その存在。
美優は、自分の訓練用警棒を握り直した。
「橋本…お前は、昨日の夜、私に何を教わった?」
美優の言葉は、彩花の背中を押した。
それは、他人から「大丈夫だよ」という慰めや、「頑張れ」という無責任な激励とは違う、美優という存在そのものが発する「心からの言葉」だった。
彩花は、美優の指示を受け、技の正確性と基本に立ち返って訓練に臨んだ。
美優は、以前のように「全体に合わせろ」とは言わず、彩花のぎこちない動きを見守り、連携のタイミングを調整した。美優の完璧な動きが、意図的に「彩花の速度」に合わせて緩められる。それは、美優にとって、何よりも大きな自己の規律の破棄だった。
訓練後、美優は再び彩花への意識を切り離そうとした。しかし、視線は自然と彩花を追っていた…。
その後も、美優の視界には彩花が存在していた。
ある日の昼食後には、教室に戻ると、彩花は席で既にノートを広げていた様子があった。教官が午前中、授業で板書した膨大な専門用語や法規の羅列を、美優がざっと目を通しただけで記憶した内容を、彼女は一語一句、必死に写し取っていた。時折、難しい漢字に躓いて首を傾げる姿は、剣道で竹刀を振る時の真剣さとは裏腹に、どこか頼りなく、小動物のようにも見えた。
またある日の夕刻には、美優が校舎裏のトレーニングスペースでランニングを終えようとすると、彩花が遠くのグラウンドを、汗だくで走っているの様子が見えた。そのペースは遅く、明らかに体力の限界を超えている。それでも、彼女は足を止めない。
…
美優の心に、ある感情が湧き上がった。それは、かつて自分が剣道に没頭していた高校時代に感じていた、「努力」そのものへの共感だった。優勝こそなかったが、誰にも負けない練習量を重ねた自分と同じ、いや、それ以上に、彼女は「追いつくこと」を純粋に渇望している。
そして、共感は、すぐに別の感情へと変わった。
完璧な美優の基準から見れば、彩花の存在は「不完全」であり、「非効率」だ。だが、その不完全さや非効率さ――すなわち、自分には持てない泥臭い直向きさが、美優の心に新しい光を投げかけている。
(なんだ、この感覚は…)
黒板を必死に写すその真剣な横顔、ランニングで地面を蹴る一歩一歩のひたむきさ、美優の冷たい胸の内に、小さな炎が灯るのを感じた。それは、かつて他人に対して抱くことを拒否してきた、危険な熱だった。
美優は、その純粋で真摯な努力を、初めて「愛らしい」と感じていた。
自分の完璧な人生計画には存在しない、「仲間」や「愛情」に最も近い、非合理的な感情の予感。美優は、その感情をどう扱えばいいのか分からず、ただ、その火種から目を離せずにいた。
その日から、美優は彩花の存在を、「乗り越えるべき壁」ではなく、「守るべきもの」として認識し始める。
美優が求める「リーダー」とは、「最も強い個人」ではなく、「不完全な集団を率いる存在」へと、静かに定義を変えていった…。




