ちる。

 血が一滴、畳に散った。団右衛門はなおも吠える。

「謀反人ども、ここで斬り捨ててくれる!」

 だが、家臣の体術が彼を押し倒し、怒声を残して崩れ落ちた。


 渡辺糺は戦闘音に目を覚まし、襖を睨みつける。

「何事じゃ!」

 襖が開き、明石全登が十字を切りながら低声で告げる。

「渡辺殿、血を流すな。殿の御心は泰平にございます」

 糺は脇差を抜き、怒声を放つ。

「殿を裏切るか、貴様ら!」

 刃が灯火に光り、全登の家臣が腕を絡め取る。

「声を上げるな!」

 刀が床に落ち、糺の腕に浅い傷が走る。血が畳に滲み、灯火が揺れた。


 城中に響くのは、怒声と短い金属音、そして荒い息。

 血を流さぬ策は、現実の刃に試されていた。

 その影は、豊臣の運命を変える「静かな嵐」の始まりを告げていた。


 廊下に灯火が揺れ、影が長く伸びる。

 秀頼は腰に佩いた太刀の柄を静かに握りしめ、静かに歩を進めた。その背後には、お藤が影のように付き従う。

 奥御殿の空気は張り詰め、遠くで警護兵の足音が低く響く。

 淀殿の寝所――襖の向こうで、大蔵卿局が身支度を整え、主の世話をしていた。

 その時、襖が音もなく開き、灯りが揺れる。

「何のことじゃ!」大蔵卿局が先に立ち上がり、声を荒げる。

 お藤は無言でその腕を取り、暴力ではなく、確固たる力で引き寄せる。

「御無礼仕る、大蔵卿局殿」

 お藤は低く告げ、兵士に預けると、静かに寝所の奥へ進んだ。

 灯火が揺れ、起き上がった淀殿の頬が怒りに染まる。化粧を施さぬその顔に、涙と烈しき光が交錯していた。

「秀頼、これはどういう真似じゃ!」

 秀頼は深く頭を垂れ、低く告げる。

「母上、ご無礼をお許しください。本日より、大坂城のすべての権は、この秀頼が受け取りまする」

 淀殿の声が震えた。

「秀頼……そなた、母を裏切るか!」

 秀頼は一歩進み、声を強める。

「母上、父上は武にて天下を取られた。余は理にて泰平を守る!

 なれど、このままでは、大御所様と激突し、豊臣家は間違いなく滅びる。

 国松も奈阿も、お千も、お奈津も、お藤も――皆が不幸な定めとなる。

 そうさせぬためにも、余は鬼となっても、こうするしかない!」

 淀殿の眼が細くなる。怒りと涙が交錯し、扇が床に落ちた。

「……秀頼……」

 広間に重い沈黙が落ちる。


 廊下の向こうで、信繁と勝永が影のように控えていた。

「殿、すべて整いました」信繁の声が低く響く。

 秀頼は頷き、脇差を握りしめた。

「今宵、豊臣は新しき道を歩む」

 灯火が揺れ、秀頼の影が壁に大きく伸びる――その影は、泰平を求める鬼の決意を刻んでいた。

静かに積み重ねられた策と想いが、ついに家康の決断を動かしました。

血を流さぬための戦いは、言葉と信念の連鎖となり、運命の歯車を大きく回します。

次章では、和睦の席へと向かう豊臣と徳川――

それぞれの「選択」が、いよいよ歴史の分岐点を迎えます。

どうぞお楽しみに。

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